☵12〕─4─韓国の癒やされる事のない反日感情の原因は日本と戦争をしなかったからである。~No.83 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 韓国・朝鮮が心の奥深くに蠢くドス黒い禍根は、全ての責任を取り、最悪のリスクを覚悟して侵略戦争をした事がないことである。
   ・   ・   ・   
 古今東西、富強奪や領土拡大の欲望に駆られて侵略戦争をした国が大半で、侵略戦争をしなかった国は少なかった。
 インドシナ半島の諸王朝は、領土を取り合う激しい対外戦争を繰り返していた。
 侵略戦争をしなかった国をあげるとすれば、朝鮮半島の諸王朝である。
 同様に、朝鮮半島の諸王朝は国土防衛の自衛戦争も占領軍を暴力で追い出すような武装抵抗運動もした事がない。
 つまりは、諸王朝は非武装非暴力無抵抗の理想的な平和国家であったといえる。
   ・   ・   ・   
 日本のように武芸を生業とした武士・サムライは、朝鮮にはいなかった。
 儒学において、武官・軍官・軍人は差別される下級職であり、人徳と教養ある人物が就く職業ではないと無学文盲の小人が就く下賤職とされた。
 その為に、韓国人や朝鮮人の父母・祖父母・曾祖父母などの祖先は、昔の日本人に比べてはるかに卑屈で惨めなほど臆病であった。
   ・   ・   ・   
 強いて朝鮮が国家意思で侵略戦争を行ったのは、応永26(1419)年に世宗大王が命じた日本・対馬侵略の応永の外寇(がいこう)である。
 前期倭寇とは、蒙古侵略でモンゴルの威を借りた高麗兵に虐殺された対馬壱岐・北九州などの日本人による復讐・報復であった。
 蒙古侵略は、文永11(1274)年と弘安4(1281)年の2回で、日本は夥しい犠牲を出しながら蒙古・高麗連合軍を撃退して、母国日本を守った。
 後期倭寇は、中国人や高麗人が多数で日本人は少数であった。
 世宗大王が日本侵略の大義名分にした倭寇討伐は、後期倭寇で日本人の倭寇ではなく悪辣・陰険な言いがかりであった。
   ・   ・   ・   
 豊臣秀吉の唐入り・朝鮮出兵は、文禄1(1592)年と慶長1(1696)年であった。
 西洋は、大艦隊で大軍を渡海させた軍事力とそれを可能にした経済力から日本を世界7大帝国の1つと認め、日本海を日本の海であるとして名称を与えた。
 海の名称をつける権利は、その海を大艦隊で武力支配している国にあるというのが世界の常識であった。
 故に、日本海の名称は歴史的に日本海であって地理的な東海ではない。
 元を正せば、日本海縄文人の海であった。
   ・   ・   ・   
 日本と朝鮮との争い関係で先に手を出したのは、朝鮮であって日本ではない。
   ・   ・   ・   
 日本の脅威は、中華帝国・中国ではなく、海峡を挟んだ朝鮮半島であった。
 朝鮮の脅威は、海の外にある日本ではなく、陸続きの中華帝国・中国であった。
 中華帝国・中国の脅威は、日本や朝鮮半島ではなく、北のモンゴルと西のチベットウイグルであった。
 東アジアで略奪と虐殺を繰り返してきた邪悪な侵略国家は、中華帝国・中国であった。
   ・    ・  ・   
 日本は、中華の臣下を拒絶し、天皇を擁立して自主独立を守るべく抵抗した。
 朝鮮は、礼法の国として終生の忠誠を誓った。
 朝鮮の恨・怨と大国への事大主義・日本への夜郎自大は、自分で作り出し消せない宿痾となった。
 韓国・朝鮮の激しい反日感情はこうして生まれた。
   ・   ・   ・   
 2019年12月号 Hanada「韓国よ、歴史の真実を学べ
 エドワード・ルトワック  取材構成 奥山真司
 朝鮮半島4つの選択肢
 ……
 現状維持以外の3つの選択肢は、すべて日本にとって望ましくない。4つのどれも最悪のなかで最も『マシ』なのが、現在の朝鮮半島の状況を維持することだ。私はかつて、日本は北朝鮮に対する先制攻撃能力を持つべきだと提案した。しかし、北が核ミサイルを完成させた以上、日本が現実的に取りうる選択肢は、分断朝鮮の維持しかなくなった。
 ここまで来た以上、日本の外交は柔軟かつ受動的になるしかない。これが私の分析である。
 日韓衝突は韓国の問題
 韓国の行動の基本は、従属相手を切り替える点にある。彼らは日本に従属したあと、アメリカに従属した。そして、いまや中国に従属しようとしている。
 韓国のやり方を間近に見てきた日本の皆さんはすでにお分かりと思うが、日韓関係というのは外交問題ではなく、二国間交渉では解決できない。これは韓国自身の問題なのだ。そのことは、ドイツが欧州で直面した歴史問題と比較してみると、分かりやすいと思う。
 第二次世界大戦が終わるまでに、ドイツはロシア人を2,000万人以上殺害した。1945年の終戦から10年経っても、ロシアの反ドイツ感情はまだ激しかった。
 それから70年以上経過した現在、ロシアでは反ドイツ感情はすでに消え去っている。
 韓国人の日本への反感は、74年経ってもいまだに残っている。これは一体なぜなのか?理解するには、ドイツとオランダの関係と比較していく必要があるだろう。
 ドイツが戦時中に殺害したオランダ人の数は、ロシア人と比べれば非常に少なかった。むろん戦争が終わる最後の6ヵ月間、オランダは苦しめられたが、これは食料が底をつきかけていたからだ。
 オランダ人はほとんど殺されなかったにもかかわず、ドイツ人への憎しみを解消するまで、ロシア人よりはるかに長い時間がかかった。その最大の理由は、ロシア人はドイツと戦ったが、オランダ人はそうではなかったからだ。
 ドイツ人はロシア人を殺し、ロシア人もドイツ人を大勢殺した。そして戦後、お互いに『もう戦いはやめよう』となったわけだ。
 フランス人は遅かったが、それでも一応ドイツに抵抗した。ベルギー人の抵抗の仕方は巧みで、ドイツが作った秩序を崩壊させている。デンマークは国民レベルで抵抗して、非常に効果的だった。ノルウェーにはレジスタンスの戦士がおり、占領に来たドイツ人をしっかり攻撃した。
 ところが、オランダ人は臆病者で、抵抗しなかったのである。オランダ社会はドイツに服従し、対独協力が大々的に行われた。たとえば、ドイツはオランダ警察を頼って、オランダ国内のユダヤ人を逮捕している。
 若いオランダ人たちは、自分の父親たちが臆病者であったからこそ、戦後に反ドイツ的な感情を持ち続けたのである。
 私の子供時代の体験もこれを裏付ける。両親は戦後、1960年代に車で私をオランダ沿岸部への旅行に連れていってくれた。
 そこかしこにあった民宿の入り口には、もれなく『ドイツ人お断り』という看板が掲げられていた。
 同じ時期、私はユーゴスラビアダルマチア地方の沿岸部にも連れられていってもらったことがある。当時、私たち家族はイタリアに住んでいたので、車で遠出することができた。
 こに地域は第二次世界大戦中、ユーゴスラビア王国とドイツとの激戦地で、戦死者もたくさん出たが、ユーゴの人々はドイツからの旅行者を大歓迎していた。
 その理由は、ドイツ人がユーゴ人を殺し、ユーゴ側もドイツ人を大勢殺したからだ。彼らは決して臆病者ではなく、立ち上がり、戦ったのである。誰も自分たちの父を恥じることなく、誇りを持てた。だからこそ戦後、ドイツ人に対して友好的になれたのである。
 韓国人のトラウマの構造
 これらを踏まえて、朝鮮問題を考えてみよう。韓国や北朝鮮で制作されたプロパガンダ映画は数多い。勇敢な朝鮮兵、韓国兵が無法で残虐な日本軍を撃退する、というワンパターンのストーリーだ。だが、1945年までの朝鮮半島で、実は抵抗運動(レジスタンス)と呼ばれるようなものはほとんど発生していない。朝鮮人たちは概して服従的だったのだ。
 むしろ多くの人々は、服従以上の態度で自発的に日本に協力し、日本軍に積極的に志願したのである。その数は80万人にのぼるが、そのなかには朴槿恵(パククネ)前大統領の父親・朴正熙(パクチョンヒ)元大統領も含まれていた。
 彼は日本名である『高木』を名乗り、自分に血でしたためた血判状をもって、当時の満州国の軍官学校、陸軍士官学校に志願し、入学した。極めて優秀な成績だったという。
 私は、彼らが暗殺される数ヵ月前に会ったことがある。1979年、私と夕食をともにした席で、彼は若い頃の夢について語った。それは日本軍の勲章をもらい、大佐として退役することだった(実際は中尉で退役)。
 2019年の韓国に話を移そう。韓国人はいまだに、自分たちの父親や祖父たちが臆病者で卑屈だったという心理的トラウマに悩まされている。これはオランダ人のケースと同じだ。
 ロシア人やユーゴスラビア人、そして静かだが強力に抵抗していたベルギー人とも事情は異なる。
 ベルギー人の抵抗について付言しておけば、彼らはたしかにドイツと戦闘こそほとんどしていないが、ドイツへの妨害、サボタージュは完璧だった。ドイツ人がオランダとベルギーを占領したあと、地元の警察に『ユダヤ人を逮捕して収容所行きの列車に乗せろ』と命じた。
 ベルギーは第一次世界大戦の開戦直後、ドイツの侵攻で占領された。次に第二次世界大戦でも同じだった。そのおかげで、ベルギーのおばあさんたちは見抜かれないような偽文書作りの能力を身につけた。彼らは『ドイツ人の騙し方』を学んだのだ。
 ベルギーはとても小さな国で、ユーゴスラビアの山岳地帯のように、隠れて抵抗運動を続けられる地理的な環境もない。それでも、彼らは非常に効果的に抵抗した。『ドイツの言うことを聞かない』ことだけを狡猾に行ったのである。
 ベルギーにはドイツから逃げてきたユダヤ人だけでなく、非ユダヤ系だがナチスに反対するドイツ人も多く住んでいた。反ナチスのドイツ人たちは、ヒトラー政権の下で、オランダとベルギーに逃げ、ベルギーは彼らを守った。
 これは、ベルギーによる静かな抵抗の多くの実例の一つにすぎない。ベルギー政府はドイツに『ノー』とは言わなかったが、決してドイツの望むことはしなかった。
 しかし、オランダはドイツに協力して逃亡者たちを逮捕し、引き渡した。彼らは強制収容所に送られ、オランダに逃れた人々はことごとく死んだ。
 オランダは、まるでドイツの使用人のように振る舞っていた。だからこそ戦後、ドイツ人を長期にわたって憎み続けることになった。
 1945年以降のオランダ政府の国民に対するメッセージは、二つの嘘で塗り固められていた。第1に、戦時中、ほとんどドイツに抵抗運動(レジスタンス)がなかったにもかかわず、話を膨らませて大々的に抵抗していたかのように装ったこと。
 そして第2に、対独協力は個別のケースで存在したが、政府ぐるみで協力していた事実はなかったとしたことだ。
 これが完全に嘘であることは、アンネ・フランクが逮捕された事実を考えればよく分かる。彼女の家族は逃げて居場所を隠したにもかかわず、誰かがオランダ当局側に居場所を教えたのだ。これはオランダ人社会に、大規模なドイツへの協力組織があったことを示している。
 そして、これは大きな政治的副産物を生んだ。オランダは、ドイツが北大西洋条約機構NATO)に加入するのを拒否したのである。NATOはドイツを必要としていた。なぜなら当時の西ドイツは、社会主義東ドイツと国境を接する、西側の最前線に位置していたからだ。
 ところがオランダは、独自の反ドイツ感情に突き動かされて、ドイツのNATO加盟を阻止しようと運動したのである。
 韓国人たちと同じように、オランダ人の反ドイツ感情は長年にわたって維持されたのだ。
 スウェーデンの偽善
 もう一つ別の例が、スウェーデンである。第二次世界大戦中、ドイツがヨーロッパ中で行っていた非人道的な行為に対して、この国は消極的な傍観者の立場を変えなかった。
 スウェーデン人は、自分たちを世界で最も偉大で人道的であるかのように見せたがる。最近の例は、国連の地球温暖化サミットの演説で注目を集めたグレタ・トゥーンベリという女子高校生だ。彼らは常に世界に対して人道主義を説き、人類を救済し、地球を救えと主張する。
 ところが、第二次世界大戦中の人道の危機に対して、彼らは何もしていなかった。ただ戦況をながめて、優雅にパンを食べていた。
 そして、事態を傍観するだけではなく、莫大な量の鉄鉱石をドイツに売ったのだ。ナチスはそれを鉄鋼に変え、銃や戦車にした。最も人道的なはずのスウェーデンが、ドイツの兵器の材料を提供していた。
 さらに、ドイツ人が同じスカンジナビアの兄弟国であるノルウェーを占領した時、スウェーデンはまったく助けず見殺しにした。それだけではない。事後に占領地のノルウェーに向かうドイツ軍に、自国を横断する鉄道を使わせて、国内を楽々と通過させた。彼らはノルウェーを裏切り、ドイツに部隊輸送の協力をしたのである。
 戦後、たとえば1953年頃になると、ヨーロッパの多くの国でドイツをすでに許していたが、スウェーデンはオランダと同じように、超がつくほどの反ドイツ感情を保持していた。
 戦争中、彼らはオランダ人と同じように臆病者で、ナチスに協力していた。戦後のスウェーデンは世界に道徳を説いてきたが、彼らの実際の大戦中の行為は、きわめて非道徳的だった。逆説的だが、だからこそ道徳的高みに立ちたがるのである。
 スウェーデン企業や財界人のなかには、大量の物資や資源をドイツに売ることで、戦時中、非常に経済的に豊かになった者が数多くいた。ナチスの金塊の多くが、最終的にスウェーデンに渡っていたことはよく知られている。彼らはドイツに積極的に協力したからこそ、戦後になって激しい反ドイツ感情に転じたわけである。
 韓国人にも同じことがあてはまる。韓国の行動は、一見すると不可解なところがある。ところが注意深く比較すてみると、その本質は、ドイツに対する欧州各国の態度と同じであると分かる。
 戦時中にドイツに協力的だった国こそ、本当に反ドイツ的な態度をとるようになる。
 スウェーデン人は、自らを世界の人道主義の守り手であり、それ以外の国々は自己利益を追求する強欲な人たちであるかのように主張する。戦争終結までドイツに積極的に協力していたからこそ、戦後になると『ドイツはひどい国だ!』と非難して回るようになった。オランダ人も従僕のようにドイツに協力したため、戦後は『ドイツ人お断り』に転じた。
 韓国人の反日心理
 それと同じ構図で、韓国が抱える問題も韓国人の内面に起因する。つまり、戦後生まれの息子たちと、その父親や祖父たちとの関係であって、外交や二国間交渉で解決できる問題ではない。
 つまり、これは心理的な問題だ。自分たちの恥である祖父の世代の奴隷的な態度を隠したい、忘れたい一心なのである。
 ここに新たな問題の根がある。今日の韓国は、従属的相手を切り替えて中国の従僕になろうとしており、そこに戦略的な問題が出てくる。それは韓国が、アメリカの主導する反中国・封じ込め同盟に参加できないことを意味するからだ。
 この同盟は、日本、オーストラリア、インド、ベトナムによって構成されるインド太平洋地域の戦略的枠組みである。
 米国が構築に努力している新たな同盟関係で、韓国の立場はASEANにおけるカンボジアのそれとよく似ている。ASEANは東南アジア諸国がまとまって中国の影響力に対抗する意味をもつが、カンボジアは中国の従僕なので、その結束を弱めるように動いている。
 中国に忠実なカンボジアは、ASEAN全体が合理的な政治声明を発表しようとしても、そこに反中の臭いをかぎつければ必ず否決に回る。
 ここで紹介してきた60年前のヨーロッパの歴史は、現在の韓国の状況に、2つの点で教訓となっている。第一に、日韓関係は外交問題ではないこと。日本は関係改善のためにあらゆる努力を試みてきたが、問題の本質は日韓の間にはなく、韓国人の世代間ギャップ、つまり現役の世代と、その父や祖父たちとの間に横たわる問題だ。自分たちの祖先が、日本の統治時代に臆病者として行動したことへの反発なのである。
 第二に、非常に残念なことだが、韓国はもはや米国や日本と過去に結んでいた関係には戻らないことが明白になった。彼らに中国に抵抗する意思はなく、一方的に従属しつつある。韓国が米日との同盟関係から離脱すれば、戦略的での悪影響は大きい。
 苦悩に満ちた再評価の義務
 韓国のなかにももちろん、このような中国接近の動きを阻止したいと考える人もいるだろう。それはそれで素晴らしいことである。
 だが、米日からの離反と中国への従属を本当に止めたいなら、韓国人は歴史問題について、フランスがドイツに示したような態度に変わらなければならない。戦争が終わった数年後には、もう『過去を忘れて未来に生きよう』と態度を改めたことだ。
 フランスでは戦時中、実に多くの一般人がドイツの軍需工場で半強制的に働かされていた。
 現在のフランス政府が、このような過去の不幸に遭遇したフランス人に損害賠償するよう、ドイツを非難する声を上げることはない。
 ドイツがフランスに対して実際に行った行為は、日本の朝鮮半島での行いよりもはるかに過酷だった。道を歩いていた人を連行して働かせた。ドイツ人はフランス人を追放し、射殺し、フランス国内から馬車3万両分の財宝を奪っている。小麦から鉱物資源、美術品からトラックまで、ありとあらゆる財産を略奪したのだ。
 しかも、ドイツはフランスで学校を建設するようなことをしなかった。
 一方、日本は朝鮮半島のインフラを整備し、京城帝国大学や多くの学校を作った。
 ところが2019年現在、ドイツに対する公的に損害賠償を要求する人がいれば、フランス国内では変人扱いされるようになっている。
 こうした状況から、実に多くのことが見えてくる。日本の外交官は韓国との関係を改善しようと、ありとあらゆる手を尽くした。両国間の歴史問題を解決するため、彼らは懸命に任務をこなしてきた。とこおが、その努力はすべて無駄だった。
 なぜだろう?それは、韓国側が『苦痛に満ちた再評価』(agonizing reappraisal)をしなければ何も始まらないからだ。これをシンプルな言葉で言い換えれば、『認めたくない自分の姿や立場を直視する』ことだ。これは実に苦しい作業であるが、韓国自身がこのプロセスを開始しなければ、日韓関係は何も変わらないのである。
 韓国は日本人に、歴史の真実と向き合うように要求してきたが、実は歴史を直視しないと問題解決できないのは彼らなのである。
 すなわち韓国人は、まだ生き残っている父たちの世代の記憶や死んだ祖父たちの記録と対話することによって歴史の真実を知り、過去を直視しなければならない。彼らはそこで、ようやく正しい軌道に乗ることができるのだ。
 オランダ人は韓国人と同様に、『苦悩に満ちた再評価』の努力をしなかったため、彼らの心理の奥底に弱さを抱えることになった。表面上は、ドイツ人に対する反発の感情は、30年ほどでオランダ人から消えた。韓国のように、70年以上も騒ぎ立てることはしなかい。
 しかし、ドイツに対する表立った反感は消えても、オランダ人の心のなかにはその問題が熾火(おきび)のように残り続けている。たとえば対独協力者の行動は、いまだに続々と文書記録から発見され、史実であることを裏づけている。
 歴史的事実を直視せよ
 以上の私の分析は、日韓関係とは何の関係もなく、未来に向けていかなる解決策も示していないように思われるかもしれない。しかし私は、ヨーロッパの歴史問題が示唆するように、日本側にも具体的な解決策はあると考えている。
 それは、日本政府は日韓にまつわる近現代の歴史の真実について、真剣に研究する本物の公的プロジェクトに資金を提供することだ。忙しい外交官でも、歴史的な事実が彼らの仕事に大きな影響を及ぼすものであることを知っている。
 その唯一の問題解決策となるのが、調査研究によって、懸案となっている日韓関係史の本当の姿を浮かび上がらせることだ。
 『苦悩に満ちた再評価』のプロセスは実に難しいものだが、オランダでは1960年代後半からようやく始まり、オランダ国内でも、公式見解とは違う歴史観が浮上することになった。
 それは、歴史の事実を示す1つひとつのエピソードが具体的に浮かぶ上がることから始まった。公式見解では『レジスタンスは大規模に行われていた』とされていたが、時が経つほど、それを否定する具体例がどんどん出てきたわけだ。
 ドイツのために働き、ドイツのために盗みを働いたようなケースが研究論文として文章化され、積み上げられた。それが『歴史の重み』となって、従来の政府見解の嘘を覆すようになった。
 韓国においても、こうした対日協力の具体的検証は必要だが、同時に日本側が朝鮮半島の開発や発展にどれだけ大きな貢献をしたかを、事実を積み上げていくことも大事になる。インフラ、経済、教育、司法、実に様々な制度を近代化させたからだ。
 先述したように、日本は朝鮮半島に数多くの教育機関を建設した。ソウル大学の前身は京城帝国大学だったことは、日本でもよく知られている。日本側の貢献や、朝鮮人の対日協力の事実を一つひとつ、記録から明らかにし、それを積み重ねることによって、公式の『抵抗の歴史』の嘘を暴き、韓国人の歴史の真実を直視されることができる。
 朴正煕のケースから始めてもよい。彼は日本の奴隷ではなかった。日本が朝鮮半島の発展に尽くした功績を認めていたからこそ協力した事実を、韓国人は自覚するべきなのである。
 もちろん、単に腐敗していたから日本に協力した者もいるし、強者に従属する心理もあったはずだ。それでも多くの人々は、日本が朝鮮社会を現実に発展させていると信じたからこそ、前向きに協力したのである。
 私はここまで、比較歴史の観点から韓国問題を分析した。もし本稿で提案した歴史調査委員会のとうな組織ができれば、中立の立場の私がその代表に就任してもよい」
   ・   ・   ・   
 日本と韓国の関係は、如何様にしようとも、どう工夫しようとも、ドイツとフランスの関係のように理解と和解はありえない。
 不可能である。
   ・   ・   ・   
 「日本は歴史的和解をしたドイツとフランスに見習って韓国と和解すべきである」、と真顔で話す人間、特に日本人を信用しない方がいい。
 何故ならそうした日本人は、歴史も世界もそして社会さえも理解する能力がないからである。
 特に、人前に立つような地位・立場・職種にある高学歴出身知的エリートであるならなおさら信用しない方が身の為であり、本心を疑って話を聞いた方が安全である。
   ・   ・   ・   
 フランスとドイツは敵国同士として長年戦争を繰り返し、お互いが相手国を侵略し、相手の国民を殺し、相手国の領土を奪って自国領とした。
 ナポレオン戦争ではフランス軍が勝利し、普仏戦争ではドイツが勝利し、第一次世界大戦ではフランスが勝利した。
 第二次世界大戦では、緒戦でドイツ軍が勝利し、最終的にフランス軍が勝利した。
   ・   ・   ・   
 死を覚悟して戦わない者、危険を冒さない者、リスクを取らぬ者には、発言権はおろか以下なり権利も例え人権さえも認められない。
 つまり、逃げ回るだけの「負け犬」は軽蔑され差別され迫害されるのが不変の真理であ、自然界の掟である。
 自然に生きるとはそういう事である。
   ・   ・   ・   
 韓国・朝鮮が、激しい反日国民情緒を国際世論に訴え、被害者として世界の同情を得て隠したい過去が2つある。
 1つ目は戦前に日本に協力して多少なりとも利益を得ていた事、2つ目は焦土となった敗戦国日本で行った数々の非人道的凶悪犯罪事件である。
   ・   ・   ・   
 現代日本護憲派非武装中立派、非暴力無抵抗派、自衛隊反対派、日米安保反対派、人道派、反戦平和市民団体は、戦争をしなかったオランダ人的生き方を理想としている。
 彼らは、侵略してきた外国軍(例えば中国軍)に対して抵抗せず、武器を捨て、友人となって酒を飲みながら談笑すると主張し、子供たちに平和の尊さを戦争の愚かしさを教えている。
 たとえ臆病者、卑怯者、裏切り者、売国奴と非難され辱められ侮辱されようとも勇気を出して「人を殺さない」と、それが彼らの信仰的信念である。
 リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育関係者など、高学歴出身知的エリート層にそうした人々が多く含まれている。
   ・   ・   ・   
 韓国・朝鮮の正統性は、日帝植民地支配・日本統治による悪の時代に対する謝罪と賠償金を日本に強要する事で成立する。
 韓国・朝鮮の正統性は、反日意識という一点にしか存在しない。
 日本と和解し反日意識を捨てたら、唯一絶対にして不動不変・神聖不可侵の正統性の根拠が消えてしまう。
 そして、1965年6月に調印したの日韓基本条約及び請求権協定によって日本政府の経済支援と日本企業の技術支援で経済発展をとげ今日の経済国家を造り上げたという現実を隠す為に、国家間の協定を破棄して徴用工問題などで日本を告発し、謝罪要求と賠償請求を行っている。
 韓国・朝鮮にとって、過去も現在もそして未来においても日本には良い所はなくすべて悪である。
 それ故に、日本に対する謝罪要求と賠償金請求を引き出す告発材料は無限に生産され、なくなる事はない。
   ・   ・   ・   
 地政学的に、古代から朝鮮半島は日本の安全保障の要であり、日本列島の喉仏に突き立てられた毒薬が塗られた鋭利な短剣であった。
   ・   ・   ・  
 日本国内には、昔から、日本の安全や存続を脅かし、天皇・皇室を消滅させようとする反日外国勢力に味方し協力し利益を得ようとする功利的日本人が少なからず存在する。
   ・   ・   ・   
 江戸後期・幕末から明治にかけての弱小国日本は、北の大国ロシアの侵略から母国日本・神国日本を守る為に、清国(中国)と朝鮮とによる三国攻守軍事同盟を望んでいた。
 朝鮮は大国に依存し寄生しながら生きてき為に、弱小国日本からの呼びかけを拒絶し、日本と戦う大国の清国(中国)やロシアに味方した。
 軍国日本は、日本の生存を脅かす敵国に味方し、日本軍を撃破しようとする敵軍に協力する朝鮮を処分する為に、併合して地上から消し去った。
 日本は日本人の犠牲を払い、日清戦争で朝鮮を1000年近い中国の属国から独立させ、日露戦争大韓帝国身分保障と国際的信用を与えていた。
 大韓帝国(朝鮮)は、日本によって外交権を剥奪されているにもかかわらず、日本の目を掠めてハーグ万国平和会議に密使を送って密告外交を展開し、外交・軍事・経済で日本を懲らしめてくれる反日的西洋大国を探し回った。それが、ハーグ密使事件である。
   ・    ・   ・   
 日本と朝鮮は戦争をした事がない。
 強いて言えば、豊臣秀吉の唐入り(明国侵攻)の為に朝鮮に派兵した、その一件だけである。
 東アジア史からすれば、周辺異民族による中国侵略・中国征服とは、時代を前に進め、東アジアを統一・発展・進歩させる為に必要な正当な歴史であった。
 つまり、東アジア史から見れば日本には罪はない。
   ・   ・   ・   
 朝鮮では、日韓併合や万歳暴動事件以降は平穏であった。
 朝鮮人は大人しく・従順に日本統治を受け入れ、反日抗日の暴力や武力による反抗・抵抗・闘争などの運動を起こさなかった。
 それどころか、朝鮮や朝鮮人は諸手を挙げて賛成し、日本に積極的に協力し、日本以上の日本人になろうとした。
 朝鮮人の、対日積極的協力者は少数派で、多数派は消極的傍観者であった。
 日本人青年は、一等国民の義務として赤紙一枚で戦場に送り出され、虫ケラのように戦闘死・餓死・病死などで無惨に死んでいった。
 朝鮮人青年は、二等国民の不適格者として兵役が免除され、そのかわり日本国内の工場や鉱山で重労働に従事し、賃金と食事を得て働き、朝鮮の貧しい家族に送金していた。
 日本は、民族差別として、生き残れる朝鮮人を死ぬ運命の日本人と同じように扱わなかった。
   ・   ・   ・   
 大正・昭和初期における軍国日本の大陸侵攻は、ソ連コミンテルン中国共産党などの共産主義勢力の侵略から日本天皇・日本国・日本民族を守る積極的防衛戦争であった。
 ソ連コミンテルンは、日本人民を圧制者天皇から解放する為に天皇制度を打倒し皇室を消滅させる暴力革命を起こすように、中国共産党日本共産党、隠れマルクス主義者等に命じた。
 ソ連コミンテルンが消滅しても、天皇根絶・日本崩壊は今もなお日本を含む東アジアに亡霊となって存在し徘徊している。
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 軍国日本・日本軍部は、孤立無援の中で、一人で、孤独に、彼らと死闘を繰り広げていた。
   ・   ・    ・   
 軍国日本の積極的祖国防衛戦争の中心点に位置していたのが朝鮮半島である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人と朝鮮人との祖先は、同種同族ではなく別系統のアジア人である。
 異種異族である以上、行動、気持ち、考え方、好みなど全ての面で異なるアタに為に、幾ら話し合っても理解し合う事はない。
 「同じ人間だから心を尽くして話し合えば必ず分かり合える、理解してもらえる」は、嘘である。
 「人は分かり合えない」事は、儒教価値観が支配する中華文明圏の歴史が証明している。
   ・   ・   ・   

