🏹8〕─2─日本の企業の原型を作った天才僧侶・法然の「念仏宗」とは?~No.21No.22 

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 日本は、神国ではなく仏教国でもなく多元的多様的神仏混合国であった。
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 2023年4月29日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「日本の企業の原型を作った天才僧侶・法然の「念仏宗」とは?
 「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道儒教ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は「人間は死んだらどうなるか」についてしっかりした考え方をもっている。
 現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である橋爪大三郎氏(大学院大学至善館教授、東京工業大学名誉教授)が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』は、「この本に、はまってしまった。私たちは『死』を避けることができない。この本を読んで『死後の世界』を学んでおけば、いざというときに相当落ち着けるだろう」(西成活裕氏・東京大学教授)と評されている。今回は、著者による特別講義をお届けする。
 © ダイヤモンド・オンライン
 日本には文明がない――日本教のニッポン
 さて、日本は文明なのか。中国文明の端っこにひっかかっていますが、中国文明の一部ではない。日本は、文明ではないと思います。
 日本には、みんなが読んで考え方や行動の規準にする、正典(カノン)がありません。文明に不可欠の“大事な本”がない。文明ではありえない。
 それはいろいろに証明できます。文字がろくに読めず、ケンカが強いだけだった武士なるものが、武家政権をつくっていた。こんな現象は、本来の文明ならばありえません。文明でない証拠だと思います。
 日本に古い本はあるか。文字がなかったので、あんまり古い本はありません。いちばん古いのは『古事記』と『日本書紀』。中身は神話で、スサノオはいけないことばかりし、人びとに考え方や行動の規準を教える本ではない。
 じゃあ、仏典は代わりにならないか。仏典には正しいことが書いてある。でも仏典は、出家した僧のためのもの。実社会を生きる人びとのためのものでない。
 儒教の経典はどうか。儒教は中国社会を生きる中国人のためのもので、日本人には合わない。正典を借り物ですませるわけには行きませんでした。
 じゃあどうする。日本人は、正典なんかなくてもいいと思って、つくらなかった。神道には正典がありません。神道の奥義書みたいなものがありますが、一般の人びとが読む本ではありません。それではカノンの意味がない。これが日本社会の特徴です。
 日本に正典がないとは、日本は文明でないということです。日本の人びとは、文明と違った独自の方法を採っている。しかも,自分たちが独自の方法を採っているという自覚がない。文明が理解できない。グローバル世界の常識がないということです。これは大変困った状態かもしれない。
 日本では、そのときどきで、人びとが最適と思う社会をつくります。一貫した原理がなく、時代に連れて社会のあり方が変わります。たとえば、平安時代鎌倉時代では、社会のリーダーも政府のあり方も、貴族から武士、律令制から武家政権と、まるで違ってしまいます。
 室町幕府、戦国時代、江戸幕府、明治政府も同様に、社会のあり方が変わっています。日本人はそれを全然気にしません。社会のあり方が変わっても、日本人の同一性は損なわれないぞ、ときっと確信しているんです。これはもう、独自の文化ですね。
 日本人は、日本教に従っていると言ってもいいかもしれない。
 日本企業の源泉は法然
 いまの日本のあり方が形成されたのは、室町時代です。それには、鎌倉新仏教の影響が大きい。
 それまでの仏教は、貴族のためのものでした。荘園で働く農民は報われず、労働の成果は貴族の贅沢や豪壮な仏教建築に化けてしまった。鎌倉新仏教は、それを一新しました。仏教を、農民のためのものにつくり変えた。
 鎌倉新仏教のキーパーソンは、法然道元日蓮の三人です。とりわけ法然が、天才的な働きをしたと思う。
