☱21〕─3・J─日本人自警団の自然災害時における危うい「正義」の行使。~No.48 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  

 2023年11月1日 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「危うさを含んだ「正義」の行使...「自警団系ユーチューバー」を自警団成立の歴史から考える
 <「世直し系」「私人逮捕系」と呼ばれるユーチューバーの行動が話題となっているが、民間人の行使する「正義」にはときに危うさが含まれてきた。国内外の自警団成立の歴史を紐解くことで、この問題について考える>
「よくぞ」なのか、「やり過ぎ」なのか?(写真はイメージです) Michal Ludwiczak-YouTube
 インターネット上には、さまざまな動画が流れている。中には、他人の行為を犯罪と決めつけ、取り押さえたり、謝罪させたりする様子を撮影した動画もある。こうした動画を流す人たちは、自警団系ユーチューバーとか、世直し系ユーチューバーなどと呼ばれている。【小宮信夫立正大学教授[犯罪学]/社会学博士)】
 【動画】190人の男性を襲った金持ち留学生の驚くべき二重生活
 この種の配信に対しては、「よくやった」と支持する人がいる一方、「やり過ぎ」と批判する人もいる。法的にも、刑事訴訟法が現行犯を民間人でも逮捕できるとして合法と見る人がいる一方、肖像権の侵害や暴行罪になる可能性が高いと言う人もいる。
 危うさを含んだ正義の行使をめぐっては昔から賛否両論があり、市民活動やボランティア活動として行えるのかが議論されてきた。以下では、その歴史を紐解き、自警団系ユーチューバーの問題を考える素材を提供したい。なお、自警団系ユーチューバーは正義の名目で金儲けをしているにすぎないという批判もあるが、ここではその議論はしない。無償の自警団系ユーチューバーも想定できるので、論点がずれるからだ。
 <日本警察の性格と自警団の歴史>
 言うまでもなく、犯罪を取り締まるのは警察である。かつて日本がそのモデルとしたのは、イギリスの「市民の警察」ではなく、フランスの「政府の警察」だった。そのため、一般大衆を監視し、その意識を国家秩序へ再編成するのが警察の目的だった。日本警察の生みの親である川路利良も、日本の一般大衆は開化されていない子どもだから、警察が育ててやらなければならないと考えていたという。
 このように、日本の警察は、高圧的な性格を帯びて出発した。しかし、東京市の交番の8割が襲撃された日比谷焼打事件など、一般大衆の反警察感情が露出し、警察はそれまでの高圧的態度の修正を余儀なくされる。そのため警察は、一般大衆と警察の距離を縮めようと、市民による自衛組織の結成を推進した。その結果、全国各地で青年団在郷軍人会、消防組を核とする自警団が誕生する。
 ところが、自警団は、1923年の関東大震災の際、歪んだ形で注目される。震災による混乱と不安の影響で、自警団の数は東京府だけでも1,593に上った。自警団に参加した人たちは、刀、竹槍、銃、鍬などで武装し、通行人の検問などを行った。自警団の中には、朝鮮人来襲の流言によって暴走し、朝鮮人を虐殺する蛮行に及んだものもあった。そのため、警察は自警団に武装解除を命じ、殺人容疑などの理由で自警団員を検挙した。
英米と異なる成立過程>
 もっとも、警察は自警団を高く評価し、それを活用しようとしていたため、裁判では被告人のほとんどが無罪あるいは執行猶予になった。このように、日本の自警団の成立には、震災によるパニックという自然発生的な要素が影響したものの、それ以前に全国各地で進められていた自衛組織づくりという国の政策が大きな役割を演じた。この点が、英米の自警団の成立過程と異なるところだ。
 震災時に一部の自警団に見られた逸脱について、警察は統制が弱かったために生じたと考えた。そのため、自警団に対する監督が強化され、自警団は警察の下部組織としての性格を強めていった。1940年には、全国的に町内会の整備が図られ、町内会も市町村行政の下部機構と化した。こうして、一般大衆は権力構造の末端に編成され、市民の警察化が戦時体制の深化とともに完成していく。しかしそれも、敗戦後、GHQ連合軍総司令部)によって否定されることになる。
 このように、かつて日本では、自警団系ボランティアの暴走があった。もっとも、その程度がより著しいのは、国家としては後発のアメリカだ。
 <処罰が徐々にエスカレート>
 そもそも、自警団員(vigilante)という単語は、寝ずの番(vigil)、用心深い(vigilant)、警戒(vigilance)と同じ語源のラテン語から派生した語だ。したがって、自警団員による活動は非合法的・超法規的であるとか、自警団員による活動に処罰が含まれると考える必然性はない。しかし実際には、自警団の歴史は手に負えない運動の事例に満ちている。
 特に、刑事司法制度の整備が辺境で遅れた18~19世紀には、法を擁護するため法を犯すことは必要だとして、超法規的な活動が自警の主流になった。実業家、知的職業人、富裕農場経営者から選ばれたリーダーの下、自警団は、疎外された人々によって開拓地が乗っ取られることを恐れて、馬どろぼう、強盗、偽金造り、放火魔、殺人者、奴隷、土地略奪者などと戦った。