🎌7〕─5─家元とは血筋を根拠にした血族主義と血統主義による世襲制度である。〜No.47No.48No.49 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 皇室と天皇制度を廃絶するなら、民族文化の伝統である、世襲の家元制度を破戒し、血筋を正統性の根拠とする血族主義と血統主義も消滅させる必要がある。
   ・   ・   ・   
 穢れた身分低い芸能の民は、先祖の芸・芸風を受け継ぎ伝え残す為に、芸・芸風を守り維持するべく血族主義と血統主義で宗家を選び、世襲の家元制度をつくった。
 宗家・家元制度とは、排他的閉鎖的な世襲制度であった。
 日本社会は、世襲制度が多数派であった。
   ・   ・   ・   
 世界の伝統芸能・伝統演劇は、才能のある人間が個人として再演していて、芸能や演劇を創作した人物の子孫は芸や芸風を残す事に関与していない。
   ・   ・   ・    
 宗家は、血筋を根拠とした家名、屋号、名跡で受け継がれていた。
 歌舞伎で言えば、市川家・成田屋市川団十郎、尾上家・音羽屋・尾上菊五郎、などである。
   ・   ・   ・   
 家元制度の中には、歌舞伎のように女人禁制が存在する。
 現代では、その逆で男子禁制も存在する。
   ・   ・   ・   
 親の七光りは、親が生きていればこそである。
 親が亡くなれば、親の七光りも消える。
   ・   ・   ・   
 家元の原型は、天皇家・皇室である。
 天皇家・皇室は、日本民族の伝統文化である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、混血の雑種民族である。
   ・   ・   ・   
 2019年5月2日 朝日新聞「新時代・令和 これからの天皇
 伝統を継ぐ者同士として  観世清和 能楽観世流26世宗家
 学習院初等科のころ、新天皇陛下には同じ『伝統文化』の世界に身を置く者として、ある種の励ましをいただいたことがあります。
 小さいころから父のつける厳しい稽古がありましたから、『放課後遊び、今日どう』と陛下に誘われても『父のお能のお稽古があるので』とお断りすることがよくありました。そんなある時、陛下に『わかった。お能のお稽古、大事だよね』とお声をかけられたことがありました。
 その瞬間、陛下も日本の伝統文化という、自分と同じ世界に身を置いておられるんだ、という共通の感覚のようなものを感じました。子ども心に、僕も頑張らなくちゃ、と。それが今の私の能楽人生の宝となっております。
 伝統は、先代が私に乗り移り、私が息子に乗り移り、そのようにしてつないでいくものなんです。我が家は観阿弥世阿弥から700年近く、父から子へと血縁で受け継いできた家なのですが、文字どおり、子は親の生き様をよく見ておくことが求められます。あの日、あの時、父はこうやっていたな、と。
 それも、父や祖父のやっていたことをただまねするだけではだめなんです。なぜそうしたのかと疑問をもたないと。そこから自分ならではのもの生まれてくる。上皇さまと新天皇陛下の関係も、これと同じではないかと推察いたします。
 伝統の重みは陛下も日々感じてこられたでしょう。私の場合、父の急死で31歳で家元を継承しましたから当時は無我夢中です。少し経ってじわじわとプレッシャーが追いかけてきました。まだ教わっていないこともありましたから。父の残した書き置きを、穴のあくほど読み返しました。
 『そこは先代はこうやっていた』と、長老方にも色々言われました。父親と比べられては、息子はたまったものではないですよ。でも、そうやって先代と比べてもらえることは、徳を積む一種の手段と考えれば、ありがたいことと、考え方を改めました。
 59歳といえば世間ではそろそろ定年退職し、ペースダウンさせた第二の人生を踏み出す時期です。陛下はそのお年で、これから、今より重い天皇のおつとめを始められる。
 でも、伝統文化の世界では実は年齢は関係ないのです。50、60は鼻たれ小僧、80くらいにならないと一人前ではありません。しかも家名を襲名すると、重い名前を継ぐことで責任が増し、舞台も磨かれてゆく、『皇太子殿下』から『天皇陛下』に変わられ、いわば家名襲名、これからが、本番でございます。
 そのために欠かせないのは健康です。昨年お会いした時、どうぞ、お体に気をつけてと申し上げましたらね、陛下に『あなたもね』と。(聞き手、斎藤智子)」
   ・   ・   ・   
 家元制度
 技能文化における一流一派の統宰者を家元という。その家元が免許状発行権を独占し、壮大な家元文化社会を構成したものを家元制度という。家元ということばの初見は、法隆寺鵤(いかるが)文庫蔵『年会日記』正徳(しょうとく)3年(1713)7月26日条によると、1689年(元禄2)で、法隆寺東大寺薬師寺などへ成人後僧となる少年を入寺させる権利を所持する家を意味した。また、先祖の墓を守る本家とか、武芸根源の本家、商家の根源本家などにも家元とよばれるものがあるが、史上重要なのは芸能諸流の家元である。この芸能家元の初見は、1757年(宝暦7)に成る馬場文耕(ぶんこう)の著『近世江都著聞集(こうとちょもんじゅう)』である。しかしその実体としての起源は平安時代にあり、公家(くげ)・社寺などに属した雅楽の家々、二条家・冷泉(れいぜい)家など歌の家、紀伝・文章(もんじょう)・陰陽道(おんみょうどう)の家などができた。鎌倉時代には、弓・馬の小笠原(おがさわら)家、衣紋(えもん)の高倉家などが成立、南北朝時代から戦国動乱期にかけて、能狂言の家や、浄土真宗本願寺、ならびに、貴族社会に香、書、歌、神楽(かぐら)、郢曲(えいきょく)、琵琶(びわ)、和琴(わごん)、蹴鞠(けまり)、鷹(たか)、神祇(じんぎ)、装束(しょうぞく)、庖丁(ほうちょう)、卜筮(ぼくぜい)などの家が確立して、秘伝の免許体系を整え、盛んに伝授するに至った。17世紀初頭に全国城下町に多数の武家貴族が創出され、これが江戸に参勤することなどにより、この大人口の新興武家貴族が、武芸ならびに遊芸を盛んに稽古(けいこ)するようになり、武芸には弓、馬のほかに砲術、剣術、槍術(そうじゅつ)、忍術、柔術その他多くの武芸の家元が成立した。また、香、茶、花なども前代未聞(みもん)の隆盛をみるに至り、茶道、香道、花道などのことばが用いられるようになり、日本の芸道がこの時代に成立するに至るのである。
 18世紀を迎え、三都を中心として、さらに全国の都市に富裕町人が多数成立すると、この町人たちが家元の遊芸文化に殺到して、盛んに茶、花、俳諧(はいかい)、音曲などを演じ、その人口は莫大(ばくだい)なものになっていった。こういう現象が成立するようになって、町人社会の稽古事(けいこごと)が隆盛化し、免許状を家元から直接伝授されることを希望する者が増大することとなり、やがて、家元が免許権を独占し、古代以来の免状伝授法に革命現象がおこることとなった。つまり、免許皆伝を受けた者は自分の高弟にさらに免許皆伝する権利をも与えられていた古代以来の完全相伝形式が否定され、町師匠(名取(なとり)師匠)は教授権のみを与えられ、いっさいの免許権は家元が独占するようになったのである。これが家元制度で、18世紀中ごろから町人社会に行われた茶道、花道、香道、音曲などの諸流に盛んに普及し、19世紀に入ると、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛などの雅楽三管の家々まで家元制度を結成するに至った。さらに邦楽諸流をはじめ、あらゆる遊芸文化社会に大小さまざまの家元制度が出現した。
 明治以降もこの体制はほとんど変化なく存続したが、1955年(昭和30)ころまでは、これらの家元制度の大人口はほとんどすべて男性によって構成されていた。それが昭和30年代を迎えると、あらゆる芸能諸流に女性が殺到し、家元制度文化社会はたちまち女性に独占される状態となり、現代では、茶道、花道はいうまでもなく、能楽の謡(うたい)や演能にまで女性の進出は目覚ましいものがある。日本には、家元といわなくても、その実体が家元制度に酷似した講道館(柔道)とか、日本棋院囲碁)、その他多くの擬似家元制度があり、これらをも含め家元制度は、日本独特の文化社会をつくりだしている。[西山松之助]
川島武宜著『家元制度』(『イデオロギーとしての家族制度』所収・1957・岩波書店) ▽西山松之助著『家元の研究』(1959・校倉書房) ▽西山松之助著『現代の家元』(1962・弘文堂) ▽西山松之助著『家元制の展開』(1983・吉川弘文館) ▽西山松之助著『家元ものがたり』(中公新書)』
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
   ・   ・   ・   
 家元
 日本古来の芸道で,流派の正統としての権威を受継ぎ,流派の門弟を統率する家もしくはその当主をいう。すでに平安時代から,歌道や雅楽の分野に家元が形成され,戦国期には武芸の家元が現れたが,江戸時代には広くさまざまの芸道分野に,この制度が展開して今日にいたる。家元は,統制,教育機関を通じて全門弟にその権威を及ぼし,流派の諸芸の免許を与え,その流派にそむいた門弟を破門する。舞踊,邦楽,茶道,歌舞伎や,音曲,その他さまざまの分野にみられる制度である。なお,舞踊などでは流派によって家元とは別に宗家を立て,兼任する場合や家元引退後に宗家を名のる場合がある。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 デジタル大辞泉の解説
 いえ‐もと〔いへ‐〕【家元】
 技芸の道で、その流派の本家として正統を受け継ぎ、流派を統率する家筋。また、その当主。室町時代に始まり、江戸時代に諸芸道の発展とともに、能楽狂言・舞踊・音曲・香道・茶道・華道・武道などについて多くいうようになり、現代に及ぶ。宗家(そうけ)。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 家元とは、日本の芸道などを家伝として承継している家系のこと。またその家系の当主個人を指しても用いられる。
 
