☳31〕32〕─1─戦犯日本企業は韓国企業を全面支援し韓国経済に貢献していた。~No.107No.108No.109No.110No.111No.112 @ ⑭ 

竹島密約 (草思社文庫)

竹島密約 (草思社文庫)

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 児玉誉士夫岸信介らは、現代韓国の発展と韓国社会の安定と韓国人の豊かさに貢献した。
 韓国経済の基盤は、日本の公共・民間の各種援助で作られた。
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 柳川次郎ら在日韓国人ヤクザ達は、韓国の保守派や軍部に協力していた。
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 日本と韓国・北朝鮮は、敵国となって戦争をしていない。
 日本は敗戦国であったが、韓国・北朝鮮戦勝国ではない。
 日本は、朝鮮を併合し、朝鮮人日本国籍を与え、国際社会で日本人と同等の権利と保護を与えた。
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 反日朝鮮人は、戦前では昭和天皇や皇族の暗殺未遂テロを繰り返し、戦後混乱期では暴動・暴行・強姦・殺害・強奪を繰り返し、平成の御代では靖国神社への宗教テロを繰り返すテロリストであった。
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 2016年8月号 SAPIO「有馬哲夫
 日本を動かしたスパイ 児玉誉士夫。 
 第6回 幼少期の『恩返し』で日韓正常化を導いたフィクサー
 児玉誉士夫福島県生まれ。7歳で母を亡くし、8歳の時に朝鮮に住む親戚の家に預けられる。日本本土に戻り様々な右翼団体を転々とし、日中戦争のさなか児玉機関を運営し始める。戦後、A級戦犯の疑いで笹川良一岸信介らと同じく巣鴨拘置所に送られた。その後、政財界のフィクサーと呼ばれ活躍するが、ロッキード事件で起訴され、判決が出る前に没した。
 児玉誉士夫といえば、戦後最大の疑獄スキャンダルであるロッキード事件の中心人物として知られる。その児玉が1965年の日韓国交正常化の立役者としてどんな役回りを演じていたのかということはあまり知られていない。だが韓国政府も児玉の貢献に対して1971年に、二等樹交勲章を贈っている。それだけではない、CIAとアメリ国務省もこの功績を大いに賞賛した。
 なぜなら、日韓国交正常化は、アメリカにとって大きな利益だったからだ。つまり、当時世界最貧国レヴェルにあった韓国にアジア1の経済国である日本が経済・技術援助を与えれば、韓国を軍事的・経済的に援助しているアメリカの負担がその分だけ軽減されるということだ。
 したがって、アメリカ情報機関は、李承晩政権のときから、日本の政界に日韓国交正常化を促してきた。だが、韓国側の要求があまりにも法外なために不首尾に終わってた(韓国側の要求については後述)。
 大物右翼は『親韓家』だった
 1963年に朴正煕が政権を握ったことからCIAと国務省は、日本の政治家ではなく、彼らを上回る影響力を韓国に対して持つ児玉を利用することを考え始めた。
 とはいってもこれはネツトで根拠もなく書きたてられているように、CIAや国務省が児玉をスパイにしたということではない。『ネット右翼』や反日韓国人が聞いたら仰天するだろうが、この大物右翼は、もともと韓国のためになにかをせずにはいられない『親韓家』だったのだ。
 というのも、父の破産で一家離散し、児玉少年がソウル近郊に住む腹違いの姉に預けられたとき、孤児同然の彼に唯一情をかけてくれたのが現地の韓国系日本人(日本統治下では朝鮮人は法律上日本人だったのでこう呼ぶ)だったからだ。身内にさえ冷たくされた児玉は、生涯その恩を忘れることはなかった。
 児玉に恩返しの機会が巡ってきたのは、朴が1961年にクーデターによって軍事政権を樹立したときだった。民主主義的手続きによらない暴力的手段で政治の実権を握った彼は、その政権を認めてもらうのに苦労した。
 朴にとってアメリカに次いで重要な国であった日本においても状況は同じだった。与党自民党の大物政治家はみな、様子見を決め込んで、いつ消えるともわからないこの独裁者に会うのを避けた。そこで、児玉は、自民党の有力政治家の大野伴睦河野一郎に働きかけて、当時の首相・池田勇人との会談を実現させた。日韓の関係が少しでも改善することを願ってのことだった。これによって朴政権は日本政界に認められ、児玉は朴の恩人である。
 その後の1964年の2月23日、アメリカの女性実業家・ジャーナリストが児玉を国賓としてアメリカに招待するようにCIAに要請した。
 この女性は、名をラス・シェルドン・ノウルズといい、南アフリカについての記事やラジオ・レポートをアメリカのプロパガンダ放送VOAに提供していて国務省とCIAと深い関係があった。
 彼が考えたのは、『政治家から学生運動からやくざまで動かせる』児玉を自家薬籠中のものにするために、国賓アメリカに招待するというものだった。
 これに対して古参のCIA局員は、『マフィア(Cosa Nostra)を国賓として招けといっているようなものだ』と反対した。だがCIAは、児玉の影響力を利用するという、ある種タブーのこのアイディアを、日韓国交正常化工作に活用することにした。そのことをCIA『児玉誉士夫ファイル』のなかの公文書が示している(詳しくは拙著『児玉誉士夫』に譲る)。
 しかし前述のように、児玉の日韓関係改善のための動きは、アメリカ情報機関の思惑とは関係なく、児玉が彼の恩人の国と母国との断絶状態をなんとかしたいという思いから起こったものだ。アメリカ側がしたことも、CIA文書を読む限り、児玉に資金を与えるとか便宜を与えるとかではなく、彼が動きやすいように根回しをしただけだった。だが、彼のような大物フィクサーのバックにアメリカ機関がついていると日韓の政府要人に思わせるだけで、絶大の効果があった。
