☱21〕─3・C─福田村惨殺事件と人権侵害・差別主義。大正12(1923)年9月6日。~No.47 

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 数万年前の旧石器時代縄文時代、数千年前の弥生時代古墳時代日本民族の歴史において破壊的自然災害で外国人を虐殺した事件は、公式の歴史上、関東大震災の一件だけである。
 被災した日本から中国や朝鮮に難民として逃げ出した日本人難民は、皆無であった。
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 2023年6月22日 朝日新聞デジタル「福田村事件で野田市長が悼む 「今後も人権教育を継続」
 斎藤茂洋
 答弁する鈴木有市長=2023年6月20日午前10時8分、千葉県野田市議会、斎藤茂洋撮影
 関東大震災直後の1923年9月、福田村(現野田市)で香川県から来た行商の9人が殺害された福田村事件について、野田市の鈴木有市長は20日の市議会で「被害に遭われた方たちに対し、謹んで哀悼の誠を捧げたい。人権問題の正しい理解と認識を深められるよう今後も継続して人権教育、啓発に取り組む」と答弁した。
 小室美枝子氏=市民ネット=の一般質問に答えた。鈴木市長は「当時の社会情勢の混乱、流言飛語など複合的な要因が重なって起きた事件と考えますが、いかなる理由があっても人の命を奪うのは最大の人権侵害。二度と繰り返してはならない」と話した。市によると、市長が議会で被害者に弔意を示したのは初めてとみられるという。
 福田村事件は1980年代に香川県の元高校教諭らの調査などで明らかになった。野田市内では2000年に市民グループが発足した。今年は事件から100年になる。(斎藤茂洋)
 〈福田村事件〉関東大震災から5日後の1923(大正12)年9月6日、千葉県福田村(現野田市)の利根川河畔で、香川県被差別部落から来た薬の行商団15人のうち、幼児や妊婦を含む9人が福田村と田中村(現柏市)の自警団に殺された。震災後、「朝鮮人が略奪や放火をした」とのデマが広がっていた中で、聞き慣れぬ方言を話す一行が朝鮮人と決めつけられて襲われ、遺体は利根川に流されたという。自警団の8人が有罪となったが、恩赦で釈放された。
 80年代に香川県で真相究明が始まり、殺害を免れて帰り着いた行商団の生存者から聞き取った証言の記録が残されている。震災80年の2003年、野田市の現場近くに「追悼慰霊碑」が建てられた。朝鮮人差別や行商への偏見、よそ者への排他意識などに群集心理も重なり、事件が起きたと分析されている。
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 8月3日 YAHOO!JAPANニュース 共同通信「映画「福田村事件」完成、上映へ 関東大震災後「市民が凶暴化」
 記者会見で思いを語る森達也監督=3日午後、千葉県庁
 関東大震災の5日後に現在の千葉県野田市香川県の行商団9人が自警団に殺害された事件を題材にした映画「福田村事件」が、震災から100年に合わせて完成した。監督を務め、数々のドキュメンタリー作品でも知られる森達也さん(67)が3日、上映開始を前に千葉県庁で記者会見。「市民がどうして凶暴化したかを描きたかった。誰かを排除しようとするのは、今も昔も同じ」と思いを語った。
 福田村事件は1923年9月6日に発生。混乱した社会の中で飛び交った流言が影響したとされる。
 関東大震災が起きた9月1日以降、各地で順次上映。詳しいスケジュールは公式ホームページで案内している。
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 一般社団法人 部落解放・人権研究所
 ■Home > 調査・研究 > 部会・研究会活動 > 反差別部会 > 学習会報告 03.10.15
 部会・研究会活動 <反差別部会>
 反差別部会・学習会報告
 2003年8月2日
 虐殺された被差別部落
 -福田村事件の真相-
 (報告)喜岡淳(香川県人権センター事務局長)
 自警団思想と天皇制を撃つ
 (報告)黒田伊彦(関西大学
 (第一報告)
1.事件の概要
 事件は関東大震災発生から5日目の9月6日、千葉県で被差別部落が集中する東葛飾郡の福田村三堀の渡し場で起こった。香川県被差別部落から売薬行商に来ていた15人の一行が、茨城県側へ川を渡ろうと船賃の交渉をしていたところ、渡し場で警戒に当たっていた福田村と田中村の自警団員数百人に襲撃され、2才、4才、6才の子どもや妊婦を含む9人が、殺戮された。
 子どもの首を太い針金で縛って川に投げ込むなどのむごたらしい殺人を犯したが、誰が実行犯であるかは明確になっていない。犯人として有罪判決を受けた7人の自警団員には、村費から弁護士費用が出されるなど、村全体でかばわれて後日村長になった者もいる。このように村全体に共同責任があると認識しているにもかかわらず、被害者に対して80年後の今日まで謝罪もなければ損害賠償もしていない。
2.事件の問題点
 この事件は、朝鮮人や中国人への民族差別と、行商人や飯場労働者に対する職業差別と、部落差別が複雑にからみあった複合差別事件である。
