🗾25〕─2─弥生人と文字。硯。~No.116No.117No.118 

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 紀元前100年 北部九州の弥生人は、文字を持っていた可能性がある。
 硯として使っていた石にに文字らしいモノが書かれていた。
 弥生文化は、高度な文化であった可能性がある。
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hellog~英語史ブログ
#2505. 日本でも弥生時代に漢字が知られていた[kanji][history][archaeology]
2016-03-06
 3月2日付の読売新聞朝刊に「国内最古級の硯 九州で出土」という記事が掲載されていた.「魏志倭人伝」で言及される伊都に当たるとされる福岡県糸島市より,紀元前1世紀から紀元後2世紀のものとみられる国内最古級の硯が出土したという.

 中国の史書魏志倭人伝」が記す伊都国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で,国内最古級の硯の破片(弥生時代中期後半~後期=紀元前1世紀~紀元後2世紀)が出土した。朝鮮半島にあった中国の出先機関楽浪郡から日本に渡来した使節が,筆で文字を書くために使用したものとみられ,わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要な手がかりとなる。
 倭人伝は伊都国について,「往来する郡使が常に駐在する所」と記し,「(伊都国の)港で贈答する文書や品物の検査を行う」と,文字の使用を示唆する記述もある。市教委は,今回の硯は倭人伝の記述を裏付けるものと評価している。

