☱11〕─2─ローマ法王は3・1暴動を鎮圧する日本にエールを送り天皇に連帯を求めた。〜No.22No.23 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ローマ教皇は、宗教的絶対権威者として、旧教のみの最高位の聖職者で、使徒ペテロの後継者として全カトリック教会を統率している。
 教皇無謬説(きょうこうむびゅう せつ)。地上での教皇の至上権を護る為に、信仰と道徳に関して語る教皇の言葉は無謬であるとされている。
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 教皇ベネディクト15世と謁見し「バチカン天皇との連帯」の伝言を聞いたのは、摂政宮裕仁皇太子(後の昭和天皇)である。
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 バチカンローマ・カトリック教会は、反宗教無神論革命を広める悪魔のイデオロギーであるマルクス主義共産主義と戦う日本国と昭和天皇を支持していた。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 日本の大陸戦争は、ソ連コミンテルン中国共産党・国際的共産主義勢力から天皇・国家・民族を守る為の積極的自衛戦争であった。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではい。
 日本軍は、戦場で敵兵とゲリラ・便衣隊・民兵を数百万人殺す戦争犯罪をおこなったが、同じ戦場の災害地では敵国の一般人や兵士を被災者として数千万人助ける人道貢献もおこなっていた。
 32年テーゼ。
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 バチカンは、満州事変を支持し満洲帝国を独立国家として公式に承認し、カトリック教徒が靖国神社を参拝する事を許し、そして反宗教無神論者から靖国神社を守った。
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2019年11月22日 三・一独立運動で日本にエール 法王は天皇に連帯を求めた 「軍服の修道士 山本信次郎」
 三・一独立運動で日本にエール 法王は天皇に連帯を求めた 「軍服の修道士 山本信次郎」
 ローマ法王の38年ぶりの来日を機に、『坂の上の雲』にも登場しながら、これまで知る人ぞ知る存在だった愛国のクリスチャン軍人、山本信次郎(1877~1942年)の初の本格評伝が出版された。本紙客員論説委員・皿木喜久著『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』(産経新聞出版)。カトリック教徒の海軍軍人として日露戦争を戦い、昭和天皇の側近として「バチカン」との架け橋となった人物だ。同書の中から、昭和天皇が皇太子時代に訪欧した際、朝鮮半島での「三・一独立運動」をめぐり、当時のローマ法王が皇太子に連帯を求めた秘話を抜粋した。ネットでのご購入はこちらへ。
●124代と258代、初めての出会い
 大正10(1921)年7月15日夕、皇太子・裕仁親王殿下の姿は、イタリア・ローマ市のテベレ川右岸のローマ法王庁にあった。
 いうまでもなく、後の昭和天皇である。まだ20歳になったばかりだった。陸軍正装に身を包み、初々しさを漂わせておられた。
 皇太子はこの年の5月から、イギリス、フランスなど欧州各国を歴訪中で、ローマ法王庁は、その最後の訪問地だった。
 ローマ法王庁が「バチカン市国」として、正式に独立するのはこの8年後のことだが、世界中の信者約3億人(当時の推定)というカトリックの総本山であることに、変わりはなかった。
 皇太子とその供奉員(お供)たちの一行を乗せた車は、サンダマン内廷の入り口に着いた。法王庁で最も有名な聖ピエトロ大聖堂の北側、バチカン宮殿の一角、法王の居室がある建物である。
 軍旗を持った儀仗兵が整列して出迎え、軍楽隊が「君が代」を演奏した。
 3階にある法王の居間まで階段を上っていく途中では、甲冑(かっちゅう)で身を固め、長槍を持ったスイス兵たちが先導し、一行はまるで中世のヨーロッパに来たような錯覚にとらわれた。
 居間の前に着くと、法王ベネディクト15世が部屋から出てきて、一行を出迎えた。法王は我が子のように、皇太子の手を握り書斎に招きいれる。
 7年前の1914年、法王に選ばれたベネディクト15世は66歳。西洋人としては短躯で、「慈愛に満ちて穏やかな」といった歴代法王のイメージとは異なり、鋭い眼光の持ち主だった。
 終わって間もない第一次世界大戦中に、和平をうながす回勅を出したり、戦後のヴェルサイユ条約の内容を批判したりした。表情さながらに、国際政治に対して、鋭い発言をしている法王だった。
 書斎に招かれたのは皇太子殿下と、「輔導(ほどう)」役として訪欧に同行している皇族の閑院宮(かんいんのみや)載仁(ことひと)殿下、それに供奉員中、唯一人のカトリック教徒である山本信次郎海軍大佐だった。
 山本はこのとき43歳。海軍兵学校から海軍大学を卒業したエリート軍人であり、日露戦争では旅順港閉塞作戦や日本海海戦にも参戦した「歴戦の雄」だった。だがそれより、山本の名が知られたのは「海軍一のフランス語つかい」「国際通」としてだった。
 少年時代、カトリック系の暁星中学で学び、洗礼を受けるとともに、寄宿舎で4年間、フランス人修道士らと寝食をともにするうちに、ナチュラルともいえるフランス語の語学力を身につけた。
 日本海海戦にさいしても、連合艦隊秋山真之(さねゆき)参謀とともに、降伏したロシア艦隊の艦船に乗り込み、フランス語で降伏条件の交渉にあたった。
 またカトリック信者だったことから、イタリア大使館付海軍武官時代は、ローマ法王庁内に太いパイプを築いていった。
 大正8(1919)年暮れ、皇太子にフランス語を「御進講」するため、東宮御学問所に御用掛として入っており、そのままフランス語通訳などとして訪欧に供奉していたのだった。
 その山本のフランス語の通訳により、皇太子と法王との会話はスムーズに進んでいった。
 「天皇陛下から、よろしくとの伝言があります」
 「ありがとうございます。陛下のご病状はいかがですか」
 この後、互いに土産物の贈呈が行われる。
 第124代の天皇となる皇太子殿下と、第258代の法王。建国以来、世界に冠たる伝統を誇る日本の皇位継承者と、キリストの弟子、ペトロ以来2千年近く、綿々とその地位を受け継いできたローマ法王との、初めての出会いだった。
 法王はここで「珍田(ちんだ)さんもお入りください」と、書斎の外に控えていた供奉長の珍田捨巳(すてみ)を招き入れた。
