☱21〕─3・H─関東大震災での「朝鮮人虐殺」の責任者は誰なのか。~No.48 

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 大正12(1923)年9月1日 関東大震災
 関東大震災での「朝鮮人虐殺」の原因は、大正8(1919)年に朝鮮半島で起きた3・1独立暴動(万歳事件)であった。
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 2023年9月4日7:24 YAHOO!JAPANニュース ハンギョレ新聞「関東大震災での「朝鮮人虐殺」の責任者は誰なのか
 水野錬太郎内相、赤池濃警視総監 3・1独立運動朝鮮人の闘争を体験した人物らが「悪性デマ」を流布
 2022年9月1日、日本の市民団体などで構成された「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会」が東京墨田区横網町公園で99年追悼式を行っている=東京/キム・ソヨン特派員
 1923年9月の関東大震災直後に朝鮮人に対する広範囲な虐殺が発生した理由は何か。これまで、韓国と日本の歴史学者は大きく分けて2通りの説明を試みてきた。
 一つ目は、大震災という非常事態の状況のもとで、普段から朝鮮人に偏見と差別意識を持っていた日本人が、虐殺のような極端な対応に出たという説明だ。朝鮮が1910年に日本に強制併合された後、多くの朝鮮人がましな賃金と生活条件を求めて日本に渡っていった。そうしてやってきた賃金の安い朝鮮人の労働力は、日本人の下層労働者にとって大きな脅威にならざるをえなかった。日本は、朝鮮での3・1独立運動後、朝鮮人の日本渡航を抑制したが、第一次世界大戦後の好況が始まると、1922年12月に制限を撤廃する。1922年、日本居住の朝鮮人は5万9865人だったが、翌年の1923年には8万617人と1年間で2万人も増えた。
 大震災当時、東京近郊に住んでいた朝鮮人は、一部の留学生を除き、ほとんどが土木現場で働いていた低賃金労働者だった。こうした人たちは、日本在住期間が短く、ほとんどが日本語を話せなかった。これらの人たちと日本人の下層労働者の間で大小の対立が生じたであろうし、これが日本人の朝鮮人に対する差別と偏見を強化する方向に作用した可能性が高い。この説明に沿うならば、虐殺は「自然発生」したことになる。
 二つ目は、「朝鮮人を日本の敵」とみなした日本の指導部が、日本に大震災という深刻な治安上の危機が発生すると、明確な意図を持って虐殺を「誘導」したという説明だ。
 関東大震災直後、日本政府の治安部門を担当していた人物は、3・1運動とその後に満州で行われた朝鮮人武装闘争を直接経験した人たちだった。朝鮮人の騒動を名目に「戒厳令」を発動した水野錬太郎内相(1868~1949)は、3・1運動直後の頃、朝鮮総督府のナンバーツーである政務総監に、そして警察トップである警視総監の赤池濃(1879~1945)は、その下の警務局長として在職した。特に水野は、第3代朝鮮総督斎藤実とともに赴任するため、1919年9月2日に南大門(ナムデムン)駅に到着した直後、姜宇奎(カン・ウギュ)烈士(1855~1920)が投げた爆弾によって負傷した。震災当時、日本陸軍第1師団長だった石光真臣は、3・1運動を現場で体験した朝鮮総督府憲兵司令官であり、戒厳司令部参謀長だった阿部信行(後の最後の朝鮮総督)は、シベリア出兵軍の参謀長だった。
 水野内相は震災翌日の1923年9月2日、戒厳令を宣言する談話文で「人心恟々(きょうきょう)たる裡に、どこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎまで起こった。大木鉄相の如きも、朝鮮人攻め来るの報を盛んに多摩川辺で噂して騒いでいるという報告をもたらした」として、戒厳令を宣言する理由に「朝鮮人の乱動」を挙げた。関東大震災研究の第一人者だった在日朝鮮人で歴史家の姜徳相(カン・ドクサン)氏(1931~2021)は、「このような経歴の持ち主が『敵は朝鮮人』と考えて戒厳令を発動したので、何も知らない朝鮮人は座して死を待つしかなかった」と述べた。
 関東大震災時に虐殺された朝鮮人は6000人あまりということが定説だが、2万人を超えるという主張もある。虐殺直後、東京の朝鮮キリスト教青年会の幹事として罹災朝鮮同胞慰問班で被害調査に参加した崔承萬(チェ・スンマン)氏は、1985年に出版された回顧録で「1923年末、東京と横浜近辺には朝鮮人が3万人程度おり、虐殺後、関東地方の各地域で受け入れられていた人員は7580人だった」として、「(3万人から7580人を引いた)2万2420人が虐殺されたとみても過言ではないだろう」という結論を出す。どの数値を選ぼうが、恐ろしい大量虐殺があったことは厳然たる事実だ。