 法然は『選択本願念仏集』を書きました。法然は、すべての経典を読み尽くし、末法の時代、ふつうの修行では救われない、人びとは「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、阿弥陀仏の極楽に往生するしかない、と「証明」したのです。そして大寺院をとび出し、農民のあいだに入って念仏を広めた。
 念仏なら、働きながらでも、字が読めなくても、誰でも唱えられます。農民の圧倒的な支持をえて、念仏宗の開祖となった。
 一神教とそっくりと言ってもいいほどの、仏教原理主義の運動です。
 念仏宗は、農村を作り変えました。農民は団結して、農村の主役となります。誰もが来世で極楽に往生するのだと信じれば、現世で互いに仏と仏のようにふるまうことになります。所有権が尊重され、働けば報われる。念仏宗が典型的ですが、鎌倉新仏教は、農村共同体の連帯をつくりだした。
 それが江戸時代のムラとなり、明治以降の日本の企業組織の原型となったのです。
 日本人のつくる社会の社会秩序の源泉は、人びとが互いを信頼することです。正典(カノン)がなくても、人びとが互いを信頼すれば、道徳や社会規範をうみだすことができます。ムラも会社も学校も官庁も、国レヴェルの法律と違ったローカル・ルールをもっているのが、日本社会の特徴です。
 日本の企業文化には、そうした歴史的・宗教的な背景があることをわかっておいたほうがよいでしょう。
 日本の近代化と朱子学、古学、国学
 もうひとつ、現代日本の起点となったのが明治維新です。
 明治維新は、ナショナリズムの運動。天皇が忠誠の対象であるべきだと考える尊皇思想が、日本の人びとを国民(ネイション)につくり変えた。武士が統治の主体である幕藩制をやめ、身分をなくして、近代的な日本国民が登場しました。
 この考え方の源泉は、江戸時代にあります。具体的には、朱子学、古学、国学蘭学でした。それらが組み合わさって、明治政府を樹立することが可能になった。
朱子学:とりわけ、山崎闇斎(あんさい)学派
 この学派は、儒教の原則に照らすなら天皇が日本の正統な統治者であるとし、江戸幕府は非合法政権だと結論しました。
◯古学:とりわけ、荻生徂徠(おぎゅうそらい)
 荻生徂徠は、儒教のテキストは書かれた当時の意味で読むべきだとし、後世の解釈である朱子学を否定しました。
国学:とりわけ、本居宣長(もとおりのりなが)
 本居宣長は、徂徠の科学的なテキスト読解の方法論を古事記に適用し、儒教と関係なしに、日本のそもそもの統治者は天皇であると結論しました。
 これらの考え方が合流して、後期水戸学になります。
 水戸学は儒教原理主義から出発して、次第に過激な尊皇思想に変わっていきます。それが当時の人びとに大きな影響を与え、倒幕運動の原動力になりました。
 幕藩制を解体し、近代的な政府を自力でつくりあげたのは、日本人が誇りにすべき歴史です。
 でも、それを背後で支えた精神のドラマと思想の格闘を、日本人は忘れてしまっています。自分のアイデンティティが何に由来しているのか、知らないのです。
 ※本原稿は、2022年11月に大学院大学至善館で行なった講演(https://shizenkan.ac.jp/event/religions_oc2023/)をもとに、再編集したものです。
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 数万年日本列島に閉じ籠もって生きてきた日本民族の叡智とは、日々の生活・生きる上で夢や希望を持たない事であった。
 それを端的に証明するのが、「江戸っ子は宵越しのカネを持たぬ」と「武士は食わねど高楊枝」で、その本質は痩せ我慢つまり「偽装」である。
 そして、日本の地獄を書き記した「方丈記」である。
 刹那的なニヒル的な日本人に、将来・未来、そして死後の世界、来世に夢や希望を持たせる為に、何時の時代でも世界中から有りと有らゆる神話・宗教、哲学・思想が怒濤の如く流入していた。
 そして、今日、現代の日本が存在する。
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 4月29日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「戦前の教育理念は、果たして否定されたのか? 「曖昧」なまま生き延びた教育勅語
 小野 雅章
 戦後教育と戦前・戦中教育とは、憲法の改正と旧教育基本法の制定そして教育勅語の排除によって断絶したものと一般的に理解されている。
 しかし、本当に「断絶」していたのだろうか。
