☳14〕─3─対馬は日韓友好として「4・3事件」犠牲者の追悼を行っている。~No.47No.48 @ ⑨ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族の宗教観、人生観、死生観そして永遠の命信仰は、数万年前の石器時代縄文時代から受け継いだ伝統文化である。
 日本の民族宗教では、死ねば敵も味方も関係なく丁重に埋葬して弔い、死者の魂はこの世に留まっていると信じて敵味方に区別・差別せず供養を忘れず欠かさなかった。
 日本人は朝鮮人や中国人とは違っていた。
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 2022年4月9日 MicrosoftNews 読売新聞「朝鮮半島に最も近い対馬の海岸、毎日のように流れ着いた多くの遺体…「4・3事件」犠牲者を追悼
 © 読売新聞 供養塔で読経する住職
 長崎県対馬市上県町佐護湊(みなと)の供養塔で3日、終戦直後の韓国・済州島南北朝鮮の対立に端を発し、島民が軍や警察と衝突した「4・3事件」の犠牲者らを慰霊する追悼式が行われた。
 同事件は1948年4月3日、米軍政の下、済州島で、朝鮮半島の南北統一を求めた島民のデモ隊に警官が発砲。武装蜂起した島民を軍や警察などが鎮圧し、3万人以上が犠牲になったとされる。
 朝鮮半島に最も近い佐護湊の海岸には、毎日のように多くの遺体が流れ着き、地元の住民らが収容して埋葬したという。供養塔は、埋葬に携わった父親の遺志を受け継ぎ、同市上対馬町比田勝の建材業江藤幸治さん(64)が2007年5月に海岸近くに建てた。
 追悼式を呼びかけたのは、大阪や京都などの市民でつくる団体「済州4・3漢拏山(はるらさん)の会」。同会は2008年から毎年4月3日に済州島を訪問し、慰霊祭に参加していたが、新型コロナウイルス禍で今年も訪問できないため、対馬で初めてとなる追悼式を企画した。
 式には、同会関係者や対馬在住の韓国人ら約20人が参列。地元の住職が読経し、一人一人手を合わせた。その後、江藤さんが「皆さんとともに、この催しができることに感謝したい」とあいさつ。同事件に関わり、日本に逃れた詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(93)(奈良県生駒市)は、同事件への思いをメッセージで伝えた。
 引き続き、同会関係者らが、海を隔てた韓国に向かって合唱し、慰霊した。顧問の長田勇さん(74)は「海に眠る数えきれない犠牲者の魂に思いをはせて供養することが大事だ」と話した。同会は9月、佐護湊の海岸で同事件の慰霊祭を予定している。」
    ・昭和23年   ・   ・   
 世界史の窓
 済州島四・三事件
 済州島朝鮮半島南部にある温暖な島。1948年、朝鮮半島を分断する選挙実施に反発して島民が蜂起した。大韓民国成立後、韓国軍とアメリカ軍によって鎮圧された。長く民衆蜂起の事実は封印されていたが、最近実態が明らかになった。
 1948年4月3日、朝鮮分断の進行する済州島(チェジュド)で起こった、アメリカ軍政下の南朝鮮単独選挙に反発した民衆蜂起(武装隊)が、アメリカ軍・警察・右翼などによって弾圧された事件。
 半島分断に反発した民衆蜂起
 アメリカが軍政下の南朝鮮で単独選挙の強行を決定すると、南朝鮮労働党北朝鮮との統一選挙を主張して反発、武装隊を組織して4月3日に済州島で蜂起した。アメリカ軍は警察と右翼を動員して鎮圧に当たり、8月の大韓民国成立後は韓国軍と武装隊の衝突となった。韓国軍の一部に反乱部隊も現れ、米軍と韓国軍は本格的な鎮圧に乗りだし、翌年6月頃に反乱は鎮定された。
 この事件は、朝鮮戦争の勃発とその後の韓国の反共路線の強化の中で、長い間、真相と実態が伏せられていたが、金大中大統領の下で2000年に「四・三特別法」が制定され、真相究明と犠牲者名誉回復がなされることとなった。調査の結果、犠牲者は約2万5千人から3万にと推定され、その深刻な事態が明らかになった。軍や右翼によって殺害されたのは武装隊だけではなく武器を持たない女性や子供もあったという。また武装隊によって殺害された住民もあった。現在も犠牲者の遺骨発掘が行われている。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.58-71 などによる>