 珍田は駐米大使などを務め、「日本語よりも英語がうまい」といわれた外交官である。朴訥(ぼくとつ)とした人柄もあって、供奉長に選ばれていた。
 ■朝鮮独立運動で日本にエール
 皇太子の訪欧の過程を詳しく記録している『昭和天皇実録』は、このとき法王が語った内容について、多くを記していない。
 だが通訳にあたった山本信次郎は、帰国直後の9月5日、東京女高師で「東宮殿下の教皇庁御訪問」と題して講演(謹話)を行い、詳細に触れている。それによると、法王からは、儀礼的なものを通り越して、相当にきわどい政治的な発言が飛び出していた。
 法王がまず取り上げたのが、2年前の大正8(1919)年3月に起きた朝鮮半島での「三・一独立運動」だった。
 日本は明治43(1910)年、韓国を併合、ソウルに朝鮮総督府を置いて、朝鮮半島を統治下に置いた。
 当時の日本には、韓国を併合する合理的理由があった。だが当然のことながら、朝鮮人のこれに対する反発や、独立を求める声は強かった。それが表面化したのが「三・一独立運動」だった。
 3月1日、ソウルのパゴダ公園に集まった約2万人の学生や労働者が「独立宣言書」にあおられ、市内をデモ行進したのが、始まりだった。暴動は朝鮮半島全土に広がり、日本人の警察官などが殺害された。
 朝鮮総督府は武力鎮圧に乗り出し、同年5月ごろまでにはほぼ収まった。日本は武断政治を敷いてきた長谷川好道(よしみち)総督を更迭するなどして、事態の鎮静化につとめた。
 だがなお、独立派が海外で暴動を起こす気配があった。
 今回の皇太子訪欧をめぐっても、寄港する香港で、独立派の暴徒が皇太子を狙っている、とのうわさが流れた。
 珍田らは、皇太子の又従兄で体つきが似ている小松輝久(てるひさ)侯爵に、山本信次郎をつけて、皇太子のダミーとして先に上陸させた。その後に皇太子自身が秘かに艦を降りるという作戦をたてたのだった。
 つまり、日本にとっては重大な問題だったのだが、法王が話題にするとは、日本側にとって、意外だった。
 「この独立運動で、プロテスタントの牧師が、教会の地下室で不穏文書の印刷をさせたとか、暴徒に金を与えたといったことがあった。しかも彼らの『愛国運動』に加わらないと、非国民視され、いろいろと迫害を蒙(こうむ)ったにも関わらず、カトリック教徒はついに、これに参加しませんでした」
 「カトリックの教義教理は、確立せる国体、政体の変更を許しませんから、かかる結果をみたのです」
 「過激思想、社会主義等の険悪なる思想が社会を風靡(ふうび)しつつある今日、これに有効に抵抗しつつあるのは、わずかにカトリック教会のみであります。従って秩序を重んぜらるる日本と、カトリック教会とが、ともに手を携(たずさ)えて進むことも度々ありましょう」
 現代でもそうだが、極東の中でも、朝鮮半島キリスト教勢力が強い。「三・一独立運動」をめぐっても、プロテスタントの指導者らが加わっていたことや、カトリックが、独立運動とは一線を画していたことは、研究者の多くが認めている。
 だが、東洋の情勢についての法王の情報収集力と、緻密な分析には、山本らも舌を巻いた。
 さらに4年前起きたばかりのロシア革命を念頭に置いたように、「反共産主義」を明確に打ち出し、日本に連帯を求めた。この発言に、皇太子が力強く感じられたことも、間違いないだろう。
 ■誰も持ち得なかった「国際感覚」
 皇太子一行はこの後、法王庁国務省のガスパリ長官の案内で、宮殿内の大広間に向かった。そこにはフランス、スペイン、ブラジルなど各国の駐バチカン大使、公使など約50人が待っており、皇太子に拝謁した。
 皇太子やその一行は、法王庁の「ひと声」でこれだけ多くの外交団が集まるところに、ローマ法王の力を思い知ることになった。
 この法王庁訪問からちょうど60年後の昭和56(1981)年2月、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世が日本を初めて訪問した。
 皇居で法王と会見した昭和天皇
「(60年前のバチカン訪問は)大変いい思い出になっております」と、お礼を述べられた。これに対しヨハネ・パウロ2世は
 「日本は道義を重んじる立派な国で、大変尊敬しております」と応じた。
 昭和天皇は、この年の9月2日の記者会見でも、この法王庁訪問について触れられた。
 開戦直前の「杉山メモ」に関する質問に対しての、お答えだった。「杉山メモ」とは、当時の陸軍参謀総長杉山元が重要会議の中身を、参謀本部の部下に記録させていたもので、戦後に単行本として出版されている。
 その「杉山メモ」の昭和16年11月2日の項には、前日の国策再検討連絡会議について、東条英機首相らが昭和天皇に報告したさいの天皇の次の発言が記されていた。
「時局収拾に『ローマ』法皇(ママ)を考えてみては如何かと思う」
 記者から、この発言の真意を尋ねられた昭和天皇はこう、答えられた。
 「ローマ法王は世界の各国と深い関係があるし、その機関は平和的な機関ですから、平和に関する問題を解決するためにはこの機関と連絡することが必要だと思いましたので、それを東条総理に話したのです」
 さらにこう述べられている。
 「私はすでに、最初にヨーロッパを訪問してローマ法王と会ったときから、ローマ法王を尊重して、その機関と連絡をとりたいと常に考えておりました」
 昭和天皇は、同じ昭和16年10月13日にも、内大臣(戦前、天皇の側近として仕えていた職)の木戸幸一に対して、こう語られた。
 「開戦するにあたっては、戦争終結の手段をはじめから充分に考えておく必要がある。それにはローマ法皇庁との使臣の交換等、親善関係の方策をたてておく要がある」
 開戦直後には、そのお言葉通り、バチカン市国使節(公使)を派遣するよう、東条に事実上の指示を出されている。
 ローマ法王の影響力を重視、外交に生かそうという、恐らく日本人の誰も持ち得なかった世界観、国際政治観は、感性が柔らかい20歳のときに法王庁を訪れた経験から生まれたものだったのだ。
 だが、皇太子の法王庁訪問は、最初から予定されたものではなかった。むしろ急遽(きゅうきょ)企画されたものだった。
 ここで時計の針を4カ月余り戻してみたい。
 ※この記事は、『坂の上の雲』にも登場しながら、これまで知る人ぞ知る存在だった愛国のクリスチャン、初の本格評伝『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』(皿木喜久著、産経新聞出版)の序章から抜粋しました。ネットでのご購入はこちらへ。
