🪁19〕─1─中華・東アジア人と中国・漢族は別人である。〜No.59No.60No.61 

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 2023年5月22日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「「米中対立」下の日本で考える「中華」と「中国」の今 現代の日中とは異なる視座から見る歴史的展望
 岡本 隆司
 「中華」と「中国」の今を考える(写真:Ryuji/PIXTA
 © 東洋経済オンライン
──中華は中国とは別物だろうか
 冬は中華まん、夏は冷やし中華。「中華」といって、まず連想するのは、食べ物・料理・ごちそうである。和洋中と聞かれて、「中華」を選ぶ日本人は、きっと少なくないにちがいない。おいしそう、と幸せな気分になってしまう。
 もちろん身近な料理にとどまらない。中華街の町並み、喧噪、お祭りもある。もう少し大がかり、あるいは高尚で抽象的になれば、中華とは文化であり、文明である。人口に膾炙(かいしゃ)してきた「中華思想」という用語など、その最たる用法だろうか。
 いずれにも共通するのは、「中華」は国籍不明・住所不定ということである。中華街は横浜・神戸のみならず世界中にあるし、フランスの中華思想、日本の中華料理といって、まったくおかしくない。料理から思想にいたるまで、文化・文明とはそういうものであって、一種の普遍性を有している。
 「中華」「中国」という名辞・名称
 それに対して「中国」は、あくまで中国。日本人にとっての中国は、個別の固有名詞ではないだろうか。あの土地・住民と分かちがたい。
 昔その印象はよかった。好感度80パーセント。ところが最近は悪い。嫌悪が80パーセントにのぼろうか。「中華」が今も昔もごちそうなのとは、やはりかなり異なる。また中国が嫌いだから中華街に行かない、という人も聞いたことがない。相い似た字面の「中華」と「中国」は、いまや対極に位置する相反関係ともいえそうである。
 しかし以上は、あくまで日本漢語・現代日本人の用法にすぎない。それが誤っていると咎めるつもりはないけれど、正しいと思ってもらっても困る。
 嫌中感情・中国異質論・中国脅威論がはびこるなか、中華料理に舌鼓。そんな日本人の既成概念・固定観念がすべてではない。
 「中国」「中華」とは、今も昔も当の中国人の自称であり、両者にほぼ意味の差異はない。日本人の概念とはずいぶん異なる。
 「中華」「中国」という名辞・名称すら、十分に理解してこなかった。それが日本人の中国観の現状なのだとすれば、ことはリアルタイムの中国認識にも関わる。現状は知っておく必要があるし、その原因・影響も考えてみなくてはならない。
 中国人になぜそう自称するのかを尋ねても、おそらくムダである。かれら自身には、あたりまえのことだから、ことさらその含意・意義を十分に説明してはくれない。いな、当の本人たちもわかっていない可能性もある。
 異なる視座から見える「中華」「中国」
 それならどうすればよいか。
 「中華」「中国」と関わって、その語彙を使うのは、もちろん日本ばかりではない。中国と隣接する国なら、多かれ少なかれ漢語概念の「中華」「中国」を認知したし、また用いてもきた。そのありようが現代日本とまったく同じであるはずはない。
 各々の立場・利害に異同があって当然であり、だから「中華」「中国」に対する感覚・認識は、それぞれに多種多様なはずである。逆にそうしたギャップから「中華」の本質に迫ることも不可能ではあるまい。
 最新の『アステイオン』98号の特集、「中華の拡散、中華の深化──『中国の夢』の歴史的展望」は、そんな試みである。現代の日中とは異なる視座から見える「中華」「中国」をあつかった論考を集めた。 
 まずは、他者から「中華」「中国」をみてみよう。
