🗾39〕─1─日本列島のフォッサマグナの分断は現代にも影響を落としている。〜No.164No.165No.166 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 フォッサマグナの分断によって、西日本民族諸部族・琉球民族と東日本民族諸部族・アイヌ民族に分かれている。
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 日本列島の自然は、中国大陸や朝鮮半島との自然とは違い地球レベルで多種多様性に富んでいる。
 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島で生きてきた、そして逃げ出す事もなかった。
 日本民族の性格・気性、気質・体質を生んで育んだのは、日本列島の自然環境と食材・食文化である。それ故に、中国人や朝鮮人とは違う。
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 2023年10月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本列島を真ん中で折り曲げる「フォッサマグナ」…なんと、南と北では「まったく違う」地質だった
 諏訪盆地越しにフォッサマグナを見る。遠方に富士山 gettyimages
 後に「日本地質学の父」とも呼ばれるようになるハインリッヒ・エドムント・ナウマンが発見した「フォッサマグナ」は、日本列島の成立や、今後の変化や姿を考えるのに非常に重要な地質構造であると言われています。しかし、それと同時に、謎もまた多く、そもそもその範囲さえ確定していません。
 【画像】長野で深海生物!?…北部フォッサマグナの地層から見えてきた日本列島の激変
 フォッサマグナの西側境界では、その内側と外側で大きく地質の違い(年代の違い)が確かめられるとことから、その境が割合と明瞭にわかるということをご説明しました。それでは、東側の境界はどうでしょうか? 
 つきることのないフォッサマグナの謎を追いながら、私たちの住む日本列島を見つめなおす旅に出ましょう。
 *本記事は、『フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体』の内容から、再編集・再構成してお送りします。
 境界の断層が明確でない「フォッサマグナの東縁」
 ナウマンが定義したフォッサマグナ地域の範囲(背景の地形図:国土地理院電子国土・彩色地図より)
 さて、フォッサマグナの東側の境界線はどこにあるのか、という問題ですが、実は、ナウマンフォッサマグナを提唱したとき以来、現在に至るまで、東側の明確な境界となる断層は見つかっていないのです。
 まず、ナウマンフォッサマグナの「東端」を、新潟県の高田平野から神奈川県の小田原あるいは平塚付近で相模湾に入る構造線としています。しかし、その付近では基盤岩と新しい地層が入り組んでいて、糸静線のように日本海から太平洋に抜ける明確な断層は存在しません。(前の記事で挙げた「ナウマンが定義したフォッサマグナ地域の範囲」の図を再びここにあげます)。
 「ナウマンが定義したフォッサマグナ地域の範囲」の拡大画像はこちら
 重力測定といって、場所ごとの重力を測ることで、地殻の厚さや構成物質を知る方法があります。重力は地殻の密度が小さいと小さくなり、密度が大きいと大きくなるからです。これを「重力異常」といいます。
 フォッサマグナ東側の「重力異常」を測ってみた
 フォッサマグナの東端はどこか 岩村田―若神子構造線、柏崎―千葉構造線などが候補になっているが、特定するのは難しい。岩村田は長野県佐久市佐久平駅周辺で、若神子は山梨県韮崎市。柏崎ー千葉構造線の千葉県側については、諸説あるが図では東金市付近にとる説を反映した
 フォッサマグナの東側を重力測定したところ、八ヶ岳の厚い火山岩が邪魔をして境界がよくわかりませんでしたが、八ヶ岳の東側のJR小海線に沿って、急な重力異常が見られたのです。それは岩村田―若神子(わかみこ)構造線と呼ばれる断層にほぼ一致していました。関東山地の研究などで名高い藤本治義は、これをフォッサマグナの東縁と考えています。