 ■皿木喜久(さらき・よしひさ) 産経新聞客員論説委員。昭和22(1947)年、鹿児島県生まれ。京都大学文学部卒業。産経新聞社入社、大阪本社社会部、東京本社政治部、特集部長、論説委員長などを経て平成27(2015)年退社。現在、産経新聞客員論説委員新しい歴史教科書をつくる会副会長。主な著書に『大正時代を訪ねてみた』(産経新聞ニュースサービス)、『紅陵に命燃ゆ』(産経新聞出版)、『子供たちに伝えたい日本の戦争』『「令和」を生きる人に知ってほしい日本の「戦後」』(いずれも産経NF文庫)、『明治という奇跡』(展転社)。共著に『新聞記者 司馬遼太郎』(文春文庫)など。
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 松本佐保『ローマ教皇昭和天皇』(角川新書)
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 松本佐保『バチカン近現代史 : ローマ教皇たちの「近代」との格闘』(中公新書 ; 2221)
 内容
 フランス革命以降、「政教分離」を推進する近代国家の登場で、ローマ教皇は領土や権威を失っていく。20世紀に入り、教皇はイタリア政治に介入し続け、ムッソリーニの思惑もあり、バチカン市国が成立する。その後バチカンは、「反宗教」の共産主義を常に敵視。ナチスに秋波を送り、戦後は米国に接近、「人権外交」を繰り広げ、それは「東欧革命」に繋がった。本書は、カトリック総本山バチカンの生き残りを賭けた200年を描く。
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 昭和天皇、日本軍部が戦った敵とは、共産主義マルクス主義)勢力とアメリカ・プロテスタント諸派であった。
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 バチカンは、日本の味方であり、天皇のよき理解者であった。
 ローマ・カトリック教会と日本・天皇は、反宗教無神論マルクス主義共産主義勢力(ソ連コミンテルン中国共産党日本共産党、その他)の邪悪な攻撃から世界平和、善良な人々、宗教・信仰、良心、道徳、倫理、生命、尊厳、権利、自由、博愛などを守る為の神聖な協力関係にあった。
 ローマ教皇は、若き皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)に期待した。
 だが、キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストは、ヒロヒト皇太子を惨殺する為につけ狙っていた。
 ローマ・キリスト教は、日本皇室神道とは敵対していなかったどころか、むしろ古き伝統文化を維持してきた素晴らしい民族宗教であるとして敬意を持って尊重していた。
 皇室神道を否定する者は、ローマ教皇の意思とバチカンの決定に逆らう者である。
 戦後、靖国神社を守ったのは敬虔なカトリック神父であった。
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大正:1912年7月30日~1926年12月25日。
2018-09-16
☱2〕3〕─1─キリスト教朝鮮人テロリストは、日本国内に潜伏した。第一次世界大戦に参戦。大正2年~大正6年~No.2No.3No.4No.5No.6・ @ 
2018-09-17
☱4〕5〕─1─東京・朝鮮YMCA会館と2・8独立宣言。米騒動。シベリア出兵。大正7年・大正8年 ~No.7No.8No.9No.10No.11・ @ ① 
   ・   ・   ・   
日本統治下における朝鮮の近代医学と公衆衛生。
2020-06-16
☱6〕7〕─1─日本は朝鮮の疫病感染爆発を封じ込め朝鮮人の生命を守っていた。〜No.12No.13 
   ・   ・   ・   
朝鮮のスペイン風邪
日本における感染爆発は、人口約6,500万人で感染者約2,300万人。死者38万人~46万人。
世界では、総人口のおよそ3割にあたる5億人が罹患し、2,000万人~4,500万人が死亡。
2020-04-03
☱8〕─1─スペイン風邪で日本は善意から朝鮮人を助けた。大正7年~大正9年。〜No.14No.15・ 
  ・  ・  
朝鮮のコレラ流行
2020-05-08
☱9〕10〕─1─大正8年のコレラ日本陰謀説。英字紙による反日フェイクニュース。〜No.16No.17No.18No.19・ ② 
   ・   ・   ・   
3・1独立暴動(万歳事件)。特権階級両班(ヤンバン)による暴動。
2018-09-18
☱11〕─1─3・1独立暴動(万歳事件)。上海のフランス租界で大韓民国臨時政府樹立。斉藤実総督暗殺テロ未遂事件。大正8年。~No.20No.21・ @ 
   ・   ・   ・   
朝鮮人の民族大移動。
2018-09-19
☱12〕─1─貧困朝鮮人の日本への大移動開始。日本政府と朝鮮総督による移動阻止・密航取り締まり強化。大正9年~No.24No.25・ @ ④ 
   ・   ・   ・   
2020-03-28
☱13〕─1─尼港事件。日本人を虐殺した朝鮮人パルチザン。大正9(1920)年。〜No.26 
2020-05-26
☱13〕─2─尼港事件殉難者百回忌追悼法要と関東大震災朝鮮人犠牲者供養祭。〜No.27 ⑤ 
   ・   ・   ・   
日韓の犠牲者、皇族・梨本宮方子。
2018-09-20
☱14〕─1─日韓の架け橋・内鮮一体の犠牲になった皇族・梨本宮方子の悲劇。~No.28No.29・ @ 
2019-01-05
☱14〕─2─慶州ナザレ園の李方子。在韓日本人妻達と混血児は、日本国家から見捨てられ、韓国人家族から悲惨な仕打ちを受けていた。~No.30o.31・ @ ⑥ 
   ・   ・   ・   
朝鮮人テロル。
2018-09-21
☱15〕16〕─1─皇太子裕仁殿下欧州外遊中暗殺未遂事件。東京市電運転手連続殺傷事件。朝鮮総督府爆弾事件。大正10年~No.32No.33No.34No.35・ @ 
2018-09-22
☱17〕─1─田中義一軍事参議官爆殺未遂事件。親日派晋王子毒殺疑惑。日本国内に反日朝鮮人地下抵抗組織は80以上あった。大正11年~No.36No.37・ @ 
2020-05-23
☱18〕─1─日本人海賊による大輝丸事件。大正11(1922)年~No.38No.39 
2021-08-12
☱19〕─1─河合栄治郎は尹潽善との日本の朝鮮支配正当論争で英国聴衆の賛同を得た。大正11年。~No.40  
2018-09-23
☱20〕─1─日本警察と憲兵隊は、朝鮮人テロリストの摂政宮裕仁皇太子暗殺計画情報を得て警戒を強化した。義烈団。大正12年~No.41No.42・ @ ⑦ 
