🏹4〕─3─牙を抜かれ、朝廷の「武力担当」になった武士。〜No.10 

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 2024年1月4日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「牙を抜かれ、朝廷の「武力担当」になった武士 鎌倉時代には使われなかった「鎌倉幕府」という
 © AERA dot. 提供
 鎌倉幕府から江戸幕府まで、政権を握った武家。社会におけるその本質を、日本中世史の歴史学者、関幸彦氏の著書『武家天皇か 中世の選択』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
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■「武士」から「武家」へ
 「武家」とは何か――。当たり前すぎて疑念さえ持ち得ない語だが、武力・軍事力により武権を行使することを認定された存在。そんな解答をしたとしても、さほど深さのある内容ではないはずだ。そもそも、その武家の主要な構成者たる武士とは何か。それ自体が難問でもある。武士とは武力を職能とした身分・制度上の呼称である。その点では、武的領有者たる「兵」(ツワモノ)なり「武者」(ムシャ)と親和性を有する。そして武家は、身分としての武士を全般に統括する権力体と定義できる。
 けれども「武士」は社会的・実態的呼称の「兵」とは異なる。「兵」は、彼らがその誕生当初にあっては、反社会的存在としての側面も有していた。武士の場合「士」という漢語に適合するように、権門に奉仕する者として位置づけられる。かくして身分としての「武士」が成立する。「兵」はその意味で「武士」の語に先行する。「武士」の多くが地域の領主である場合もあるが、全ての「武士」が領主であったわけでもない。
 いずれにしても「武士」であるためには社会的・国家的認定が必要とされた。つまりその“出生証”ともいうべき「兵ノ家」たる出自が求められた。兵から武士への転換のなかで、諸権門の武的奉仕の「侍」と同義と解され、身分的秩序に包摂された。「武家」はそうした様々な側面を統合する権門として機能する。それ故に「武家」は「武士」の意向の代弁者であるという側面のほかに、その利益を抑制する面もあった。
 本来「家」とは三位以上の貴族の居所の呼称で、「宅」とは区別される。(「家」の呼称は大伴家持の例でもわかるように、「ヤカ」「ヤケ」と訓じて、「公家」はまさに「コウケ」「クゲ」「オホヤケ」と呼称される。すなわち公的要素が「家」自体に内包されていた。したがって「公家」と並立し得る「武家」の概念は軍事的貴族としての側面が随伴する。「家」の呼称は国家権力の分掌者に付与されるものだった。
 「武士」はその誕生から、成長へのプロセスのなかで、時として国家権力(朝廷)と対決・対峙する場面もあった。しかし次第に、武家という権力体の構成員として位置づけられるようになるにしたがい、牙を抜かれ、国家の体制内権力として安全弁の機能を果たすにいたる。『平家物語』以下の軍記は、院政期に源平両家が朝家(公家)の軍事装置を担う機能として、位置づけられるなかにあって、そうした武士の役割を伝えたものだ。
 平安の後期以降、国家的行事を主催する「公家」に加え、祈る行為を軸とする宗教権門たる「寺社家」、さらには戦う人々の集団たる武力担当の「武家」、その諸権門が相互補完的に国内権力を構成(権門体制)する流れが顕著となる。だから、「武家」の登場は武士の利害を制御することもあり得た。その点では“武士の敵は武家”との逆説的な表現も可能となる。「武士」が「武家」の構成員となった段階で、「武士」一般の利害の調停者たり得る状況が現出する。それが存在としての「幕府」の役割だった。そして、その幕府もまた、国家的認定に対応する表現といえる。
 武家の府たる幕府の語感には、武権の委任・委譲の観念がともなった。ここで指摘しようとするのは、あくまで「幕府」なるものの観念に関してのことだ。そうした幕府の観念は、自らを「関東」と称した鎌倉の権力が、当初より抱いていたものではない。
 江戸末期、尊王思想が芽吹くなか、武家=幕府の立ち位置が問題にされたときに天皇との“始末のつけ方”をめぐり、「武権の委任・委譲」の是非が問われ始めたのだった。国学や水戸学の水位の高まりで、大政委任論が市民権を得た結果として登場するものだった。
■常識のなかの「幕府」観
 鎌倉を政治的磁場とした武家の権力は、後世、「幕府」と呼ばれた。幕府と表現する場合の常識では、歴史観念としては武家の政府、すなわち軍事政権の意味で用いられる。その点で鎌倉政権が幕府の名に値することは明らかだ。