 自警団による処罰についても、当初は、むち打ちと追放が一般的だったが、やがて絞首刑が通例になっていった。そのため、リンチの意味も、1850年代に、むち打ちから殺害へと変わった。1767年から1910年の間に、700人以上が自警団によって処刑されたという。
 20世紀になると、カトリック教徒、ユダヤ人、黒人、急進論者、あるいは労働運動のリーダーを標的とする自警団が勢力を伸ばした。さらに、1960年代になると、「ブラック・パンサー」と名乗る黒人の武装自警団が注目されるなど、自警団の数も急増した。
 <英自警団が警察と協調的な理由>
 ガーディアン・エンジェルス創設者のカーティス・スリワ(右)とニューヨーク市長のルドルフ・ジュリアーニ 筆者撮影(1998年)
 アメリカとイギリスの自警団に共通するのは、地域の名士が安価で迅速な安全確保のメカニズムを創出するため設立した点と、社会変動期に出現した点である。ただし、社会変動が空間的形態を取ったアメリカでは、辺境の開発による刑事司法の機能不全が背景にあったが、社会変動が構造的形態を取ったイギリスでは、産業化と都市化による刑事司法の機能低下が背景にあった。
 さらに、アメリカの自警団が、しばしば法が許す範囲から逸脱したのに対し、イギリスの自警団は、法に対する執着を保持し続けた。もちろん、イギリスでも、自警団の暴走がなかったわけではないが、アメリカに比べれば、低いレベルだった。イギリスの自警団が警察と協調的なのは、イギリスが近代警察発祥の地であるという歴史が影響している。
 < アメリカもイギリスを追随>
 そもそも、安全確保活動(policing)という単語は、政治形態(polity)、政治学(politics)、政策(policy)と同じ語源、すなわち、ギリシャ語の市民政体(polis)から派生した語である。したがって、安全確保活動は、国家の法的機能というよりも、むしろ市民社会の政治的機能に関連するものだ。
 そのため、安全確保活動を国家機関が独占的に演じる役割と考える必然性はない。実際、警察(police)という単語も、18世紀になって、秩序維持という特定の機能を指すものとして使用され始め、まもなく特定の職員を明示するものとして限定的に用いられるようになった。したがって、それ以前、つまり、警察という語が現在のように用いられる前には、民営の安全確保活動が重要な役割を演じていたわけだ。
 それはともかく、アメリカも国家として成熟するとともに、イギリスのように、自警団が警察と協働するようになった。というのは、地域社会は、自警団より警察力の増強を望んでいたからだ。地域にとって自警団は、法が許す範囲から逸脱したり、不適格な者の参加を認めたりする組織に映っていたのである。
 協調的な自警団として代表的な組織は、1979年にニューヨークで創設された「ガーディアン・エンジェルス」だ。日本でも、1996年に日本ガーディアン・エンジェルスが設立されている。
 前述したように、日本の自警団は、町内会といった伝統的な住民組織を基盤にし、特定の地域社会において活動している。対照的に、ガーディアン・エンジェルスは、近代的な市民活動団体として、特定の地域社会を越えて活動している。
 <秩序が正義か、正義が秩序か>
 ガーディアン・エンジェルスの活動は、国連平和維持活動(PKO)に似ている。というのは、伝統的なPKOは、受入国の同意の下に、武力行使ではなく、国連のプレゼンス(存在)の展開によって平和を維持するが、ガーディアン・エンジェルスも、受入地域の同意の下に、武力行使ではなく、団体のプレゼンスの展開によって犯罪を防止するからだ。
 そのため、ガーディアン・エンジェルスのメンバーは、高圧的な態度を取らない。トラブルになりそうな行為を見つけても、「どうしました?」という援助のスタンスで近づく。プレゼンスを示すことで、トラブルへのエスカレーションを防ぐやり方だ。
 以上、自警団の歴史を見てきた。そこから分かることは、自警団の組織が成熟している、あるいは自警団への統制がしっかりしている場合には、過激主義や暴力主義といった問題が発生しにくいということだ。これは、防犯協会のような地縁型住民組織でも、ガーディアン・エンジェルスのような志縁型市民組織でも、どちらにも当てはまる。
 しかし、自警団系ユーチューバーは、基本的に組織には所属していない。したがって、組織が正義を決めるのではなく、個人が正義を決めている。その結果、正義は多様な形を取ることになる。しかし、正義の多様化は秩序にとってマイナスだ。もっとも、秩序が正義なのか、それとも正義が秩序に優先するかは、議論が分かれるところである。自警団系ユーチューバーをめぐる議論は、私たちに究極の選択を突き付けているのかもしれない。
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 YAHOO!JAPAN ニュースハンギョレ新聞社「関東大震災での「朝鮮人虐殺」の責任者は誰なのか
 登録:2023-09-04 06:16 修正:2023-09-04 08:39
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 水野錬太郎内相、赤池濃警視総監 