   ・   ・   ・   
関東大震災
2018-09-24
☱21〕─1─関東大震災。上海のキリスト教朝鮮人テロリストは、皇族を暗殺するべく大震災後の東京に潜入した。大正12年9月~No.43No.44No.45・ @ 
2018-09-28
☱21〕─2─自然災害被災地で犯罪行為を行う民族と行わない民族。~No.46・ @ 
2021-03-05
☱21〕─3・A─関東大震災地震兵器、朝鮮人惨殺。日本におけるデマ・流言飛語と陰謀論。~No.47No.48 
2021-09-01
☱21〕─3・B─マスコミの取材手法は今も同じ」関東大震災で最悪の"朝鮮人デマ"。~No.47No.48 
2023-08-03
☱21〕─3・C─関東大震災と福田村惨殺事件。大正12(1923)年9月6日。~No.47No.48 
2023-08-08
☱21〕─3・D─昔の福田村事件と将来の首都直下地震南海トラフ巨大地震、富士山噴火の共通性。~No.48 
2023-08-21
☱21〕─3・E─関東大震災での災害デマは日本民族の「不安遺伝子」が原因であった。~No.48 
2023-08-31
☱21〕─3・F─関東大震災100年:朝鮮総督府「殺害された朝鮮人813人」~No.48 
2023-09-01
☱21〕─3・G─関東大震災朝鮮人を殺した日本人もいれば助けた日本人もいた。~No.48 
2023-09-04
☱21〕─3・H─関東大震災での「朝鮮人虐殺」の責任者は誰なのか。~No.48 
2023-11-01
☱21〕─3・I─福田村事件。日本人同士による虐殺の原因は部落民差別、人間差別である。~No.48 
2023-11-15
☱21〕─3・J─日本人自警団の自然災害時における危うい「正義」の行使。~No.48 
2023-12-26
☱21〕─3・K─関東大震災朝鮮人虐殺100周年」。日本に謝罪を強要する韓国。~No.48 
2024-01-31
☱21〕─3・L─関東大震災における中国人・朝鮮人虐殺事件は労働・雇用問題が原因であった。~No.48 
2018-09-25
☱21〕─4─虎ノ門事件。摂政宮裕仁皇太子暗殺謀議事件。二重橋爆弾事件。テロリスト集団=韓人愛国団・義烈団。大正12月9月25日~大正14年~No.49No.50No.51・ @ ⑧ 
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 ウィキペディア
 反宗教主義(はんしゅうきょうしゅぎ、英: Antireligion)とは、宗教に反対する思想のことである。ヨーロッパではフランス革命を機に政治の実際の政策に登場するようになり、マルクスがそれを評価したことで、その後の社会主義にも反映されていった。
 ただし無神論に基づく棄教運動もあれば、理神論に基づく古い宗教の改革運動もあり、内容は一概には言えない。
 マルクス主義と反宗教主義
 一部のマルクス主義者は宗教に対して否定的な立場をとることがある。実際、ロシア革命以降、ソ連アルバニア中華人民共和国などの共産主義国家において、政策として宗教が弾圧され、聖職者が殺害されたり教会が破壊された。
 その根拠としては、カール・マルクスが、宗教を阿片になぞらえたことが挙げられることがある。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序論』(1843年)に「宗教は悩める輩のため息、心なき世の情であり、またそれは魂なき場の魂である。宗教は民衆の阿片である」とあるが、この文章に先立ち、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリヒ・ハイネ1840年の著作『ルートヴィヒ・ベルネ回想録』第4章に「苦しむ人々のため苦い盃に、甘く眠りを誘う数滴、つまり精神の阿片を、愛と希望と信頼の数滴を注ぐ宗教万歳」という文章がある[3]。またそのハイネに先立ちノヴァーリスの断章集『花粉』(1798年)に「彼らが宗教と呼ぶものは、ただ阿片のように、心を掻き立て、気を鎮め、弱さからくる痛みを和らげるよう作用するのみである」[4]との文章がある[5]。
 この阿片については『ヘーゲル法哲学批判序論』に痛み止めである旨の記述もあり、当時の緩和医療での疼痛などの痛み止めとして使用される医薬品の意であり、「麻薬」を強調したものではなかった。
 マルクスが宗教を阿片になぞらえた1840年代当時、阿片を違法薬物として見る見方は一般的ではない(例として、反ドラッグ法の制定は1875年である)。マルクスは宗教を批判もしたが、それは支配層の支配の維持に宗教が利用されているという指摘であり、宗教が「痛み止め」として民衆の精神に与える効用は部分的に肯定している。阿片になぞらえたことをもってマルクスが宗教を完全否定したと解釈するのは後の時代の歪曲である。
以上の見解は日本共産党がたびたび公表しているものである。
 マルクスの宗教批判と唯物論の核心部分は『ヘーゲル法哲学批判序論』において、フォイエルバッハの宗教批判を念頭に、「ドイツの理論がラディカリズムである明白な証明、したがってその理論の実践的エネルギーの明白な証明は、その理論が宗教の決定的な、積極的な揚棄から出発したところにある。宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教えでもって終る。」の箇所にある。ヘーゲルは『歴史哲学講義』において「宗教のはじまりは、人間をこえたものが存在するという意識にあります」とする。フォイエルバッハマルクスの主張は理論的に宗教の存在の余地を許さないものであり、ただ現世においては「幻想的幸福」としての宗教が民衆に必要とされているという現状を認めることが宗教を阿片になぞらえることの真意である。 さらに「幻想的幸福」である宗教を揚棄し、「現実的幸福」を要求する社会の実現のためには「プロレタリアートが従来の世界秩序の解体を告げる」のであり、「哲学がプロレタリアートのうちにその物質的武器を見いだすように、プロレタリアートは哲学のうちに精神的武器を見いだす」としてマルクスは革命の主体としてのプロレタリアートを措定し、武力による革命を肯定している。
 日本共産党は宗教界への浸透を意図しており、宗教界においては注意が必要である。
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 1989年1月7日 天皇のご逝去に際して
 常任司教委員会 諸文書 日本司教団関連文書
 神父様、修道院長様