 概要
 日本の伝統的な芸能、芸道において、その流儀の最高権威伝承者またはその家系を指す。近代以前は一般的に世襲され、現在でもその傾向がきわめてつよいが、実際には養子・婿入りによって流内の有力者・実力者をその家系に組みこむなど、単純な血縁による世襲とも言いきれない部分がある。
 通常、流内の政治的な把握と、芸事に関する指導とをともに行い、流儀の正統性の由来とされることが多いが、場合によっては家元のほかに宗家を置くこともある(家元と宗家の上下や関係、役割分担は流儀ごとに千差万別である)。家元の主な役割は、流儀の政治的統率、芸事の掌握と規範性の保持、免状・資格の発行、玄人の養成などがあげられるが、近年は流儀の玄人会がこれに代わるちからを得ている場合も多く、家元と流儀内の権力関係についてはさまざまな状態が混在している。
 なお能などの分野では慣例的に家元を宗家と言習わして、家元の語を用いない場合がある。
 家元の存在する分野としては、各種の武術・武道、江戸期の公家家職に由来する有職故実・礼式の類、華道、茶道、書道、盆庭工芸、能楽、邦楽、日本舞踊、東八拳などがある。囲碁、将棋のようにかつては存在していた家元制度が失われた分野もある。ただし、西山松之助 『家元の研究』にみるように江戸時代における大半の武術流派には家元制度はとられてはいなかった。 歌舞伎や義太夫といった舞台芸術の家元について長唄の松島庄十朗は、かつては自らを家元と称する人は少なかったが、それが明確化されたのは国家総動員法に基づいた「技芸者之証」発行以降であると語っている。
 また過去に無かったものの後世になって家元制度が置かれているという場合があり、一例に「落語立川流」がある。これは落語協会を飛び出してきた立川談志が自ら家元となり創設したもので、それまでは落語家の団体に家元制度は無かった。しかし、談志の死後は家元制度を廃止して談志の弟子たちが代表や理事となって運営している。

 家元制度
 家元を中心として流儀の統率を行う制度を家元制度と称する。その内容ははなはだ多様であって一概に語ることはむずかしい。
 世襲による家元に流儀の芸事に関する規範性・正統性を求め、流儀の同一性を保持すること
 家元を政治的な権威として流儀内の統率を行い、上意下達方式を中心にして流儀の運営を行うこと
 経済的には流儀内の素人、玄人(職分)などから資金を集めこれを流儀全体のために家元が再分配するかたちをとっていること
 免状発行の権限が家元にあること
 家元個人またはその家の私的な部分と流儀の公的な部分とが未分化な状態にあり、家元の存在そのものが流儀の根幹にかかわる制度をしいていること、などが特徴として挙げられる。
 吉田和男は「日本の文化活動を維持してきたのは、一種のクラブである家元制度である。これは日本製の組織の形成である「講」の一種である。それは、一種のネズミ講のように、構成員が教えるものと教えられるものとして連鎖的に広がり、自ら供給し、自ら需要する形態をとる。」と述べている。
 家元制度は芸の同一性を保持し、流儀を中央集権的にまとめあげて一体感をもたらす意味では非常に効率的であるが、一方で資金や労力の面で流儀を実質的に支えている人々の意見が制度として反映されがたいという非民主的な側面も持ちあわせている。これに加えて流儀内の資金管理における税法上の問題、あるいは家元代替りに際しての贈与税相続税の負担による家伝の装束や伝書などの散逸の危険性、さらに芸事に関して家元がこれを充分に管理する能力に欠ける場合の流儀の運営問題などから、近年では家元制度を保持しつつ、実質的な芸事の管理、資金の出納については流儀の法人がこれを行うというかたちが多く見られるようになってきた。

 起源
 家元の起源は古く、実質的には平安時代にすでに「歌仙正統」の御子左家が登場しているし、雅楽に関しては奈良時代に家芸として確立していた例も知られている。こうしたものは宮廷における諸行事の際の役割分担が世襲化したものである。これらは武士の台頭とともに一時は衰退することになるが、新興の武家が公家文化を受容することで自らの権威付けを図る風潮が盛んになり復活していく。一方、武家社会でも鎌倉時代から小笠原家のような故実家が成立していたが、室町時代末期から江戸時代初期にかけて武家独特の様々な家芸を伝える家が成立していく。しかし今日イメージされるような家元制度は富裕町人層によって文化人口が爆発的に増えた江戸時代中期以降のものである。
 「家元」という呼称自体も家元制度とほぼ同じ時代になってからのもので、宝暦7年(1757年)の馬場文耕『近世江都著聞集』が初見とされる。それに先だって元禄期には寺院の住持を出す家系のことを寺元、家元、里元などと呼んでいた。
 家元というシステムの根幹の一つに秘技秘伝を相伝することによる家芸の独占化があるが、これはおそらく仏教とくに密教の伝来がその発端であると考えられている。すなわち師に対して帰依しその教義を受け継いでいくという姿が、家元に入門して秘技相伝を受けるという形式の原型となったと考えられるのであり、密教の印信が様々な流派における相伝書の手本であったと言える。これは世襲であることを必要としないが、一子相伝の形を とることによって家元の正統性が強調されるようになる。
また、江戸時代に官学となった朱子学系の思想的影響も受けていると指摘されることがある。師に無心に尽くすこと、家元の絶対性を是認することなど、家元による封建的・世襲支配構造などは朱子学の根幹をなす思想であり、非常に共通点が多い。社会構造が大きく変化した近代以降は、流派の再編や女性家元の登場など、家元の様態も質的な変化を遂げることになった。
 家元制度の特色として、家元と門人との間を名取りや師範などが介在する階層構造を取ることがあげられるが、こうした構造は熊野詣の御師-先達-檀那という階層構造や、浄土真宗本願寺教団の法主-一家衆-末寺-門徒という構造がその原型として考えられる。特に本願寺教団では法主世襲して宗教的権威を誇り、門徒喜捨を集め、「後生御免」という一種の免状発行権を独占したという点で家元制度に近いものとだと考えられる。
   ・   ・   ・   
 家元制度とは、祖先神・氏神の人神崇拝である。
 人神崇拝とは、魂・霊と命、血と身体、遺伝子とDNA、そして心・精神・志・気概、思い・想い・念いを全て欠かす事なく子々孫々まで受け継ぐ事である。
 それが、家の中の神棚である。
 日本民族日本人は、人を作った全知全能の創造神を信仰したのではなく、自分に直接の祖先を神として祀った。
 日本の宗教では、神が人を創ったのではなく、人が神を創ったのである。
 それが、家元制度の基本である。
 人は、両親によって家に生まれ、親戚・親族・一族の中で家族をつくり、親兄弟と共に家庭をつくって生活する。
 その中心にあるのは、神ではなく、人・家族である。
   ・   ・   ・   
 日本の伝統文化・民族芸能は、血筋の家元制度のもとで誕生し、改良されながら洗練されて所作・形が定まり、変化を受け入れながら進歩して古典となり、芸風が守られ、芸道が継承されてきた。
 変わらない所と変わる所があってこそ、日本の伝統文化・民族芸能である。
   ・   ・   ・   
 皇室は、最高神である女性神天照大神の血筋・血統を正統としている。
 天皇は、初代神武天皇からの男系男子相続を正統な皇統としている。
 神武天皇は、天照大神の男系子孫である。
 天皇霊天皇心は、正統な血統・血筋の子孫にのみ受け継がれ、血統・血筋を別にする赤の他人では受け継がれないし、祭祀を執り行って崇める事もできない。
   ・   ・   ・   
 現代日本では、反宗教無神論によって「神殺し」が行われている。
 日本から急速に日本民族日本人らしさが消滅している。
   ・   ・   ・   
 日本では、悪霊・怨霊への恐怖はあっても、死者が動き出しゾンビとなって人々を襲って殺すというホラー話は生まれないし、馴染まない。
   ・   ・   ・   
 日本を知りたいと思う外国人は、理解しづらいながらも知ろうと努力をしている。
 が、日本を嫌悪する日本人は、理解しようとしないどころか捨て去ろうとしている。
 そうした日本人によって、日本から日本らしさが急速に消えつつある。
   ・   ・   ・   
 武士の正統性とは、血筋・血統ではなく家の当主である。
 家を残す為ならば、血筋・血統を否定し、消滅させる。
 武士は、家を残す為に血の繋がらない他人を養子に迎えて当主に据えて忠誠を誓う。
 武士の信仰は、血筋・血統を正統とする人神崇拝ではなく、血筋・血統の価値を否定する仏教である。
 それ故に、百姓や町人が武士になり成り上がる事ができた。
 家を守る為の、家臣による主君殺しは存在する。
 武士道は、建前であって本音ではない。
 日本には、武士道など存在しなかった。
 武士社会とは、嫉妬、イジメ、嫌がらせ、意地悪、無視、役職を奪う目的で失敗させ、仕事がやり辛いように足の引っ張り合い、などが常態化したエゲツナイほどの陰湿なブラック社会であった。
 武士は、ストレスで早死にしていた。
 早死にしない為に、酒と女に溺れてダメ人間になるか、仕事ができない無能者を装うか、早く引退して隠居するか、であった。
 武士が職務で失敗すると、御役御免で蟄居なら良い方で、悪くすると家禄を没収されて領地外へ追放されるか、最悪になると切腹と御家断絶を命じられた。
 武士には、人権はないし、仕事や居住などの自由も認められていなかった。
 「武士道と云うは死ぬ事と見付たり」という、武士に求められていた「死の覚悟」とはそういう意味であった。
   ・   ・   ・   
 日本を占領した連合国は、日本大改造とキリスト教化の為に昭和天皇天皇制度を利用したが、皇室を存続させるつもりはなかった。
 11宮家の皇籍剥奪、皇室財産の没収、男系男子相続の徹底である。
 そして、護憲派と反天皇的日本人を育成する為の洗脳教育であった。
   ・   ・   ・   
 メディアは、「国民の知る権利」を絶対正義として、密室秘儀、門外不出、一子相伝など民族の伝統を白日の下に晒して金儲けをしている。
 その最大の目標が、天皇から神聖を剥ぎ取る為の皇室祭祀、宮中祭祀の暴露である。
 目的は、皇室と国民の親しみやすさ・親近感を高める為ではなく嫌悪感・憎悪感を醸し出す為である。
 メディアは、日本のグローバル化の為に、縄文時代を源流とする原始的呪術に基ずく日本民族神話と民族祭祀を絶滅し、ローカルな民族所縁の伝統文化を破戒しようとしている。
 そして、特定の血統・血筋を正統とする日本的なモノを消滅させようとしている。
   ・   ・   ・   
 外国人移民(主に中国人移民)が増えれば、日本民族日本人の血筋・血統信仰と言霊信仰は破戒され、消滅する。
   ・   ・   ・   