 3・1独立運動朝鮮人の闘争を体験した人物らが「悪性デマ」を流布
 2022年9月1日、日本の市民団体などで構成された「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会」が東京墨田区横網町公園で99年追悼式を行っている=東京/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社
 1923年9月の関東大震災直後に朝鮮人に対する広範囲な虐殺が発生した理由は何か。これまで、韓国と日本の歴史学者は大きく分けて2通りの説明を試みてきた。
 一つ目は、大震災という非常事態の状況のもとで、普段から朝鮮人に偏見と差別意識を持っていた日本人が、虐殺のような極端な対応に出たという説明だ。朝鮮が1910年に日本に強制併合された後、多くの朝鮮人がましな賃金と生活条件を求めて日本に渡っていった。そうしてやってきた賃金の安い朝鮮人の労働力は、日本人の下層労働者にとって大きな脅威にならざるをえなかった。日本は、朝鮮での3・1独立運動後、朝鮮人の日本渡航を抑制したが、第一次世界大戦後の好況が始まると、1922年12月に制限を撤廃する。1922年、日本居住の朝鮮人は5万9865人だったが、翌年の1923年には8万617人と1年間で2万人も増えた。
 大震災当時、東京近郊に住んでいた朝鮮人は、一部の留学生を除き、ほとんどが土木現場で働いていた低賃金労働者だった。こうした人たちは、日本在住期間が短く、ほとんどが日本語を話せなかった。これらの人たちと日本人の下層労働者の間で大小の対立が生じたであろうし、これが日本人の朝鮮人に対する差別と偏見を強化する方向に作用した可能性が高い。この説明に沿うならば、虐殺は「自然発生」したことになる。
 水野錬太郎//ハンギョレ新聞社
 二つ目は、「朝鮮人を日本の敵」とみなした日本の指導部が、日本に大震災という深刻な治安上の危機が発生すると、明確な意図を持って虐殺を「誘導」したという説明だ。
 関東大震災直後、日本政府の治安部門を担当していた人物は、3・1運動とその後に満州で行われた朝鮮人武装闘争を直接経験した人たちだった。朝鮮人の騒動を名目に「戒厳令」を発動した水野錬太郎内相(1868~1949)は、3・1運動直後の頃、朝鮮総督府のナンバーツーである政務総監に、そして警察トップである警視総監の赤池濃(1879~1945)は、その下の警務局長として在職した。特に水野は、第3代朝鮮総督斎藤実とともに赴任するため、1919年9月2日に南大門(ナムデムン)駅に到着した直後、姜宇奎(カン・ウギュ)烈士(1855~1920)が投げた爆弾によって負傷した。震災当時、日本陸軍第1師団長だった石光真臣は、3・1運動を現場で体験した朝鮮総督府憲兵司令官であり、戒厳司令部参謀長だった阿部信行(後の最後の朝鮮総督)は、シベリア出兵軍の参謀長だった。
 赤池濃//ハンギョレ新聞社
 水野内相は震災翌日の1923年9月2日、戒厳令を宣言する談話文で「人心恟々(きょうきょう)たる裡に、どこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎまで起こった。大木鉄相の如きも、朝鮮人攻め来るの報を盛んに多摩川辺で噂して騒いでいるという報告をもたらした」として、戒厳令を宣言する理由に「朝鮮人の乱動」を挙げた。関東大震災研究の第一人者だった在日朝鮮人で歴史家の姜徳相(カン・ドクサン)氏(1931~2021)は、「このような経歴の持ち主が『敵は朝鮮人』と考えて戒厳令を発動したので、何も知らない朝鮮人は座して死を待つしかなかった」と述べた。
 関東大震災時に虐殺された朝鮮人は6000人あまりということが定説だが、2万人を超えるという主張もある。虐殺直後、東京の朝鮮キリスト教青年会の幹事として罹災朝鮮同胞慰問班で被害調査に参加した崔承萬(チェ・スンマン)氏は、1985年に出版された回顧録で「1923年末、東京と横浜近辺には朝鮮人が3万人程度おり、虐殺後、関東地方の各地域で受け入れられていた人員は7580人だった」として、「(3万人から7580人を引いた)2万2420人が虐殺されたとみても過言ではないだろう」という結論を出す。どの数値を選ぼうが、恐ろしい大量虐殺があったことは厳然たる事実だ。
 キル・ユンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
 https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1106149.html
 韓国語原文入力:2023-08-29 13:09
 訳M.S
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  歴史的事実として、大正時代の日本民族朝鮮人や中国人と日本人無政府主義者アナーキスト)を懼れた最大の理由は「天皇殺し(裕仁皇太子暗殺)」である。
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 古代から、日本にとって朝鮮や中国は敵であった。
 日本民族にとって、半島人や大陸人は敵であって、友・友人でも親友でもなければ戦友でもない。