 第二バチカン公会議は、他宗教との対話を推進するよう教えています。この精神をもって、神道を正しく理解し、神道の教える正しい宗教心に対して尊敬を払うことは大切ですが、日本古来の神道と、明治以降、特殊なかたちで天皇制と結びついた「国家神道」とは明確に区別して考えなければなりません。
 国家神道の時代には、日本人のみならずアジア諸国の人々までが天皇とその国に対する絶対の従順を強いられましたが、このように、人間や人間の作った制度を絶対化することは、それがいかなるものであっても、私たちとしては認めることはできません。
 敗戦後、新憲法のもとで、主権は国民のものとなり、天皇は、国の象徴、国民の統合 の象徴とされました。
 しかし、過去のいまわしい時代に逆もどりする危険を絶えずはらんでいます。司教団 は、1980年、靖国神社の国営化に関する法案が国会に提出されるという状況において、それに反対する意思を公にしましたが、それは、この危険を感じていたからですし、今もそれを感じています。
 そこで、昭和天皇の逝去、新天皇の即位に際しては、次の点に配慮していただければ幸です。
1.教会として、天皇個人の永遠の安息を祈ることはふさわしいことです。
2.教会は、現行憲法における天皇制の是非について一つの立場をとりません。したがって、日曜日のミサを追悼ミサにしたり、特別の行事をしたり、政府、自治体、地域、各種団体などの行事にカトリック教会として名を連ねたりしないことが望ましいです。
3.しかし、信徒に対しては、具体的な行動について指示をせず、各自の良心の判断と心情を尊重してください。
4.なお、教区司教の指示があるときは、これに従ってください。
  民族の固有の文化、伝統、生活習慣を尊重し合わなければなりません。民族的な 統合秩序を持つ共同体としての国家の存在を認めることも大切です。しかし、少数であっても日本に住む他の民族の方々とともに生きていく道を探すことが日本 のこれからの課題です。
 昭和天皇の葬儀、新天皇の即位、それをめぐっての政治、社会の動きの中で、被 造物を神格化したり、相対的なものを絶対化したり、特殊なものを普遍化したりすることのないよう注意しましょう。そして、すべての民族、国家とともに世界 の平和に貢献する決意を新たにしましょう。
 昭和天皇のご逝去に際して
 日本カトリック司教協議会
 常任委員会
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 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部
植民地期朝鮮における宗教をめぐる「眼差し」 —宗教政策・植民地布教・学知—(川瀬 貴也)
 本論文は、日清戦争の前後から一九三〇年代までの朝鮮において、日本の諸宗教(特に仏教とキリスト教)がいかなる「植民地布教」活動を行ったのか、そして統監府・朝鮮総督府の宗教政策はいかなるものであったのかという問題意識を中心に据えつつ、当時の日本人、特に宗教家や学者などが構築した「朝鮮人像」「朝鮮宗教観」がいかなる性質を持ち、当時の社会や政策と絡み合って、いかなる影響を日本人・朝鮮人の双方に及ぼしたのかを探る試みである。このことは、日本人が「朝鮮」という「他者表象」を通じてどのような「自画像」を描き出したのかという問題と言い換えることも可能であろう。
本論文の構成は以下の通りである。
 第一章においては、日本の統治機構(統監府・朝鮮総督府)の宗教政策の法令の性格を分析しつつ、同時に日本仏教の朝鮮布教を―特に真宗大谷派を中心に―考察していく。日本が「植民地帝国」になっていく過程で、日本仏教もその範図に足跡を残したのである。本章においては彼らの残した「言説」を追うことで、当時の日本の仏教者の「朝鮮観」「朝鮮人観」を解明することを試みる。この作業は換言すれば「帝国」の一臣民であった彼らの自画像の一端の解明でもあるだろう。
 第二章では、日本キリスト教の朝鮮に対する「眼差し」を、主に各宗派の機関誌に掲載された言説を検討・再構成することによって明らかにする。日本キリスト教も、第一章で取り上げた日本仏教同様、帝国日本の版図が広がるのに従い、その活動領域を広げていったが、実は日清・日露戦争のころから、「帝国」的な欲望が胚胎していたことがその論説から読み取れる。本章ではそのような日本キリスト教が内在させていた「欲望」のありかと、それに対抗するいわば「反主流派」との論争を、植民地期朝鮮における最大の布教宗派であった日本組合教会内部に見る。そして、それと対照するべく、教派を離れて個人伝道をしていた人物を取り上げ、その植民地伝道の性格を問う。一九三〇年代後半、「神社参拝決議」によって戦時下協力体制下に入るまでの日本キリスト教会及び朝鮮キリスト教会の動きも追跡する。
 第三章においては、日本人の「眼差し」に貫かれていた朝鮮人の「主体性」を問う。具体的には、一九一九年の三・一独立運動時に逮捕された天道教幹部たちの「声」を裁判記録から拾い、彼らがどのような文明観、宗教観、国家観、対日観などを内面化していたかを再構成する。彼らの「反応」を通じて我々は、当時の朝鮮人の「宗教」や「文明」をめぐる言説のアリーナでの「葛藤」の一端を知ることができるだろう。
 第四章では、京城帝国大学教授であった高橋亨の言説を追い、朝鮮人、朝鮮宗教に対する「眼差し」のあり方、そしてその学知の生成現場を考察する。植民地における「学知」の形成は植民地研究の大きなテーマであるが、本論文においては、本章で、その「典型例」と目される高橋亨の学問の性格について検討する。我々はそこに「原住民」を表象する際に、宗主国人のいかなる「欲望」が刻印されるかを見ることになるだろう。
 第五章においては、「心田開発運動」政策というイデオロギー政策を中心に考察を進める。この政策は、戦時期総動員体制直前に国民統合を図るべく企図された政策の一つと思われるが、本章ではその性格と実態を、主に総督府に動員された当時の学者、知識人、宗教家の言説を引用することによって明らかにしていく。また、心田開発政策を朝鮮総督府の宗教政策の一翼を担った運動として捉え、当時の宗教観や日本人の朝鮮人観も視野に入れつつその特徴を剔出する。また本章の後半においては、それに続く総動員体制下の言説を概観する。
 「宗教」をめぐる様々な立場の人々の「声」を取り上げ、その声が重なり合う「場」としての「植民地朝鮮」を設定すること。その「多声的な現場」の再構成が、本論文の最終目的である。
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 日本共産党
 3・1独立運動とは?
