🎍25〕─2─6世紀半ばに感染症「天然痘」は朝鮮から日本に伝来した。『古事記』『日本書紀』~No.76 

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 2024年1月22日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「恐ろしい感染症天然痘」が日本で流行した“原因”とは?
 疫病退治の神と伝わった源頼朝の叔父・源為朝『鎮西八郎為朝」/都立中央図書館
■疫病が蔓延したのは、蘇我氏が仏法を広めたせい?
 世界中に蔓延して猛威を振るう新型コロナウイルス第二次世界大戦終結後の我が国を襲った、最大の試練といえるかもしれない。
 しかし、歴史を振り返ってみれば、感染症との戦いは、1度や2度のことではなかった。それこそ、数え切れないほど疫病に苦しめられてきたことが、史書にも随所に記されている。古いところでは、敏逹(びだつ)天皇の御代に疫病が蔓延したことが『日本書紀』に見える。蘇我氏が仏法を広めた(6世紀中頃)ことで、国神の怒りを招いたとみなされたようである。
 さらに、奈良時代天平7(735)年から天平9(737)年にかけても、疫病が大流行。この時は何と、総人口の25~35パーセントにあたる100~150万人もの人々が亡くなったとか。当時勢威を誇っていた藤原四兄弟なども、この伝染病がもとで亡くなったのだ。ただし、当時はそれを、長屋王の祟りと考えられたものであった。
■「源為朝疱瘡神を退治した」と、まことしやかに語られた訳とは?
 もちろん、ここに記した両疫病の流行が、神の天罰や祟りなどに起因するものでなかったことはいうまでもない。大陸との交流が頻繁になるにつれ、ウイルスが持ち込まれる頻度が高くなっていったこと、それが原因である。病名は前者は不明ながらも、後者は疱瘡、つまり天然痘であった。
 ちなみに天然痘とは、天然痘ウイルスから感染した人が発する唾液飛沫などを吸い込むことによって二次感染を引き起こすという感染症。2週間前後の潜伏期間をおいて、39度以上の高熱を発するという。頭痛、吐き気を伴うとともに、顔や肢体を中心として発疹が現れるのが特徴的。その後、水膨れとなって膿が出た後、かさぶたができて治癒するとか。ただし、肺炎や脳炎などの合併症を引き起こして死亡するケースも多いというから、恐ろしい病であることは間違いない。
 『鬼滅の刃』に登場する鬼たちは、鬼の首領・鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)の血を浴びることで鬼化したというが、天然痘は唾液の飛沫だけでも感染するわけだから、考えようによっては、鬼滅の鬼以上に恐ろしいものであったと言えるかもしれない。
 ともあれこの感染症、いつ頃からかは不明だが、いつしか疱瘡神という名の疫病神の仕業とみなされるようになったようである。源頼朝の叔父にあたる弓の使い手・源為朝(みなもとのためとも/1139~1170年頃)が、伊豆大島に流された頃の話として疱瘡神(ほうそうしん)が登場するから、すでに平安時代末期には、疱瘡神にまつわる信仰が広まっていたようである。
 当時、都では疱瘡が猛威を振るったにもかかわらず、為朝のいた伊豆大島だけが蔓延を逃れたとか。そこから、いつしか為朝が疫病退治の神と崇められるようになったというのである。後には為朝に加え、魔除けの霊験あらたかな道教の神・鍾馗(しょうき)や、武勇の誉れ高い金太郎こと坂田金時までもが、疱瘡絵なるお守りに描かれ、庶民の間で流行った。疱瘡神が赤色を嫌うとの俗信から赤一色で刷られ、俗に赤絵と呼ばれたようである。
■日本では1955年に根絶
 江戸時代に入ってからも何度か猛威を振るったが、中期以降、様々なワクチン接種が試されている。まず1789年に、秋月藩藩医・緒方春朔(しゅんさく)が人痘法を試して成功。ただし、それは安全性が確保されたものではなかった。次いで1810年には、捕虜となってロシアに渡った中川五郎治が牛痘(ぎゅうとう)法を学んで帰国。1824年にこの方法を用いて、田中正右衛門の娘・イクに日本初の種痘を施すなど、様々な改良と試行錯誤が繰り返された。そして、明治に入って種痘(しゅとう)法が整備され、昭和30(1955)年、ついに日本における天然痘が根絶(世界での撲滅宣言は1980年)されたのである。
 ちなみに、この感染症をもたらしたとされた疱瘡神、実は姿も形も定かではない。市井に現れる時は、大抵、老婆姿であったといわれる。元の姿は不明ながらも、昨今流行りの「アマビエ」あたりをイメージしてしまいそうだ。疫病の蔓延を予言するとされるアマビエ。新型コロナウイルスの退散を祈願してアマビエの絵を描くことが一時流行ったことがあったが、その際の映像が、頭にこびりついているせいかもしれない。