 しかし、岩村田―若神子構造線はフォッサマグナを出たあと、北東方向に延びて新潟県に向かっていますので、本州を南北に縦断するフォッマグナの東縁とするのは難しいかもしれません(フォッサマグナができたあとで断層が動いた可能性はありますが)。
 ほかにも、新潟県の柏崎からほぼ直線的に千葉県に至る柏崎‒千葉構造線を東縁とみなす意見もありましたが、これは大部分がフォッサマグナ誕生以前の基盤岩類か、あるいはもっと新しい時代にできた断層であり、フォッサマグナの東縁と考えるのは難しいようです。
 このように、フォッサマグナの西側の境界は糸静線でおよそ見解の一致をみているものの、東縁はいまだにどの断層なのかがはっきりしていません。これはフォッサマグナの「東西問題」とでもいうべきなのです。
 フォッサマグナの「南北問題」
 フォッサマグナを地質的に見れば、「南部フォッサマグナ」と「北部フォッサマグナ」とに区別したほうがいいかもしれません。というのも、南部と北部では、成因がまったく違うと考えられているからです。
 南北の境界は決して明瞭なものではありませんが、北部はおおよそ諏訪湖から北側、南部は韮崎から南側の範囲を指す人が多いようです。
 まず、北部フォッサマグナの地質から見ていいきましょう。
 北部フォッサマグナに見られる「褶曲」
 褶曲のでき方と背斜に石油がたまるしくみ。背斜では水より軽い天然ガスや石油がたまる空間ができる
 北部フォッサマグナを地質学的に見ると、そこに分布する地層は、第四紀に形成された火山性物質を除くと、砂岩や泥岩などの堆積岩が多く、それらのほとんどがおよそ1600万年前から継続的に、海底に堆積した地層です。
 同様の地層は、新潟県から秋田県日本海側に分布しています。「秋田―新潟油田褶曲帯(しゆうきょくたい)」と呼ばれ、石油や天然ガスを産出することで有名です。その理由は、地層が厚いことと、石油や天然ガスがたまりやすい「褶曲」という
地質構造にあります。
 褶曲とは、大地を両側から押す力が加わって、地面が歪んだ状態をいいます。急激
に押すと断層ができ、ゆっくり押すと褶曲になります。このとき、地面の褶曲は凹形の「向斜」と、凸形の「背斜」という二つの形状をとります。このうちの背斜が、地層と地層の 間に石油や天然ガスが溜まりやすい構造なのです(図「褶曲のでき方と背斜に石油がたまるしくみ」)。
 こうした構造は、比較的年代が新しくきれいな地層が造山運動によって褶曲することでできます。まさに中東はそうした地層の宝庫です。日本も造山運動は活発でしたが、度重なる地震によって地層がずたずたにちぎれてしまっているため、残念ながら石油は溜まりません。秋田―新潟油田褶曲帯は数少ない例外なのです。

 そして北部フォッサマグナも、同じように地層は褶曲しています。秋田―新潟油田褶曲帯に連続しているのです。このことは、どちらも同じ時期に形成され、その後、1000万年以上もかけて堆積したことを意味しています。つまり、北部フォッサマグナの地層は“その場所”(地質学では英語でin situ*といいます)で堆積した厚い地層が、その後の地殻変動によって褶曲している地域なのです。
 *本来は、イタリックで表記
 南部フォッサマグナの特徴
秦野市から仰ぎ見る大山。丹沢では、海底に噴出した火山岩などが多く見られる photo by keromasa
 次に、南部フォッサマグナの地質を見ていきます。
 諏訪湖から南は、八ヶ岳からの火山噴出物が地形的な高まりを形成しています。中央自動車道では中央道原や八ヶ岳のパーキングエリアあたりです。この地下のどこかに中央構造線が走っている可能性があります。その南には、広大な甲府盆地が広がっています。
 さらにその南は東西方向に伸びる御坂山地、西側には巨摩山地がほぼ南北に走り、富士川河谷が糸静線に沿って甲府盆地から流れ出て、駿河湾に注いでいます。
 南部フォッサマグナの地質は、北部フォッサマグナのみならず、日本のどの地域の地質ともまったく異なる特徴をもっています。