 ゴールは日本の軍事的自立
 児玉は、日韓双方の首脳との裏交渉によって、対馬はもちろん竹島についても韓国の領有権の主張は認めない、ただし、竹島の主権については、こののち棚上げし、双方とも主張しないという『竹島密約』を引き出すことに貢献した。戦争賠償金についても、額では譲歩したが、戦争賠償金ではなく経済援助という名目にするという条件を勝ち取る上で大きな役割を演じた。この事実は、2005年8月26日に公開された韓国の外交文書やそれをもとにしたロー・ダニエルの『竹島密約』で明らかにされている。
 これまで日韓国交正常化交渉の立役者は、大平正芳岸信介とされてきたが、それまでの日韓の交渉をみれば、これら表の政治家の正面切った外交交渉ではとても達成は無理だったことがわかる。朴の恩人・児玉の気長で柔軟な裏交渉とアメリカ情報機関の支援が不可能を可能にしたのだ。
 形としては、これらの情報機関の工作に児玉がアセットとして使われたことになるが、現実には、利害が共通するところでは、彼らと児玉がお互いを利用し合ったということだ。
ただし、両者が目指した最終ゴールは、互いに違っていた。アメリカ側はあくまで自国の負担の軽減がゴールだったのに対し、児玉の最終ゴールは日本の軍事的自立だった。これは児玉がGHQによって巣鴨プリズンに投獄されたときから悲願としてきたものだ。つまり、軍事的に自立しない限り、日本はアメリカのいいなりにならざるを得ないということだ。
 しかし、駐留アメリカ軍を撤退させ、軍事的に自立するとなると日本一国だけでソ連や中国から身を守ることはできない。近隣諸国と何らかの形で軍事同盟を形成することが不可欠になる。その場合、日本とは一衣帯水の韓国を抜きにすることは考えられない。韓国をできるだけ日本に近寄らせておくことが不可欠だ。イデオロギー優先で現実を見ない左翼に比べて、現実改変志向の右翼はリアリストだ。
 1965年日韓国交正常化が成ったあと、朴の恩人にして、日本から巨額の経済援助を引き出した功労者の児玉は、大韓航空など韓国の財閥系企業のコンサルタントとなり、国交回復ビジネスから利益を得た。それを大野や河野などの政治家につぎ込んで岸のあとの総理大臣にしようとした。駐留アメリカ軍なき独立国家日本という悲願を達成するためだ。
 しかし、おれはCIAから秘密資金などを受けた自民党有力政治家(岸信介池田勇人佐藤栄作ら)に阻まれた。児玉は手塩にかけた中曽根康弘が首相になるのを見届けたあとの1984年に、夢半ばにしれこの世を去った。
 『竹島問題』は、1993年に大統領になった金泳三が密約を破ってからは、束の間の人気回復のために韓国大統領が常套的に持ち出すカードにされてしまった。
 日本の経済援助によって可能になった『漢江の奇跡』も韓国の歴史教科書の記述からもわかるように、まったく評価されず、それを成し遂げた朴正煕大統領も韓国の権利を日本に安売りした裏切り者とされている。それを実の娘にして現職の朴大統領さえどうにもできない。
 日韓の足の引っ張り合いをロシアや中国は面白がっている。アメリカも内心ではこれを喜んでいる。仲裁者としての自分の存在感が増し、両者を御しやすくなるからだ。ヨーロッパ人は、こういった日韓(あるいは日韓中)のごたごたを侮辱的笑いを浮かべながら楽しんでいる。
 児玉に復活ねがって、日韓がアメリカ抜きの軍事同盟を結ぶようなころがあれば、どれほどアメリカが慌てるか、ロシアや中国にどれほど脅威を与えるか日韓両国民によく教え諭してもらいたい」
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 中国人は、井戸を掘ってくれた恩人の事は忘れないとして田中角栄を尊敬し、亡くなってからも田中角栄への親愛の情を示し続けている。
 韓国人は、同じ儒教の国であっても「忘恩の民」であり、恩に対して仇で返しても良心の呵責に苛まれる事がない。
 もし。恩に対する恩返しをするとしても、受けた恩の10分の1あるいは100分の1程度の釣り合わない些事1つのみで済ませた。
 その後は、恩を受けた事を無視して感謝せず、恩を受けた事すらなかった事として忘れた。
 自分に利益をもたらしてくれそうな相手には、ご無理ご尤もと、無理難題を押し付けられても、愛想笑いを浮かべて媚び諂い、卑屈なまでに遜ってご機嫌を伺った。
 が、自分に利益をもたらしてくれないと判断した相手は、昔困った時に恩義を受けて助けられた事があっても、そんな恩義はなかったかのように悪態を付いて貶(けな)しに貶した。
 日本人と中国人、朝鮮人とでは、恩に対する考え方が違うし、恩に対する恩返しも違う。
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 日本政府は、戦争責任を痛感し、反省と謝罪を繰り返し、血税から巨額な借款と協力を行ってきた。
 戦争に協力した日本企業も、迷惑をかけたという反省から、戦後補償のつもりで韓国や中国の経済発展と生活改善の為にヒト・モノ・カネの支援を行った。
 韓国と中国は、日本の努力を認めず、日本人の誠意を踏みにじり、日本企業に戦前の犯罪行為に対する賠償金を求める法廷闘争を繰り返している。



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児玉誉士夫 巨魁の昭和史 (文春新書)

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誰も教えないこの国の歴史の真実

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