🏹4〕─3・B─鎌倉幕府が定着させた、権威の朝廷と権力の武家による「一国二制度」。〜No.10 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 天皇の神話宗教的民族文化的権威は、神聖不可侵として、日本国と日本民族が存在する限り日本列島で護られる。
 将軍・武士の政治的武力的権力は、流動性が強く、家門・出自や身分・階級に関係なく時代の要請と努力で手に入れる事ができる。
 権力は、権威を乗り越え、権威を滅ぼし、権威に代わる事ができない。
 現代の俗世的俗欲的エセ保守による権威と昔の歴史的伝統的正統保守による権威は、別物である。
 その違いは、「覚悟」である。
 現代の権威は「不徳の安住」で、昔の権威は「針の筵(むしろ)」であった。
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 一国二制度とは、日本の真の姿・国柄・国の形である。
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 2024年1月5日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「鎌倉幕府が定着させた、朝廷と武家の「一国二制度」 700年を経て明治政府が再生させた「記憶」
 明治天皇(アフロ)
 鎌倉幕府から始まり、七百年続いた武家政権。朝廷との一国二制度となっていたが、その権力構図は東アジア世界にあっても特異だったという。日本中世史の歴史学者、関幸彦氏の著書『武家天皇か 中世の選択』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
 【写真】新政府が仰いだ「明治天皇」の実像を見る
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■お手本なき時代へ
 建久年間は鎌倉殿が官職体系に包摂され、その証しとして右大将家なり将軍家なりの呼称が表明された段階で、京都朝廷は武家を「幕府」と認知したことになる。武家が「正当」性に加えて「正統」性に向けて舵を切ったとき、“公武合体”というシステムが誕生する。朝廷による軍事権門たる武家への「諸国守護権」の委任を前提にして、武家は「幕府」たり得たことになる。
 「鎌倉殿」とはその限りでいえば、治承四(一一八〇)年の内乱勃発時の反乱政権のなかで誕生しており、当然ながらその「天下草創」においては簒奪性が前提となる。だが当初の、鎌倉殿を首長とあおぐ反乱勢力は、京都朝廷とは相容れない立場だった。その限りではそこに「幕府」の呼称を付与することはできない。「内乱の十年」をへて、将軍という職責の委任がなされて幕府なる呼称は可能となる。「幕府」の概念には王朝権力との調和性や親和性がともなう。王朝権力の一分肢としての存在だった。別言すれば、内乱をはさみ、その入口の治承段階は、「関東」「鎌倉殿」「天下草創」が同じゾーンで収斂されるし、その出口の建久段階は、「幕府」「将軍」の理念が重なる。
 こうした形で登場した「幕府」は、一国二制度というべき特異な政治システムをわが国に定着させ、武家の権力は以後七百年にわたって、その歴史を規定した。その「武家」=「幕府」の存在は、天皇(院)ともども日本国にあって権力+権威の源泉として作用することになる。
 そして、その七百年を規定した武家による幕府のシステムは、天皇との同居を前提とすることで、お手本なき権力秩序を構築したことになる。考えてみれば、武家が権力の担い手となった日本の中世・近世は、東アジア世界にあっても、特異な権力構図を提供した。中世・近世をはさむ古代そして近代は、ともどもがお手本を有した。古代国家は中国(唐)が、そして近代国家に至っては欧米が、お手本として機能した。
 その点では強弱の差はあっても、天皇・朝廷を戴く京都は中・近世を通じても都であり続けた。この点を至尊(権威)・至強(権力)の議論とすり合わせるならば、次のような理解が得られる。
 十二世紀末の内乱で至強的存在として、自己主張を展開した武家は、至尊的存在の天皇を京都という場に温存させつつ、新たに鎌倉を軸に武家の権力体を構築した。そこにあっては至尊的天皇と、至強的将軍の二つを中軸とする楕円が、日本国の秩序を構成したことになる。
 かつての古代国家は、至尊と至強が天皇自身に併有されていた。いわば中華皇帝思考と同居するシステムだった。平城・平安京を軸とした強大な集権国家は、それを通じて実現された。権力の分割構図でいえば、中世は武士の台頭で、武権に代表される至強的要素が王朝から分離されるなかで形成される。
 以上の点からも了解されるように、武家登場以前の古代は、一極的同心円の権力体であった。これに対し東国に、もう一つ政治的磁場が築かれることになる。かくして異なる中心軸の権威・権力が併存したことになる。つまり二つの軸を有した楕円構造の権力体が創出されたともいえる。至尊(権威)と至強(権力)の分裂という、かつて福沢諭吉が指摘した権力上の特質については、このように構図を設定できる。
■選択の中世
 中世は選択の時代だった。政治システムとして新興の武家なのか、あるいは在来の天皇(院)なのかという選択である。鎌倉そして室町という二つの「幕府」に特色づけられた中世は、天皇を廃することがなかった。温存することで、間欠泉のごとく天皇の権力回帰が叫ばれた時期もあった。後世の幕末に「尊王思想」が高揚されるにさいし、「承久」と「建武」の記憶が浮上する。
 「九変五変」観を論じた『読史余論』(注1)が語るところでは、「承久」「建武」の転換期にあって、時代は北条そして足利の武家を選ぶことになった。後鳥羽が主体となった前者は敗北に終わったが、後醍醐の後者は勝利する。だがそれは一時的なものであり、足利に敗北した後は幕末・明治に記憶の足場を提供し、再びの「王政復古」に結ばれる。「建武」という王政復古の記憶が“拠り処”として作用し、近代国家はそれを「建武の中興」として位置づけた。
 注1 『読史余論』は新井白石が六代将軍・徳川家宣に行った講義案で、摂関政治から徳川政権までを論じ、武家政権への推移を論じた歴史書。(本文に戻る)
 明治新政府は江戸の幕府を否定、さらには中世の鎌倉・室町の至強権力を否定するために、栄光の吉野・南朝の記憶の再生が必要とされた。吉野・南朝の是認論に基づく南朝正統主義を標榜する『大日本史』(注2)的思考は、王政復古に向けての指導理念としては、恰好の思想的基盤を提供したことになる。そのことはしばらくおくとして、繰り返すが中世における武家についていえば、かつて武朝主義を標榜した『読史余論』にあっては、徳川体制への道筋を天皇権力の衰退と武家の隆盛の両者の複眼的思考のなかで認識したことになる。
 その壮大な見取り図が今日的通説の祖型だとしても、至尊・至強論の双軸的楕円構造で捉え直すならば天皇を軸とする「九変」観には至尊的な円形構造が、そして武家の「五変」観には至強的な円形構造が、それぞれ対応していることも看取されるはずだ。それにのっとれば、われわれは『読史余論』が主張する武家中心の公武交替史観とは別の観点から、「選択の時代」たる中世を捉えなおすことが可能となるのではないか。
 注2 『大日本史』は水戸徳川家の光圀により編纂が開始され、光圀の死後も二百年余にわたり継続された。神武天皇から後小松天皇まで百代の時代があつかわれている。紀伝体史書として知られ、南朝を正統とするなどを特色とした。(本文に戻る)
●関幸彦(せき・ゆきひこ)
 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
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