 森万佑子は朝鮮近代史の視角から、日・中と最も近隣する朝鮮半島から「中華」を論じる。歴史的に「小中華」の矜恃を持する半島は、そこから対外関係のすべてを築いてきた。それが東アジアのダイナミズム、あるいは危機をも作り上げていて、そこに気づかない日本人は少なくない。
 同じく「中華」の濃厚な国は、南方のベトナムであった。牧野元紀はつねに微妙で困難だった中国との関係史をたどりつつ、ベトナムの「中華」を語ってくれる。それは朝鮮半島以上に日本人の知らない世界であって、いまやごく身近になったベトナム人を知るためにも、ベトナムの歴史はもっと注目されてしかるべきだ。
 いかに中国・漢民族と隣接していても、以上とはまるで逆に、「中華」がごく希薄なのは、モンゴル・チベットと新疆である。それもそのはず、いずれも史上、言語は非漢語、信仰は非儒教であって、日本・朝鮮半島ベトナムが漢字圏だったのとは、東西で鮮やかな対照をなしてきた。
 しかしみな歴史・現状ともに険しい。モンゴルは独立国家を形成しつつも分断された。チベット仏教を信奉してきたチベットは、首長のダライラマがなお亡命を余儀なくされ、ムスリム住民が多かった新疆は、収容・洗脳にみまがう、周知のような「人権問題」のまっただ中にある。
 このように西方内陸の地域・住民は元来、言語・信仰・習俗、あるいは国さえも異なっていた。ところが今や「一つの中国」の一部である。なればこそ史上も現代も、多くの事件・問題の焦点になってきた。いまなお解決のみえないその様相・内実を、小長谷有紀・小林亮介・熊倉潤がそれぞれの歴史にさかのぼって解説する。
 それに対し、中国本土と同じく漢語圏であっても、現在やはり「中華」「中国」に冷淡なのは、香港と台湾である。偶然ではない。大陸の北京政権が「中華」を独占し、「一つの中国」を標榜して、体制・価値観の異なる両者を吸収同化しようとしているからである。
 相反する双方のベクトルには、やはりそうなったゆえん・いきさつがあって、それを理解しなくては、現在の「中国」「中華」概念の内実ははかりがたい。そうした機微を昨今の情勢とともに、倉田徹と野嶋剛が懇切に解き明かす。
 台湾と目と鼻の先にあるのが沖縄である。いずれもアメリカ軍の関与では共通しており、アメリカの存在を抜きに考えるわけにはいかない。そしてそのアメリカの関与は、はるか19世紀後半、日本の開国といわゆる「琉球処分」にはじまる。日本と「中華」の関わり、ないし相剋は、遅くともここに起源しているのであり、アメリカをふくむ西洋も決して無関係ではなかった。琉球・沖縄をめぐる日・中・米の現代にも通じるせめぎ合いを、ティネッロ・マルコが描き出す。
 「琉球処分」は善かれ悪しかれ、日本の近代国家形成の一コマだった。南のコマがあれば北もある。そのプロセスで最も問題になったのが、「小中華」たる朝鮮半島との関係だった。容易にその収拾がつかなかったために、日本は戦争を重ねて最後に敗戦を喫し、現代に至っている。だとすれば朝鮮王朝と対峙した日本の「中華」観・世界観は、現在とも無縁ではありえないし問われなくてはなるまい。石田徹が述べる、「征韓論」として現出した日本の観念のありようは、あらためて考えるべき価値があろう。
 「中華」「中国」の意義・影像
 「中華」は長い歴史をもち、広汎な範囲に及ぶ。それは往々にして、浅薄な「中華」意識しかもたない日本人には、思いもよらない様相を呈してきた。しかもそれは「中国」を介して、今昔の日本とつながっている。
 けっきょく「中華」「中国」の意義・影像を考えることは、日本人が自ら日本を考えるにひとしい。「中華そば」をすすりながら、その向こうにある「中華」と日本と世界を考えてみるひとときがあってもよいだろう。
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 中国共産党共産党員・中国軍人は、歴史・文化・伝統・宗教から中華・東アジア人や中国・漢族とは違うし、当然一般中国人とも違う。
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