 関東大震災では、6400名の朝鮮人が福田村事件の被害者と同じように、とびくちで頭を割られ竹槍で突かれるなどむごたらしい殺され方をし、死がいも丁重に弔われることはなく、謝罪は勿論反省もないまま今日にいたっている。当時の日本人は朝鮮人に対して全く人間として見ていなかった。
 労働運動の活動家が殺された亀戸事件では、警察の取り調べをうけた社会主義者労働運動家たちが9月2日、3日のアリバイとして全員が自警団に参加していたことをあげている。革命をいう人が朝鮮人虐殺には何の疑問ももたずに参加していた。当時の労働組合が「亀戸事件労働者追悼宣言」を出しているが、その宣言の中でも、警察が労働者を虐殺したことは非難するが朝鮮人を殺したことは全然問題にしていない。
 警察は「不正行商人を見たら警察へ通報せよ」とポスターなどで呼びかけ、行商人を犯罪者と見ていた。行商人と土木飯場に働く人は当時あやしい人として地域で監視し排除する対象だった。
 香川県の部落産業は行商であった。1920年内務省調査では戸数で29%が行商に従事している。香川県は農地面積が狭い上部落の農地は立地条件が悪く行商に活路を見いだしていた。福田村事件で7人の犠牲者を出したK部落では1916年に相撲大会に飛び入りした青年が「汝等が出る幕にあらず」と袋だたきにされる事件が起きている。
 福田村事件では被害者が部落民だったということで明らかに不利益なとりあつかいをされている。この事件の数年後に福田村の5人の小学生が川で水死したが、その時には村中総出で川ざらえをして死体を捜し追悼碑を建て歌まで作って学校で歌わせている。
 裁判所も、生き残った6人に「証言の準備をしておけ」と命じておきながらその後一切裁判に呼ばなかった。
(第二報告)
 前回報告の内容から差別の本質を抽出して整理した。
1,「差別する側に責任があるのにされる側に責任があるとされてしまう。」
2,「差別は政治的に作られ集団を分裂対立させて真の敵を見失わせる」
 政府は食糧暴動をおそれた。不満を朝鮮人を虐殺することによって転嫁しようとした。
 虐殺をしくんでいって<2>の状況を作り出した。
3,「差別は自己防衛の為にエスカレートされる。」
 1918年の米騒動と、1919年の3・1独立運動(7500人が殺され3万人が投獄されている。)を想起し、民衆の決起を恐れた。
 ハーバード大学のオルポート教授が「偏見の実現」で模式化している、誹謗(非難中傷)→回避→差別(印をつけるなど)→身体的攻撃→絶滅へエスカレートしていく状況がよく現れている。
4,「差別は内集団を団結させ異集団排除を正当化する」
治安維持法へと、大正デモクラシーをご破算にして天皇ファシズムの方向へ。
5,「差別は効率と搾取のもうけ主義の資本の論理が貫かれている」
保護すると連行した朝鮮人を災害復興にただでこきつかった。
6,「差別は差別される者が差別する状況をつくりだす」
自警団には下層都市民衆が組織された。
7,「差別は同化・包摂と異化・排除を同時に存在させ、体制維持の機能を持っている」
朴烈事件。その同時存在さすものとして天皇制が存在している。
(文責・事務局)
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 特定非営利活動法人香川人権研究所
 福田村事件
 HOME > ちいさな人権博物館 >福田村事件
 福田村事件とは
 1923年(大正12年)9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川で薬売り行商人15名が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺されました。これが福田村事件です。被害者は全員、香川県被差別部落の人たちでした。
 9月1日に関東大震災が起こり、火災や混乱が東京や横浜を中心に広がり、人々はパニックに なりました。その時「朝鮮人が井戸に毒薬を投げた」「朝鮮人が武器を持って 襲ってくる」などのデマが広がりました。後にウソと分かりましたが、政府と軍部は翌2日に戒厳令を出し、関東各県に 命令して在郷軍人青年団消防団などによる自警団を結成しました。彼らは猟銃や日本刀・竹やり等で武装して 警戒に立ち、「怪しい朝鮮人」と疑問を抱く人を次々と尋問しました。興奮した自警団はあちこちで 朝鮮人に暴行を加え、6日頃までには横浜・東京・千葉・埼玉・群馬県などで虐殺事件がたくさん発生しました。 殺された朝鮮人の数は、6000人以上といわれています。 日本人と朝鮮人は一見して区別がつかず、200名をこえる中国人や数十名の日本人が朝鮮人と見られて殺されました。
 福田村事件では、福田村と隣の田中村(現在の柏市)の自警団員7名が有罪 判決を受けましたが、懲役刑となった者も結局は恩赦で釈放されます。彼らには村から見舞金が支払われましたが、 犠牲者には謝罪も賠償もありません。九人も殺害された悲惨な事件にもかかわらず、野田の地元は口を閉ざしたままです。
 2000年3月に香川で「千葉福田村事件真相調査会」が、7月に千葉で「福田村事件を心に刻む会」が結成されました。 そしてようやく2003年9月6日、事件現場に犠牲者追悼の慰霊碑が建立されました。事件から80年目のことです。
 事件にひそむ問題点