 たとえば南部フォッサマグナを代表する丹沢山地は、厚さが数千mに達する海底火山の噴出物からなり、中央部には巨大なトーナル岩(花崗岩の仲間)が貫入しています。
 また、御坂山地(みさかさんち・山梨県河口湖町甲州市境付近)や櫛形山地(くしがたさんち・山梨県南アルプス市赤石岳前峰)でも、海底に噴出した火山岩などが多く見られます。これらの地層は一定の期間をおいて間欠的に堆積したもので、長時間をかけて継続的に堆積した北部フォッサマグナの地層とは対照的です。
 南部フォッサマグナは地質的に世界でもまれな場所に位置していて、そのことがこの地域の地質学的理解を困難にしてきました。北部と南部でなぜこれほどまでに地質が違うのか、これはフォッサマグナの「南北問題」ともいうべきものですが、多くの研究によって、その理由が明らかにされてきました。
 こうした南北の地質の違いは、南部フォッサマグナの地層が、“その場所”(in situ)で形成されたものではないことに起因しているのです。
 では、それはどのようにしてできたのかについては、これから考えていきましょう。
 * * * 
 国内油田で有名な越後平野秋田平野は北部フォッサマグナと、首都圏から近く多くの人に親しまれている丹沢や御坂の山は南部フォッサマグナの地質的な特徴と、深く関係していたのですね。このような地質学的な特徴を知っていると、訪ねた時などに、より印象深く感じられるのではないでしょうか。では、こうした南北の違いはどうして生じたのでしょうか? 
 このフォッサグナの南北問題が生じたわけを旅してみたいと思います。

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 フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体
 明治初期にナウマンが発見した、日本列島を真っ二つに分断する「巨大な割れ目」フォッサマグナ。その成因、構造などはいまだに謎に包まれている。日本地形を作る謎の巨大地溝に、地学のエキスパートが挑む! 

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 藤岡 換太郎
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 10月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「後に「日本地質学の父」とも呼ばれるようになるハインリッヒ・エドムント・ナウマンが発見した「フォッサマグナ」は、日本列島の成立や、今後の変化や姿を考えるのに非常に重要な地質構造であると言われています。しかし、それと同時に、謎もまた多く、そもそもその範囲さえ確定していません。
 フォッサマグナは、南北で大きな地質学的な違いがあることがわかりました。それは、日本列島が今のような姿になる大きなカギでもあります。今回は、フォッサマグナ発見に端を発した日本列島成立をめぐる論争を振り返り、南北の地質学的特徴からフォッサマグナ成立のストーリーを考えてみます。
 つきることのないフォッサマグナの謎を追いながら、私たちの住む日本列島を見つめなおす旅に出ましょう。
 【書影】フォッサマグナ
*本記事は、『フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体』の内容から、再編集・再構成してお送りします。
 フォッサマグナはどうしてできたのか?
 ここまで、フォッサマグナという怪物の顔や手足、胴体や尻尾が、現在ではどのように見えているかを大まかにお伝えしました。いま、あらためて眺めてみると、その姿には不可解なことがいくつもあります。たとえば、こんなことです。
 フォッサマグナはなぜこんなに深い(少なくとも6000m)のか?
 なぜ日本列島を縦断するように走っているのか。
 西の境界は明確(糸静線)なのに、東の境界が決められないのはなぜか?
 南部と北部では地形や地質がまったく違うのはなぜか?
 フォッサマグナのところで日本列島が「逆く」の字に曲がっていたり、中央構造線が「八」の字になったりしているのはなぜか?