🎌7〕─4─日本のお笑いの原点は世襲の家元制度にある。ユネスコ無形文化遺産・狂言。〜No.44No.45No.46 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2019年5月27日 朝日新聞「文化の扉
 狂言 お笑いのDNA
 600年続く『侍のコント』が狂言でござる。庶民が勘違いをしたり主人がからかわれたりと、殺伐ろした時代に育まれた平和なお芝居を、偉い大名たちがお好みになられ、豊臣秀吉に至っては自ら作って演じたとな。ゆるりとご覧あれ。
 会話でおかしみ生む『コント』戦後に再評価

 日本人の笑いのDNAだ、と言っておこう。直接影響のない当代のサブカルチャーがしっかり受け継いでいるのだ。
 たとえば『六地蔵』は、田舎者をだまそうと3人が六体の地蔵に扮するが、どたばた走り回って取り繕ううちにばれる。これってドリフターズのコントのようだ。狂言を代表する登場人物・太郎冠者(たろうかじゃ)が調子に乗って失敗するのも、漫画『ドラえもん』や『こち亀』の主人公という二つ。増えたキノコが山伏らを襲う『菌({くさびら}茸)』、大名が蚊の精と相撲を取る『蚊相撲』など、アニメみたいな話もある。
 狂言師の声や所作には、決まった型がある。これが見る人の想像力働かせ、狂言は現実を超えたファンタジーと化す。
 セリフは大きな声ではっきり発音する。一字一句、抑揚(よくよう)も含め師匠から口伝えで教わる。まるで歌のようだ。大蔵流宗家の大蔵彌太郎さん(44)によるとしぐさや動きの型は『無駄な動きを省いた武士の様式美』。舞台を一周すれば長い道のりを歩いたことになる。そんな約束事を覚えると、面白さが深まる。
 
 同じ能舞台で演じる能は、兄弟のような存在だ。
 奈良時代に中国から散楽(さんがく、さるごう)という芸能が渡来した。歌や踊り、ものまね、芝居などが混在するパフォーマンスだったらしい。平安時代には猿楽(さるがく)と呼ばれ、宮廷や祭りで演じられた。室町時代に入ると武家政権の中で演劇化した。観阿弥世阿弥によって歌舞主体で死者を鎮魂する能が形成される一方、会話を中心に生きる人間のおかしさを楽しむ喜劇が狂言となっていった。法政大学の伊海孝充教授(能楽研究)は『猿楽からすれば、ものまねや秀句(しゃれ)といった要素を色濃く残す、狂言の方が本流』と話す。
 大半の話に登場する太郎冠者は庶民の代表だ。仕える主人や田舎大名に従わず、しばしばやりこめる。立場の逆転で笑いを生む話が多いのは、下剋上な風潮だった南北朝から室町前期に成立したからという。実力でのし上がった戦国武将にも好まれた。上司の顔色をうかがう事なかれ主義がはびこる現代の日本で見ると、従者が物おじしない大胆さはむしろ新鮮に映る。

 涙ぐましい苦難の歴史も。明治維新で幕府や大名の保護を失った狂言師は路頭に迷った。断絶する流派も出たが、世襲してきた各家は、別の仕事をしながら芸を継承した。
 狂言は能に付随する芸能、という見方が長く続いた。海外でも、芸術性の高い能の研究が盛んだ。喜劇が一段低く扱われるのは洋の東西を問わないようで。
 戦後になって、木下順二『彦市ばなし』などの新作がつくられたり、若手が現代劇に出演したりと『狂言ブーム』が起き、徐々に評価が見直された。能と狂言を併せた『能楽』はユネスコ無形文化遺産に登録された。
 今は大蔵流和泉流がある。能楽協会所属の狂言師は約140人で、東京、京都のほか名古屋、福岡などで活動し、公演によっては能をしのぐ人気だ。来夏の東京五輪パラリンピックで開会式と閉会式の演出の総合統括を野村萬斎が務めるように、活躍の幅を広がっている。
 芝居は泣かせるより笑わせるのが難しい、のも不変の真理。『私、お笑いに詳しいです』と言いながら古来培われてきた喜劇に背を向けるお方、やるまいぞやるまいぞ。(井上秀樹)
 
 笑える定型 奥深い
 お笑いタレント 南原清隆さん
 テレビ番組の企画で20年以上前にやったんです。そのとき教わった(先代の)野村ま万之丞先生と、亡くなられる前に『現代人が出てくる狂言をやりたい』と話したんです。弟の野村万蔵先生に教わって、2006年から毎年、古典や新作を上演しています。
 なぜ続いているか?受けたんですよ。狂言を見たことのない多くの人に、ストレートに入っていく。これはとてつもない奥深さがあるな、と。
 コントとは自由度が違う。一字一句間違えず、クラシックを演じてるようなもの。笑わせるところは、タイミングだけ。どれだけ緊張の糸を張っているかが勝負です。序破急は全く同じですね。うらやましいのは、何回やっても笑えること。なぜそうなるのか探ってみたいです。
 マルセル・マルソーにパントマイムを学びたくてフランスへ行ったら『何を言っている。私は能と狂言をすごく勉強したんだ』と、庫から宝物の能面を持ってきてくれました。すごい技術が足元にあったんだ!」
   ・   ・   ・   
 日本の笑いには、世界に通用する知的で高度なユーモア、ジョーク、エスプリはない。
 何故か、日本お笑いは伝統的民族芸能として、血族主義と血統主義を正統とする世襲の家元制度が根底にあるからである。
 特定の血筋・血統、それが世襲の家元制度である。
 その原型は、万世一系の男系相続の天皇家・皇室である。
 血が繋がらない赤の他人が、如何に優れた人物であっても世襲の家元にはなれない。
 世襲の家元制度とは、血は水より濃いという血筋・血統信仰で、祖先神・氏神の人神崇拝に繋がっている。
   ・   ・   ・   
 日本を伝統的民族芸能は、型・作法・所作・見栄に囚われた形式美にある。
   ・   ・   ・ 
 日本のお笑いは伝統的古典芸能として、創作されてから数百年の時を、特別の血筋の一家が内々で継承してきた「お家芸」で、お家芸を血筋でない他人が許可なく演ずる事はできなかった。
 伝統的民族芸能は、世界演劇の常識からすれば、人権と自由を無視する、排他的であり、閉鎖的であった。
   ・   ・   ・   
ウィキペディア
 狂言(きょうげん)は、能と同様に猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇。明治時代以降は、能・式三番と併せて能楽と呼ぶことがある。

 語源
 狂言は、道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」(きょうげんきご)に由来する。この語は主に小説や詩などを批評する際に用いられた(例:願以今生世俗文字業狂言綺語之誤 翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁-白楽天)。さらに一般名詞として、滑稽な振る舞いや、冗談や嘘、人をだます意図を持って仕組まれた行いなどを指して狂言と言うようになり、南北朝時代、この語が猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉として転用され、現在使用されている狭義の狂言の名前として定着する。
 江戸時代中期になると、芸能・芝居全般(歌舞伎や浄瑠璃)の別称としても広く用いられるようになり、現在で言うところの「歌舞伎」の正式名称「狂言」あるいは「狂言芝居」と区別がつきにくくなったため、狭義の狂言をわざわざ「能狂言」と表記する場合もあった。
 能は面(仮面。おもてと読む)を使用する音楽劇で、舞踊的要素が強く抽象的・象徴的表現が目立つ。またその内容は悲劇的なものが多い。これに対し狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたものであり、せりふも含め写実的表現が目立つ。内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱う。

 流派
 江戸時代に家元制度を取っていた流派としては、大蔵流(おおくら りゅう)・和泉流(いずみ りゅう)・鷺流(さぎ りゅう)の3派があったが、このうち現在能楽協会に所属する流派として存続しているのは大蔵流和泉流だけである。鷺流は今日山口県新潟県佐渡島佐賀県に残存しているが、能楽協会への入会資格を認められていない。その他に、室町時代後期から江戸時代初期にかけては南都禰宜流(なんとねぎ りゅう)という神人を中心とした流派があったことが知られている。神人とは神社に属して芸能その他卑賤の仕事に従事した者の称で、かつて猿楽が有力寺社に属していた名残とも言える存在である。室町時代には盛んに活動していたことが諸記録によって知られるが、江戸時代に入ると急速に衰え、江戸初期には既存の流派(大蔵流など)に吸収されて消滅したと言われている。その他にも無名の群小諸派が存在したようで、流派としては既に滅んでしまったが、一部の台本は『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』『狂言記外編』という一般読者向けの読み物となって江戸時代に出版され世に残った。

 大藏流
 詳細は「大藏流」を参照
 流祖玄恵法印(1269ー1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く、能楽狂言最古の流派。
 猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派で、代々金春座で狂言を務めた大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。

 和泉流
 詳細は「和泉流」を参照
 和泉流は、江戸時代初頭に京都の素人出身の職業狂言師である手猿楽師(てさるがくし)として禁裏御用を務めつつ、尾張藩徳川義直に召し抱えられていた七世山脇和泉守元宜が、同輩の三宅藤九郞家、野村又三郞家を傘下に収めて創流した流派である。

 鷺流
 鷺流は徳川家康のお抱え狂言師となった鷺仁右衞門宗玄(1560–1650年)が一代で築き上げた流派である。宗玄は、もとは山城国猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛座に吸収されてからは宝生座に移り、慶長19年(1614年)に家康の命令で観世座の座付となったのを機に一流をなした。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は自分は国際レベルの教養のある常識人という自負から、お笑いをくだらない芸事として軽蔑し、お笑い芸人を下等な芸人と差別する。
 現代日本人は、普遍的な哲学・思想・主義主張な理屈ぽいモノ、西洋文化的な科学的合理的なモノ、世界で通用する高度で高尚な芸術性あるモノこそ優れたモノとして、民族文化・民族芸能の浅はかで軽薄で笑いを誘うモノを嫌悪して排除している。
   ・   ・   ・   
 グローバルはローカルを、駆逐し、消滅させる。
   ・   ・   ・   
 日本人の民族的笑いは、中華文明圏の中国・朝鮮・韓国の儒教的笑いとは全く異なり、世界の笑いとも違う独自の笑いである。
 日本のお笑い芸人は、世界の権力者や権威者に飼われた道化ではない。
 日本の文化・芸能・芸術は、韓国・朝鮮とは無関係であり、朝鮮・韓国ゆかりのモノはない。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、みんなと一緒に、子供のように、教養を離れ、常識を忘れ、よく笑いおどけ、よく歌い踊りたわむれる、深く考える事を嫌う陽気でにぎやかな人々であった。
   ・   ・   ・   
 日本の笑いには、瞬間的なその場限りの一発芸的笑いから数百年の歴史を持つ所作墨守の形式美的な笑いまで多種多様である。
 日本の笑いは時代によって受ける笑いは変わり、一発芸的笑い、形式的笑い、その他の笑い、などと目まぐるしく多種多様に変化している。
   ・   ・   ・   
 血筋・血統を正統とする世襲の家元制度や師匠と赤の他人の弟子という師弟制度は、日本独自の、日本でしか通用しない排他的閉鎖的制度である。
   ・   ・   ・   
 血筋・血統による世襲の家元が断絶すると、その家だけに受け継がれてきた独自の所作、しぐさ、型、芸、芸能も永久に失われる。
   ・   ・   ・   
 