 なぜ一行は、香川の被差別部落から遠く離れた関東地方にまで 行ったのでしょうか。乳飲み子を連れ、家族挙げて行商に出かけた背景には、大正時代の厳しい部落差別が潜んでいます。 差別の中で自立をめざした部落の人の多くが行商に従事しました。行商は香川の部落産業でした。 二つ目は行商への偏見についてです。当時の防犯ポスターには、「あやしい行商人」をみたら警察へ連絡せよと書くなど、 行商を軽蔑する見方がありますが、果たしてそうでしょうか。売薬行商人は 医者や薬屋もない山深い寒村にまで薬を届け、へき地の人たちから喜ばれていました。 三つ目は朝鮮人差別の問題です。1910年の日韓併合で朝鮮が 日本の植民地になって以来、朝鮮人に対する民族差別は急速に強まりました。これがデマの背景です。このように、福田村 事件の背景には、今なお真剣に取り組まなければいけない人権問題が複雑にからみ合っています。
(イラスト 大橋佳子)
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 かくも完璧な世界 第4回 ただこの事実を直視しよう 森達也
 灼熱の一日が終わろうとしている。利根川の川面は西陽をぎらぎらと反射して、河原に作られたゴルフ場では帰り支度の男たちが、和やかに声をかけ合っている。しばらく川沿いを歩き回ったけど、渡し場の痕跡らしいものは見つからない。土手の草の上に僕は腰を下ろす。
 当然だけど惨劇の余韻などどこにもない。一陣の風が汗ばんだ頬を撫でる。たぶん78年前のその日も、きっと同じような風は吹いていたと思う。
 大正12年9月6日、関東大震災から6日過ぎたこの日、千葉県葛飾郡福田村(現野田市)で事件は起きた。大八車に日用品を積んだ15人の行商人の一行がこの地を通りかかった。福田村三ツ堀の利根川の渡し場に近い香取神社に彼らが着いたのは午前10時ごろ。
 この行商人の一行は五家族で構成されていた。一人が渡し場で渡し賃の交渉をする間、足の不自由な若い夫婦と1歳の乳児など6人は鳥居の脇で涼をとり、15メートルほど離れた雑貨屋の前で、二十歳台の夫婦二組と二歳から六歳までの子供が三人、二四歳と二八歳の青年が床机に腰を下ろしていた。交渉が始まってすぐに、渡し場が殺気だった。「言葉が変だ」と船頭が叫ぶ。突然半鐘が鳴らされ、駐在所の巡査を先頭に、竹やりや鳶口、日本刀や猟銃などを手にした数十人の村の自警団が、あっというまに現地に集まった。
 「日本人か?」
 「日本人じゃ」
 「言葉が変だ」
 「四国から来たんじゃ」
 そんな会話があったと生存者は証言している。命じられるままに君が代を唄わされたが、それでも殺気だった男たちは納得しない。巡査が本庁の指示を仰ぐために現場を離れた時、突然男たちは行商人の一行に襲いかかった。乳飲み子を抱いて命乞いをする母親は竹やりで全身を突かれ、男は鳶口で頭を割られ、泳いで逃げようとした者は小船で追われて日本刀で膾切りにされた。
 惨劇はしばらく続き、雑貨屋の前にいた9人は全員殺された。一人は妊婦だったという。鳥居の側で茫然と事態を見つめるしかなかった6人は、針金や縄で後手に縛られ、川べりに引き立てられた。乳児を抱いたまま縛られた母親を後ろから蹴り上げながら、一人の男が「早く投げ込んじまえ!」と叫ぶ。呼応した自警団の面々が縛りあげられたままの6人を川に投げ込もうとしたとき、馬で駆けつけた野田署の警官が事態を止めた。河原には女子供を含む9つの惨殺死体が転がり、厳しい残暑の日差しに照らされていた。(死体は既に川に投げ込まれていたという説もある)
 現場は福田村だったが、襲撃したのは同村と隣の田中村(現柏市)の自警団だった。数十人いたと見られる自警団のうち、8人だけが殺人罪で逮捕されるが、昭和天皇即位に伴う恩赦ですぐに全員釈放される。取調べの検事(弁護士じゃない)が、「加害者たちに悪意はない」と新聞に語り、弁護費用は村費で負担され家族には見舞金もあてがわれた。主犯格の一人は出所後村長になり、後に合併後は市議にも選ばれた。
 これだけの虐殺なのに事件そのものや刑罰の軽さを問題視する人もほとんどなく、マスコミもなぜか事件究明については及び腰だった。不思議なことに被害者の遺族からも抗議や不満はほとんどなく、現場には慰霊碑すら建立されず、こうして福田村事件はいつしか歴史の闇に葬られ、思いだす人すらいない時代が何十年も続いてきた。
 蛇足とは思うが背景を説明する。震災勃発後、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだというデマが関東地域では飛び交い、戒厳令が布告され、6000人を超える朝鮮人が惨殺された。福田村で襲撃された行商の一行は日本人だった。全員が香川県三豊郡内の被差別部落の出身者だ。仕事を制限される彼らにとって、行商は大事な生業だった。事件が加害者側である野田市はもちろん、被害者の地元の香川でも、なかったことのように扱われた背景には、おそらくこの事情がある。
 最後に残った生存者の証言をきっかけに、昨年「福田村事件を心に刻む会」が設立された。しかし未だにメディアの対応は鈍い。昨年「刻む会」設立にあたり、事務局は地元のマスコミに案内を出したが、当日取材に訪れた社は一つもなかったという。