 キル・ユンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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 日本の歴史は連続していて、原因は過去に存在する。
 日本人にとって朝鮮人は、仮想敵国人であって、友・友人、親友ではなかったしましてや戦友でもなかった。
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 日本人被災民が朝鮮人・中国人・日本人を惨殺したのは、他人に対する偏見ではなく「殺しに来るかもしれない」という「恐怖」であり、10万人以上が目の前で死亡した大災害を生き抜いてしまったという「罪悪感」を他人に敵意・憎悪として転換して平常心を取り戻そうとしたからである。
 つまり、精神的に脆弱なひ弱な「日本人の弱さ」が原因であった。
 関東大震災での「朝鮮人虐殺」とは、日本人が中国人や朝鮮人と比べて弱者・貧者である証明である。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や嫌悪や差別はここから始まったが、その原因は「神を怖れず、神を殺すという恐怖」であった。
 神話物語を信条として生きてきた日本民族は、忠誠を誓う帰化人を味方とし、忠誠を拒否する渡来人を敵とした。
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2018-09-18
☱11〕─1─3・1独立暴動(万歳事件)。上海のフランス租界で大韓民国臨時政府樹立。斉藤実総督暗殺テロ未遂事件。大正8年。~No.20No.21 @ 
2018-09-25
☱21〕─4─虎ノ門事件。摂政宮裕仁皇太子暗殺謀議事件。二重橋爆弾事件。テロリスト集団=韓人愛国団・義烈団。大正12月9月25日~大正14年~No.49No.50No.51・ @ ⑧ 
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリストと同様に昭和天皇と皇族を惨殺するために付け狙っていた。
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 歴史的事実として、日本人は被害者であって加害者ではなかった。
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 ウィキペディア
 三・一運動(サミルうんどう、朝: 삼일운동)は、1919年(大正8年)3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動
 独立万歳運動や万歳事件、日本では、朝鮮騒擾事件、三・一事件(サミルじけん)、三・一独立運動(さん・いちどくりつうんどう、サミルどくりつうんどう)とも呼ばれる。現在の韓国側では肯定的に評価されているが、北朝鮮側では否定的に評価されているなど、今なお敵国同士である南北での認識に差がある。
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 第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I、略称:WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で戦われた世界規模の戦争である。
 7000万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万)が動員され、史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。
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 9月4日17:35 YAHOO!JAPANニュース 朝鮮日報日本語版「関東大震災100年:「善良な日本人、集団に埋没して暴走…それが虐殺であり戦争」
 (写真:朝鮮日報日本語版) ▲日本映画『福田村事件』は、1923年の関東大震災当時、日本人9人が朝鮮人と誤認されて同じ日本人らによって殺害された事件を題材にしている。関東大震災100年に当たる今年9月1日の映画封切りを控えた森達也監督(67)。/写真=成好哲・東京支局長
 「関東大震災が起きた5日後、千葉県の福田という小さな村に日本人の行商人15人がやって来ました。村の人々は、一行を朝鮮人だと勘違いし、幼児や妊婦を含め9人を殺害しました。殺害現場には数百人の村人が集まったといいます。個人では善良な日本人たちが、集団ではどれほど残酷であったかを伝えたいと思いました」