☵47〕─4─韓国・朝鮮が日本に求めている謝罪要求とは承認欲求と社交辞令である。~No.408No.409No.410No.411 ㉗ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
韓国・朝鮮の日本に対する謝罪要求は、日本が幾ら誠心誠意心を込めて言葉を尽くして謝ろうとも、ハッキリした科学的客観的な事実に基づいた学術的史料を示して懇切丁寧に子供でも理解できる様にわかりやすく説明しても、永久になくなりはしない。
 韓国・朝鮮に対して、ハッキリした科学的客観的な事実に基づいた学術的史料は無意味・無価値であった。
   ・   ・   ・   
 韓国・朝鮮が日本に激しく謝罪を要求するのは、消しがたい癒やしがたい国家・国民・民族が持つ劣等感・屈辱感・敗北感を隠し、精神的に安定する為である。
 その処方箋が、日本に対する承認欲求であり、会う度に繰り返される社交辞令である。
 日本に承認欲求と社交辞令を求める唯一の材料が、日帝植民地支配・日本統治時代である。
   ・   ・   ・   
 日本人が韓国人に対する、社交辞令は会った瞬間に開口一番「謝る・謝罪する事であり、次にへりくだって敬語を使って韓国を褒めちぎる事である。
 つまり、平等関係・対等関係を否定し、ハッキリした上下関係の明確化、見える化である。
 何故か、それは日本や中国と違って、確固たる不動不変の依って立つ現実的実体的立体的な伝統・文化・歴史そして宗教が少ないからである。
   ・   ・   ・   
 相手が許してくれるまで、何度でも、何年でも、我慢して、辛抱強く「謝り続ける」べきだという日本人がいたら、そうした日本人は信用しない方がいいし、本気になって話しを聞かない方が身の為である。
 何故なら、彼らには歴史を理解する才能がなく、そのうえ人の心理・感情・想いさえも理解する能力がないからである。
 日韓関係を悪化させた原因は、日本側の韓国に理解と同情を示してきたリベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育関係者、人権派・人道派・友好派などの市民団体、その他の人びとである。
   ・   ・   ・   
 2019年11月号 Voice「日米韓の断層
 反日感情の裏側と北朝鮮ファースト
 日本統治時代経験者よりも、強烈で、執拗で、尋常でない感情。
 文政権は『北』が望まぬ日韓友好は選択できない
 崔碩栄(チェソギョン)
 この夏、韓国関連のニュースが日本のマスコミを賑(にぎ)わせている。日本による輸出管理の厳格化に反発する韓国政府、日本製品不買運動反日デモに参加する韓国の一般市民たちの姿。韓国の様子を映す日本のテレビ番組を見るだけでも十分に過熱していると感じる。これらをみて不愉快を通り越して『徒労感』を感じる日本人も多いのではないだろうか。
 多かれ少なかれ韓国人が日本にに対する反感、つまり『反日感情』を抱いているだろう、というのが大部分の日本人の認識だろう。日本の文化、食事、風景を好む韓国人もいるというのは間違いのない事実だが、韓国人が、日本や日本人に対して抱いている思いは『反感』が強い、という予測について、多くの人は否定することができない。
 時折、『日韓友好論者』のなかには、韓国の反日感情を否定する人もいる。日本を訪れる観光客の数、韓国で人気のアニメーションを例に挙げ、韓国人は日本を嫌っていない、好きだと力説する。
 私は彼らに反日感情が強いと思われる国を2つだけ挙げてみてくれと尋ねてみる。すると、多くが中国と韓国を挙げる。次に、私は日本を一番多く訪れる観光客はどこの国の人が多いと思うか聞いてみる。するとこの質問に対して、多くが中国と韓国を挙げる。
 つまりこういうことだ。『日本のコンテンツ』を好きなことと、『日本』を嫌う感情は共存しうるのだ。反米を強く掲げる国、北朝鮮の指導者金正恩がアップルのコンピュータを使うのと同じことだ。
 『過去の歴史』だけでは説明のつかない反日感情
 日本人と話しているときに、時折尋ねてみることがある。韓国人が日本を嫌う理由は何だと思いますか?という質問だ。すると大抵の人が、1910年の日韓併合から1945年の終戦までの朝鮮半島支配という『歴史』をその理由として挙げる。当然だ。韓国人自身も多くがそう考えているのだから。
 だが、それだけの理由で現在の韓国社会で抱いている日本に対する反感をすべて説明することはできない。なぜならば、日本統治時代の『経験者』が抱き続けている反感よりも、戦後生まれ世代の抱く反感のほうがより強烈で、執拗(いつよう)で、尋常(じんじょう)でないものを感じるからだ。この点について多くの日本人はまだ気づいていない。
 通常、誰かに対する感情は時間が経(た)ち、世代が下っていくにつれ弱まり、あるいは消えさってしまう傾向にある。第二次世界大戦の例を考えてみても、当時は交戦国がお互いに相手国を悪魔のように描写し、宣伝し、その影響を受けた国民が相手国に対し敵愾心をもつというのは、どこの国でも行なわれる戦略の一つで、一般的にみられる光景だ。
 だが、戦後数十年が過ぎたいま、そのときに国民がどこかの国に対して抱いていた敵愾心を、そのままのポテンシャルで保ち続けている国があるだろうか。それらの感情はほとんど消えてしまったか、残っていたとしても相当に弱まっているのではないだろうか。
 逆のケースを考えても同じだ。韓国の場合、第二次世界大戦後、中国の蒋介石政権や、米国に対し、日本の支配から朝鮮を解放してくれた国、つまり『恩人』として限りない感謝を表した。蒋介石政府は中国に亡命していた大韓民国臨時政府を支援してくれたし、米国は日本統治を終わらせてくれた張本人であり、日本が退(しりぞ)いた後の朝鮮半島の南半分を引き受けた『支配者』でもあったからだ。
 だが70年の時が流れた現在、蒋介石や台湾、米国に対する韓国人の感情は、終戦直後のそれとはまったく違う。感謝の念は忘れ去られ、あるいはそうとうに薄まってしまったのだ。人の記憶というのはこういうものではないだろうか?
 だが、韓国社会のもつ日本に対する『集団記憶』は前述した例とは異なり、相当に異質で、独特だ。一言でいえば『不自然』だ。一番わかりやすい例が『旭日旗』である。
 最近、日韓で話題となっている旭日旗は2010年ごろまでは韓国では『まったく』と言っていいほどに問題視されることはなかった。日本統治時代を直接経験した人びとは、当時それを毎日のように見て過ごしていたことだろう。そして、彼らのなかには旭日旗に対して反感をもっていた人もいただろう。だが終戦後、数十年ものあいだ。その旗を見て問題視する韓国人はいなかったのだ。
 いま、それを問題視し大声を挙げている人たちは主に日本統治時代を経験していない、経験した世代から数えれば二世代ほどあとの世代の人たちだ。彼らは実際に、街中に掲げられる旭日旗を見たこともないだろう。マスコミや教育w通じて『間接的』に日本や旭日旗に対する感情を習得したにすぎないのだ。
 『直接体験』をした人びとよりも、『間接体験』をした人びとのほうが、激しく憎悪するというのは果たして『自然な』現象だろうか?この不自然な感情が発生している事情を理解したのならば、韓国社会、そして韓国人のことをもう少し明確に理解できるようになるだろう。
 日本統治時代は『悪』、『被害者=善』の認識
 人間が住む世界は『喜怒哀楽』に満ちている。世界でもっとも閉鎖された独裁国家と言われる北朝鮮の場合でさえも、脱北者たちの話を聞くとそこには『喜怒哀楽』の交差した世界があることがわかる。恐怖や貧困、憂鬱だけで満たされた世界なっではなく、そこにも、人と人のあいだの友情があり、そこにはもちろん笑いもあるし、男女間には当然愛もある。
 だが、韓国の歴史のなかには、このような『常識』が許されない時空間が存在する。日本統治時代の朝鮮である。
 韓国の歴史教育において、日本統治時代は『暗黒の時代』そのものだ。学校では日本統治が開始されたあとに建設された鉄道や道路は『大陸進出のための準備として』つくられたもので、朝鮮人の利便性を考慮してつくったものではないと教える。当時整備された教育制度についても同様の解釈だ。朝鮮総督府が学校をつくったのは、朝鮮人に植民地の被支配者層として最小限の仕事をさせるために必要な最小限の教育を行ったものであり、朝鮮人のためのものではないと考えるのだ。この時期に朝鮮半島で行われたすべてのことについて、肯定的に捉え、伝えることは許されない。
 1995年、江藤隆美(当時の総務庁長官)が記者とのオフレコの懇談で『植民地支配時代に日本は韓国にいいこともした』と発言したという話が韓国メディアに報じられ、韓国内で大騒ぎになったことがある。韓国側は『植民地支配を合法化する妄言だ』と激しく反発した。『いいことをした』ではなく『いいこともした』でも許されないのだ。つまり、朝鮮を併合、統治した日本の行為はすべて『悪』でなければならない。日本は『加害者』でなければならない。一つでも『いいこと』をした日本はありえない。いや、あってはならない。
 そして悪の統治を受けた朝鮮は、『被害者』であると同時に『善』になる。何の罪もないのに迫害を受ける自分、かわいそうな自分は『善良な被害者』だ。万が一、朝鮮が日本から受けたのが被害だけではなく、肯定的な要素(何か朝鮮人の役に立ってこと)が一つでもあったなら、完全無欠な『善』に傷がつく・・・そんな潔癖症に近い過剰反応を示しているが、現代の韓国社会だ。『加害者=悪=日本』『被害者=善=韓国』、これが日本を見る韓国の前提条件だ。
 韓国の政治家たちが恐れるレッテル
 日本に対する国民の反感が強い韓国で、いまも昔も大統領は日本に対して『強い姿勢』を見せざるを得ないポジションだ。
 もちろん、和解や交流を主張した大統領もいたが、それはあくまでも『ある程度距離を置いた』協力関係の構築であり、この分野においては日本を見習おう、とか、日本と親しくしよう・・・などと親密感を表すような言葉を公(おおやけ)の場で表明する大統領はいなかった。この点については、左派性向の大統領も、右派性向の大統領も同じである。
 経済や安保といった『実利』的側面では協力関係を維持しつつも、『感情』的側面においては国民の目を意識し、距離を置かざるを得なかった。韓国の政治家にとって米国や中国と親しいということは、プラス評価の要素になりうるが、日本と親しいということはマイナス評価以外の何ものにもなり得ないからだ。
 李明博(イミョンバク)元大統領は大統領就任中であった2008年、ブッシュ大統領の別荘を訪問し、友情関係を誇示して見せた。プライベートな時間を共に過ぎすことで、表面的な友情以上の関係を内外に示したのだ。中曽根元総理もその在任中にレーガン大統領を別荘に招待したし、小泉元総理もブッシュ大統領のテキサスにある牧場に招待されたことがあるが、これらも同じ意味合いをもっていたといえる。
 だが、韓国の大統領が日本の総理とこのような時間を過ごすなどということは、想像することさえも難しい。ビジネスライクな関係を超えたプライベートでも親しいということは、韓国の政治家にとってマイナスにしかならない。なぜマイナスなのか?『親日派』というレッテルを貼られてしまうからだ。
 韓国において『親日派』という言葉は、文字どおりに単純に日本と親しい、日本に精通しているという意味ではない。韓国において親日派とは売国奴背信者と同義語だ。それゆえに皆で日本とは一定の『距離』を置くことを意識し、日本にたくさんの人脈をもち、日本事情に精通していたとしても、親日派という言葉ではなく『知日派』と呼ばれることを望むのだ。
 ところで、誰がこの『親日派』というレッテル貼りを利用するのか。韓国の左翼勢力である。韓国の左翼には反対派を無条件に親日派と位置づけする悪癖がある。日本人が反日的な大統領だと考えている李明博朴槿恵(パククネ)の二人がその代表だ。
 李明博元大統領は独島(竹島)訪問、天皇謝罪要求発言等で幾度となく多くの日本人に不快感を与えたし、朴槿恵前大統領もまた『加害者と被害者の立場は千年経っても変わらない』といった露骨な反日発言をするなど、日本では反日性向の人物と評価されることが多いが、韓国の左翼からは親日だと批判されている。
 ……」
   ・   ・   ・   
 韓国が理想とする日本の謝罪は、新しい韓国大統領の就任、新しい日本国総理の就任、そして毎年8月15日の光復節への謝罪使派遣である。
 それは、日本への朝鮮通信使派遣ではなく、明国や清国に行った朝貢使や謝恩使のような日本国使節団による謝罪表明である。
 さらに、日本天皇や皇族が韓国を訪問して、処刑した国民の英雄(キリスト教朝鮮人テロリスト)や元慰安婦に土下座して謝意する。
 韓国大統領が訪日した時は、日本天皇が公式の場で謝罪し、饗応してもてなす。
 謝罪が本心なのか嘘なのかはどうでもよく、日本がその都度謝罪を公言すれば、韓国・朝鮮が満足できるのである。
 つまり、約520年間、李朝朝鮮王国・李子朝鮮国王が中華帝国・中華皇帝からあじあわされた国辱・屈辱・恥辱を日本天皇・日本国・日本民族に強要しているのである。
 例えるならば、日本国と日本天皇の謝罪とは猛毒を無毒化してくれる唯一の「特効薬」であった。
   ・   ・   ・   
 伊藤博文を暗殺した安重根は、日韓併合前の朝鮮人である為に日本国籍はなかった。
 日韓併合後の朝鮮人は、日本国籍所有の日本国民であった。
 つまり、朝鮮系日本人である。
   ・   ・   ・   
 国辱・屈辱・恥辱が溢れる思い出したくない国家・国民・民族の過去・歴史を消し去る為に、日本国と日本天皇からの謝罪が必要であった。
 それ故に、謝罪要求とは承認欲求と社交辞令に過ぎず、日本が拒否すると韓国・朝鮮は立つ瀬がなくなり、どうしていいか分からず途方に暮れてしまう。
   ・   ・   ・   
 処刑されたキリスト教朝鮮人テロリストとは、昭和天皇と皇族を惨殺しようとして失敗し処刑された反逆者であった。
 何故、反逆罪なのか、キリスト教朝鮮人テロリストは日本国籍を持つ日本国民として、世界を旅行する時は日本国のパスポートを所持する事で日本人と同じ権利を持ち、諸外国で日本人と同じ待遇や保護を受けていたからである。
 つまり、海外で何かの問題に巻き込まれ時、「日本人である」と言えば、日本大使館は差別する事なく保護し、日本人同様に生命財産を守った。
 戦前の日本国家は、法治国家として国際法を遵守し、政府は天皇の名誉の為に日本国籍所有の朝鮮人を守った。
 が、日本国籍を持たない朝鮮人は日本国民とは認めず、不逞朝鮮人(犯罪者朝鮮人)と差別して保護する事を拒否した。
   ・   ・   ・   
 韓国・朝鮮は、統一新羅以来、中華帝国から受けた数々の屈辱感を少しでも薄め、嫌な思い出・過去・歴史を忘れあるいは消し去る為に、自分達より豊かで国際的に信用され地位が高い日本からの謝罪を必要とした。
 日本にも自分達が耐え忍んできた事ができるであろうとして、敢えて高飛車に出て謝罪を要求している。
 つまり、反日デモは、日本への反感ではなく、自分達が平常心を保つ為に必要な「自分達は本当は偉い・賢い・優れている・素晴らしい」という承認欲求行動である。
 それが、韓国・朝鮮の小中華主義である。
 その本心は、日本に対する「甘え」であり、「依存」であり、「嫉妬」である。
 韓国・朝鮮の自尊心を満足させてくれるのは、世界広しといっても経済大国の日本一ヵ国だけである。
   ・   ・   ・   
 韓国・朝鮮にとって、日本に謝罪させ賠償金を払わせる事が唯一のアイデンティティーの拠り所である。
 そして、日帝植民地支配問題、竹島領有問題、靖国神社問題、歴史教育問題、従軍慰安婦問題、徴用工問題、などなど。
 全ては、消え失せそうな根拠の薄いアイデンティティーを支える為の道具にすぎない。
   ・   ・   ・   
 「日本の文化、武道、芸能、芸術はすべて韓国が発祥で、韓国人が日本人に教えた」という作り話も承認欲求である。
 さもしい承認欲求は、哀れで惨めと言うしかない。
 何故なら、自信を持って自分で立つ独自の文化が少ない事が認めているからである。
   ・   ・   ・   
 韓国・朝鮮が求める謝罪とは、反省し悔い改めた本心からではなく、要求した時にその都度社交辞令としての謝罪と賠償金であった。
 それは、日本が韓国・朝鮮を上位国・上位者・勝者・優位者として「承認する」、と言う事を意味するからである。
 それ故に、日本が示す歴史的現実・科学的考古学的実証・史料的事実・客観的評価などは一切合切すべて無視される。
   ・   ・   ・   
 日本は、要求されるままに、1980年代から謝罪と賠償をくり返してきたが、2014年頃から耐えられなくなって拒絶した。
 そして、戦後70周年の2015年に、日本政府は、安倍晋三総理は、子孫・後世の為に屈辱的な謝罪はもうご免だ、「もう止める」とハッキリと公言した。
 令和元(2019)年 日韓関係は最悪関係に突入した。
   ・   ・   ・   
 韓国の反日デモは中国に次いで過激で、日本大使館前で、日本の国旗や日本の天皇及び総理大臣・政治家の顔写真や人形を燃やし、引き裂き、踏み付けて気勢を上げている。
 世界は、日本ではなく韓国に同情している。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は誇る精神文化とされる「恨」と「怨」は、惨めな自分を優越感で慰めるマスターベーション行為にすぎず、案外、意味する所は底が浅い。
 大国に卑屈になって媚び諂う「事大主義」。
 自分を偉く賢く優れていると信じ込みたい「夜郎自大」。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、生まれつき争いやいがみ合いや戦う事を嫌い、不和を解消する為に、自分に非がなく不利になる損をする事が分かっていても忖度し配慮して自分から進んで謝った。
 日本民族日本人は、気弱に、軟弱に、脆弱に、ひ弱、であるが故にその場の雰囲気、空気、空気圧、同調圧力に弱い。
 そうした点が、中国や韓国・朝鮮と違うところである。
 日本民族日本人とは、訳もなく謝る「謝り癖」が強い人間である。
   ・   ・   ・   
 韓国・北朝鮮が強烈な反日意識を掻き立てる根本問題は、日本人が「日本民族」だからである。
 日本人が日本民族である限り反日意識はなくならない。
 反日意識がなくなる時は、日本が外国人移民が増えて日本民族国家でなくなる時である。
   ・   ・   ・   
 中国帝国の属国として臣下として長年屈辱に耐えてきた朝鮮とて、本心から御無理ご尤もと阿諛追従していたわけではなく、見えないところ、聞こえないところでは、中国に対して悪態を吐いていた。
 それ故に、中華帝国は、朝鮮を嫌い領土に組み込まず、朝鮮人を軽蔑して中国人とはしなかった。
 中国人は「誉め殺し」として、嘲笑しながら、朝鮮を「礼法の国」と称賛し、朝鮮人を「礼節の人」と讃えた。
   ・   ・   ・   
 大統領から庶民に至るまで、日本に謝罪させる事で一人前の男と認められるという暗黙の認証が得られる、と信じ込んでいる。
 つまり、日本に謝罪させられないと一人前の男ではない、弱い男、弱い指導者と軽蔑される。
 それ故に、韓国は意地でも、日本に対して弱音を吐けないし、日本に言い訳しても謝る事ができない。
 韓国がこれまで日本に対して優越感と自己充足感を得られたのは、強く発言すれば、日本は無条件で
 韓国政府、大統領は困った事があると反日発言をし、日本政府はそれに答えて社交辞令と承認欲求で謝罪し合同基金を作って金を払ってくれた。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、中華帝国の半永久的属国として中華文化を受け入れてきた為に民族独自の文化が生まれず、朝鮮文化の大半が中華文化の模倣に過ぎなかった。
   ・   ・   ・   
 朝鮮に於いては、中国からの舶来品が超一級品であり、民族所縁の品物は下品でまがい物で価値がないとされていた。
   ・   ・   ・   
 朝鮮の歴史とは、中華帝国(中国)による朝鮮侵略の歴史であり、敗北し隷属・従属を強制された屈辱の歴史である。
 永遠の屈辱感・敗北感を誤魔化す為に生まれたのが、日本を侮蔑して見下す反日感情である。
   ・   ・   ・   