 日本の近代教育全体の文脈の中における教育と天皇制の関係を考察する『教育勅語御真影 近代天皇制と教育』を上梓した小野雅章さんは、本寄稿で史実の確認の重要性を伝える。
 近代日本が求める人間像の変化と教育理念
 日本の近代教育は、明治5年(1872年)の学制発布から数え昨年で150年を迎えた。その間、時代の推移に応じて求められる人間像は常に変化し続けた。
 アジアの小国である日本が西欧諸国に伍する近代国家となることを目ざし、急激な教育の近代化を進めた1870年代の方針は、自由民権運動などの「行き過ぎた」近代化を是正するため、1880年代は一転して、教育(とくに、国民教育の部分)は保守化の傾向が強まるが、内閣制度の発足にともない、1885年に初代文部大臣に森有礼が就任し、立憲君主制移行を射程にした教育政策を推進すると、求める人間像にも変化がみられ、儒教主義的な教育はほぼ全面的に否定された。
 教育勅語の発布は、明治憲法成立以降の立憲主義国家としての日本の「行き過ぎた」近代化を抑制し、国体史観を教育理念の中心におこうとする山県有朋などを中心とする明治政府内保守層による施策のひとつであった。
 しかし、これで日本の教育理念が一定化したわけではなかった。
 教育勅語は公布ののち10年も経過しないうちにその有効性に疑念がもたれ、教育勅語の改訂・追加・改訂論が権力内部で真剣に検討されるようになった。明治憲法成立直後の政権内保守派の意向を呈した教育勅語に示された教育理念だけでは時代状況にそぐわなくなったからである。
 しかし、日露戦後には、政府自らが教育勅語を否定することは天皇制そのものの権威を損ねることになり、当時の国際社会からも認知され始めた天皇の権威そのものを損ねるとの判断により、教育勅語の理念と日露戦争以降の現実社会の状況との間の「ギャップ」を埋めるための手段として、その時々の時代状況に対応した天皇の名による詔勅を発布して求める人間像を提示するという方式を編み出した。日露戦後の社会不安と体制基盤の動揺期には戊申詔書(1908年)を、関東大震災後の社会不安と民心動揺への対応として、「国民精神作興ニ関スル詔書」(1923年)を、そして、戦時体制による「ファシズム的」天皇制が頂点に達した時期の対応として、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(1939年)をそれぞれ発布した。
 これは、「教育勅語をして、時代を超えた普遍性を主張する『古典』の地位に昇格させ、新たな状況に対応すべき教育理念は、その都度その時々の天皇の名により〔詔勅が―筆者注〕示される」(佐藤秀夫編『続・現代史資料8 御真影教育勅語1』みすず書房、1994年)が確立したと指摘されている。
 教育勅語の「曖昧」さ
 「時代を超えた普遍性を主張する『古典』の地位」にあるはずの教育勅語そのものが、時代の変化にともない、その解釈に変更が加えられていたという事実はあまり知られていないが、重要な事実であろう。
 教育勅語の発布間もなくして、当時の文部省は、その解釈を一定し、官定の解釈書(衍義書)の執筆を井上哲次郎(いのうえてつじろう)に委嘱し、『勅語衍義』上・下(井上蘇吉ほか、1891年)となるが、結局は「官定」とならず、個人の著作となった。そもそも「勅語の解釈には色々説がある」(「聖訓ノ述義ニ関スル協議会」における吉田熊次(よしだくまじ)の発言)ことが当然のこととされていた。
 修身教育における教育勅語の教授内容さえ、時代により一定していなかった。周知の通り、教科書の国定化は1903年の小学校令改正により実施された。第一期国定修身教科書(『尋常小学修身書』)の編纂に際し、「勅語の述義を入れることそれ自体が問題であって」(同前)、教育勅語の解釈を教科書に掲載できなかった。当時の漢字の使用制限のためとされるが、それ以外、日清・日露戦間期教育勅語改訂論が権力内部で議論されていた時期であることも影響したと推測できる。
 第一期国定修身教科書は、国体意識の面において不十分との各界からの批判があり、早くも1908年には第二期国定修身教科書の改訂が開始された。義務教育年限が延長され、その最終学年使用の教科書に教育勅語の釈義を掲載することになった。この時点においても「勅語の解釈には色々説があるが、これを政府が一定の解釈としてどういふものか」(同前)との議論があった。教育勅語の解釈が如何に難しかったのかを端的に示している。議論は紛糾したようであるが、結局のところ、第二期国定修身教科書で教育勅語の解釈を掲載することになった。