 8月30日、東京都内のオフィスで、実話をベースにした映画『福田村事件』を製作した森達也監督と会った。同作は1923年、関東大震災当時の狂気が作り出したゆがんだ日本史を取り上げた。大震災直後、「朝鮮人が暴動を起こした」という流言飛語で数多くの朝鮮人が虐殺される中、一部には日本人被害者もいたのだ。『福田村事件』は、関東大震災100年となる今年9月1日、日本国内の映画館およそ100カ所で公開が始まった。10月に開かれる釜山国際映画祭にも招待された。
 森監督は、事件について「集団殺人にもかかわらず、裁判で8人が宣告されたのは数年から10年程度の刑で、それすら3年後には全員釈放された」とし「福田村の住民らは金を出し合って殺害犯の裁判の弁護士費用を賄い、その後も支援を行った」「殺害犯らを『村を守った英雄』と見る村人もいたようだ」「結局のところ、現場にいた数百人の住民は全て共犯であり加害者だった」と語った。
 -当時、(朝鮮人は正確に発音するのが難しかった)「じゅうごえん(十五円)」の発音をきちんとできないと虐殺されたというが。
 「遠い四国の香川県から来た行商人のうち、9人が自警団によって殺害された事件だ。千葉県の小さな村落である福田の人々は普段、朝鮮人と会うことはなかっただろう。四国の方言を聞いて、朝鮮人と勘違いしたのだ。行商人らは、自分たちは日本人だから助けてくれと言い、君が代を歌った。村の自警団は、うそだと言って殺害した」
 -この事件は、明白に裁判記録がある事実だ。
 「8人が殺人罪で起訴された。千葉県の現地紙も記事を書いた。当時、朝鮮人を殺害した事件の裁判も何件かあったが、全て執行猶予だった。しかし福田村の加害者らは全員、実刑の言い渡しを受けた。彼らは3年後に全員釈放された。村の人々は金を出し合い、弁護士費用を賄った。それとなく、自分自身も共犯だと認識していたのだ」
 -村の人々はなぜ『朝鮮人は殺してもいい』と信じたのだろうか。
 「当時、日本は植民地として併合した朝鮮人から土地を奪って支配し、2等・3等国民扱いをしながら、一方では後ろめたかったのだろう。当時、日本の警察権力の上層部は、直前に朝鮮総督府で勤務していた人々で、三・一運動を経験した。朝鮮人が暴動を起こすのではと、心の中では恐れていた。安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を暗殺したことも、当時の日本の支配勢力にとっては衝撃だっただろう。朝鮮人を見下しつつも恐れていたのだ。関東大震災が起きて内閣が朝鮮人暴動説を波及させ、混乱と恐怖の中、日本人の間で一気に火が付いた」
 -日本人の集団についての事件を映画にする理由は。
 「以前、オウム真理教の殺人事件を取り上げたドキュメンタリー映画を作った。取材していて、オウム真理教の信者らが温和で善良だと分かり、衝撃を受けた。邪悪で凶暴な信者たちではなかった。障害者施設でボランティアをしていたある信者は『真に障害者の魂を救いたい』と悩んだ果てに『世界を救う』という教理を信じてオウム真理教に入った。福田村事件も同様だ。平凡な人が残酷なことをするとき、『集団』が一つのキーワードだ。集団に埋没するとき、暴走する。それが虐殺であり戦争だと思う」
 -日本の観客が嫌がりそうなテーマだが、製作費はどうやって工面したのか。
 「合わせて1億円ほどかかった。クラウドファンディングを通して2400人から寄付を受けた。配給会社など7社が一部を負担し、芸術文化振興基金から1000万円の助成を受けた。全ての日本人が見てくれればうれしい。このごろ『朝鮮人虐殺はなかった』と本気で信じる日本人が増えている。果ては『当時、朝鮮人が本当に井戸に毒を入れた』と信じる日本人もいる。それこそ、小池百合子都知事朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文を送らなかった。安倍晋三政権時代から、日本にとって良くない話は『自虐史観』だとしてなかったことにしようという雰囲気が湧き起こった。南京大虐殺も、従軍慰安婦もなかったと。その理由は、善良な日本人がそういうことをするはずがない、というようなものだ」
 -韓国ではいつ公開されるのか。
 「韓国の幾つかの配給会社と接触しているが、公開が決まったところはまだない。昨年、釜山国際映画祭でプレゼンテーションをしたが、韓国人は誰も関心を示さなかった。みんな、関東大震災での朝鮮人虐殺をよく知らず、話をしても無関心だった。知人から『韓国人の間には、どうせ当時虐殺された朝鮮人は『パンチョッパリ(半分日本人という意味の蔑称)』だ、という認識がなくもない」という話を聞いた。衝撃だった。数千人に上る朝鮮人虐殺の被害者が、日本でも、韓国でも忘れられている」
 成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長
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