 その後、2003年10月には現職大統領盧武鉉が自ら済州島を訪れ、犠牲者と島民に国として初めて公式の謝罪をした。
 Episode 封印された「民族の悲劇」
 済州島朝鮮半島の南に浮かぶ島。多数の火山が集まる「火山島」でもある。現在は観光地として知られ、韓流ドラマの「冬のソナタ」の舞台となったことで、多くの日本人観光客も訪れている。この風光明媚な島で、つい60年前に血なまぐさい虐殺事件が展開されたことはあまり知られていない。この島は「民族の悲劇」の島であり、しかもその悲劇は長い間封印されていたのだった。両親が済州島出身で大阪に生まれた在日朝鮮人の作家金石範(キムソッポム)は、この事件を題材に小説『火山島』を書いている。<朝日新聞 2008.6.22 記事などによる>
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 百科事典マイペディア「四・三事件」の解説
 四・三事件【よんさんじけん】
 1948年4月に済州で起こった民衆の武装蜂起から,その武力鎮圧にいたる一連の事件。済州島四・三事件,四・三抗争とも呼ばれる。1945年8月の日本の敗戦後,米軍による軍政下にあった朝鮮半島南部(南朝鮮)では,米軍政と左派勢力との対立が次第に深刻化していった。米軍政によって済州島に投入された南朝鮮本土の警察軍と,共産軍の制圧によって朝鮮北部を追われた右翼勢力の西北青年会と呼ばれる武装団体が,島民に暴圧を加えるなか,南朝鮮で1948年5月10日に単独選挙実施という強行決定がなされ,これに反対する島民が,1947年4月,武装蜂起。その中心は,南朝鮮労働者党(南労党)の党員が担っていたが,蜂起は,警察支所や右翼団体事務所など数ヵ所を襲撃した小規模なゲリラ戦であった。これに対して,軍政当局は,警察軍に加え,朝鮮国防警備隊の連隊を投入,武力鎮圧策で武装した島民に対したが,島民側も激しく抵抗し,済州島ではその結果,1948年5月の単独選挙は実力で阻止された。8月に成立した李承晩政権は,11月から徹底した済州島焦土化作戦を展開,この作戦は,軍と警察,右翼団体による,島民の大虐殺へと発展し,3万人を超える島民が犠牲となった。多くの避難民が日本に逃れる結果をもたらした。朝鮮戦争当時やそれ以降も,関係者やその親族にたいする処刑・虐殺が続き,鎮圧作戦は1954年9月まで継続された。さらに〈連座制〉が適用され,事件に関係したとみなされたものは,その後,韓国社会ですべての公職から排除され,事件にふれることすらタブー視された。1980年代後半にはじまる韓国民主化の過程のなかで,真相究明の動きがようやく高まり,2000年,真相究明と犠牲者の名誉回復に関する特別法が制定された。2006年,犠牲者慰霊祭に出席した盧武鉉は,韓国大統領として正式に謝罪した。→韓国
→関連項目済州島
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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 韓国人窃盗団は、対馬など日本国内の寺院から仏像・仏画・仏具などを盗み出し、韓国のブラック・マーケットやインターネット・オクーションなどで売って荒稼ぎしている。
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 歴史的事実として、古代から朝鮮半島は日本の敵であり、朝鮮半島人は日本人の友・友人・親友でなければ戦友でもなく、反日敵日侮日であった。
 つまり、日本と朝鮮との間には友好・親善など存在しなかった。
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