🪁2〕─3・D─長江上流域にあった第三の古代蜀文明は紀元前316年に滅亡した。~No.4 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 黄河流域の北方系漢族と揚子江流域の南方系少数民は、別種の中国人である。
 中国の古代文明には幾つも存在し、第一が黄河中流域の中原文明、第二が揚子江河口域の長江文明、第三が揚子江上流域の蜀文明。
 日本文明は、独自文明ではなく長江文明の後継文明である。
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 人類はアフリカに生まれアフリカを出て地球上に移住し、文明は近東・中東に生まれて人類の移動と共に世界中にもたらされ地域に根差して独自に発展していった。
 日本文明は、日本列島にもたらされた文明の欠片から発展したが、海に囲まれた閉鎖的環境ゆえになその先に伝播する事がなかった。
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 古蜀(こしょく)は、古代の蜀にあった国。東晋時代の地誌『華陽国志』にその歴史が詳しく記されているが、司馬遷の『史記』では、紀元前316年に秦の将軍司馬錯に滅ぼされたことが記されるのみである。
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 2023年12月2日 YAHOO!JAPANニュース GOETHE「3000年以上前の中国、「黄河文明」に匹敵する「古代蜀文明」が栄えていた!?|「超」古代文明の謎
 謎とロマンにあふれている古代文明。あの建造物や不思議な絵などは、いつ、誰の手で、何のためにつくられたのか……? 世界中に残る謎に満ちた遺跡や神秘的なスポットについて解説。今回は「古代蜀文明」の謎をお送りします。
 長江の上流域にあった文明
 三星堆遺跡から出土された青銅製獣面(仮面)
 前方に大きく突き出た目、高い鼻、巨大で垂れ下がった耳、耳の付け根まである大きな口。こんな形相の青銅仮面が発掘を進めるそばから次々に出土したのだから、現場に立ち会った誰もが度肝を抜かれたに違いない。
 どれも幅130センチメートル以上、高さ60センチメートル以上と、特大なサイズだったから、なおさらである。
 出土したのは仮面だけでなく、高さ260センチメートルにも及ぶ青銅立人像や高さ4メートル弱に及ぶ青銅神樹など、従来の古代中国遺跡から出土した文物とは明らかに性格を異にしていた。
 これら不可思議な文物が発掘された場所は、四川省徳陽市広漢県の三星堆(さんせいたい)遺跡と同省成都市青羊区の金沙(きんさ)遺跡で、金沙遺跡の文物が殷王朝末期から春秋時代のものであるのに対し、三星堆遺跡の文物はそれよりもやや古く、3000年前から5000年前のものと推測されている。
 この二つの遺跡が位置するのは、黄河の流域からはるか南、中国で最長の河川、長江の上流域にあたる。これまでの中国史黄河流域の興亡を王道として説かれ、古代の長江流域は未開野蛮の地と扱われてきたが、三星堆遺跡と金沙遺跡の発見は、そのような黄河中心史観に修正を迫るインパクトを有していた。
 秦に滅ぼされた「蜀王国」
 春秋時代四川省に蜀王国があったことは、司馬遷(前135?~前86?)の『史記』にも記されている。
 ただし、「秦本紀」には「秦の恵文王の9年(前316)、秦の将軍・司馬錯(しばさく)が蜀を滅ぼした」としかなく、「張儀列伝」では蜀とそこの住民に関し、「西方辺鄙の国で、戎翟(じゅうてき、辺境の野蛮人)の仲間」と断じ、「西南夷列伝」は蜀のさらに南、現在の雲南省の説明ばかりなど、蜀の扱いはぞんざいかつ、露骨な蔑視に終始していた。
 元の史料が同じものだったのか、前漢末の劉向(りゅうきょう)よりに編纂された『戦国策』の記述も「張儀列伝」のそれとほぼいっしょで、これまた残念にすぎる。
 北宋の983年に編纂が完了した類書(百科事典)の『太平御覧』には、前漢末の揚雄(ようゆう、前53~後18)が著わした『蜀王本紀』からの引用として、もう少し具体的な話が載せられている。
 秦の恵文王のとき、秦には純金を排泄(はいせつ)する牛がいるとの流言を蜀で広めさせ、秦から蜀にその牛をプレゼントしたいと申し入れた。
 道が整備され次第贈ると伝えたころ、蜀王が喜んで応じ、南北を貫く道を整備したことから、秦軍はその道を使うことで、やすやすと蜀の征服を果たしたという内容で、疑うことを知らない蜀の王をあざ笑うかのごとき結末となっている。
 古代蜀を巡る大いなる謎
 蜀に関する記述が皆無なよりはましだが、それでも蜀を文明・文化の恩恵とは無縁な僻地(へきち)とする見方はやはり偏向と言わざるをえない。長江上流の蜀に、黄河中流域に引けを取らない高度で独自の文明が栄えていたことは、三星堆遺跡と金沙遺跡から出土した文物が証明している。
 司馬遷や劉向、楊雄は何故、古代蜀について詳しく記さなかったのか。考えられる可能性は二つある。一つは伝承が途絶え、参照すべき史料が入手できなかったから、もう一つは意図的に排除したから。
 黄河中流域を中華文明の絶対的な中心とし、蜀を僻地とする先入観が強ければ、それと矛盾する伝承や文物は無視するか、信ぴょう性のないものとして取り合わない。各時代の最高レベルの知識人であっても、犯しかねない過ちである。
 古代の蜀について伝える文献史料も皆無ではなく、東晋の355年に編纂された『華陽国志(かようこくし)』という地誌には、短いながら以下のような記述があった。
 「蜀は周王を奉っていたが、春秋の会盟には参加できなかった。彼らの制度や文字が中原とは異なっていたからである。周が衰退すると、蚕叢(さんそう)という蜀の侯が王を称した。彼は〈目縦〉だった」
 この「目縦」が何を表わすかは長らく謎とされてきたが、三星堆遺跡と金沙遺跡から出土した仮面や人頭像はどれも目が特徴的で、それらが発見されるとともに、「目縦」との関連性に注目が集まった。
 二つの遺跡ではいまだ発掘が継続中なので、今後の新たな発見や研究成果に期待したい。
 独特の文明を担ったのは、現在で言うどの民族に近かったのか。その実態はもとより、殷・周王朝との関係性、水稲栽培発祥の地である長江中流域との交流など、古代蜀を巡る謎の解明はようやく最初のページが開かれたばかりである。
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 数万年前の日本列島には旧石器人(ヤポネシア人)・縄文人(日本土人)が先住民として住んでいた。