 付言するなら鎌倉の地名を冠した「鎌倉幕府」の呼称が生まれたのは、後世に鎌倉から別の場所に武家政権が移った後だった。当たり前だが頼朝自身、その政治的居所を「幕府」と名づけたりはしない。ちなみに『吾妻鏡』では「幕府」の表現について、“建物”や“居館”を指摘する用例は認められるにしても、政権自体を指し用いる例は見当たらない。
 幕府とは、天皇による権力システムの一翼を担うところに本質がある。いうまでもなく漢語での「府」とは、「国府」や「鎮守府」の事例でもわかるように、公権の執行機関たるところに特色があった。ただし「幕府」は、平時の制度・行政上とは区別される非常時体制下での呼称だった。朝廷にとっては非常時といえ、体制内での権力システムであろうことに変わりはない。その点で将軍出征時における幕営内での軍の呼称という語義は、朝廷(公権)への忠実な軍政執行が前提とされる。
 反乱政権を脱し、公権を分与・委任されたことは反乱勢力が体制内システムへと移行したことを意味した。この点は寿永二(一一八三)年十月宣旨にともなう東国沙汰権の分与がそれにあたる。その限りでは、反乱政権の公権の接触(合法化)という事態が進行する。したがってその後の守護・地頭制の重視(一一八五年説)も、右近衛大将就任(一一九〇年説)、さらには征夷大将軍就任(一一九二年説)も、いずれも東国政権が武家としての立場を、深掘りする過程といえる(注1)。
 寿永二(一一八三)年段階を皮切りとした源家の右肩上がりのその後の画期は、武権の成長の視座からのものだ。他方で、朝家(朝廷)に視点を置いた場合、右近衛大将あるいは将軍補任にともなう官職授与は、鎌倉殿たる武家の首長を体制的秩序に組み入れるという意味で、これまた画期とされた。比喩的にいえば、“あばれ馬たる武士”を調教させ得た段階ということになる。別言すれば「内乱の十年」をへることで、朝家はその体制内に武家の組み入れを達成させたともいい得る。
 「幕府」なる語をどう想定するかによるが、原義から考えるならば、鎌倉の武権は、当初の国家体制外から内乱後の建久段階で体制内の存在となった(研究者によっては、それを「王朝の侍大将」的立場として解す考え方もある)。そうした点を前提にすれば、幕府とは体制内認知の武権であり、反秩序や騒乱を鎮圧すべき役割(国家守護権)を分与された存在、といえる。体制内システムとしての武家の存在は「内乱の十年」を通じて、幕府として認知されたことになる。
 注1 「幕府」は中国の古典的用法では、出征中の将軍の軍政をなす幕営を意味する、「柳営」と同義だった。この点を前提にして考えた場合、昨今話題とされるのが、幕府成立の時期を問う議論だ。いわゆる“イイクニ”(一一九二年)説と“イイハコ”(一一八五年)説をめぐる問題だろう(一般書ながら石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』〈中央公論社、一九七三/のち中公文庫〉での解説が基礎的知識を提供する。そのなかで石井説は治承四〈一一八〇〉年段階での反乱政権としての性格に力点をおいている)。一般的に幕府成立の画期として注目されてきたのは、(1)一一八〇年説(頼朝が鎌倉に居所を定めた挙兵段階を重視)、(2)一一八三年説(寿永二年の十月宣旨による東国沙汰権を、王朝から委任・承認されたことを重視、謀反性・反乱性から脱却したところに画期をおく)、(3)一一八五年説(文治元年、平家討滅にともない、義経問題を機とする守護・地頭制の誕生を重視する、いわば武家の権力の全国レベルでの浸透に力点)、(4)一一九〇年説(奥州合戦後の建久元年における頼朝の上洛により、王朝京都より権大納言・右近衛大将に任ぜられたことに比重を置く立場)、そして(5)一一九二年説(建久三年の征夷大将軍就任の段階を画期とする立場)である(なお、この鎌倉幕府成立学説が史学史的にどのような意義を存するかについて、かつて拙稿「「鎌倉」とはなにか―「鎌倉殿」あるいは「関東」―」〈『中世文学』五九、二〇一四〉で、ふれたので参照されたい)。
 主流となる(3)(5)に共通するのは――。前者の一一八五年説は、武家の権力の守護・地頭制にともなう全国レベルでの浸透性に眼目がある。後者の一一九二年説は、伝統的理解により、幕府の字義に対応させた立場で、将軍職の委任を前提とする。この両説について、「名」「実」論で置き換えるならば、一一八五年説は「実」(実態面)において、幕府の成立を解することになり、一一九二年説は「名」(形式面)での立場ということになる。その点ではこの両説は互いに対立するものではないとの交通整理も可能だろう。(本文に戻る)
●関幸彦(せき・ゆきひこ)
 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
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