 これらの は、つまるところ、たった一つの に集約されていくと思われます。それは、「フォッサマグナはどのようにしてできたのか?」という謎です。この大きな が解ければ、そのほかの にも自然と答えが与えられると考えられるのです。
 【写真】南部フォッサマグナの西端にあたる富士川山梨県身延付近南部フォッサマグナの西端にあたり、糸魚川−静岡構造線上の富士川山梨県身延付近 photo shohkurou matsunami
 しかし、この はとてつもなく巨大で、難解です。これまで多くの研究者が挑んでは果たせず、あるいは最初から避けて通ってきました。
 私には、フォッサマグナは「鵺(ぬえ)」のようなものに思えてきました。鵺とは『平家物語』に出てくる怪物で、御所の紫宸殿に夜な夜な現れ、顔が猿で胴体が狸、手足が虎で尻尾は蛇という、なんともとらえようのない姿で人間を幻惑します。これをみごとに射止めたのが、弓の達人であった源三位頼政(げんざんみ よりまさ)でした。
 私は、源頼政よろしくフォッサマグナと一戦まじえ、その成因に迫ろうとしています。専門家から見れば、なんと無謀な、と笑われるだけかもしれません。しかし、なんとか私なりの試論を展開してみたいと思っています。
 ナウマンとの論争相手「原田豊吉」
 いくら蛮勇を奮うつもりでいても、最初から自己流を振り回すわけにはいきません。まずは、よく敵を知るために、これからしばらくは先人たちの貴重な研究成果をもとに、フォッサマグナをさまざまなアングルから分析していくことにします。
 フォッサマグナの成因については、発見者のナウマン自身が、日本の地質学者を相手に激しい論争を展開しています。その相手とは、日本人で初めて東京帝国大学で地質学科の教授となった原田豊吉(1860〜1894)です。
 原田は父に連れられて14歳でドイツに留学し、フライベルク鉱山学校を卒業すると、その後、ミュンヘン大学で古生物学を修得してオーストリアの地質調査所に勤めました。1883(明治16)年に帰国すると地質調査所に勤務する一方、1884年に23歳で東京帝国大学地質学科の教授になりました。
 その翌年、ドイツに帰ったナウマンが日本の地質、とくにフォッサマグナの成因について発表すると、原田はこれに反論し、ほかの地質学者をも巻き込んで大きな論争となったのです。では、それはどのような争いだったのかを見ていきましょう。
 ナウマンが考えたフォッサマグナの成因は、日本列島の形成時に本州が海を移動して南下しているときに、島弧(のちの伊豆・小笠原弧)と出会い、行く手を阻まれて衝突したために、本州中部に断裂ができたというものでした。この考えは京都帝国大学で初の地理学教授となった小川琢治や、東大の構造地質学の教授・小林貞一(ていいち)らに引き継がれました。
 原田豊吉の説「両側から延びてきて、合わさった」
 これに対して原田は、本州はもともと二つの島弧であったものが接合したのであると考えていました。そして、このときにできた「対曲(syntaxis=シンタクシス)」という構造がフォッサマグナであると考えました。
 対曲(syntaxis=シンタクシス)とは、二つの島弧が接してできた構造のことで、『地学辞典』(古今書院)によれば「異なる2つの方向に延び、しかも同時に形成された山脈や弧状列島が1つの地域で合するとき、これを対曲とする」とあります。原田の考えには、当時の世界の地質学の第一人者であったオーストリアエドアルト・ジュースも賛同しました。
 このようにフォッサマグナの成因をめぐる論争は、そもそも日本の本州とは、最初から一つの島弧だったのか、それとも二つの島弧が合体したものなのか、という根本的な議論にまで発展していきました。
 プレートテクトニクス提唱以前の難問
 なお、どちらの説でも、本州や伊豆・小笠原弧などの島弧が移動すると考えていますが、アルフレート・ウェゲナー(1880〜1930)が大陸移動説を提唱したのは1912年のことで、この時期にはまだ大陸が移動するという考えはありませんでした。ナウマンや原田らが考えたのは、もっと局所的な島弧の移動であり、地球が冷却することで収縮しているという、ジュースが当時、提唱していた考え方にもとづくものでした。