☵12〕─3─韓国・朝鮮の歴史とは創作であり宗教であり信仰である。~No.80No.81No.82

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 韓国や朝鮮の歴史は、慟哭を慰め癒やし、情緒を満たす願望の「こうあって欲しい」歴史である。
   ・   ・   ・   
 中国の歴史は、統治を哲学・思想・主義主張で正当化させる虚構の「こうあるべきである」歴史である。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史は、科学や客観に基ずく実証の「こうあったであろう」歴史である。
 現代日本の歴史は、祖先は善い事もした事実を抹消し悪い事を強調する空虚な「言われる通り、そうあったのであろう」歴史である。
 その傾向は、歴史教育で高得点を取った高学歴出身知的エリートに強い。
   ・   ・   ・  
 2019年9月号 WiLL「韓国のウソに立ち向かえ 松本厚治
 まぜ韓国は〝反日〟を続けるのか。歴史の真実をつきつけ、韓国の虚構を暴け
 台湾は親日、韓国は反日
 ……
 『韓国の伝統』は近代から
 あえて言いますが、韓国は世界で最も日本に似た国です。近代以降、ずっと日本の制度と文化を取り入れてきたので、社会の隅々まで日本の影響が及んでいる。
 日本は日清戦争を戦って朝鮮を独立させましたが、この戦争で誕生した韓国は、独立国の地位を獲得しただけではなく、それまであった旧朝鮮とはまったく違う国になったと言えます。中国からの独立、文化語としての韓国語の成立、近代的方法論による朝鮮研究など、韓民族誕生につながる核心的な課題は、あらから日本人によって達成されました。意外に感じる人は多いと思いますが、現在『韓国の伝統文化』と呼ばれるものの大方は実のところ近代以後に出現し、あるいはその意義が見出されたものです。その際、先導的な役割を果たしたのは日本人でした。本来、朝鮮半島の人々は自国固有の伝統文化などにあまり興味はありませんでした。
 『韓国的なもの』は、意識の世界では当時はほとんど存在していなかったのです。
 韓国の歴史書の口絵には慶州の石窟庵にある仏像の写真が載っています。新羅の時代につくられた見事な仏像です。発見されたのは1909年。日韓併合の前ですが、日本統監府の保護下にあった時代です。雨宿りのために洞窟に入った日本人の郵便配達夫が、雨ざらしになっていた仏像を見つけて大騒ぎになった。
 調査団が派遣され、大変貴重なものだということで、総督府が大がかりな工事をして保全に力を尽くしました。当たり前だと思う人がいるかもしれませんが、李氏朝鮮は仏教に敵意を持つ硬直的な儒教国家で、多くの仏像が見つかり次第破壊され、記録も残らず遺棄されてきたことを想起すべきです。
 1940年には、十五世紀に書かれた諺文({おんもん}ハングル)制作のいわくを記した『訓民正音解例本』が発見されました。慶尚北道(けいしょうほくどう)の民家で裏紙として使われていたのを見つけたのです。いまは国宝になっていますが、これが李朝の時代だったら紙クズ同然に扱われたでしょう。ハングルが貴重な文化遺産として重んじられるような時代になったからこそ、日の目を見たのです。
 朝鮮陶磁の美を見出したのも日本人でした。旧朝鮮には古陶磁をお宝として珍重する風波あまりなく、伝統を大事にしようとする意識も乏(とぼ)しかったようで、青磁の技術もはるか昔に滅び、誰もつくれなくなっていました。それを、目利きだった実業家富田儀作が私財を投じ、10年の歳月をかけて復活させたのです。今日、韓国のデパートや土産物店で売られている青磁は、伝承の技ではなく、富田が復元した(と一般に認められている)技法によってつくられたものです。朝鮮の地からいったん姿を消したものを、20世紀の初頭日本人が土中からよみがえらせた、古くて新しい芸術なのです。
 小倉進平も特筆に値する人物です。もともとは東大の助手で、万葉集の表記法などを研究していたのですが、思い立って朝鮮に渡り、朝鮮の古代語、特に『郷歌』の研究を始めました。郷歌は田舎の歌という意味で、新羅・高麗の時代に詠まれていた歌謡ですが、わずか25首しか伝わっていない。朝鮮の儒者から見れば、取るに足りない夷狄の時代の遺物のようなものでした。そもそも古代の朝鮮語の文献というものも無きに等しく、読み方もわかりません。小倉は判任官として総督府に勤めるかたわら、古語の研究を始め、休みの時にはロバに乗って地方に出かけ、方言を採取しました。中央から遠く離れた地方には古い言葉が残っている。そこに目をつけたわけです。朝鮮の人も、総督府も、いや日本の言語学界でさえ、あまり興味を持たなかった分野で、彼は周囲の無関心のなか、一人孤独な研究を続けていました。朝鮮語が科学的な研究の基礎を得たのは、まったく彼の献身的努力のたまものです。
 つまり、旧朝鮮の士人が見向きもしなかった『朝鮮的なもの』の価値を見出し、その伝統を再発見し、復活する試みは、日本が統治するようになってから、日本人によってなされました。韓民族の国は近代日本との『遭遇』によって誕生した、と言っても過言ではありません。
 ……
 韓国語は福沢諭吉がつくった
 ……
 どう首をひねっても、李朝時代の漢文から近代の語文を導き出すことはできません。『春香伝』のようなハングル小説があると言っても、伝統というにはあまりに微小なもので、漢字語と漢語成句の音を並べたその文章をいくら読んでも、現代の韓国語に通じるものを見つけることは困難です。
 近代朝鮮の代表的作家の一人金東仁の処女作は日本語作品で、彼はもともと日本語で創作していました。ある日、朝鮮語で書くことを思い立って机に向かったところ、まったく言葉が出てこない。当時、出来合いの文学用語がなかったのだから当然なのですが、その時頭が真っ白になったとのちに書いています。仕方がないから、まず日本語で文書を組み立てて、それを朝鮮語に変換して作品にしました。日本語から直に借りてきた言葉をふんだんにちりばめた文章は、当初はいかにも異様で不自然に感じられるものでしたが、それがいつの間にか定着して、今の韓国語になっています。
 巷間、韓国語と日本語が対立していたかのような言われ方をしていますが、これは19世紀の欧州で燃えさかった言語闘争の枠組みをそのまま持ってきたもので、当地にはそんな現実はありませんでした。近代のとば口の時点で存在した韓国語は、まだ土語と言ってもよいような段階にあり、とても日本語と競争できるようなものではありませんでした。日本語に出会うことによってはじめて、文化語としての発展の道を歩むことになったのであり、韓国語にとって日本語は育ての親のような存在だったのです。
 こういうことが文化総体として起きました。文明の模様替えのような変化があったので、今の韓国人は旧時代の文化を感覚的に理解することも、その良さを感じ取ることも難しいようです。昔の知識人は漢文を読んで、それを美しいと思う気持ちを持っていたはずですが、今の人はそれを追体験することができない。だから、文化的な観点からは、19世紀末を境に別の国が生まれた。言い換えれば、韓国としての内面の歴史は、この頃から始まると言ってもいいのです。
 古代と断絶
 読み取ることが難しく、現代の美意識や生活感情とかけ離れたものを〝自分たちの古典〟と感じられないのは当然でしょう。英文学者の柳宗鏑は、1962年に書たい『「韓国的なもの」とは何か』という論文で、『フランスでは自国的なものは伝統的なものという通則は成立するが、韓国ではそれは虚構にすぎない、いま韓国的と一般的に見なされている作品はどれも20世紀初頭の新文学誕生後に世に現れたのであって、伝統的なものではない』と論じて波紋を呼びましたが、言っていることは真実をついています。
 旧朝鮮の士人は、自分たちは豊かな古典の文化を持っていると思っていました。ところがそれは漢文で書かれた中国の書物であって、江戸にやってきた朝鮮通信使が自らの古典として意識していたものは、どれも中国の古文献でした。『論語』しかり、『史記』『唐詩選』しかり。『小中華』を自負する朝鮮人にとっては、中国の古典を自身の古典でもあったのです。それはモロッコアルジェリアの人々が、イスラム文明の中心だったバグダードでつくられたものを自国の文化だと考えるようなもので、別におかしなことではありません。
 しかし千数百年にわたって文化的に中国と一体化し、『小中華』であることを誇りにして生きてきた朝鮮は、日本に〝むりやり〟独立させられ、韓民族の国になってしまった。文明の内実がガラリと変わり、そこに大きな断絶が生まれました。現代の韓国人は『小中華』の時代がどのような国だったかをなかなか理解できない。むしろ知りたくないようです。
 韓国の歴史教科書は、紀元前2333年に壇君(だんくん)が即位して以来、一貫した民族の歴史があったと書いている。古代には高句麗新羅百済の3国がありましたが、どれも韓民族の国だったことになっています。その3国が新羅によって統一され、それから高麗、李氏朝鮮と続いて、大韓帝国大韓民国となり、今に至っているという。しかし実際の韓国は、近代になってそれまで受け継いできた伝統を放棄し、新しく出発した国です。そのことを端的に表しているの漢文です。
 日本人は、たとえば杜甫の詩を『国破れて山河あり、城春にして草木深し』という風に、日本語として読んでいます。日本人の多くは漢文というのは中国の古文だと何となく思っていますが、欧米の東洋学の世界では〝KANBUN〟は、あくまで日本の語文として教えられています。漢文学・漢字学の大家、白川静さんは日本における漢字は国学、つまり日本の文字であると力説されています。
 たとえば『山』という漢字を日本人に見せて『これは何か』と聞けば、100人が100人とも『やま』とい字だと答えるでしょう。もちろん音読みで『サン』とも読みますが、この字はあくまで『やま』です。だから『山を張る』とか、『ひと山あてる』とか『明日の試合が山だ』という言い回しが発生してくるわけです。中国古典の原義がどうあれ、日本語の『やま』に新しい意味やニュアンスが付加されると、それに連動して漢字『山』も変わっていきます。だから、実態として日本の文字なのです。
 ところが朝鮮では『山』は『サン』としか読まず、その意味はあくまで中国の古典テキストの集積によって決められている。『盛り上がった地塊』という意味のほかに、『山がそこにいらっしゃる』というに皇帝その人を指す、あるいは皇帝の衣服の模様のようなものを指すとか、日本人にはちょっと想像もつかないような意味であり、旧朝鮮の士大夫は、それを一応承知していなければならない。漢字はあくまで中国の文字であって、ここでは民族語との有機的なつながりがなりません。
 たとえば『過猶不及』を、日本では『すぎたるは、なおおよばざるがごとし』と読みますが、朝鮮では民族語との結びつきがないので『過・猶・不・及』という4つの漢字をこの順で棒読みし、末尾に日本語の『なり』にあたる言葉をつけます。こうした文書は朝鮮語とは言い難いものですが、彼らはそういうものとして漢籍を受け入れていたわけです。
 理解を超えた漢文
 それが、今ではまったく読めなくなった。韓国語の言語文化で育った人にとっては、漢字を上から下へと読み流す漢文は、発想の段階ですでに理解を超えるものになっています。実は漢字教育もいくばくかは行われているのですが、民族語とのつながりがないから、一般の韓国人にとって漢字は本質的にエジプトの聖刻文字(ヒェログリフ)みたいなものです。個々の文字をいくら覚えても、棒読み漢文は味読できない。意味はこうだと言われても、古人のように、その形式美や含蓄性を感じ取るには至らない。
 読めないということは、真正の古典がないということになります。ハングル小説があるじゃないかという人もいるかもしれませんが、何と言っても数が極端に少ない。80編くらいしかなく、それも大半が中国人が登場する中国の物語として書かれています。
 18世紀に成立した『春香伝』は朝鮮を舞台にした数少ない作品の一つで、国語文芸の代表作とも言われていますが、文は漢語成句や漢土故事に埋め尽くされ、あまり朝鮮的という感じはしません。
 ……
 『驕(おご)れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし』『夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡』と耳で聞けば、全然意味がわからないという日本人はまずいないでしょう。意味が通じるというだけでなく、母語が宿す言霊の力で、容易に核心の理解に到達できます。英文学は外来のアルファベット(ラテン文字)で書かれていますが、まったきイギリスの国文学です。自国の言葉で書かれているからこそ国文なのであって、国字だから国文だという認識は、仮名の普及と国文学の発展が並行して生じた日本の文学史に引き当てたもで、当地の現実ではありません。ハングル小説『沈清伝』には朝鮮を舞台にしたものと、中国を舞台にしたものがありますが、どちらも違和感なく読めるのは、作品の民族性が鮮明でないからです。こんなことは日本では考えられないでしょう?『源氏物語』や『平家物語』の舞台を中国にするなんてことは、どだい不可能です。
 要するに近代になって語文がそっくり入れ替わり、それまで存在した文献は『われわれのもの』と感じられなくなってしまったのです。いま私たちが目にしている韓国という国は韓民族の国で、韓国語を使っています。熊の血を引く民族神『壇君』を開国始祖として昔から崇めていた、ということになっています。しかし、旧朝鮮の士人がよみがえってこの国を見る機会があれば、自分たちとは全然違う、とんでもなく奇妙な国ができたものだと、さぞ嘆くのではないでしょうか。
 『これで完全な日本人に』
 ……
 特殊な人の言動を拾っているわけではなく、いずれも当時のオピニオン・リーダーです。韓国の歴史教科書には民族総ぐるみで激烈な抗日闘争を戦ったなどとありますが、真っ赤な嘘と言うべきで、日本時代の晩期には、人々は概ね日本国民の意識を持ち、さまざま形で日本の戦争に参加していたのです。
 現に、日本の統治下で、反乱のようなものはほとんど起きていません。よく取り上げられる3・1運動も、あまり対決的であったようには見えない。少なくとも世界史の基準で見る限り、激烈な闘争が行われたとしてこの事件を記述するのは無理があります。この程度のものが大きく取り上げられるのは、ほかにこれといった抵抗の記録がないからです。
 中国大陸には大韓民国臨時政府なるものがありましたが、有志が集まってそう自称していただけで、当時アメリ国務省は、プロの運動家が『勝手につくったクラブ』(self constitutedclub)と認識していました。四半世紀にわたって実のあることはなにもせず、中国の支給に頼って何とか生き延びはしたものの、内輪揉めだけで終わってしまった印象です。要するに、いま韓国が大声で叫んでいる『抗日』は、実のところほとんど無いに等しいものでした。
 ……
 クリスチャンの思想家咸錫憲は、『解放は盗人(ぬすっと)のようにやって来た』と書いていますが、これは当時の人々の偽らざる気持ちだったように思います。1945年8月、それは何の前ぶれもなくやってきて、意識を顚倒(てんとう)させました。ひたすら皇民化の道を歩んでいた人々は、天変地異のような激震に見舞われたのです。
 もし民族の心の拠り所があれば、たとえばロシア人なら、ソ連がなくなってもロシア正教があり、トルストイドストエフスキーの文学がある、チャイコフスキーの音楽がある。ところが朝鮮人には帰るところがない。どこに行けばいいのか。日本が来る前の、漢文化の世界に戻ることはもはや不可能です。
 歴史は信仰
 ふとあたりを見まわしてみると、自分たちが突然放り出された世界は、アメリカが君臨する世界でした。日本は悪い国で、正義の国アメリカがそれを征伐したのだという世界観が出来上がっていました。朝鮮はそれに適応する以外、道がなかった。いい悪いではなく、ほかに選択の余地がない。日本にあらかた同化し、日本国民として戦争に参加した人々が、日本を大声で糾弾しつつ、何食わぬ顔で被害者の席にもぐり込む。そうするほかに、国を成り立たせる術(すべ)がなかった。あとは日本がどれほど悪い国で、日本人は極悪非道だったかを、とにかくいろいろな形で言い募り、われわれはいかに日本と激しく戦ったか、ということを自他に言い聞かせるだけです。
 こんな話は丸ごと虚構に属するものですが、戦後の韓国では国が主導して仮想現実のような歴史をこしらえ、それをひたむきに国民に教え込んできました。韓国人は、ベトナム人のように、戦ってフランス、アメリカといった大敵を追い払った、輝かしい民族史を持っていません。だから、現実とかけ離れた異常な教育をするしかない。事実を脇に置いて、まるで違う歴史に差し替えざるを得ないのです。
 朴成壽(韓国精神文化研究院教授、国史編纂委員会編纂史室長)は、1980年代前半、日本の歴史教科書に対する是正要求のとりまとめ責任者になった人で、韓国の国としての立場を代弁してきた学者ですが、客観的な考証や実証では歴史の真実は把握できない、真の歴史とは、国民の愛国心を呼び起こすものでなければならないと繰り返し言っています。
 ……
 価値の中立性と歴史的客観性によって日帝の野蛮と犯罪を暴くのではない、その逆です。中立と客観、文献や考証では、それらは隠蔽されると言うのです。
 この人は歴史は科学ではなく『信仰』だと言っています。どの民族にも自身の歴史信仰があり、それらはお互いに激しく対立し、何方の信仰が勝つかという『歴史戦争』が絶えず繰り広げられていると考える。たとえば、古代日本の半島進出を裏づける好太王碑文の解釈も、日韓に中国を加えた3国間で展開されている、現在進行形の歴史戦争だと述べています。
 ……
 韓国には民族的宗教も、求心力になるような君主制もなく、自力で独立や解放を勝ち取ったという国民的記憶も、おぼろげなものでしかありません。国民的統合のより所は、あげて『愛国心を呼び起こす歴史』に求めるしかない、ということになる。韓国国家が、歴史認識に課している厖大(ぼうだい)な要求を満たすには、潤色(じゅんしょく)といった程度のことでは到底間に合わない。史料的根拠や客観性からまったく自由になった。信仰的歴史を追求するしかない。それなりに考えた上で、こういうことまで突き進まざるを得なかったのでしょう。
 日本人は知らぬが仏の状態ですが、かつて教科書紛争の前線に立って日本の歴史認識を糾弾してきた韓国の学者は、こうした歴史観の持ち主だったのです。
 ……
 歴史に科学や客観は不要だと考える韓国人は、自分たちの『信仰』を貫いているのですから、『徴用工』問題にせよ、慰安婦問題にせよ、客観的な証拠を積み上げて反論してもいささかも動じることはありません。そのことに日本国民も遅まきながら気づき始めたようです。
 反日イデオロギー
 ……
 長らく続けられてきた教育が、国民の意識を反日一色に染めあげていくにつれ、イデオロギーが自己運動を始める時代が訪れます。
 ……
 反日のマグマが、言わばはけ口を求めてさまざまな箇所から噴出してきた時代、と言ってようでしょう。
 ……
 これは日本にとって、憂慮すべき事態だと言わざるを得ません。
 ……
 日本の友好国になるとはちょっと考えにくいが、中国と日本の間でバランスを取るのが得意だと判断する可能性は十分あると思います。
 一方、韓国はどうか。反日教育は今なお営々と続けられています。国民意識は尖鋭化する一方で、統一したからといってそれに歯止めがかかるとは考えにくい。日本ではよく、年間700万人を超える韓国人観光客が日本に来ている、などと言って楽観視する言説が見受けられますが、こんなものは問題の本質とは何の関係もありません。金正恩氏はスイスに留学していたから、人権や民主主義に理解があるだろう、などと以前解説していた人がいましたが、それと同じで、安心したいという気持ちが先に立つのでしょう。韓国の反日主義に歴史上最も近いものは、ナチ党の反ユダヤ主義です。一民族を総体として絶対悪視するイデオロギーが国家の正統意識と結合した時に何が起きるか、日本国民はもう少し真剣に考えなければならないと思います。
 韓国の危うさ
 ──日本はどうすればよいのですか。
 松本 これまで韓国側が問題をつくる出し、対立をかき立て、日本側は何とか事態を落ち着かせようと、その場しのぎの解決を試みてきました。韓国にはそんな発想はまったくありません。反日のマグマを常にため込んでいる状態ですから、噴火のない状態が長く続くことに耐えられないのです。
 関係が修復されてもしばらくたてば、全然別のところに無理やりにでも穴をあけ、マグマを噴出させる。こんなことをくり返してきたわけです。
 ……
 ──反撃しろということですか。
 松本 韓国の要求についても受け身で応対し、『修復の糸口を探る』などと言いいながら、玉虫色の解決を模索するような外交は、もう打ち止めにすべきです。韓国の反日が危険水域を超えるのは時間の問題で、日本にはこれまでのようなことを続けていく余裕はもうありません。
 日本国民は外国とうまくやっていくのが外交だと思い込んでいるフシがありますが、本来のDiplomacyの意味は大分違います。日本の立場を強外部に投射していく、そういう外交に全面的に切り替えるべきです。
 ──基調を協調から対決に切り替えるということですか。
 松本 不必要な対立は避けるべきだし、協力できる分野はいろいろあるので、そこはうまくやっていけばよい。しかし、両国関係が『修復された状態にあること』を標準にする、つまり波風が立っていなければよしとする発想は、この際変える必要があると言うことです。日本を絶対的な負の位置に置き、反日に制動をかける上位の思想や規範を持たない異形の国家が、目の前にあるわけです。もう受身の対応ではダメだ。日本から主導的な動き、対決を怖れず、反日の危険を取り除くことに主軸を置くべきです。
 ──危険を取り除くと言われましたが、簡単にできることとは思えませんが。
 松本 それはその通りですが、問題の本質は単純です。ソルジェニーツィンソ連は嘘の上に成立していると言いましたが、反日国も同じです。戦後70年、日本と日韓関係について、吐かれ続けてきた数知れぬ嘘が、韓国人の怒りの情念をかき立てている。それを突き崩していく必要があります。韓国が提起する問題に反論してよしとすうのではなく、日本から主導的にことを起こしていくわけです。
 具体性があって、わかりやすいテーマを取り上げるのがよいでしょう。法律などは、かっちりした文章があるから、良いと思います。韓国でも法律の日帝残滓(ざんし)がしばしば取り上げられているくらいで、誤魔化しようのない事実だから、説明は容易です。
 ……
 それが事実だと確認できれば、日本の主張にこだわることはありません。別にプロパガンダではないのだから。
 虚構を崩す
 ──史実を伝えるだけで、韓国が反日をやめるなどということが期待できますか。
 松本 事実をつきつけられることは、虚構の上に築かれた反日国家の急所を直撃するもので、韓国にとって実はこれが一番痛いのです。当然、頭から否定し、反撃してくるでしょうが、それでもよい。
 ……
 いずれにしても、長い戦いになることは避けられない。そのために、日本国民も、日韓関係の真実について、知識を持つ必要があります。国民はあまりに知らなすぎます。
 ……
 おかしいと思いますが、むしろ国民のせいではない。戦後、異常な使命感に駆り立てられた一握りの日本の学者が、日韓関係の真実にふたをし続けてきたわけです。歴史を国民の手に取り戻すためには、これまで意図的に無視されてきたことを、一つひとつ取り上げていく必要がある。
 ……
 未来志向などと言われていますが、今日本に必要なのは、徹底的に過去を志向することです。歪められた過去の正体をつきとめ、嘘が大手振ってまかり通るような状態に終止符を打ち、自由闊達な議論ができるようにしなければなりません。
 ……
 迂遠のようですが、それが日韓関係正常化の近道だと考えます。」
   ・    ・   ・   
 朝鮮は、統一新羅以来属国として、自己判断で自立せず、自己努力を無駄な事として捨て、ただただ、ひたすら大国の富みに頼り依存し縋り付いて生きてきていた。
 朝鮮は、中華儒教の正統論・正義論から、勝者・強者・大国に対して忠誠を誓って従った。
   ・   ・   ・   
 中華儒教は、事実に基づく近代歴史学を排除し、自分好みの作り物の歴史こそ正しい歴史であるとしている。
 中華世界で、何時の時代でも、事実に基づく正しい歴史を書き記す専門家はいなかった。
   ・   ・   ・   
 日本には、日本民族日本人が生み出してきた日本文明・日本文化、日本神道・日本仏教・日本儒教、など伝統的な芸能・芸術、心・精神・志、その他数多くの民族所縁の文物風習が存在していた。
 中国は、世界国家としてに日本よりはるかに数多く持っていた。
 朝鮮は、中国を忠実に模倣して民族的な文物風習を俗悪・野蛮として否定し切り捨ててきた為に、民族固有のモノは数が少なかった。
 つまり、民族の独自性は、日本と中国はあったが、朝鮮にはなかった。
   ・   ・   ・   
 朝鮮の伝統的民族的宿痾は、血で血を洗う党派抗争である。
 日本の植民地支配に於いて、朝鮮人の間に親日派知日派反日派敵日派との熾烈な抗争が存在し、「事大主義」と「夜郎自大意識」で強い方に味方している陣営が優位に立っていた。
 党派抗争とは、リベラルな儒教原理主義とリアルな現実主義の主導権争いである。
 朝鮮は誇る精神文化とされる「恨」と「怨」は、党派抗争から生まれた。
   ・   ・   ・   
 韓国の英雄であるキリスト教朝鮮人テロリストは、日本人共産主義者テロリストと同様に、現皇室の昭和天皇や皇族を殺すべくつけ狙ったが、テロ行為は全て失敗した。
   ・   ・   ・   
 日本国内には、昔から反天皇反日的日本人が少なからず存在している。
 日韓問題にしろ、日中問題にしても、問題の根源は韓国・中国との外交問題ではなく、日本の国益を害し日本国民の利益を損ねても韓国・中国に利益を与えようとする人権派良心派の日本人がいるという国内問題である。
 そうした日本人は、高学歴出身知的エリートに多い。
   ・   ・   ・   
 日本のこじれる外交問題の諸悪の根源は、日本人が持っている「取り敢えず謝っておこう」というその場しのぎの醜悪な態度、恥も外聞をかなぐり捨てた見苦しい根性である。
 日本の外交下手や外圧に弱いとは、そうした誰でも分かる見え透いた日本人の卑しさである。
 故に、現代の日本人は、江戸時代を逞しく生きていた武士でもなく、公家でもなく、まして百姓や町人でもないのである。
   ・   ・   ・   

