☲33〕─2─台北大空襲。昭和20年5月~No.130 ㉖ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 朝鮮半島空爆されたという記録がない。
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 同じ日本国籍を持っていた台湾人は、反天皇反日朝鮮人は違って日本人の戦友として共に戦っていた。
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 現代の台湾人と戦前の台湾人は違っていた。
 台湾が変わったのは、蒋介石中国国民党が占領してからである。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者のテロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 2023年6月27日 YAHOO!JAPANニュース The News Lens Japan「知られざる「台北大空襲」:米軍はなぜ台湾に無差別爆撃を行ったのか?
 「台北大空襲」ゲーム
 今年2月、台湾のゲーム会社が「台北大空襲」というタイトルのPC(STEAM)用ゲームソフトをリリースした。清子という日本名の少女を主人公に、第二次世界大戦末期、“たいほく”と呼ばれていた日本統治下の台北を襲った大空襲を追体験するアドベンチャーゲームは、同社が17年に発売して台湾で話題を呼んだ同名のボードゲームが原作だ。
二つのゲームがテーマにしている台北大空襲は、戦争を知る世代を除けば、その惨事自体が人々のあいだで忘れられつつあるという。知られざる台北大空襲に至る経緯、そして台湾の被害についてを紹介する。
 台北大空襲は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月31日、日本統治下の台湾台北市に対し、連合国軍が行った大規模な無差別爆撃である。
 台湾のゲーム開発会社迷走工作坊(Mizoroit Creative Company LTD)は、当時の台湾の人々が生死の危機に瀕したこの歴史的事件を追体験する、その名も「台北大空襲」と題したゲームを発表した。
 台湾への空襲は1944年末から始まり、以後終戦となる1945年までに、台北のみならず北部から南部までほぼ全土が攻撃され、甚大な被害を及ぼした。
 しかし第二次世界大戦終結後、国民党政府と米国は同盟国となり「抗日史観」に対する政府の姿勢によって、学校の歴史教育で空襲について言及されなくなった、そのため多くの台湾の人々はこの史実を学ぶ機会がなく、空襲を行った国についてさえ知らない人がいるという。
 迷走工作坊は、台北市の繁華街である西門町で、約40人に街頭インタビューを行ったが、そのうち台北大空襲について聞いたことがあると答えたのはわずか2名であった。
 戦略爆撃とは?
 台北大空襲発生の背景には、第二2次世界大戦の末期、米軍が日本に対して行った「戦略爆撃」がある。当時日本の統治下にあり、日本の南進政策の拠点である台湾も当然爆撃の標的になった。航空機による爆撃は、第一次世界大戦末期に出現した新しい戦法であり、
戦略爆撃」という概念は第一次世界対戦終結後に発展したが、具体的な方法、戦術、効果については第二次世界大戦中の実戦の中で模索している状態だった。
 日本への戦略爆撃
 第二次世界対戦初期、日本は太平洋の制空権及び制海権を掌握し、台湾はフィリピンや中国に向けた航空戦力の要所であった。米軍は航空母艦を使用した1942年4月18日のドーリットル空襲を端緒に東京始め日本全土への爆撃を開始したが、台湾中正大学の張建俅副教授の著書『第二次世界大戦における台湾の戦争被害の研究』によれば、1938年2月の23から24日にかけ、ソ連が中国に派遣していた空軍志願隊が中国の南昌、漢口の基地からツポレフSB型爆撃機で飛び立ち、台北松山空港と周辺を爆撃しており、台湾にとってこれが初めての空襲であった。
