🎍8〕─2─推古天皇よりも古い “幻の女帝” 『飯豊青皇女(いいとよあおのおうじょ)』。~No.21No.22 

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 2023年10月31日 YAHOO!JAPANニュース Narakko!「〈葛城市〉実は日本史上初!? 推古天皇よりも古い “幻の女帝” が奈良にいた『飯豊青皇女
 推古天皇よりも100年前に存在した天皇?『飯豊青皇女
 飛鳥時代に在位した第33代推古天皇聖徳太子のおばであるとともに日本初の女性天皇としても知られています。しかし、推古天皇即位の100年以上前に天皇に即位していたかもしれないと言われる女性皇族がいることをご存じでしょうか。
 彼女の名前は『飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)』。第17代履中天皇の王女、あるいは市辺押磐王子(履中の子)の王女と伝わり、葛城氏の血を引いています。「飯豊」には「フクロウ」の意味があるそうですよ。
 田んぼの奥に広がる森のようなところが飯豊天皇
 皇女は第22代清寧天皇崩御後、第23代顕宗天皇が即位するまでの間、政治を執ったとされていて『扶桑略記※』には「飯豊天皇」とも書かれています。
 しかし期間が10か月と短く、臨時の執政だったと認識され現在では不即位天皇の扱いとなっています。即位が認められていれば推古天皇より100年以上も前に誕生した女性天皇となることから“幻の女帝”と言われることも。
 ※『扶桑略記』:平安末期、天台僧・皇円神武天皇堀河天皇までの事柄を編年体で記した歴史書。全30巻と伝わり、うち16巻と抄本が現存している。
 近鉄忍海駅の西にある角刺神社は、皇女が執政した「忍海角刺宮跡」と伝わります。境内には忍海寺(にんかいじ)というお寺もあり、本尊の十一面観音立像は皇女の姿を模したものとも言われています。
 現在は葛城市忍海・南新町の氏神様。ご祭神は飯豊青尊。
 皇女が水面を鏡代わりに使っていたという鏡池奈良時代の貴族の娘・中将姫が當麻曼荼羅を織るために蓮糸を採ったという伝説も残っています。
 鏡池角刺神社
 住所: 葛城市忍海322
 角刺神社から北へ約1㎞の場所にある「北花内大塚古墳」。古墳時代後期の築造と考えられる全長90mの前方後円墳で、実際の被葬者は明らかではありませんが、飯豊青皇女の『埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)』に治定されています。
 正式な天皇には数えられていませんが、御陵として宮内庁が管理している点に皇女の地位の高さがうかがえますね。
 飯豊天皇埴口丘陵
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 トラベルjp
 史上初めての女帝か!?「飯豊天皇」をめぐる奈良県葛城市の旅

 歴代の天皇のなかで女性としてはじめて皇位についた人物が推古天皇であること、ご存知の方も多いでしょう。しかし、推古天皇よりも以前に天皇として君臨したかも知れない女性が存在すること、ご存じですか?女性の名は「飯豊青皇女」。皇統譜には記載されていないものの、「飯豊天皇」の名で陵墓まで築かれているこの女性、いったい何者なのでしょうか?今回は奈良県葛城市にある「飯豊天皇」ゆかりの地をめぐってみましょう。
 推古天皇に先駆ける女帝か?「飯豊天皇埴口丘陵」
 写真:乾口 達司
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 「飯豊天皇(いいとよてんのう)」こと「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)」は5世紀後半に存在したとされる女性皇族。現在、「飯豊」は「いいとよ」と読まれていますが、音読みでは「はんほう」となるため、音の類似性から「飯豊」(はんほう)と「青」(あお)とは同じ言葉を重ね合わせたものとも考えられます。
 『日本書紀』や『古事記』によると、履中天皇の皇女あるいは皇孫とされています。『日本書紀』と『古事記』とでは内容に異同がありますが、どちらも清寧天皇崩御後、次の顕宗天皇が即位するまでのあいだ、臨時で朝政をとったという点では一致しており、推古天皇に先駆ける史上はじめての女帝ではなかったかとも考えられています。
 ご覧のように、現在、飯豊天皇のものとされる古墳が奈良県葛城市に存在します。
 推古天皇に先駆ける女帝か?「飯豊天皇埴口丘陵」
 写真:乾口 達司
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 『日本書紀』や『古事記』では、飯豊天皇を歴代の天皇としてはあつかってはいません。しかし、12世紀末に成立した『扶桑略記』では清寧天皇の次の第24代の天皇としてその業績が記録されており、15世紀にまとめられた『本朝皇胤紹運録』でも「飯豊天皇忍海部女王是也」と記されています。
 ご覧のように、皇族の陵墓を管理する宮内庁飯豊天皇の陵墓を「飯豊天皇埴口丘陵(いいとよてんのうはにぐちのおかのみささぎ)」と呼んでおり、歴代の天皇には数えられていないのに「天皇陵」として堂々と管理されています。そのことからも、飯豊天皇の地位の高さがうかがえます。