 ここでは、教育勅語は全体で三部構成であること、教育勅語が示した徳目は歴史的にも、日本の他諸外国にも通用するものとするその徳目(「斯ノ道」)は、具体的に何かについて「父母ニ孝ニ」から「義勇公ニ奉シ」までであることなどが確認された。この解釈は、第三期・第四期の国定修身教科書においても適用され、文部省による教育勅語解釈として、国民教育の場で用いられた。多くの人々はこの解釈によって教育勅語を学んだ。
 1937年12月、日中戦争による20か月の長い休みの後、学校に戻ってきた学童たち(GettyImages)
 © 現代ビジネス
 戦時体制が本格化すると、時代状況の変化に対応して文部省自身がこの解釈を変更した。教育審議会の答申により国民学校制度が発足(1941年)するのに対応して国定教科書も改訂することになった。1939年11月、文部省内に「聖訓ノ述義ニ関スル協議会」を設置し、新たな修身教科書に「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」に掲載するためにその解釈を行うとともに、新たな時代状況に対応するために教育勅語の解釈を見直した。
 ここでの協議の結果、教育勅語は全体で二部構成でありその前半部を二つに分けることも可能であること、また「斯ノ道」の指す徳目を拡げ、「天壌無窮ノ皇運ニ扶翼スヘシ」をも加えることになった。「大東亜共栄圏」の構築を目指すという時代状況に合わせ、日本の教育勅語は全世界に通用するとの解釈に変更した。教育勅語の解釈は時代状況に合わせて変化し続けたのである。
 戦後教育をどう解釈するのか
 これまで検討してきたとおり、教育勅語の徳目はあくまでも1890年という資本主義社会にも到達していなかった時点のものであり、発布後10年も経過しないうちにその有効性が問われるようになり、その撤回・改訂・追加論が台頭するまでになる。それへの対応として、教育勅語を近代日本の徳目を示した「古典」と位置づけ、その時代状況に対応した詔勅(戊申詔書・国民精神作興ニ関スル詔書・青少年学徒ニ賜ハリタル勅語)を発布して対応した。さらに、その近代日本の徳目の「古典」であるはずの教育勅語自身、その解釈は一定することなく、時代状況に合わせて変化した。
 こうした事実の延長線上で戦後教育を考えたらどうなるのであろうか。一般的に戦前・戦中教育と戦後教育とは、憲法の改正と旧教育基本法の制定と教育勅語の排除により断絶したものとされ、これを肯定的にとらえるリベラル派とこれを否定的にとらえる保守派も戦前・戦中教育と戦後教育との断絶を前提としている。主権の変更や教育理念の変更はこのことを端的に示しているといえよう。しかし、戦後改革で天皇天皇制そのものが否定されたわけではない。戦後改革で象徴天皇天皇制へとの変更はあったものの、裕仁天皇という同一人物が天皇の位置にあり続けた。
 裕仁天皇(GettyImages)
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 この変更は戦前・戦中の天皇天皇制からの超国家主義軍国主義的部分の排除であった。教育や学校場面でこれを検討すると、国体史観にもとづく天皇天皇制に教育理念を求めた教育勅語、さらに神社様式が一般的であった御真影教育勅語謄本の保管施設である奉安殿・奉安庫は否定されたが、御真影は軍装のものから「天皇御服」のものに変更された。こうした事実は、戦後教育も戦前・戦中の全面否定ではなく、象徴天皇天皇制への変更という時代状況に合わせて変更と見るのがより正確なのかもしれない。戦後の象徴天皇天皇制への変更は、実に「曖昧」なものであった。こうした状況のなか、天皇天皇制と教育との関係も戦前・戦中的なものを寛容する要素が強く残ったのではないか、と筆者は思っている。
 戦前・戦中と戦後教育とについて、「『皮袋』は変ったが『葡萄酒』はどの程度変質したのかという面から、1945年8月15日あるいは1947年4月1日を境界とする『戦前教育史』(近代教育史)と『戦後教育史』(現代教育史)との時期区分の有効性も問い直されるようになるかもしれない」(佐藤秀夫「(2)シンポジウム:教育史的認識をいかに形成するか《第一提案》」『日本の教育史学』第21集)と指摘がある。拙著『教育勅語御真影――近代天皇制と教育』(講談社現代新書)は、こうした問題意識のもとに執筆した。天皇制と教育との関係については、様々な側面から議論されるべきものであると考えている。その前提は史実の確認からはじめるべきある。拙著がそのひとつの題材なればというのが、著者が最も望むところである。
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