 〈問い〉 戦前の朝鮮半島で起こった三・一独立運動とは、どんな運動だったのですか。(兵庫・一読者)
 〈答え〉 三・一独立運動とは、一九一九年三月一日のソウルでのデモ行進をきっかけに、朝鮮半島全体に広がった、日本の植民地支配からの独立を求める大衆的な示威運動です。
 三月一日、ソウルのパゴダ公園(塔洞公園)で集会が開かれ、朝鮮の独立と朝鮮人民が自由民であることを宣言した「朝鮮独立宣言書」が読み上げられました。この「独立宣言書」には日本の留学生の運動も影響を与えています。そして「独立万歳」の叫びとともにデモの隊列がソウル市内に繰り出しました。当時ソウルには、かつて韓国皇帝だった高宗の葬式に参加する人々が集まっており、これらの人々も合流して行進は数十万人にふくれあがりました。その後五月まで各地で大規模なデモ行進などが展開され、参加者は百万人とも二百万人ともいわれます。
 日本の天皇制政府は、憲兵や警察、軍隊を動員して発砲など武力で弾圧し、武装した民間人も刀剣などでデモ行進に襲いかかり、多くの人々が虐殺されました。村人らを教会におしこめて、銃撃したうえ放火し殺害した「堤岩里事件」などはその一例です。故郷で集会を組織し十六歳で獄死した、ソウルの梨花学堂(現在の梨花女子大学)の女子学生、柳寛順など多くの犠牲者が語りつがれました。
 日本は一八七六年、武力による威嚇で朝鮮に不平等条約をおしつけると、王妃の閔妃虐殺など内政干渉をし、朝鮮が一八九七年に国号を大韓としてからも、「保護条約」おしつけで外交権などを奪い、一九一〇年にはソウルを軍隊で包囲し、併合条約調印を迫って韓国を併合して、朝鮮総督府を置きました。三・一独立運動を弾圧した後も、一九四五年まで植民地支配を続けました。
 現在、パゴダ公園には、三・一運動を描いたレリーフが置かれています。
 (博) 〔2002・2・28(木)〕
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 しんぶん赤旗 日本共産党
 2014 とくほう・特報
 日本の侵略戦争
■第4回■ 「韓国併合」と植民地支配 (下)
 湧き起こった「独立万歳」
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写真
 (写真)柳寛順ら多数の人びとが獄死した西大門(ソデムン)刑務所正面跡。現在は近代の韓国史を伝える歴史館になっている=ソウル
 韓国の民衆の独立運動は、日本による「併合」後も、地殻変動のエネルギーが蓄えられるように消すことはできませんでした。
 全半島に三・一運動
 その頂点に位置するのが、1919年3月1日にソウルで始まり、全半島にひろがった「三・一独立運動」です。1917年のロシア革命の成功、その指導者レーニンアメリカ大統領ウイルソン民族自決の理念を主張したこともこの三・一(サミル)独立運動や中国での抗日の五・四運動に影響しました。
 19年1月、日本の侵略にさまざまな抵抗を試みた前皇帝・高宗(コジョン)の死を一つのきっかけとして、朝鮮民族あげての独立運動が一挙に湧き起こりました。民族宗教ともいうべき天道教キリスト教、仏教の指導者が「独立宣言」を起草。ソウル市街の中心部にあるタプコル公園で、学生代表がその宣言文を朗読、読み終えると「独立万歳」(トンニップ・マンセー)の声が高々と上がり、太極旗を持った人びとが隊列を組んで街中に出て行ったといいます。
 同公園の石碑に刻まれた宣言文は次のように始まります。
 「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に教え、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである」
 在日韓人歴史資料館館長で歴史家の姜徳相(カン・ドクサン)氏はいいます。「三・一運動憲兵政治の支配のもとで、いわば入れ物の水がいっぱいになってあふれでるようにして起きたもの。同時に、第1次世界大戦末期のロシア革命や中国革命の進行、ウイルソン民族自決権の宣言にも影響をうけています。被抑圧民族の解放という世界史の歩調と足並みをそろえる方向に展開したのです」
 (写真)独立を求める民衆と日本憲兵の弾圧を描いたタプコル公園のレリーフの一つ。写真は、慶尚南道の普州でのキーセン(妓生)の行進
 非暴力・女性の活躍
 三・一独立運動は非暴力の運動でした。当初、この動きを察知できなかった総督府はうろたえましたが、にわかに軍隊を出動させ、武器を持っていない行進者に銃剣を向け発砲しました。なかでも凄(せい)惨(さん)を極めた事件の一つに堤岩里(チェアムニ)事件があります。ソウルの南にあたる水原(スウォン)地方の運動を鎮圧するために派遣された日本軍は独立運動に参加した人びとを「訓示する」といってキリスト教会に集め、建物に火を放ちいっせい射撃で皆殺しにしました。29人が犠牲になりました。
 三・一独立運動では女性がめざましく活躍しました。その一人、柳寛順(ユ・グァンスン)は“朝鮮のジャンヌ・ダルク”といわれます。当時、梨花学堂(現梨花女子大学校)に在学中の16歳の少女でしたが、休校にされると郷里の天安(チョナン)にもどって市場で人びとと独立行進をしてその先頭に立ちました。憲兵の発砲で両親は死亡、彼女は首謀者として逮捕され懲役刑に。しかし「日本人にわれわれを裁く権利はない」と法廷・獄中闘争をやめず、度重なる拷問がもとで、西大門(ソデムン)刑務所で18歳の生涯を閉じました。
 タプコル公園では各地の独立運動の群像が10枚のレリーフになり、その姿を伝えています。
 三・一運動後のたたかいは、朝鮮と国境を接する「満州」間島での独立運動、中国・上海での臨時政府などに引き継がれます。
 「戦時動員」「皇民化
 民族あげての三・一独立運動などによって、日本の植民地支配は一歩後退を余儀なくされ、従来の「憲兵警察政治」(武断統治)を、親日派の育成を含む「文化政治」に改めることになります。
 しかし、1931年の「満州事変」、37年の日中全面戦争が起きるとその文化政治も続けられなくなり、「戦時動員体制」、野蛮なファシズム体制へと転換します。この体制は、日本への米輸出を増大させ韓国の人びとを疲弊に追いやった「産米増産計画」などの物資面にとどまらず、労働力・兵士の確保に及びました。労働力不足になった日本の炭鉱、鉱山、軍事施設などに多数の朝鮮人労働者を強制的に動員したこともその一環です。その数は百万人以上といわれます。
 ソウルの「朝鮮神宮」をはじめ各地に2000以上の神社をつくり天皇崇拝の参拝を要求するなど「皇民化政策」をすすめました。その具体化として日本語の「国語常用」、「創氏改名」、「色衣奨励」(韓国の伝統的な白い衣装から色の着いた衣装に替える)をすすめました。