 推古天皇に先駆ける女帝か?「飯豊天皇埴口丘陵」
 写真:乾口 達司
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 飯豊天皇陵の考古学上の名称は「北花内大塚古墳(きたはなうちおおつかこふん)」。墳丘の長さが90メートルの前方後円墳で、周濠もめぐらされています。
 江戸時代、近隣の村から墳丘上に神社が遷座して来たこともあって墳丘は大きく改変されており、ご覧のように、後円墳と前方部のあいだにあるはずのくびれがあまり目立ちません。上空から俯瞰すると、前方後円墳というよりも三角おむすびのような形をしています。
 <飯豊天皇陵の基本情報>
 住所:奈良県葛城市北花内
 アクセス:近鉄新庄駅より徒歩約10分
 飯豊天皇がここに!?忍海角刺宮伝承地である角刺神社
 写真:乾口 達司
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 写真は「角刺神社(つのさしじんじゃ)」。祭神は飯豊天皇こと「飯豊青命」で、飯豊天皇がまつりごとをおこなったとされる「忍海角刺宮(おしみのつのさしのみや)」の伝承地です。
 『日本書紀』によると、清寧天皇に子がなく、皇位継承者が不在であったさなか、かつて雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子の子・億計(おけ)と弘計(をけ)が播磨国で発見されます。しかし、清寧天皇崩御後、二人は互いに皇位をゆずりあったため、代わりに飯豊天皇が10ヶ月あまりのあいだ、臨時で朝政をとりました。一方、『古事記』では、清寧天皇崩御後、皇位継承者が不在であったために飯豊天皇が朝政をとり、その在世中に意祁(億計)と袁祁(弘計)が播磨国で発見されたと記されています。
 どちらの記事が事実に近いかはさておき、清寧天皇崩御後、弘計が次の顕宗天皇として即位するまでの一時期、飯豊天皇がこの地で政治をおこなったことが推測されますね。
 ちなみに、『日本書紀』によると、飯豊天皇が生涯一度だけ男性と交わり、「一知女道又安可異終不願交於男」(女の道の一つを知ったが、大したことはない。もう二度と男と交わることを願わない)と述べた舞台も「忍海角刺宮」です。
 飯豊天皇がここに!?忍海角刺宮伝承地である角刺神社
 写真:乾口 達司
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 境内にはご覧のような池もあります。こちらの池は「鏡池」と呼ばれており、飯豊天皇がこの池の水面を鏡として使ったといわれています。
 飯豊天皇がここに!?忍海角刺宮伝承地である角刺神社
 写真:乾口 達司
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 ほかにも、境内には「忍海寺(おしみでら)」と呼ばれる寺院も残されています。建物自体は近年に建て替えられたものですが、堂内には本尊の十一面観音菩薩立像が安置されています。
 神社と寺院とが一体化して信仰の対象となっている形態は「神仏習合」と呼ばれ、平安時代以降に流行しました。飯豊天皇がまとりごとをおこなったとされる宮に、後世、神社や寺院が建てられているということからは、この地が聖なる地として現代まで受け継がれて来たことを示していますね。
 飯豊天皇の事跡と関係がある?袖の松旧跡
 写真:乾口 達司
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 角刺神社の東500メートルほどのところ、JR和歌山線の脇には「袖の松旧跡」と呼ばれる古跡があります。
 「中将姫(ちゅうじょうひめ)」といえば、当麻寺の本尊・当麻曼荼羅を織ったことで知られる「中将姫伝説」の主人公として、その名をご存知の方もいらっしゃるでしょう。その中将姫が曼荼羅を織るために使ったのが、角刺神社の境内にある鏡池の蓮糸でした。「袖の松旧跡」は、その念願どおり、鏡池の蓮糸で曼荼羅を織れたことに感謝した中将姫が松を植えたとされるところです。
 中将姫は飯豊天皇の生きた時代よりも300年近く後の時代の女性ですが、そんな中将姫が鏡池の蓮にこだわっていたということからは、飯豊天皇ゆかりの地が中将姫の生きた時代にあっても特別なところとして認識されていたことがうかがえますね。
 飯豊天皇の事跡と関係がある?袖の松旧跡
 写真:乾口 達司
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 飯豊天皇陵や角刺神社から西を眺めると、この地が葛城山山麓にあることがわかります。
 古代、葛城山麓に勢力を張った豪族は葛城氏で、大王家(後の天皇家)と姻戚関係を結び、強大な権勢を誇りました。飯豊天皇も母方が葛城氏の流れをくんでいることから、葛城氏の勢力圏内に陵墓や宮が築かれたというわけです。
 <角刺神社の基本情報>
 住所:奈良県葛城市忍海322
 アクセス:近鉄忍海駅より徒歩約5分
 飯豊天皇ゆかりの地をめぐろう!