 両者の論争は、現在の目で見れば、ナウマンは南部フォッサマグナの、原田は北部フォッサマグナの成因にある程度まで迫っていたと言えるものでした。
 しかし、それでも「正解」(いまだにそのようなものはありませんが)にはほど遠いものと思われます。プレートテクトニクスがまだ提唱もされていなかったときですから、それはいたしかたありません。
 では、フォッサマグナの成因を知るために、「地質探偵」になったつもりでさまざまな材料を集めて考えようと思います。まずは、この怪物に思いきり近づいて、“骨”や“肉”のつくりを調べてみます。すなわち、岩石と地層の観察です。
 北部フォッサマグナの地層
 そのためには、南北のフォッサマグナを比べるのが有効な方法と思われます。先に発表した記事で見たように、フォッサマグナの北部と南部は地質的にまったく異なっていて、そこから手がかりを得ることができそうだからです。先行する研究として、有馬眞、小川勇二郎、高橋雅紀、松田時彦らの文献を参考にしながら見ていきます。
 なお、これからは煩雑を避けるため、地質年代の表記には「Ma」という単位を使います。Maは「Mega annum」の頭文字で、「100万年前」という意味です。1Maは100万年前、10Ma は1000万年前、100Maなら1億年前です。新生代の第四紀(258万年前〜現在)は、「2.58Ma〜現在」となります。どうぞご承知おきください。
 あらためて言いますと北部フォッサマグナとは八ヶ岳あたりより北の、妙高山霧ヶ峰などの火山が並んでいる地域を指します。北部フォッサマグナの地層は比較的よく研究されていて、その重なりの順序が、ある程度までは確立されています。これを「層序(そうじょ)」といいます。基本的には、新生代の新第三紀の地層を、それよりあとの第四紀の八ヶ岳などからの火山噴出物が覆うという層序になっています。
 【写真】霧ヶ峰からフォッサマグナ南部方向を望む南北の境界にあたる霧ヶ峰からフォッサマグナ(南部)を望む。左手が八ヶ岳、中央やや右手の遠方にあるのが富士山
 北部フォッサマグナの一般的な地層は、古いほうから順番に、守屋層、内村層、別所層、青木層、小川層、柵層(しがらみ・そう)、猿丸層、および豊野層というものです(次ページの図「北部フォッサマグナの地層」をご参照ください)。地層の名前は地質屋でもややこしいものですが、その露頭(地層が露出しているところ)が最もよく見られる場所の地名をあてることがほとんどです。その場所のことをタイプロカリティ(type locality=模式地)といいます。
 これらの地層の年代は、およそ23〜2.58Ma(2300万年前〜258万年前ですね)、すなわち新第三紀から第四紀にわたっています(年代表記は『日本地方地質誌』〔朝倉書店〕によりました)。では、これらの地層がどんな岩石からなっているかを見ていきましょう。
 各地層のプロフィール
 北部フォッサマグナの一般的な地層(図「北部フォッサマグナの地層」)を、古いほうから順番に見ていきましょう。
 【写真】北部フォッサマグナの地層北部フォッサマグナの地層(層序は竹之内耕による)
守屋層(16〜15Ma)は糸静線より西側、諏訪湖の南の守屋山の周辺に出てきます。砂岩や礫岩などからできていて、浅い海にできた地層です。砂岩や礫岩、そして泥岩とはいずれも陸から削られた砂や泥が水に流されて堆積した堆積岩です。粒の大きい順に並べると礫岩→砂岩→泥岩となります。
 内村層(15〜14Ma)はグリーンタフ、礫岩、砂岩、泥岩などからなります(。グリーンタフとは海底火山からの火山岩が熱水などの作用で変質して緑色になった岩で、内村層が海底にあったことを物語っています。
 【写真】長野県上田市の太郎山と枕状溶岩写真上:長野県上田市の北西に連なる太郎山系を千曲川を隔てて見る(photo by yuumo) 写真下:太郎山に連なる虚空蔵山(写真上の左端)にある内村層の枕状溶岩。枕状溶岩とは、火山から出た溶岩流が水中で固まって枕状になったもの
 別所層(13Ma)はおもに黒色の泥岩からなります。なかには、石灰質の団塊(ノジュール)を含み、貝類などの化石がたくさん含まれているものもあります。
 青木層(8〜6Ma)は砂岩と泥岩、そしてこれらが交互に並んだ互層からなり、砂