 そこへ、数千年前に大陸から南方揚子江弥生人(渡来人)と北方満州系古墳人(帰化人)が渡来し日本土人と乱婚を繰り返し混血して生まれた雑種が大和民族日本民族である。
 日本民族は、血が汚れたハーフで血が綺麗な純血種ではない。
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 倭・倭国倭人儒教用語で、日本人を獣・野蛮人・未開人と見下し軽蔑して貶む人種・民族・人間の差別用語である。
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 この項目では、日本列島住民の古名について説明しています。地理名称としての日本の古名については「倭」を、弥生時代から飛鳥時代にかけての日本国家については「倭国」を、アイヌとの対義としての自称については「和人」をご覧ください。
 倭人(わじん)は、
 狭義には中国の人々が名付けた、当時、西日本に住んでいた民族または住民の古い呼称。
 広義には中国の歴史書に記述された、中国大陸から西日本の範囲の主に海上において活動していた民族集団。
 一般に2. の集団の一部が西日本に定着して弥生人となり、「倭人」の語が1. を指すようになったものと考えられている。
 本項では、中国における派生的な差別語、蔑称についても扱う。

 長江流域の「倭族」
 倭・倭人を日本列島に限定しないで広範囲にわたる地域を包括する民族概念として「倭族」がある。鳥越憲三郎の説では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である。鳥越は『論衡』から『旧唐書』にいたる史書における倭人の記述を読解し、長江(揚子江)上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があったと指摘した。その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。滇(てん)、夜郎貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明、且蘭(しょらん)、徙(し)、キョウ都(現在の揚州市邗江区に比定)、蜀、巴(重慶市)など[4][6][4]。鳥越は倭族の起源地を雲南省の湖滇池(滇池)に比定し、水稲の人工栽培に成功したとし、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした[4]。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。
 この倭族論は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲長江文明論などとも重なっている。
 少数意見として、約7300年前の鬼界カルデラの噴火による災害で日本からの難民が朝鮮半島経由で各地に流れ着いたのが、倭人の源流であるとする説がある。この意見では、当時亜熱帯の気候であった九州で小規模に行われていた水田稲作が難民とともに朝鮮半島や大陸に渡り、大陸でより発展した後に移民として日本に戻ってきたのではないかとの見解もある。朝鮮半島の遺跡の空白期間が終わるのがこの頃でであり、長江周辺で水田稲作が盛んになるのもこのあたりの時代からである。その後、大陸での異民族との戦乱の結果として排斥され父祖の地である日本を目指して里帰りしたのが弥生期初期の移民であるという見方である。知らない土地を目指したのではなく、祖先が日本から来たことを知っていたから日本を目指したということになる。
 近年、遺伝子分析技術の発達によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた(日本人#系統参照)。1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡山口両県で出土した渡来系弥生人縄文人の人骨と比較した結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似していた。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。
 崎谷満はY染色体ハプログループO1b1/O1b2系統を長江文明の担い手としている。長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方および北方へと渡り、山東半島、日本列島へ渡ったとしており、このO1b2系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。

 人類学的位置づけ
 澤田洋太郎は倭人について、弥生人であり中国江南より水田稲作をもたらした集団とする。崎谷満は中国江南地域より稲作をもたらした集団はY染色体ハプログループO1b2に属すとしており、倭人Y染色体ハプログループO1b2に属す集団であった可能性が高い。これはオーストロアジア語族(Y染色体ハプログループO1b1)と姉妹関係であり、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙類似性が高いとするデータとも符合する。
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長江文明の後継文明が日本文明。
2018-01-20
🌈3)─1─日本文明は支那文明(中華文明)に対する対抗文明(批評文明)である。~No.4No.5・ 
2019-05-12
🌈4)─1─日本民族は日本文明を創り、日本人は日本文化を創った。日本文明の源流は長江文明。〜No.6・ 
2023-01-28
🌈4)─2─日本は北京や上海とは違う「南中国(少数民族)」の言葉と文化に似ている。〜No.7 
2022-06-21
🌈5)─1─文明は中国北部・朝鮮半島からに日本に渡来した説は根拠のない創作。〜No.8No.9 
2020-11-29
🌈6)─1─梅棹文明論。日本は第一地域で群島文明国。~No.10No.11 
2019-06-14
🌈7)─1─日本文明と世界文明の違い。~No.12No.14・ *
2019-06-15
🌈8)─1─自然破壊の大陸文明と自然保護の島国文明。日本文明は7つの世界主要文明の1つ。〜No.15No.16No.17・ * ① 
2022-10-29
🌈9)─1・B─弥生文化は戦乱の文化で、環濠集落は殺しあいの時代に築かれた。⦅1⦆〜No.18 
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