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 数万年の日本民族の歴史で、自警団による虐殺は関東大震災だけであった。
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 日本民族の歴史とは、合戦の戦史や権力闘争の政治史などの正史・表史ではなく、庶民の生活史や天災の災害史などの外史・裏史である。
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 「日本では、大きな地震など災害が発生するたびに、大小のフェイクニュースが広まることがあった」は、ウソである。
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 昔の日本民族には、大正時代の関東大震災現代日本のような被災地で被災民を苦しめ追い詰める流言蜚語、デマ、フェイクニュース風評被害などの悪意の愉快犯や善意の正義の味方はいなかった。
 被災地で暴動や強奪、暴行、殺人、強姦など重犯罪を起こすのは、日本人ではなく朝鮮人や大陸系中国人であった。
 日本の被災地を支配したのは、集団主義個人主義同調圧力や場の空気・空気圧であった。
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2021-08-12
🍠21〗─1─明治24(1891)年 濃尾地震。死者7,000人。~No.63  
2021-08-13
🍠21〗─2─明治29(1896)年 明治三陸地震。死亡者2万1,959人。~No.64 
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2018-09-21
☱15〕16〕─1─皇太子裕仁殿下欧州外遊中暗殺未遂事件。東京市電運転手連続殺傷事件。朝鮮総督府爆弾事件。大正10年~No.32No.33No.34No.35・ @ 
2018-09-23
☱20〕─1─日本警察と憲兵隊は、朝鮮人テロリストの摂政宮裕仁皇太子暗殺計画情報を得て警戒を強化した。義烈団。大正12年~No.41No.42・ @ ⑦ 
2018-09-24
☱21〕─1─関東大震災。上海のキリスト教朝鮮人テロリストは、皇族を暗殺するべく大震災後の東京に潜入した。大正12年9月~No.43No.44No.45・ @ 
2021-03-05
☱21〕─3・A─関東大震災地震兵器、朝鮮人惨殺。日本におけるデマ・流言飛語と陰謀論。~No.47No.48 
2018-09-25
☱21〕─4─虎ノ門事件。摂政宮裕仁皇太子暗殺謀議事件。二重橋爆弾事件。テロリスト集団=韓人愛国団・義烈団。大正12月9月25日~大正14年~No.49No.50No.51・ @ ⑧ 
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2023-08-29
🎶26:─2─関東大震災(1923年)と排日移民法(24年)そして日米戦争(41年)。レーニン号事件。~No.58No.59 
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2023-09-08
🍙24〗─4─鳥取地震朝鮮人労働者とその家族28人が犠牲となる。昭和18年9月10日。~No.150 
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2020-08-09
🍙27〗─2─三河地震。戦争終結を早めた自然災害。昭和20年1月13日。~No.175No.176No.177・ 
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2023-11-03
🎺42:─2・B─太平洋戦争末期に発生した南海トラフ巨大地震。~No.196 ㉖ 
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2023-08-28
🍙29〗─4・B─敗戦直後の日本に追い打ちをかけた南海トラフ巨大地震の甚大な被害。昭和21年12月21日~No.192 
2023-09-15
🍙29〗─4・C─福井震災は地震と豪雨の複合災害。昭和23年(1948)6月28日。~No.192 
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2018-10-04
☲10〕─1─昭和天皇爆殺テロ失敗、警視庁前桜田門爆弾テロと第一次上海事変。昭和7年1月~No.21 @ 
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 韓国において、天皇や皇族を惨殺しようとした朝鮮人テロリストは国家の英雄として顕彰され、歴史教育で国民が崇めて目指すべき民族の英雄であるとして教えられている。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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