岩には流れの跡(れん痕=リップルマーク)が見られます。また、陸上からの土砂の流れが海に入り込み、海底に堆積してできたタービダイトの層もあります。そして、やはりたくさんの化石が含まれています。
 【写真】青木層のタービダイト青木層のタービダイト。長野県生坂村犀川の生坂ダム湖に見られる青木層のタービダイト。ここがかつて深海であったことを示している
 小川層(6Ma)は砂岩・泥岩の互層や礫岩、泥岩でできています。また火山性物質(流紋岩質)も含んでいて、海底火山活動があったことを示しています。
 柵層(5〜3Ma)は礫岩、砂岩、泥岩からなります。その後期からは激しい火山活動を示す火山砕さいせつ岩がんがたくさん出てきます。また、貝の化石やノジュールも含んでいます。
 猿丸層(3〜1.5Ma)は浅海から汽水、さらに淡水に至る環境で堆積した地層です。礫岩を主体として、火山灰が堆積してできた凝灰岩や貝の化石を挟んでいます。
 豊野層(1.5〜0.7Ma)は北部フォッサマグナの最上位にある地層で、湖沼性の堆積物からなります。つまり、陸上に堆積した地層です。
 長々と紹介しましたが、これらの地層から、北部フォッサマグナの環境の変遷が次のように読みとれます。
 「北部フォッサマグナ」の環境の変遷
 まず、この地域には、徐々に海ができていったことがわかります。そのため、基盤岩となる古い岩を海水に運ばれてきた砂や礫(小石)が覆って、守屋層ができました。次の内村層の時代に、海はしだいに深くなって、細かい泥岩などが堆積しました。別所層の時代、海は最も深くなり、深海生物も棲息していました。
 しかし、青木層や小川層では、陸から運ばれた堆積物が海にたまり始め、砂が見られるようになります。柵層の頃から海は徐々に浅くなり、やがて猿丸層で河川の水が入るようになって、汽水そして淡水になりました。海が湖になったことがわかります。そして湖はついに陸化し、陸上に豊野層が堆積しました。
 つまり、陸が徐々に海になり、さらに深海になったあと、今度は少しずつ浅くなって湖になり、陸になっていったという変遷があったことがわかるのです。すなわち北部フォッサマグナ地域は深海だった時期があったということです。
 このように層序が比較的はっきりしている地層は、化石や年代測定などによってほかの地域の地層と対比することが可能です。この対比のことを英語ではcorrelationといいます。そして、対比によって北部フォッサマグナの層序と非常によく似た地層があることがわかりました。それは、秋田県男鹿半島(おが・はんとう)です。
 男鹿半島では過去7000万年の環境の変遷を刻む地層が観察できることから、東北日本日本海側の地層の標準層序にされてきました。そこには日本列島が大陸から分かれ、日本海を形成していくまでの地質の変遷が記録されているのです。男鹿半島・大潟ジオパークは「日本列島のでき方がわかる」ことを売りにしています。
 【写真】男鹿半島のニノ目潟男鹿半島から日本海を望む。なお、手前の沼は、爆裂火口のニノ目潟で、およそ2万年前から4万年前にできたと考えられており、フォッサマグナの形成からみるとずっと新しいといえる photo by gettuimages
 そして、北部フォッサマグナの層序とそれが示す環境は、男鹿半島のそれとほとんど同じなのです。このことから、北部フォッサマグナの形成史も、日本列島や日本海の形成史を映し出していると考えられるのです。
 では、南部フォッサマグナの地層はどうでしょうか。そこから、どんな形成史が見出されるでしょう? 南部フォッサマグナについて見てみましょう。
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南部フォッサマグナの地層と、その形成のシナリオについては、10月20日公開の記事で!
 フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体
 書影】フォッサマグナ
 本書の詳しい内容はこちら
 明治初期にナウマンが発見した、日本列島を真っ二つに分断する「巨大な割れ目」フォッサマグナ。その成因、構造などはいまだに謎に包まれている。日本地形を作る謎の巨大地溝に、地学のエキスパートが挑む!
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