 およそ2ヶ月前、読売新聞千葉県版の小さな囲み記事で事件の概要を知った僕は、幾つか取材を重ねて企画書にまとめ、民放各局のニュース番組の特集企画担当プロデューサーを訪ね歩いた。しかしやはり反応は鈍い。事件そのものについては皆率直にこんなことがあったのかと驚嘆するが、番組として放送するかどうかについては一様に逡巡した。
 「ニュースバリューはありますよ。でも、とにかく非常にナイーブな事件ですね」
 「ナイーブ?」
 「つまり、どこに番組としての視点を置くかなんです。日本人が朝鮮人と勘違いされて惨殺された悲劇としてしまったら、朝鮮人虐殺を肯定しかねないし、部落民だから殺されたわけではないのに、殊更部落を強調することは、いってみれば差別の再生産に繋がるわけで……メッセージの伝え方が非常に難しい話なんですよ」
 理屈としては分かる。だけど絶対に承服できない。ややこしいとか古過ぎるとか具体的な映像がないとか時間が足りないとか、そんな理由でこの事実を封印することは絶対にできない。9人の命が闇に屠られた。そしてこの時期、日本中で6000人が惨殺された。この事実を直視するだけでよい。知るだけでよい。福田村事件は決して過去形ではない。今の日本という国のありようを考える上で、これほどにシンボリックで寓意に満ちた事件は他にないと僕は確信しているからだ。
 昨年秋、ドキュメンタリー映画『A2』撮影のため、僕は毎週のように群馬県藤岡市に通っていた。信者数100人を超える「オウムの最大拠点」と呼称された施設がこの地にあったからだ。親しくなった信者の一人と施設の周囲を散策していた時、道路の脇に苔むした慰霊碑を見つけた。
 「それね、虐殺された朝鮮人たちの慰霊碑なんです」
 「朝鮮人?」
 「関東大震災朝鮮人たちが虐殺されたでしょう?この地域がいちばん激しかったらしいんです。私たちも最近までそのことを知らなくて、この慰霊碑を見つけたときはちょっとぞっとしました」
 施設の周囲は群馬県警が24時間警備している。更にその周囲を当時は地元住民の監視団がぐるりと包囲して、信者たちの出入りに厳しい目を向けていた。警察がいなかったら何をされていたかわかりませんねと信者は微笑む。現実に何人かは警察が目を離した隙に、住民に囲まれて危害を加えられたケースもあったらしい。
 虐殺の加害者たちは皆、普通の村民たちだった。家族を愛し隣近所の付き合いを大事にし時には義憤に燃え時には涙を流す、そんな市井の心優しい人たちが何十人もの集団となって、乳飲み子を抱いて命乞いをする母親を竹やりで息絶えるまで突き、逃げる子供に猟銃の照準を向け、呆然と立ち尽くす若者の脳天に背後から鳶口を突きたてたのだ。78年前、この光景は関東中で繰り広げられ、6000人余りの命が犠牲となったのだ。
 救いなどない。学ぶこともない。ただこの事実を直視するだけでいい。小賢しいメッセージなど不要だ。
 彼らは僕らの祖父であり父であり、そして僕ら自身でもある。
 自分自身が帰属する「市民社会」という主体に、この劣悪な思考停止と凶暴な衝動がひっそりと息を潜めていることを、とにかく骨の隋まで自覚することだ。別にオウムだけに擬える気はない。今の日本に蔓延するあらゆる事象や事件に、福田村事件は内在している。そしてここ数年、急速に露出しつつある。
 しつこさは承知でもう一度だけ言う。お願いだ。直視しよう。
 森達也(もりたつや)
 1956年広島県生まれ。立教大学卒。ディレクターとして、テレビ・ドキュメンタリー作品を数多く制作。97年オウム真理教荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画『A』を公開、海外でも高い評価を受ける。著書に、『「A」撮影日記』、99年放送のテレビ・ドキュメンタリー「放送禁止歌」をベースに書き下ろした『放送禁止歌』、超能力者を題材にした『スプーン』がある。
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 日本人は差別主義者で、弱い者いじめを嫌い、弱い者を助ける心優しい人であるはウソで、血に飢えた獣で、いつ何時豹変するか分からない悪人である。
 親鸞聖人が看破したとうり、日本人は賢くもなけれは秀でてもいないし優れてもいない、世界の最果て、辺境の地に生きる単なる愚かな凡人(日本土人)で、悪行悪果を積み重ねて生きてきた日本人は絶望するしかない。
 日本には、奇蹟など存在しない。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 人間とは、怖ろしい生き物である。
 世界で、諸外国では、大災害や戦争が起きると自国民同士で暴動や強奪、殺人や強姦、内戦や反乱そして敵味方に関係なく外国人虐殺が頻繁に起き、被災した在住外国人は命の危険から難民として国外へ逃亡していた。
 それは、地獄のような惨状であった。
 それを救ったのが、奇蹟と恩寵と許しそして愛と助け合いを説いたキリスト教などの宗教であって、非人間的な人民革命を目指したマルクス主義などのイデオロギーではなかった。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 2022年9月7日 朝日新聞デジタル「「福田村事件」から99年 人権侵害・差別「問題は解決していない」