☵5〕─3─令和元年。天皇陛下の即位礼正殿の儀。~No.24No.25No.26 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2019年10月22日10:21 産経新聞日韓議連会長と韓国首相が会談 安倍首相に文大統領の親書
 皇居・宮殿に到着した韓国の李洛淵首相=22日午後0時28分
 超党派でつくる日韓議員連盟額賀福志郎会長は23日午前、天皇陛下の「即位礼正殿の儀」に参列するために来日した韓国の李洛淵(イ・ナギョン)首相と東京都内のホテルで会談した。李氏は24日に安倍晋三首相と面会し、文在寅ムン・ジェイン)大統領の親書を手渡すことを明らかにした。会談後、額賀氏が記者団に語った。
 会談では、悪化する日韓関係の現状打開に向けて意見交換した。李氏は日韓両政府が1965年に締結した日韓基本条約について「基本的に守っていくことが前提だ」と語った。額賀氏は記者団に「お互いに知恵を絞って日韓関係の友好関係を取り戻し、地域の安定のために努力していくことを共有した」と述べた。
 会談は約1時間、朝食を取りながら行い、議連幹事長の河村建夫官房長官も同席した。」
   ・   ・   ・   
 10月22日18:36 産経新聞文在寅大統領が天皇陛下に親書 「韓国料理お好き」と好意的報道も
 韓国の文在寅大統領と安倍晋三首相=2018年5月、東京・大手町の経団連会館(斎藤良雄撮影)
 【ソウル=桜井紀雄】韓国政府は22日、文在寅ムン・ジェイン)大統領が天皇陛下に外交ルートを通じて親書を送ったと明らかにした。内容は公表しなかった。安倍晋三首相に対しても「即位礼正殿の儀」に出席した李洛淵(イ・ナギョン)首相が24日に面会する際に手渡すという。韓国では、日韓関係が極度に冷え込む中、李氏の即位礼正殿の儀出席と安倍首相との面会が関係改善の糸口になるかに注目が集まっている。
 陛下については、平和や過去への反省を強調してこられた経緯から好意的な報道も目立っている。
 聯合ニュースは、陛下が昨年3月にブラジルで開かれた世界水フォーラムで李氏と会われた際、ビビンバなど「韓国料理がとても好きだ」と話されたと紹介。「良い(日韓)関係が築かれることを願う」とも言及されたとし、「韓日外交に肯定的に作用するとの期待混じりの見方もある」と報じた。」
   ・   ・   ・   
 10月23日18:54 産経新聞「李首相と安倍首相面会前に韓国では「10分では短すぎる」先走る期待
 韓国の李洛淵首相
 天皇陛下の即位礼正殿の儀に出席するために訪日した韓国の李洛淵(イ・ナギョン)首相が24日に安倍晋三首相と面会する。韓国では、冷え切った日韓関係修復の「突破口に」と期待感が一方的に高まっているが、李首相は「状況は依然厳しい」と埋まらない日韓の認識差を認めて予防線を張っている。
 「日本の多くの方が李首相を信頼し、知人も多いため、大きな役割を果たしてくるだろう。画期的なものを持ち帰るのではないか」
 韓日議員連盟の姜昌一(カン・チャンイル)会長は21日、韓国のラジオでこう語った。与党「共に民主党」の李海●(=王へんに賛の夫がそれぞれ先)(イ・ヘチャン)代表も会議で「韓日関係が突破口を開くきっかけになるよう心より期待する」と述べた。安倍首相との面会時間が10分余りで調整されていたことから国会では「時間が短すぎる」との声も上がった。
 李首相は23日、記者団に「ドラマチックにたった一言二言で何とかできる話ではない。最大限、対話が促進されるよう雰囲気をつくるのが今回の目標だ」と説明。22日の祝宴で会った安倍首相が「あさって会いましょう」と声をかけ、「よろしくお願いします」と応じたことも明らかにした。
 東京都内の慶応大で23日に行われた日本人学生との交流会では、関係改善に向けて「まず経済分野を政治から手放すべきだ」と語り、日本の対韓輸出管理問題の解決を優先させる立場を強調。いわゆる徴用工判決問題の解決に重点を置く日本政府との見解の違いが浮き彫りになった。(時吉達也、ソウル 桜井紀雄)」
   ・   ・   ・    
 10月24日12:17 産経新聞「安倍首相、韓国・李首相と会談 関係改善は韓国次第
 会談を前に握手を交わす韓国の李洛淵首相(左)と安倍晋三首相=24日午前、首相官邸(春名中撮影)
 安倍晋三首相は24日午前、「即位礼正殿の儀」に合わせて来日中の韓国の李洛淵(イ・ナギョン)首相と首相官邸で会談した。李氏は文在寅ムン・ジェイン)大統領の親書を安倍首相に手渡し、いわゆる徴用工問題などで悪化する日韓関係の改善につなげたい考えだが、韓国側が具体的な解決策を示さなければ局面の打開は困難な情勢だ。
 韓国政府は安倍首相と文氏の首脳会談を早期に実現させたい意向で、李氏は来月初旬にタイ・バンコクで開かれる東南アジア諸国連合ASEAN)関連首脳会議に合わせた首脳会談を要請するとみられる。
 韓国最高裁が昨年10月、新日鉄住金(現日本製鉄)に対し、元徴用工らへの損害賠償を命じる判決を確定させて以降、日韓首脳会談は行われていない。
 日本側は来日した李氏を含め、韓国が徴用工問題の解決につながる前向きな案を提示しない限り、今後も、首脳間の直接対話には応じない構えだ。」
   ・   ・   ・   
 10月27日 産経新聞尖閣周辺に中国船、12日連続
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で27日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは12日連続。第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載している。」
   ・   ・   ・   
 10月27日01:00 産経新聞「【ソウルから 倭人の眼】祝意より安倍首相批判 即位礼正殿の儀に大取材陣を投入した韓国メディア
 会談に臨む韓国の李洛淵首相(左)と安倍晋三首相=24日午前、首相官邸(春名中撮影)
 天皇陛下の「即位礼正殿の儀」に韓国、特に韓国メディアは強い関心を示した。ただ、「世界の平和を常に願い」「憲法にのっとり」と宣明された天皇陛下の印象を好意的に報じつつも、「憲法を改正し日本を戦争が可能な国に変えようとする安倍首相とは対照的」と安倍首相批判の“材料”にしている。皇室のおめでたい儀式よりも、報道のターゲットは今回もやはり「安倍バッシング」だった。(ソウル 名村隆寛)
 ■世界で最も注目した韓国
 韓国メディアは今回の取材に大勢の記者を派遣した。即位礼正殿の儀の2日後の24日に行われた李洛淵(イ・ナギョン)首相と安倍晋三首相との会談取材のためだ。
 日本の内閣府によると、約70カ国の約450人が取材登録したそうだが、李洛淵氏が訪日の際に搭乗した「大統領専用機」には何と約50人の韓国メディアの記者が同乗したという。主要メディアは東京に支局があり、現地駐在記者の数も合わせれば相当な人数に上る。日本以外のメディアで最も多くの記者が取材に当たったのは、おそらく韓国であろう。
 即位礼正殿の儀に際し、韓国紙は皇室の家系図を掲載したり、玉座「高御座(たかみくら)」が京都から運ばれたことを紹介したりして、皇室に関するうんちくを傾けた。報道された写真や映像の多くは、天皇陛下のご宣明に続き、祝いの言葉「寿詞(よごと)」を読み上げた安倍首相の万歳三唱の場面だった。
 天皇、皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻と長女の眞子さま、次女の佳子さまのご装束姿も韓国ではテレビで報じられた。「大変荘厳な日本の歴史と文化を感じることができた」と李洛淵氏が語ったように、古式ゆかしい皇居での儀式は、韓国で一種珍しいものとして受け止められている。
 ■お言葉の政治利用
 中でも韓国メディアが注目したのは、天皇陛下のお言葉「ご宣明」だ。天皇陛下による「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」とのお言葉は、そのまま韓国語に翻訳された。特に「憲法」に関する部分を韓国メディアは、天皇陛下による「憲法順守の言明」として評価している。
 ただし、今回も韓国メディアらしい“曲解”付きだ。上皇さまのご在位中の姿にも言及された天皇陛下のお言葉を称賛する一方で、「新しい日王(天皇)のこうした発言は、安倍首相が平和憲法を変え日本を戦争ができる国にするのに力を注いでいるなかで、特に注目される」(ハンギョレ紙23日付の社説)と安倍首相を批判する報道が多い。
 上皇さまの天皇在位当時にもよく見られた韓国での勝手な解釈で、あたかも天皇陛下の考えが安倍首相とは違っていると言いたいのだ。“安倍バッシング”のためなら天皇陛下のお言葉まで、好きなように解釈し、巧妙に韓国式の論理を組み立てる。今回も明らかな天皇陛下の政治利用である。
 ■徹底して「日王」と表現
 即位礼正殿の儀で韓国メディアが相変わらず徹底していたことがある。天皇陛下の呼称だ。
 日本語の電子版を持つ韓国メディアは日本への気遣いからか、ほぼすべてが日本語サイトで「天皇」と表記していた。しかし、韓国語での放送、新聞、通信社の表現はいずれも「日王(イルワン)」だった。
 韓国政府は国際的な慣例に従い、公式に天皇陛下を「天皇(チョンファン)」と表現している。にも関わらず、韓国メディアは徹底して「日王」という韓国製の呼称を使い続ける。1989年の昭和天皇崩御のころから登場した「日王」は、世代が新しくなり続ける韓国社会で、もはや定着している。
 「天」や「皇」の文字を使うことが、民族情緒的に気に入らないようなのだが、日本の公式呼称を否定し勝手に作った韓国国内だけで通じる「日王」は、当地では事実上の固有名詞となってしまった。
 ■代は変わっても韓国は変わらず
 日本では天皇陛下が即位を宣明され、時代は平成から令和に変った。しかし、韓国では「日王の即位式に関心が注がれるのは、日本が天皇制を前面に出しアジアを侵略した歴史に対する記憶がいまだに生々しく残っているからだ」(ハンギョレ紙の社説)といった意見がまかり通っている。
 代は変っても、韓国の日本に対する意識は根本的に全く変わっていない。それどころか、「安倍首相が過去の軍国主義の時代の栄光を蘇らせるという意志を放棄しなければ、アジア各国の反発と憂慮が続くしかない。安倍首相は日王の発言に込められた平和への念願を、しっかりくみ取ることを望む」(同)という。
 まるで、説教である。軍国主義の野望を持つなんて、安倍首相にとっては心外であろうが、韓国メディアの中にはそう信じたい向きがあるかのようだ。「反発と憂慮を続ける」というアジア各国とは、つまり韓国のことであり、「韓国の言うことは聞け」ということなのだろう。
 歴史をからめた韓国の日本に対する要求のレベルは、時とともに上昇し続けている。」
   ・   ・   ・   