 ともあれ、最後に疱瘡神を祀る神社というのが存在するので紹介しておきたい。平清盛の側室・常盤御前(ときわごぜん)の娘(当時14歳)も疱瘡がもとで亡くなっているが、その埋葬の地に創建されたのが、その名もズバリの疱瘡神社(広島市)である。
 また、神奈川県三浦半島の鎮守として知られる海南神社境内社にも、同様の疱瘡神社と呼ばれる小祠がある。さらに、東京都大田区にある羽田神社には、13代将軍・家定が疱瘡治癒を祈願したことを記す「疱瘡除祈願御札の碑」が、千葉県市川市にある本光寺には、本堂に「疫病退散守護の疱瘡神」が祀られている。その他、東京都小金井市の山王稲穂神社の境内社や、北区の赤羽八幡神社末社合祀殿の中、千葉県佐倉市の青菅稲荷神社の石造りの小さな祠が居並ぶ中にも疱瘡神社が置かれるなど、全国を見渡せば、意外にも数多く祀られていることがわかる。その多くが「疫病退散」をご利益として掲げているようだから、コロナ退治も是非、祈願しておきたいものである。
 藤井勝彦
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 2023年3月30日 歴史人「『古事記』『日本書紀』に記された感染病の恐怖
 [入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #077
 柏木 宏之
 1万3千年以上も固有の文化を維持した縄文時代のことを考えると、日本列島の歴史の長さを実感する。しかし、ほぼガラパゴス的に孤立した状態で、長い年月を平和に暮らしていた縄文人弥生人が出会った際に、どんな事態が起こったのだろうか?
 古代から日本列島を襲っていた感染病
 第10代崇神天皇のときに創始された大神神社の参道(筆者撮影)。
  2019年に世界的感染症として新型コロナが問題となりました。日本列島でもすぐに感染者が発見され、瞬く間に広がってパンデミックとなりました。それもそろそろ落ち着いたのか、呼称も「コロナ2019」となるそうです。抗体を持たない新型のヒト伝染性ウィルスは、ものすごい勢いで人から人へ感染し、大変な事態を巻き起こしました。
 日本列島における伝染病史は、古くは『古事記』『日本書紀』にも記述があります。
 例えば、第10代崇神(すじん)天皇のときに疫病と飢饉(ききん)が国中を襲って、国家の維持が危機に瀕したことがあったようです。この時に「三輪山祭祀(さいし)」が始まります。
 天孫族の子孫であるはずの大王は、三輪山大物主大神(おおものぬしのおおかみ)という国津神(くにつかみ)を祀(まつ)って、同床に祀っていた自分たちの祖先神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を伊勢の地に追い出してしまいます。
 このときの疫病が何だったかはわかりませんが、その後も日本列島は恐ろしい疫病に何度も襲われます。
 また、聖徳太子が活躍を始める飛鳥時代直前にも疫病が襲い掛かり、数多の民が命を落としています。あろうことか、太子の父親である用明天皇大嘗祭(だいじょうさい)を執り行う前に崩御してしまいます。そして、皇位継承の争いから丁未の乱(ていびのらん)が勃発して、物部守屋(もののべのもりや)が倒され蘇我馬子(そがのうまこ)が実権を掌握します。
 まさに飛鳥時代の始まりは、疫病がきっかけだったともいえるのです。
 それから数十年経って、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)も太子の妻も、太子自身も続けて亡くなります。これも何らかの感染症、もしくは伝染病であったのではなかったかと考えられます。
 藤原氏に大きな影響を与えた奈良時代の疫病
 平城宮跡歴史公園に復元された遣唐使船。遣唐使の往来は、奈良時代天然痘パンデミックを広めた一因かもしれない(筆者撮影)。
 そして、最も世の中を震撼させて歴史を大きく変えたのは、奈良時代の疫病でしょう。
 藤原不比等(ふじわらのふひと)の息子たち、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の高官四卿(しきょう)が疫病でバタバタと亡くなりました。これによって藤原氏の屋台骨が大きく揺らぎ、広嗣(ひろつぐ)の乱や奈良麻呂(ならまろ)の乱、そして恵美押勝(えみのおしかつ)の乱、聖武天皇の度重なる遷都、大仏建立などの遠因となりました。
 これらの疫病は天然痘だったと考えられています。