 1936年に関東軍司令官から朝鮮総督になった陸軍大将・南次郎(のちにA級戦犯)は、朝鮮での徴兵制実施、昭和天皇行幸を目標にかかげ、小学校での朝鮮語の廃止など「内鮮一体化」の名で民族抹殺政策を推進しました。
 姜徳相氏は「日中全面戦争の開始以降はとくに、『校門は営門(兵営の門)につうじる』として小学校での日本語教育を徹底して、長ずれば日本の兵士になれるようにした。私も中学生で日本の必勝を疑わなかったし陸軍幼年学校を希望していた。少国民教育は恐ろしい効果を持っていました」といいます。
 韓国・朝鮮では徴兵制によって44年から終戦まで、40万人の青年が日本の軍人・軍属としてアジア・太平洋戦争に動員され、そのうち2万人が犠牲になりました。(樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』総和社
 また、日本軍の統制と監督下で「慰安所」がつくられ多くの朝鮮人女性が本人の意思に反して軍「慰安婦」となることを強制されました。日本政府が慰安婦制度の真実を正面から認め、「河野談話」が表明した痛切な反省と心からのおわびにふさわしい行動をとることが求められています。
 1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏した日、韓国にとっては植民地支配から解放され、民族の独立を回復する「光復」の日を迎えました。ソウルの街は歓喜に沸き、「万歳」(マンセー)、「万歳」の声が響きわたりました。
  (山沢猛)
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 カトリック中央協議会
 日本カトリック正義と平和協議会会長談話「3・1独立運動100周年を迎えて」
 2019/03/05
 諸文書 日本司教団関連文書 諸外国司教協議会文書 日本カトリック正義と平和協議会
 日本カトリック正義と平和協議会会長談話
 「3・1独立運動100周年を迎えて」
 今年の3月1日は、日本からの独立を求め朝鮮半島全土で人びとが立ち上がった3・1独立運動から100周年です。1919年3月1日、日本の植民地下ソウル・パゴダ公園で宗教指導者らを中心に独立宣言書が発せられ、数万人の市民がソウル市内を「独立万歳」の叫びを挙げながら行進しました。この動きは朝鮮半島全土に波及し、200万人の人たちが立ちあがったといわれます。
 この3・1独立運動に象徴される朝鮮半島の人たちの植民地支配からの独立・解放への血のにじむ闘いと抵抗の精神は連綿と受け継がれ、近年のキャンドル行動や南北平和に向けた運動にも引き継がれているといえるでしょう。
 韓国司教協議会会長談話
 ところで、韓国カトリック司教協議会会長を務めるキムヒジュン大司教は、2月20日に3・1運動100周年について「3・1運動の精神の完成は真の平和」というタイトルの談話を発表しました。そこでは「100年前に多くの宗教者が独立運動に参加した歴史的事実を、私たちは覚えています」としながらも「しかし、その歴史の現場でカトリック教会が自分のなすべき役割を果たさなかったことを告白します。…韓国カトリック教会は、時代の兆候を正しく見ないまま、民族の苦しみと痛みを無視し、捨ててしまった過ちを慚愧の思いで省察し反省します」とされます。独立宣言書の作成には、天道教(15人)、プロテスタント(16人)、仏教(2人)が参加しましたが、そこにカトリック者の名前はありませんでした。それは「朝鮮王朝後期における過酷な迫害を経験して、ようやく信仰の自由を得た韓国カトリック教会は、当時、困難で骨の折れる時期を過ごしました。それゆえ、外国の宣教師で構成される韓国カトリック指導部は、日帝の強制併合に伴う民族の苦しみと痛みについても、教会を維持して信者を保護しなければならないという政教分離政策を掲げ、解放を宣言しなければならぬ使命を無視したまま、信者の独立運動への参加を禁止し」たからであり、さらに「後には、信者に日本の侵略戦争に参加することや神社参拝を勧告することまでし」たと言われます。
 しかしながらキム大司教は「私たちは、3・1運動の精神を受け継ぎ、お互いの相違が差別と排斥ではなく、対話の出発点となる世界で、戦争の不始末を越えて、真の懺悔と赦しとして和解をなす世界を作ろうとします」、「韓国カトリック教会は、過去を反省して、信仰の先祖たちに恥ずかしくない子孫となり、朝鮮半島に真の平和をもたらし、さらにアジアと世界の平和に貢献することができるように祈り、絶えず努力します」と強調します。
 日本の責任
 ひるがえって今年の3月1日は、私たち日本のカトリック教会にとっても、歴史を直視し、朝鮮半島を初めとするアジアの人々と平和をいかに築くのかを問い直すべき日でしょう。日本のカトリック教会は、植民地時代の韓国カトリック教会に大きく関与しましたし、日本の侵略戦争への協力を信者に促したことについても責任があります。さらに1945年に植民地から解放された後の朝鮮戦争と南北分断の根源にも、明治以来の日本の侵略政策という歴史があります。
 現在また、政治において日韓政府の間は緊張していると言われますが、私たち日韓のカトリック者は、同じ平和の福音のもとに集うイエス・キリストの弟子・兄弟姉妹として、日本の過去の加害の歴史を見つめながら、文化・宗教など市民によるさまざまな交流を深めていくことがたいせつです。それが100年前に朝鮮独立運動に立ち上がった人々、そして現在、朝鮮半島と東アジアの平和を祈り願う人々に対して、私たちが今果たすべき応答ではないでしょうか。
 普遍的呼びかけとしての3・1宣言書
 3・1宣言は、次のように呼びかけます。
 「日本は、朝鮮との開国の条約を丙子年(1876年)に結び、(朝鮮を自主独立の国にするという約束は守られず)そこに書かれた約束を破ってきた。しかし…わたしたちは、自分たち自身をはげまし、立派にしていこうとしていて、そのことを急いでいるので、ほかの人のことをあれこれ恨む暇はない。…日本の政治家たちのために、犠牲となってしまった、現在の不自然で道理にかなっていないあり方をもとにもどして、自然で合理的な政治のあり方にしようとするということである。