 当時は制空権が日本に在り、ソ連にとってこの爆撃は大きな戦果をもたらすものではなかった。その後太平洋戦線で米軍が反攻に転じ、1944年7月にはマリアナ諸島、10月にはフィリピンのレイテ島で日本軍を陥落させる。長距離爆撃の拠点を獲得した米軍は、日本本土及び台湾への空襲を本格化した。
 台湾の航空部隊は、1936年から数回の改編と拡大を経て、1944年6月には日本陸軍の「第八飛行師団」に編成されていた。表面上は台湾の空の防衛は強化されていたが、実際の日本軍は平洋戦線において海上・空中ともに戦力を消耗しており、1944年6月のフィリピンマリアナ沖海戦及び10月の台湾沖航空戦によって、日本軍の台湾における航空戦力はほぼ壊滅した。
 制空権を掌握した米軍は、第二次世界大戦終結まで、爆撃によって日本の工業を徹底的に粉砕した。イギリスの軍事評論家リデル=ハートによれば、中国を基点とした日本への爆撃は、燃料補給が困難であり、マリアナ諸島の航空基地を整備する以前、1944年下半期に米軍が日本の領域内に投下した爆弾は800トンに過ぎなかった。しかし基地が完成した後は1945年3月9日から19日のわずか10日間で10万トンもの爆弾を投下し、さらに7月には3月の3倍に達する爆弾が投下された。
 まさにこの時期に「台北大空襲」が起きたのである。
 米軍の戦略爆撃により、日本人の850万人が都市から田舎に避難、石油工業の生産高は83%減、飛行機のエンジン生産は75%減、機体生産は60%減、電子部品の生産は70%減となった。1945年3月10日には東京大空襲が行われ、10万人以上の犠牲者を出した。
 台湾への爆撃
 1945年1月21日、高雄港の船舶爆撃。写真は高雄の旗津から塩埕の方角に向けて撮影されている。
 連合国軍の台湾に対する爆撃は、張建俅の前掲書によれば、1944年の中頃までは頻度も少なく、奇襲攻撃的に行われていたという。1944年の後半になり、フィリピン戦線が激化したことから台湾への爆撃も増加した。第1のピークは1944年10月、台湾沖航空戦の一環として爆撃が行われた。第2のピークは1945年1月、ルソン島上陸作戦を支援するために、台湾への爆撃が激増した。
 1945年3月14日、米軍による高雄爆撃、壊滅状態の塩埕地区
 これらピーク時の爆撃は米国海軍第38任務部隊の空母搭載機と中国の成都に駐留する第20空軍が管轄するB-29型大型爆撃機により行われた。同機の爆弾積載量は極めて多く、1945年1月31日以降マリアナ諸島に拠点を移した第20空軍が日本本土を爆撃する主力機となった。一方、台湾への爆撃は第5空軍に転じ、フィリピンを拠点にB-24、B-25型爆撃機による攻撃が主体となった。
 総括すると、第二次世界大戦中に台湾に対して行われた爆撃は15,908回。投下された爆弾84,756個、焼夷弾35,463個、投下された爆弾の合計は120,219個、総重量20,242トンであった。
 これらの爆撃によってもたらされた台湾全土の人的被害は、台湾総督府の公開資料によれば死者6,100人、行方不明435人、重傷3,902人、軽傷5,335人。張建俅の前掲書によれば、戦後の調査結果からみて総督府の死傷者統計は実際よりかなり低く報告されているという。物的被害は総督府の統計で建物の全壊29,191棟、半壊17,127棟の合計46,318棟。
 1945年7月10日、米軍が桃子園地区(現在の高雄市左営)の石油タンクを爆撃。米軍は台湾の交通と工業施設を重点的に爆撃した。
 202カ所の工場が爆破され、電力、給水、電気通信、交通等すべてのインフラが莫大な被害を受けた。
 張建俅の『第二次世界大戦における台湾の戦争被害の研究』には空襲を経験した人々の証言が多数掲載されており、作家の東方白氏の父親も「台北大空襲」の惨状を語っている。空襲は第二次世界大戦を経験した台湾の人々にとって、決して忘れられない惨事であった。
 戦後70数年が過ぎ、台湾当局歴史教育の方針もあって、空襲という歴史的事実が台湾の人々の記憶から失われつつある。