 そして流行のきっかけは、遣唐使船の到着や新羅使(しらぎし)など外国からのヒトの往来でした。つまり、抗体を持つ人がウィルスや病原菌を日本列島に持ち込んでいたわけです。現代と同じですね。
 それならば、固有種然として日本列島に暮らしていた縄文人接触した渡来人、つまり弥生文化人が何らかのウィルスや病原菌を持ち込んだと考えるのも自然ではないでしょうか?
 かつてコロンブスアメリカ大陸を発見して、さまざまな物をヨーロッパに持ち帰りますが、梅毒を広めたという説もあります。約100年前に流行したスペイン風邪も、新型インフルエンザのパンデミックでした。
 人から人への感染症は交流がグローバルになると蔓延しやすくなります。
 弥生人が九州北部から全国に広がった際に、縄文人たちは未知の疫病に襲われた可能性も考えられるのです。
 佐賀県吉野ヶ里遺跡(筆者撮影)。弥生人が九州から広がっていった弥生時代に、先住の縄文人たちは疫病に苦しんだのだろうか?
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2024-01-22
🎍25〕─2─日本で感染症天然痘」が流行した“原因”とは?『古事記』『日本書紀』~No.75No.76 

 ウィキペディア
 天然痘(てんねんとう、variola, smallpox)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代天然痘の語は1830年大村藩の医師の文書が初出である。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。1980年、世界保健機関(WHO)により根絶が宣言された。人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症の例である。

 歴史
 前史
 天然痘の正確な起源は不明であるが、最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世である。彼のミイラには天然痘の痘痕が認められた。

 中国大陸・朝鮮半島
 中国大陸では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国大陸全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
 日本
 天然痘によるあばた。塩田三郎。1864年撮影
 渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡かさ発いでて死みまかる者――身焼かれ、打たれ、摧くだかるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の死去も、天然痘の可能性が指摘されている。
 735年から738年にかけては、西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死去した。政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。
 この時の天然痘について『続古事談』の記述から、当時新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって、同国から流入したとするのが通説であるが、遣新羅使新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅流入した可能性も指摘されている。奈良の大仏造営のきっかけの一つが、この天然痘流行である。
 「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも、天然痘によるものであった。
 16世紀にキリスト教布教のため来日した、カトリック教会イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は、天然痘によるものと考えられる。
 ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎天然痘による片目失明者であった。上田秋成は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。天皇も例外ではなく、東山天皇天然痘によって死去している[注 2]他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る。
 源実朝豊臣秀頼吉田松陰夏目漱石は顔にあばたを残した。
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