👪40〕─1─日本人はなぜ理不尽な「同調圧力」に負けてしまうのか?~No.148 

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 2023年7月31日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本人はなぜ理不尽な「同調圧力」に負けてしまうのか?世界から見て圧倒的に「欠けているもの」
 山崎 雅弘
 日本は同調圧力が強い国だ、とよく言われる。しかし、同調圧力という現象は日本固有のものではなく、諸外国にも存在している。なのに、日本ばかりそう言われがちなのは、日本人に「抗う力」がないからだという。新刊『この国の同調圧力』を発表した戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏が、日本人が同調圧力に負けてしまう本質的理由について分析する。
 同調圧力は日本固有の現象ではない
 日本で「同調圧力」と呼ばれている社会現象あるいは心理的状態を、英語では「ピア・プレッシャー」と呼んでいます。
 ピア(peer)とは、同輩や友人から成る集団のことで、その集団内の規範への同調や順応を各メンバー(構成員)に強いる心理的圧力を、こう呼んでいます。厳密には、その意味するところは、日本の同調圧力とまったく同じではありませんが、全体として見た場合には、その理不尽さも含めて、重なる部分が多々あるようです。
 © 現代ビジネス
 つまり、同調圧力という社会現象あるいは心理的状態は、日本独自のものではなく、欧米諸国を含む諸外国にも、程度の差こそあれ、存在しているのです。
 ところが、日本社会ではしばしば「日本は同調圧力が強い国だ」と、あたかもそれが日本固有の現象ないし状態であるかのように語られます。
 これは一体どういうことでしょうか?
 日本人からすると、欧米人は、集団の中でも自分が思ったことを遠慮なく口にしたり、自分一人だけが違う行動をとったりすることが平気なように見えます。
 自分が属する集団の中で、おかしいと疑問に思うことが何かあれば、「これはおかしいんじゃないか」と発言し、周囲のメンバーも「確かにそうかもしれない」と耳を傾けて、今までのやり方を別の形にあっさり変更することも珍しくありません。
 欧米にも「ピア・プレッシャー」は存在するはずなのに、それに押し潰されずに、自分の言いたいこと、やりたいことを通す人が、たくさんいるように見えます。
 それは、アジアやアフリカなど他の地域でも同様です。
 それぞれの国や地域に、何かしらのピア・プレッシャーのようなものは存在するはずですが、それでも町中で人の様子を観察すると、宗教的な教義が厳しい国は別として、それ以外ではわりと自由に、周囲との摩擦を過剰に気にすることなく、気楽な感じで自分の言いたいことを言い、したいことをやっているように感じられます。
 日本人が同調圧力に負けてしまう理由
 では、それらの国々と日本では、何が違うのでしょうか?
 まず注意すべきポイントは、同調圧力ピア・プレッシャーが「存在するか否か」ではなく、それらの圧力に「抗う力」あるいは「抗う勇気」を、国民や市民がそれぞれの内面に持っているかどうかではないかと、私は思います。
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 集団の中で、何らかのピア・プレッシャーが存在したとしても、一人一人の国民や市民が、それに抗うだけの「抵抗力」を持っていれば、ピア・プレッシャーで集団に従わせる効果は激減します。逆に、それに抗うだけの「抵抗力」を、一人一人の国民や市民が持たなければ、同調圧力で集団に従わせる効果は、逆に強化されます。
 私は、この同調圧力に対する「抵抗力」とは「自分は個人であるという意識」ではないかと思います。
 個人とは、英語で「インディビデュアル」と言いますが、人間は一人一人が独立した存在であり、それぞれがオリジナルの考えや価値観、行動規範を持ってもいいという考え方に根差しています。