 『台北大空襲』には、ゲームを通じて当時の戦禍を追体験し、共通の記憶として伝えてほしいとの、製作者の願いが込められている。
 (2017年4月6日公開の「The News Lens」の翻訳記事)
 TNL 編集部 翻訳者:椙田 雅美
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 連載 沖縄、台湾をつむぐ
 家族を奪った台湾大空襲 「台北市はまるで死の城に」
 鈴木玲子
 アジア・オセアニア
 毎日新聞 2021/9/2 11:42(最終更新 9/2 11:42) 有料記事 4782文字
 1943年、台北にある陸軍病院の中庭で撮影された写真。前列右から3人目が川平朝申さん=那覇市歴史博物館提供
 太平洋戦争末期の1945年5月31日午前10時ごろ、日本統治下の台北市内に空襲警報のサイレンが鳴り響いた。フィリピン・ルソン島から100機を超す米軍のB24爆撃機が飛来し、台北に猛攻撃をかけた。
 台北高等学校高等科2年生で陸軍2等兵となった川平朝清(かびらちょうせい)さん(94)は同市南端の練兵場にいた。所属部隊は北郊の山中で米軍の上陸に備えていたが、各小隊から2、3人ずつが選ばれ、山から下りて軽機関銃の訓練をしていた。17歳の朝清さんはその一人だった。
 近づいてくるB24の銀色の機体が陽光を反射して光った。隠れる間もなく、身を伏せた。爆撃機は、朝清さんたちの頭上付近で爆弾を投下し始めた。爆弾はまるで流れるように、川向こうの市街地に落ちていく。ごう音と共に黒煙が上がる。朝清さんは「街にぐれんの炎が立ち上るのを見ているしかありませんでした」と語る。波状攻撃は約3時間続き、爆弾約3800発が投下された。それまでの空襲とは、まるでけた違いだった。
 主に爆撃されたのは、城内地区と呼ばれた市中心部で統治機構の中枢部や繁華街があった。日本人の集住地域が狙われた。大空襲の後、朝清さんらは橋を渡って市中心部に向かった。燃えさかる台湾総督府の前を通って大隊本部が置かれていた台北高等商業学校にたどり着いた。あちこちで黒煙が上がり、通りには巨大な穴が開いていた。
 台湾が空襲を受けたのは、…
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 台北大空襲(たいほくだいくうしゅう)は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月31日、連合国軍の爆撃機により日本統治時代の台湾台北州台北市に対して行われた無差別爆撃である。この空襲で市民約3000人(日本人が中心)が死亡、重軽傷者並びに家屋を失った者は数万人以上に上った。
 背景
 台湾が空襲を受けたのは台北大空襲が初めてではない。太平洋戦争開始前の1938年(昭和13年)2月23日には、ソ連義勇軍中華民国空軍第1大隊による松山飛行場に対する攻撃があった。1943年(昭和18年)11月25日には、アメリカ陸軍航空軍の第14空軍第11爆撃中隊に属する8機と米中混成軍団第1大隊第2中隊の6機、合計14機のB-25が、第14空軍第23戦闘大隊のP-51及びP-38各8機の援護の下、中国遂川基地を飛び立ち、台湾の新竹飛行場を爆撃、日本軍機52機に損害を与える新竹空襲を行った。ただ、これらはいずれも小規模且つ軍事拠点を目標にしたものであった。
 アメリカ軍による本格的な台湾空襲は太平洋戦争末期、フィリピンの戦いのために第38任務部隊の艦上機が来襲した1944年(昭和19年)10月12日に始まった。このときに台湾沖航空戦が展開されている。ルソン島占領後は陸上機も頻繁に来襲、屏東や虎尾の製糖アルコール生成工場、高雄港、岡山航空廠を目標にした。そして台北アメリカ軍の空襲範囲に含まれ、頻繁な攻撃を受けるようになった。当初台湾に230機あった日本軍戦闘機は、台湾沖航空戦以来の戦闘でほぼ壊滅状態となった。
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