 …ああ、いま目の前には、新たな世界が開かれようとしている。武力をもって人びとを押さえつける時代はもう終わりである。過去のすべての歴史のなかで、磨かれ、大切に育てられてきた人間を大切にする精神は、まさに新しい文明の希望の光として、人類の歴史を照らすことになる。新しい春が世界にめぐってきたのであり、すべてのものがよみがえるのである。酷く寒いなかで、息もせずに土の中に閉じ込もるという時期もあるが、再び暖かな春風が、お互いをつなげていく時期がくることもある。いま、世の中は再び、そうした時代を開きつつある。そのような世界の変化の動きに合わせて進んでいこうとしているわたしたちは、そうであるからこそ、ためらうことなく自由のための権利を守り、生きる楽しみを受け入れよう。そして、われわれがすでにもっている、知恵や工夫の力を発揮して、広い世界にわたしたちの優れた民族的な個性を花開かせよう」(外村大・東京大学教授訳)。
 すなわちこの独立宣言書は、日本を非難断罪するためでなく、差別や民族の自己決定権を奪い取る植民地主義の克服という、より崇高な人類普遍の理想実現への呼びかけ・招きです。そしてこれは韓国・朝鮮の人びとのみならず、100年後の今を生きる世界のすべての人にとっても、記憶し、想起されるべき内容を含んでいます。
 それゆえ、私たち日本のカトリック教会信徒も、韓国カトリック教会とともに、この「宣言書」のめざす地平を見つめ、国家よりも人類、またキリスト者として、東アジアと世界の平和と人間の尊厳を尊重し合っていく人間の歩みを前進させることを祈り求めましょう。
 2019年3月1日
 日本カトリック正義と平和協議会会長
 勝谷太治司教
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 クリスチャン新聞
 【予告】それは、日本で起きた 新年特集 2・8独立宣言と3・1独立運動から100年2018年12月21日 【予告】それは、日本で起きた 新年特集 2・8独立宣言と3・1独立運動から100年2018-12-21T10:39:30+09:00お知らせ, ニュース
 2019年は「東アジアの年」になりそうだ。すでにいくつかの国際的なキリスト教団体で東アジア規模での集会が企画されている。100年前、日本をめぐる問題で、朝鮮では3・1独立運動、中国では五四運動が起きた。特に3・1独立運動については、その「導火線」となった2・8独立宣言が日本で宣布された。署名者にはキリスト者もいた。逮捕者が出たが、吉野作造大正デモクラシーに関わった日本の知識人、キリスト者が支援した。同宣言宣布の舞台となった、東京・千代田区の在日本韓国YMCAを訪ねた。
 2019年1月6、13日号(2018年末発行)で紹介します。
 〈紹介する記事〉
○ それは、日本で起きた 2・8独立宣言の舞台 在日本韓国YMCAを訪ねる
○日韓で2・8、3・1集会
 【東京】3・1独立運動100周年記念 特別講演会(明治学院大学 キリスト教研究所、 国際平和研究所共催)1月26日
 【東京・大阪・韓国】2・8独立宣言100周年記念国際シンポジウム(在日本韓国YMCA2・8研究会主催)▽東京=2月9日、▽大阪=2月15日、韓国=1月22日、ソウルで開催予定
○2・8研究会座長・李省展氏に聞く
 二項対立超え、世界視野で学びを
 「現代も聞くべき内容がある」
3・1独立運動と日韓、そして東北アジア
 寄稿 李清一(イ・チョンイル、在日韓国キリスト教会館名誉館長)
▽週刊クリスチャン新聞はウェブ版(有料)を配信▽
有料版(ウェブ版、毎号発行日前々週の金曜日)では週刊クリスチャン新聞各号の全記事とバックナンバーをご覧になれます。
 ウェブ版→ http://クリスチャン新聞.com/csdb/
 【関連記事】
○100年迎える3・1独立運動と2・8独立宣言を学ぶ。在日韓国YMCAで研究会とシンポ2018年11月28日
○南北・東北アジア平和共同体構築に向け日韓協力 大韓赤十字社 朴庚諸会長大阪で講演2018年11月26日
○寄稿 新しい東アジアの状況展開とキリスト教 朝鮮半島の南北首脳会談、米朝首脳会談を考える 徐正敏(明治学院大学教授、同キリスト教研究所所長)2018年7月1日
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 ウィキペディア
 三・一運動(さん・いちうんどう、サミルうんどう、朝: 삼일운동)は、1919年(大正8年)3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動
 独立万歳運動(どくりつばんざいうんどう)、己未独立運動(きびどくりつうんどう、기미독립운동)とも。日本では、朝鮮騒擾事件(ちょうせんそうじょうじけん)、萬歳騒擾事件(ばんざいそうじょうじけん)、万歳事件(ばんざいじけん)、三・一独立運動(さん・いちどくりつうんどう、サミルどくりつうんどう)とも呼ばれる。
 現在の韓国では肯定的に評価され、3月1日を「三一節(朝: 3·1절)」として政府が国家の祝日に指定しており、同日には現職大統領が出席して演説を行う記念式典が開催されるなどしている。
 逆に北朝鮮では、「失敗したブルジョワ蜂起」と否定的な評価をしているなど、今なお敵国同士である南北での認識に差がある。
 概要
 第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより"十四か条の平和原則"が発表された。これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京府東京市神田区(現:東京都千代田区神田駿河台)のYMCA会館に結集し、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。この時の「二・八独立宣言書」は金瑪利亜(金マリア)によって日本から朝鮮に運ばれた。一方民衆では、スペイン風邪の誤った対応のため民心は悪くなり、日本が朝鮮王を毒殺したという噂が広まった。これに呼応した朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の各宗教指導者ら33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ、行動計画を定めたとされる。
 3月1日から3月14日までの間に、鎮圧に軍も出動し、朝鮮人の死者数千人、負傷者1万数千人がでている。一方、日本人死者10人、 負傷者15人が出ている。
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 提岩里教会事件(ていがんりきょうかいじけん)[1]は、1919年4月15日、日本統治下の朝鮮京畿道水原郡郷南面提岩里(現在の華城市郷南邑提岩里)で、三・一独立運動の最中に生じた事件。暴動を指揮した29名の朝鮮人が殺害された。
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