 飯豊天皇がどのような女性であったか、おわかりいただけたでしょうか。飯豊天皇の活躍した時代は大王の皇位継承もままならないほど、大和王権の力が衰退していた時代。王権の立て直しに奔走したであろう飯豊天皇の心中を察しながら、そのゆかりの地をめぐってみてはいかがでしょうか。
 2020年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
 この記事を書いたナビゲーター
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 乾口 達司
 これまでは日本文学や歴史学の世界で培った見識にもとづいて数多くの評論や書評を執筆してまいりました。奈良生まれ、奈良育ちの生粋の奈良っ子。奈良といえば日本を代表する観光地の一つですが、地元民の立場からい…
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
 飯豊青皇女 いいとよあおのおうじょ
 (生没年未詳)
 5世紀後半の皇女。青海皇女(あおのおうじょ)、忍海部皇女(おしぬみべおうじょ)などとも記す。履中天皇(りちゅうてんのう)の女(むすめ)(母は葛城(かずらき)氏出身の黒媛(くろひめ)で市辺押磐皇子(いちのべのおしわのおうじ)の妹)とする説と市辺押磐皇子の女(母は葛城氏出身の荑媛(はえひめ))とする説の2説がある。『日本書紀』に清寧天皇の没後、飯豊が忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)に「臨朝秉政(みかどまつりごと)」したと記し、その即位を示唆するような表記が記紀に認められる。『扶桑略記(ふそうりゃっき)』や『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』には「飯豊天皇」とあり、飯豊が中継ぎ的に大王の地位についた可能性は少なくないと思われる。
 [加藤謙吉]
 『加藤謙吉著「応神王朝の衰亡」(佐伯有清編『古代を考える 雄略天皇とその時代』所収・1988・吉川弘文館)』
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 世界大百科事典 第2版
 いいとよあおのひめみこ【飯豊青皇女
 5世紀末の皇女。飯豊女王,忍海部女王などともいう。履中天皇の女で市辺押羽皇子の妹にあたり,母は葦田宿禰(葛城襲津彦の子)の女黒媛とも,市辺押羽皇子の女で,母は蟻臣(葦田宿禰)の女荑(はえ)媛とも伝える。《日本書紀》の顕宗即位前紀によれば,清寧天皇が没したあと皇位継承者が定まらず久しく空位が続くので,飯豊青皇女が忍海角刺宮でみずから〈忍海飯豊青尊〉と称して〈臨時秉政(みかどまつりごと)〉したとあり,一時天皇に準ずる地位にあった可能性を伝える。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 デジタル版 日本人名大辞典+Plus
 飯豊青皇女 いいとよあおのおうじょ
 記・紀にみえる皇女。
 父は履中天皇,母は黒媛(くろひめ)とも,父は市辺押磐(いちのべのおしはの)皇子,母は荑媛(はえひめ)ともいう。「日本書紀」では清寧天皇5年天皇の死後,億計(おけ)王(仁賢天皇)と弘計(おけ)王(顕宗(けんぞう)天皇)が皇位の継承をゆずりあったため,皇女が政(まつりごと)をおこない(「扶桑略記」「紹運録」では女帝とする),同年11月に死去とつたえる。青海(あおうみの)皇女,忍海部(おしぬみべの)女王などともいう。
 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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