🎍44〕─2─武士の起源とは。正統武者は武装貴族だった。寛和の変。~No.139No.140 

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 2024年3月7日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【日本史の新常識】「武士」のはじまりはどこにある?「農民の武装化」から生まれたって本当? 
 古代日本において、律令制のもとで支配層にいた貴族たちに台頭した「武士」は、どのように生まれ、どのように貴族にとって代わっていったのだろうか。
 従来説:東国の僦馬の党など農民が武装化して生まれた
 新説:旧支配層、貴族の末裔が武士となった
■武士の起源とは?
 律令制のもとで支配者層であった貴族たちに対して、武士がどのようにして生まれ、貴族たちにとって代わったのかという点は、興味深いことだが、なかなか実態を明らかにすることは難しい。従来は律令制支配の崩壊が地方政治の混乱をもたらし、在地の荘園領主たちは、自衛の必要性から武装するにいたった。これが武士の誕生であるといわれてきた。
 たしかに説得力に富むように思われる。たとえば、東国を基盤とした「僦馬(しゅうま)の党」という集団がみられる。彼らは、武装して税の運送にあたったといわれ、その一方で群盗行為もおこなっていたといわれる。こうした集団に対抗するために武装することは必要なことのように思われる。
 しかし、近年では、そう簡単に武士の誕生をいうことはできないという説がとなえられている。武士としての条件である騎馬や弓術の習得、太刀や組み打ちの技術を得ることは一朝一夕にできるものではないというのである。むしろ、武士は本来、都を中心に存在していた武官が起源になっているのではなかろうかといわれるようになってきている。
 たとえば、押領使(おうりょうし)や追捕使が例にあげられる。押領使は、9世紀後半ごろから諸国の盗賊たちを鎮圧するために起用された令外(りょうげ)の官である。はじめは臨時であったが、承平・天慶の乱ののち常置の官となった。下野押領使として平将門(たいらのまさかど)の乱を平定した藤原秀郷(ひでさと)が有名であるが、彼は本来、左大臣にまで登った藤原魚名(うおな)の子孫である。
 追捕使は、10世紀以降、諸国の賊徒をとり締まるために置かれた令外の外であり承平・天慶の乱ののち常置となった。押領使や追捕使は当然のことながら武官であり彼らの子孫が武士になっていくというのである。
 また、貴種が地方に土着して武士になっていく例もみられる。たとえば、桓武平氏は、桓武の子の葛原(かつらはら)親王の孫である高望王(たかもちおう)が臣籍降下して平の姓を受けたことに始まる。高望王は、上総介(かずさすけ)となり任地に土着して勢力を拡張していった。その子孫は、関東一円に広がり、千葉・上総・三浦・梶原・土肥・秩父・長尾・大庭の各氏は「坂東八平氏」と称された。このように桓武平氏は関東に基盤を作ったが、平忠常(ただつね)の乱を契機に清和源氏に勢力を奪われていった。
 一方、清和源氏は、清和の孫の六孫王(経基)が臣籍降下して源の姓を賜ったことに始まり、武蔵介として平将門の乱を報告したり、藤原純友の乱山陽道追捕使の小野好古(おのよしふる)とともに平定したりして、関東を中心に東北などに地盤を作った。彼らは軍事貴族とよばれ地方に土着して武士になっていったとされる。
 監修・文/瀧音能之
 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
 歴史人編集部
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 3月10日 MicrosoftStartニュース サライ.jp「スルーされた「いみじき源氏の武者たち」。寛和の変と鎌倉幕府をつなぐ血脈
 【光る君へ満喫リポート】源氏の武者編
 花山天皇(演・本郷奏多)を元慶寺で出家させた藤原道兼(演・玉置玲央)。(C)NHK
 © SHOGAKUKAN Inc.
 ライターI(以下I):『光る君へ』第10回では、花山天皇(演・本郷奏多)に出家を強いて退位させた「寛和の変」が描かれました。
 編集者A(以下A):実は密かに鎌倉幕府を創設した源頼朝のご先祖様が登場するのではないかと期待していたのですが、スルーだったようですね。というのも、道兼(演・玉置玲央)と花山天皇の乗った牛車には、行程途中から護衛の武者が取り囲んだことがわかっています。歴史書大鏡』には、「なにがしかがしというふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添えられたりけれ(なんのだれそれという有名な源氏の武者たちを、護衛として添えられたのでした)」とあります。藤原兼家(演・段田安則)が道兼のために源氏の武者たちを派遣したわけです。『新編 古典文学全集』(小学館)の脚注によると、源満仲とその子源頼光源頼信らだといわれています。
 I:源満仲、頼光、頼信! 確かに鎌倉幕府を立てた源頼朝のご先祖様たちですね。
 A:この源氏の武者どもを登場させなかったのはちょっと残念でした。本筋には必要ないといえば必要ないのですが、このころから藤原兼家→道隆→道兼→道長と継承されていく摂関家と源氏が強固に結びついていたことが、後々の歴史に大きな影響を与えていたことを浮き彫りにさせる場面になったわけですから、ちょっと惜しいなと思います。
 I:鎌倉幕府創設に至る、小さな種が撒かれていて、発芽したくらいの時期ですかね。まあ、でもしょうがないですよ。本編とはあまり関係ないという判断なのでしょう。
 A:実は、1976年の『風と雲と虹と』では、源満仲の父六孫王経基が登場しています。源満仲-頼光の流れからは源頼政以仁王の令旨に呼応して挙兵)が出ますし、満仲-頼信の流れからは、源頼義、義家(1993年『炎立つ』で登場)、さらには為義、義朝(2012年『平清盛』で登場)、さらには複数の大河ドラマで登場する頼朝、義経など、「大河ドラマ版源氏の系譜」がほぼ貫通することになったのになと思っちゃうのですよ。
 I:源氏ファンにとっては、源満仲が登場したら喜んだのかもしれないですね。
 A:寛和の変で満仲の息子頼信が道兼の護衛を務めていたとされる源頼信ですが、道長が亡くなった直後に東国で発生した「平忠常の乱」平定に功を挙げ、源氏の東国進出の橋頭保を築きます。
 I:種が撒かれ、発芽したものがどんどん成長していったのですね。
 A:はい。その源頼信から頼義、義家と続く系譜は、前九年の役後三年の役を経て、東国における源氏の勢力を確固たるものにします。
 I:それもこれも、藤原兼家一族が打った大博打が成就した賜物ですよね。ということは、『光る君へ』第10回で描かれた「寛和の変」を源流とする流れが、鎌倉幕府創設という大河になったともいえますね。
 A:歴史って本当に面白いですよね。そう考えるとやっぱり、道兼の護衛として源満仲、登場させて欲しかったですね。
 I:まだ言ってる(笑)。
 ※『大鏡』『栄花物語』の原文、訳文は『新編 古典文学全集』(小学館)からの引用です。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。「藤原一族の陰謀史」などが収録された『ビジュアル版 逆説の日本史2 古代編 下』などを編集。古代史大河ドラマを渇望する立場から『光る君へ』に伴走する。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2024年2月号の紫式部特集の取材・執筆も担当。お菓子の歴史にも詳しい。『光る君へ』の題字を手掛けている根本知さんの仮名文字教室に通っている。猫が好き。
 構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり
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