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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本人にとって朝鮮人は、戦友ではなく、親友でも友・友人にもならない。
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2022年9月1日号 週刊新潮「生き抜くヒント! 五木寛之
虫のいろいろ
このところ戦争の記憶について語られ、といわれることが多い。
私は戦争の時代、小学生だった。のちに国民学校と名前が変わったが、そこを卒業して中学になった夏に戦争が終わった。
だから実際の戦闘の経験はない。いわゆる『銃後の護り』の一端をになっただけである。
しかし、考えてみると、戦争というのは、第一線の兵士たちだけが関わったものでもない。当時は『進め一億火の玉だ』というスローガンが叫ばれていた。いわゆる総力戦の時代である。勤労動員や防火訓練、はては竹槍をもっての演習など、一般市民も戦争に積極的に参加したのだ。
させられていた、と言う人もいるが、それだけでもなかった。本土決戦という気持ちは、必ずしも軍部のスローガンだけではなかったのである。当時、12歳だった私も、お国のために立派に死ぬるかを、日々、自問自答していた時代だったのだ。
それだけに8月15日の敗戦のニュースは大ショックだった。
どこから来たのかわからないが、上からの通達というものがあった。
〈国体は護持されました。一般人は軽挙妄動することなく、現地にとどまるように〉
と、いった指示だったと思う。
当時、私たち一家は外地にいた。北朝鮮の平壌である。父親は平壌師範学校の教員をしており、私は平壌一中の1年生だった。
母も一時期、平壌の山手小学校の教師として働いていた。いわば当時の『亜インテリ』の家庭だったのである。
この〈亜インテリ〉の〈亜〉というのは、本物の知識階級ではないという意味だろう。一般庶民にちょっと毛が生えたぐらいの下層知識人という意味である。
両親も私も、日本が敗れるなどということはそうぞうもしなかった。
あの戦争中に、この国は負けると予言した人もいたらしいが、私たちは『神州不滅』を信じこんでいた『亜インテリ』の一族だったぼである。
上からの指示に、いろんなことがおこった。父の教え子のなかの朝鮮人が、敗戦の翌日、私たちが住んでいた官舎にやってきた。
制服を着て、『保安隊』と書かれた赤い腕章をつけている。腰には拳銃を収納した革のケースを携えている。
父はびっくり仰天した態(てい)だった。
『きみたちは熱心な学生だと思っていたんだが、以前から今日を見越して活動していたのか。まったく気づかなかったよ』
と呆れ顔の父に対して、彼らは笑って言った。
『もう何年も前から組織的に動いていたのです。今日あるを見越してね』
そして、私たちに対して、すぐに帰国することをすすめた。
『もうすぐソ連軍がやってきますから』
今ならまだ列車が動いているので早くしたほうがいい、と、忠告しにやってきたらしい。
『でも、すぐにといわれてもな』
と、父親は腕組みして言った。
『上からの指示があるまで、しばらく様子を見ようと思う』
すべて上からの命令で動くというのが、当時の国民の常識だったのだ。
『上なんて、もうないですからね。気をつけて』
と、彼らは帰っていった。実は数日前から平壌の駅は南下する上層市民でごった返していたらしい。飛行場からも、いわゆる『関係者』の家族たちが続々と軍の飛行機で帰国しつつあったのである。
『上からの指示』は、なにもなかった。そしてソ連軍は予想よりも早く平壌に進駐してきた。私たちが勝手に『囚人部隊』と呼んでいた第一線の戦闘部隊だった。
本当の戦争
……」
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