 藤谷和広 斎藤茂洋
 慰霊碑の前で手を合わせる参加者=2022年9月6日午前10時36分、千葉県野田市三ツ堀、 斎藤茂洋撮影
 写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
 関東大震災直後、千葉県福田村(現野田市)で、香川県から来た薬売りの行商の9人が地元の自警団によって虐殺された福田村事件から99年となる6日、野田市で墓参会が営まれた。事件の背景には根強い差別意識があるとみられ、参加者は負の歴史と向き合うことの重要性を訴えた。
 この日、福田村事件追悼慰霊碑保存会のメンバーや市民ら約20人が参列し、慰霊碑に手を合わせた。同会代表の市川正廣さん(78)は、近年のヘイトスピーチヘイトクライムに言及し、「人権侵害、差別の問題は99年たっても解決していない」と指摘。負の歴史を直視し、「二度とこういうことが起きないようにしていきたい」と述べた。
 震災後、「朝鮮人が略奪や放火をした」などのデマが広がった。事件では、聞き慣れない方言を話す一行が朝鮮人と決めつけられたとみられ、自警団に猟銃や日本刀などで襲われた。行商団15人のうち、妊婦や幼児をふくむ9人が殺害された。
 事件は半世紀以上、歴史の闇に埋もれていた。市川さんは、行商団が被差別部落出身で、声を上げられなかったとみている。1980年代に調査が始まると、目の前で家族が殺された生存者の証言も得られた。2000年には千葉県内に真相解明と慰霊碑の建立をめざす市民グループが発足し、当時野田市の職員だった市川さんが事務局長に就いた。慰霊碑は事件から80年後の03年に建立され、遺族らとともに、加害側の地元住民も参列。碑にはおなかにいた胎児を含めた10人の戒名が刻まれた。
 事件については、映画監督の森達也さんが劇映画の制作を進めており、震災から100年となる来年の公開をめざしている。墓参会に参列したプロデューサーの小林三四郎さんは、「日常に潜んでいる差別意識が、非常時にぬっと顔を出すことがある。私たちは歴史から学んでいるのか、問いかけたい」と語った。
     ◇
 県内では、「福田村事件」以外にも、震災後の流言飛語が原因で命を奪われる人がいた。震災から4日後には、検見川町(現千葉市花見川区)で、秋田、三重、沖縄の各県民3人が自警団によって虐殺される事件が起きた。
 沖縄出身の島袋和幸さん(74)は、この事件の調査を長年続けてきた。20代で本土に渡った島袋さん。沖縄への差別は根強かった。震災後の朝鮮人虐殺について調べている中で、沖縄人も犠牲になっていたことを知り、大きなショックを受けた。「実際にあったことは曲げられない。(犠牲になった)あなたたちを忘れないという思いで活動してきた」と話す。
 島袋さんは沖縄に対する差別の構造化が、今の米軍基地の負担集中にもつながっていると考える。「差別は人を殺してしまう。内地の人が沖縄に寄り添うといっても、ひとごとに聞こえる。もっと当事者意識をもってほしい」と話す。(藤谷和広、斎藤茂洋)
     ◇
 〈福田村事件〉 1923年9月6日、福田村(現野田市)の利根川河畔で、香川県から来た薬売りの行商の9人(妊婦のおなかにいた胎児を含めると10人)が、福田村と隣の田中村(現柏市)の自警団に虐殺された事件。自警団の8人が有罪となったが、恩赦で釈放された。86年に香川の元高校教諭らが生存者の証言を記録、2000年から両県の人権団体なども調査に取り組んだ。調査では、朝鮮人差別や行商への偏見、よそ者への排他意識などに群集心理も重なり、事件が起きたと分析されている。
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 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
   ・   ・   ・   
 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、旧石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
   ・   ・   ・   
 日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
 日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりの事であり、日本の個人主義とは自分の仕事に誇りを持つ事である。
 つまり、日本民族日本人とは集団主義者であると同時に個人主義者でもあった。
   ・   ・   ・   
 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
   ・   ・   ・   
 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
   ・   ・   ・   
 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
   ・   ・   ・   
 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