 この地には朝鮮半島楽浪郡から渡来した使節が常駐していたらしく,この硯も彼らが用いていたものと推測される.贈答する文書や品物の検査の記録を記すための筆記用具だったようだ.これは倭人が直接文字を書いていた証拠とはならないが,少なくとも当時の日本人の一部は,この筆記用具を通じて,その用途である書記という活動には気づいていただろう.文字を使うことはできずとも,文字の存在と価値について,おぼろげながら何かを意識していたのではないかと想像することは妥当である.弥生時代後期には,表面的な意味ではあるかもしれないが,すでに日本に漢字が持ち込まれていたことは確かである.「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1]) でも述べたように,日本人が文字を本来の文字らしい用途で自ら使いこなすようになったのは,しばらく後の時代,おそらく4世紀後半だろうと考えられる.今回の出土は,日本の文字文化の黎明を反映する手がかりとなりそうだ.
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 解説委員会
 解説アーカイブス これまでの解説記事
 「文字の歴史がさかのぼる?」(くらし☆解説)
 2019年08月01日 (木)
 高橋 俊雄 解説委員
 最近、日本列島でいつから文字が使われていたのかを探るうえで、新たな資料となる「発見」が相次いでいます。
 発見といっても、文字そのものではありません。弥生時代古墳時代の石の板の中に、「すずり」と判断されるものが多くあることが、分かってきたのです。
 【平たい石が「すずり」に?】
 すずりと判断されている石は、細長く平たい形をしています。中国や朝鮮半島の例をもとに再現すると、この平たい石は、専用の台にはめ込まれて使われていたと考えられます。
 当時の墨は粒状で、今のすずりのように、墨汁をためる部分はありません。この墨の粒をすずりの上に置いて、「研石」という別の石ですり潰していきます。
水を加えながらこの作業を続け、液状になった墨を筆に含ませていたと考えられています。
 【「砥石」の再調査で事例が増加】
 このような石の板、発掘調査で新たに見つかることもありますが、多いのは、これまでの発掘調査で刃物などを研ぐ「砥石」と判断された石を、再調査するケースです。中国や朝鮮半島ですずりと見なされている細長くて平たい石と同じものが、北部九州などにもあるのではないかと、主に福岡県の研究者が、ここ数年、力を入れて調べています。
 再調査は、各地の発掘調査の報告書を読み返すところから始めます。「砥石」と報告されている石の図面や写真を見ていくと、石のすり減り方や加工の仕方が、砥石とは異なる特徴をしているものがあるといいます。こうした石を実際に細かく観察したり、実測したりすることで、すずりかどうかを判断していきます。
 福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、「すずりの特徴を頭に入れて砥石の図面を見ていくと、5割以上、場合によっては10割の確率ですずりとなる」と指摘しています。
 【西日本の各地に分布】
 このような再調査によって、砥石ではなく、すずりだと判断できる事例が急増しました。弥生時代古墳時代のすずりと判断されたのは、研石も含め、これまでにおよそ130点にのぼっています。
 その地域的な広がりですが、北部九州を中心に西日本の各地に及んでいます。
例えば、8点が確認された福岡県糸島市の三雲・井原遺跡は、弥生時代の「伊都国」の中心部とされ、朝鮮半島と密接な関わりを持っていました。渡来系の人々も多く住んでいたと考えられています。
 一方、奈良県天理市の布留遺跡では、刀を作る古墳時代の工房の近くから13点が見つかっています。刀の管理などに文字が使われていた可能性があるということです。
 【文字の歴史にも影響?】
 墨で化粧をしたり、模様を描いていたりした可能性もあるので、すずりが出たからといって、それで文字を書いていたと断定することはできません。ただ、これほど多く見つかるとなると、これまでに想定されているよりも早い段階から広い範囲で文字が使われていたと考えたほうがいいのではないかと、調査に当たっている研究者はみています。
 日本列島で文字が広く普及したのは、飛鳥時代以降のことです。官僚機構や法律が次第に整備され、行政には文書が欠かせなくなりました。
 そこからさかのぼって巨大古墳が作られた古墳時代を見てみますと、5世紀ごろには文字が確実に使われていたことが分かります。古墳から出土した鉄剣や大刀(たち)に銘文が刻まれた例があるからです。
 ところが、これより前になると、解釈が難しくなってきます。
三重県で見つかった4世紀前半の土器は、口のへりの部分に墨書があり、田んぼの「田」と読めます。また、長野県で見つかった3世紀後半の土器には「大」と読める線が刻まれています。ただ、「大」だとすると書き順が違っていて、最初に書くはずの横棒が最後に刻まれています。
 このような資料は、弥生時代から古墳時代にかけてほかにも見られ、文字とみる研究者もいます。ただ、ひと文字の場合が多く、何が書かれたのか、そして何のために書かれたのか、なかなか明確にならないのが現状です。
 弥生時代の文字資料としては、このほか金印の文字がありますが、西暦57年に中国の王朝から贈られたものと考えられています。そうなると、日本列島の人が書いた文字とは言えません。
 こうしたなか、まさにこの空白を埋めるかのように、すずりと判断されている石の事例が増えているのです。現在この中で最も古いのは、紀元前100年ごろのものです。卑弥呼が治めた邪馬台国の時期よりも、300年も前のことです。
 調査に当たっている柳田康雄さんによりますと、福岡県と佐賀県の遺跡から出土した5点が、この時期にあてはまるということです。
 柳田さんは、弥生時代から文字が使われていた可能性が高いと考え、「文字は政治だけでなく、地域間の貿易、交流にも使われていた。原始時代ではなく、文字を持った文化、文明があったと言っていい」とその意義を強調します。
 【文字は何のために使われたか】
 文字は、古墳時代飛鳥時代には、主に外交や行政のために使われたと考えられます。
ところが、それよりも前から文字が広い範囲で使われていたとなると、これだけでなく、取り引きの記録や品物の目録など、「交易」のために使われていたケースもありうるということです。
 すずりに着目することによって、文字の歴史が大幅にさかのぼる可能性が出てきただけでなく、文字の使われ方についても、新たな解釈が可能になってきています。
 【決め手は見つかるか】
 文字が使われていたことを証明するためには、文字そのものが見つかることが一番ですが、ほかの筆記用具も見つかってくると、可能性はさらに高まります。筆のほか、木簡や竹簡、さらには木簡の書き損じをうすく削った「削りくず」などが考えられますが、いずれも非常に小さな木製品なので、発掘調査で見落としてしまうおそれがあります。今後、発掘現場では、紀元前であっても文字が出てくるかもしれないという前提に立って、丁寧な調査をこころがけてほしいと思います。
 考古学では、発掘調査中に大きな発見があって歴史を塗り替えるということが時折ありますが、今回のすずりは、すでに調査が終わった遺跡の出土品を改めて調べることで、事例を積み上げてきました。過去の調査結果を見直すことによって新たな歴史像が描けるかもしれないという点でも、この調査の意義は大きいと言えます。(高橋 俊雄 解説委員)
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 漢字文化資料館
 以前の漢字文化資料館で掲載していた記事です。2008 年以前の古い記事のため、ご留意ください。
 Q0453 漢字は5世紀に伝来した、と聞いたことがあるのですが、具体的にはどのような形で伝わったのでしょうか?
 A
 漢字の伝来については、以前、Q0004でご説明したことがあります。詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、遅くとも紀元3世紀頃には、日本人の中には、なんらかの形で漢字を使うことのできる人々がいたと推測されています。
 では、ご質問にある「5世紀」というのがまったくのデタラメなのかというと、そうでもありません。『古事記』や『日本書紀』には、応神天皇の15年に、当時、朝鮮半島にあった百済(くだら)という国から王仁(わに)という人がやってきて、『論語』と『千字文(せんじもん)』という書物を初めて献上した、と記されています。この応神天皇の15年というのが、西暦の何年にあたるのかは議論のあるところなのですが、中では、5世紀の初頭にあたるという説が有力とされています。ご質問の「5世紀」とは、このことなのではないでしょうか。
 もちろん、それ以前にも、貨幣や銅鏡などの文物という形、あるいは外交文書という形で、日本人は漢字に触れていたことでしょう。しかし、漢字で書かれた「書物」が「公式」に伝来したのは、この応神天皇の15年が最初であると言われています。日本が名実ともに「漢字の時代」に入ったのは、5世紀ごろであると考えていいでしょう。
 『論語』に使用されている漢字は、約2000種類。『千字文』はその名の通り1000種類。重なりもだいぶあるでしょうが、少なくとも2000種類以上の漢字が、このとき、まとまって日本列島に上陸したことになります。
 それから1500年以上が過ぎた現在、新聞や雑誌に日常的に使われている漢字の種類は、特殊なものを除けばだいたい2000から3000種類の間だと言われています。応神天皇の時代以降、日本人は進歩したのかしないのか。なんとも考えさせられる数字ですね。
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