🎍38〕─2─平安時代の仏教思想が窃盗・強盗の犯人に対する死刑を廃止した。弘仁9年(818)。〜No.121No.122 

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 平安時代死刑廃止現代日本死刑廃止運動とは根本的に違い、平安時代は宗教であり、現代日本は反宗教無神論イデオロギーである。
 大和朝廷死刑廃止は、窃盗・強盗の犯人に対してのみである。
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 2024年3月5日 YAHOO!JAPANニュース「【光る君へ】直秀らは法律に基づき死刑になったのか?遺体が捨てられた「鳥辺野」とは
 渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 大河ドラマ「光る君へ」では、盗賊の直秀が捕らえられ、流罪になるかと思いきや、無残にも殺害されてしまった。彼らは法律に基づき死刑になったのか、また遺体は鳥辺野という場所に捨てられたが、それはどう場所だったのか考えてみることにしよう。
 現代社会においては、人が自宅や病院で亡くなったら、まかり間違っても死体を適当な場所に捨てるなどはあり得ない。死体遺棄で捕まってしまうだろう。普通は葬式を執り行い、火葬もしくは土葬するはずである。ちなみに、葬式仏教が発達したのは、江戸時代以降のことである。
 今回の大河ドラマでは、盗賊の直秀らが検非違使、放免に捕らえられた。藤原道長と「まひろ(紫式部)」は、流罪になるのではないかと思っていたが、彼らは殺害された。しかし、それは法律的な意味での「死刑」ではなく、単なる殺害のように思えなくはない。
 というのも、本来の死刑は刑部省や弾正台・衛府の官人の立会いのもとで執行され、公衆の面前で行われた。しかも、当時の人々は穢れや怨霊を恐れていたので、死刑になった者が祟り、農作物の収穫に影響することを危惧し、死刑の執行は農閑期の冬場に設定されていたという。
 弘仁9年(818)になると、窃盗・強盗の犯人を死刑にすることは廃止された。当時、仏教の教えが広く浸透し、死刑そのものが「不殺生戒」の教えに反するものとして避ける考え方が重視されたからである。
 その結果、弘仁元年(810)の薬子の変で、藤原仲成が死罪になって以降、死刑は行われなくなった。仮に死刑相当の罪であっても、次に重い流罪減刑することが慣習になったのである。そのように考えると、いかにフィクションとはいえ、直秀らの殺害は法律に基づく死刑とはいえないだろう。
 ところで、直秀らの遺体が打ち捨てられた鳥辺野とは、どういう場所だったのだろうか。鳥辺野は現在の京都市東山区五条坂から今熊野にかけての広い地域を示し、ピンポイントで場所を特定できるわけではない。葬送の場所になったのは、平安時代中期頃からといわれている。京都の葬送地としては、ほかに「化野」、「蓮台野」が有名である。
 当時は現代のような墓はなく、人々は卒塔婆を立てて死者を弔った。のちのことになるが、道長も亡くなると、鳥辺野で荼毘に付されたのである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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