 横暴な権力者を、市民のデモや革命で倒すという社会的プロセスも、一人一人の人間がそれぞれ独立した価値を持つという考え方の上に成り立つものです。
 この考え方が子どもの頃から内面化していれば、たとえ集団や共同体の内部で多少のピア・プレッシャーがあったとしても、よほど大きな権威(服従しないといけないような超越的存在)に裏打ちされていない限り、無視しても大したことになりません。
 日本でとりわけ同調圧力が強いように感じられるとしたら、それは社会の中で「個人」を尊重しようという風潮と、一人一人の国民や市民の内面における「自分は個人だという意識」が、諸外国に比べて少ないからではないか。だから、同調圧力への「抵抗力」も諸外国の人より弱くて、それに負けてしまう人が多いのではないか。
 私はこんな風に考えます。
 個人が尊重されない社会は同調圧力に弱い
 先に述べたように、「個人」が確立した社会では、同調圧力と「個人」の力が拮抗するので、一人一人の国民や市民がその圧力に押し潰されずに済みます。
 けれども、「個人」が確立していない社会では、同調圧力と「個人」の力が拮抗せず、心理的な圧力が「個人」を圧倒してねじ伏せるような形になってしまいます。
 ヨーロッパでも、ナチス・ドイツのようなファシズムの国では、社会の中で「個人」を尊重する価値観が一時的に失われ、国家「全体」や社会「全体」が共有する価値観や世界観に、国民全員が同調して従うことを政府が強要していました。
 ファシズムを日本語で「全体主義」と呼ぶのは、こうした図式があるからです。
 ナチス時代のドイツでも、そうしたピア・プレッシャー(ドイツ語では「グルッペンツヴァング=集団の力」)に抗い、ヒトラーナチスに反逆した人は一部にいました。
 有名なのは、ミュンヘン大学ナチス批判のビラを撒いて逮捕・処刑された、ゾフィーとハンスのショル兄妹らの「白バラ抵抗運動」ですが、彼ら以外にも、ファシズムによる支配はやがてドイツを滅ぼすことになると考え、一刻も早くヒトラー体制を打倒すべきだと確信して行動を起こすドイツ人が少なからずいました。
 トム・クルーズ主演の映画『ワルキューレ』で描かれた、ドイツ軍の反ナチス将校によるヒトラー暗殺とクーデターの計画(一九四四年七月二十日事件)もその一例です。
 最高司令官である「総統」ヒトラーに忠誠を誓っていたはずのドイツ軍人の中にすら、そんな考えを持つ者が、組織の中枢に存在していたのです。
 戦時中のドイツと日本の決定的な違い
 ナチス・ドイツと同じ時代、つまり昭和期の大日本帝国時代の日本でも、明治期や大正期には限定的ながら社会に存在した「個人」を尊重する価値観(たとえば自由民権運動)が一時的に失われ、国家全体や社会全体が共有する価値観や世界観、すなわち「天皇を中心とする国家体制への献身奉仕」という考え方に、国民全員が同調して従うことが強要されていました。
 しかし、ドイツと異なるのは、第二次世界大戦日中戦争とアジア太平洋戦争)中の大日本帝国には、自国の将来のために国家体制を変革する行動を起こす軍人や国民が、ほとんど存在しなかったことでした。
 当時の大日本帝国の国民(天皇に仕える立場という意味で「臣民」と呼ばれた)は、一九四五年八月に破滅的な降伏を迎えるまで、国家全体や社会全体が共有する価値観や世界観に従い続け、もし従わない者がいれば、周囲の国民が情け容赦なく同調圧力をかけて、精神的なプレッシャーで押し潰して従わせました。
 ここにも、社会の中に「個人」が存在したかどうかという違いが見て取れます。
 同調圧力の問題を批判的な視点で考える場合、この「個人」という要素は、きわめて重要であるように、私には思えます。
 なぜなら、「個人を尊重しない社会や国家」とは、つまるところ「人間を人間として尊重しない社会や国家」であり、社会や国家という集団を守るためなら平気で「同調しない人間」を虐げたり殺したりするような方向へと進んでいくものだと、過去の歴史が我々に教えているからです。
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