   ・   ・   ・   
 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
 何もしない勇気
 最適化された世界の窮屈さ
 ……
 太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
 ……
 『浅はかな干渉』が生み出す害
 ……
 『注意の搾取』が奪い去ったもの
 私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
 だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
 ……
 物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の旧石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。

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 日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
 それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
 日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
 それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
 それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
 谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)

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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。

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 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
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 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」

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 日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
 それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
 日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
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 日本の宗教とは、虚空・虚無という理想の境地に入る為に自己や自我など自分の存在を肯定も否定もせず、ただただ「はかなく無にして消し去る=漠として死を見詰める」事である。
 それ故に、日本文化や日本の宗教は男が独占していた。
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 日本民族の伝統的精神文化は宮仕えする男性の悲哀として、行基西行、一休、鴨長明兼好法師芭蕉葛飾北斎など世捨て人・遁走者、隠者・隠遁者・遁世者、隠居、孤独人・孤立人・無縁人への、求道者として一人になりたい、極める為に一人で生きたいという憧れである。
 如何なる時も、オンリーワンとしてナンバーワンとして我一人である。
 そして日本で女人禁制や女性立ち入り禁止が多いのは、宗教的社会的人類的民族的な理由によるジェンダー差別・女性差別・性差別ではなく、精神力が弱い日本人男性による煩わしい女性の拘束・束縛からの逃避願望である。
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 女性は、子供を産み、子供を育て、末代まで子孫を増やしていく、つまり「命を喜びを持って育み、有を生みだす」存在である。
 日本における女性差別は、「死を見詰めて無を求める男」と「命を生み有りに生き甲斐を感じる女」、ここから生まれた。
 つまり、男尊女卑と一口で言っても現代と昔とは全然違う。
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 日本民族心神話において、最高神天皇の祖先神である女性神天照大神で、主要な神の多くも女子神である。
 日本民族は、あまた多くの女性神に抱かれながら日本列島で生きてきた。

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