🎌7〕─3─江戸時代は家名変更による出世魚型世襲封建制度であった。〜No.41No.42No.43 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 日本民族の歴史は、天皇元号がなければ語り継げない。
 天皇元号を否定する日本人には、日本の歴史を語る資格はない。
   ・   ・   ・   
 世襲制天皇家・皇室は、別格の存在である。
   ・   ・   ・   
 日本の世襲制は、世界の世襲制とは違い、その為に世界の常識から理解されづらい。
   ・   ・   ・   
 名は体を表す。
 役職が人を育てる。
   ・   ・   ・   
 武士は、自分が出世して高位の役職に就く為ならば、先祖代々の姓名・家名を捨てて別の姓名や家名に変える事に抵抗はなく、むしろ喜んで変えた。
 武士にとっての姓名や家名は、その程度の認識であり、価値でしかなかった。
   ・   ・   ・   
 日本人の子供は、双六遊びが好きである。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、先祖代々の家名に愛着もなければ価値も持たず、自由に、好き勝手に創氏改名を繰り返していた。
 日本民族日本人にとって家名とは、季節によって衣替えをする衣服と同じであった。
 中国・朝鮮は、儒教価値観から創氏改名を嫌、先祖代々の家名を守る為に命を捨てた。
 その為に姓名の数は、日本では万単位であるが、中国は千単位であり、朝鮮は百単位である。
   ・   ・   ・   
 「名を惜しむ」の「名」とは、先祖代々の家名ではなく、自分の名誉であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、社会の安定や秩序の維持の為に、個人の才能・能力・才覚より家格・家柄・家名に重きを置く。
   ・   ・   ・   
 役職は、個人ではなく家格・家柄・家名に存在する。
 特に、武士社会においては役職は、家格・家柄・家名で決まっていた。
 個人としてずば抜けた才能・能力・才覚があろうとも、生まれた家が就任する役職に相応しくない家格・家柄・家名であれば出世できなかった。
 その反対に、個人として才能がなくても、生まれた家が役職に相応しい家格・家柄・家名であれば自動的にその役職に就く事ができた。
 身分低いが野心的な才能ある武士・サムライは、望む役職に就く為に役職に相応しくない家の養子になり家名を変えながら出世した。
 それが、下剋上であった。
 その代表例が、斎藤道三であり、北条早雲であった。
 上杉謙信も、関東管領職に就く為に先祖代々の長尾の姓を捨てた。
   ・   ・   ・  
 ウィキペディア
 斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。
 道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。
 法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。
 武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、美濃守護土岐氏守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。
 (土岐)頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗った。
 天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。
 天文23年(1554年)、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
 子孫
 後に江戸時代には、旗本の井上家や松波家などが道三の子孫として存続した。井上家は長井道利の子孫、松波家は道三の子、松波政綱を祖とする。江戸町奉行を務めた松波正春が著名な子孫である。
 道三の娘は稲葉貞通に嫁ぎ、稲葉典通を産んだ。典通の子孫からは臼杵藩主となり幕末に至った者、皇室へ血を繋げた者、公家へ血を繋げた者などがいる(斎藤道三 - 娘 - 稲葉典通 -(略)- 稲葉知通 - 稲葉恒通 - 娘 - 勧修寺経逸 - 勧修寺ただ子 - 仁孝天皇 - 孝明天皇 - 明治天皇 - 大正天皇 - 昭和天皇 - 明仁上皇)。
  ・  ・  
 北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
 名称と生年
 諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が定説となりつつある。
 伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはなく伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったが、一般に北条早雲の名で知られている。なお本項での呼称は、便宜上「北条早雲」で統一する。
   ・   ・   ・   
 三好長慶は、無能な人間が家格・家柄・家名による世襲制で役職に就くのは合理的ではないとして、家格・家柄・家名に囚われず採用した。
 その代表例が、松永久秀であった。
 織田信長は、三好長慶の人材登用を真似て、有能な人物を積極的に登用し、無能な人間は家格・家柄・家名があろうとも左遷し追放した。
 登用された代表例が、明智光秀滝川一益である。
 追放された代表例が、佐久間信盛林秀貞である。
   ・   ・   ・   
 豊臣秀吉徳川家康は、家名を変える世襲制出世魚として出世した。
 ウィキペディア
 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし )、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。
  ・  ・  
徳川家康(とくがわ いえやす)徳川家の始祖。旧称は松平元康(まつだいら もとやす)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名[1]・天下人。安祥松平家九代当主。戦国時代に終止符を打った武将で、江戸幕府を開府し初代征夷大将軍[1]となる。三英傑のひとり。
 家系は三河国の国人土豪松平氏。幼名は竹千代[1]。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。
 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している[3]
   ・   ・   ・   
 徳川家康は、江戸幕府を開くに当たり、社会の安定化の為に下剋上的役職を廃止鎌倉幕府以来の世襲制出世魚的役職に代え固定した。
 ただし、才能の人物を登用する為に養子を認めた。
   ・   ・   ・   
 江戸時代には、世襲制出世魚的出世ではなく下剋上的出世する者がときおり現れた。
 その代表例が、田沼意次であった。
 世襲制出世魚的役職の家格・家柄・家名派は、下剋上的出世を潰した。
 庶民(百姓や町人)から武士となり、養子を繰り返して町奉行・郡奉行・勘定奉行を歴任しながら出世した者が少なからず存在した。
 その代表例が、川路聖謨である。
 ウィキペディア
 川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。
 豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。
 生涯
 享和元年(1801年)4月25日、豊後国日田(現・大分県日田市)に、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。幼名は弥吉。母は、日田代官所手付の高橋誠種の娘。弟に井上清直、母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代である窪田鎮勝がいる。根津勢吉、永峰弥吉もいとこにあたる。
 文化5年(1808年)、父・吉兵衛は江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。文化9年(1812年)、弥吉は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となる。翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。その後、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向。この時仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格した。その後、佐渡奉行を経て、老中・水野忠邦時代の小普請奉行、普請奉行として改革に参与した(この頃、名を萬福から聖謨に改む)。
   ・   ・   ・   
 特別な家系を正統とする御家に変わりないが、血筋・血統的には初代と現代では全く異なる。
 武士は、御家・大名家・藩を存続させる為ならば主君・大名・藩主を強制的に替え、時には急死・病死・事故死として殺した。
 武士にとって大名・藩主は、忠誠を誓う主君ではなく、自由に操れる木偶の坊・人形である事が好ましかった。
 強力なリーダーシップを発揮するリーダーとして、先例を無視して諸改革を行う事は迷惑千万であった。
 藩政改革を行うのは、大名・藩主ではなく、家老や諸役などの世襲重臣である事が好ましかった。
 大名・藩主・主君が落ち度を犯して幕府から改易を命じられ領地を召し上げられたら、藩士である武士は職を失い家財道具を失いわずかな路銀で追放され、最悪、乞食になるしかないからである。
 それ故に、武士の忠誠心は主君・大名・藩主ではなく御家・大名家・藩に向けられる。
 それが、真の武士道である。
 「我が身可愛さ」こそが武士の本音で、「死ぬ覚悟」の葉隠的武士道は建前に過ぎない。
 武士社会とは、ブラック社会である。
 その最悪な大名・藩主が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭である。
 だが、浅野内匠頭の失敗は、補佐すべき江戸詰め家老ら重臣達の怠慢が原因であった。
   ・   ・   ・   
 商家や豪農でも、優秀な使用人が婿養子となり名を代え世襲を継いだ。
 日本に数百年続く老舗が多いのは、世襲制出世魚的慣習があったからである。
 名門や名家も、世襲で守られていた。
   ・   ・   ・   
 代表的な世襲制出世魚的職業とは、歌舞伎・落語・相撲などの芸能・演芸で、芸事に打ちこみ精進する事で芸名・雅号を改め大名跡を受け継いだ。
 代表的人物が、葛飾北斎である。
   ・   ・   ・   
 名人・匠・職人の名前は、生まれた時に親が神仏に誓って名付けた名前ではない。
 自分の名前を高めるのも辱めるも、時の運不運はあっても、突き詰めれば自分の生き方・努力であって神仏には関係なかった。
 問題は、自分がどう生きるか、どう生きたいか、どう死にたいかであった。
 本当の名人・匠とは、己が名を天下に知らしめる為に妥協を一切許さず、神仏に誓い、死を覚悟して、失敗を繰り返しながら職に打ちこんでいた。
 名人・匠が目指したのは、ナンバーワンであり、オンリーワンであり、トータルワンであった。
 それが、「一芸百芸に通じる」である。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 出世魚(しゅっせうお)とは稚魚から成魚までの成長段階において異なる名称を持つ魚。江戸時代までは武士や学者には元服および出世などに際し改名する慣習があった。その慣習になぞらえ「成長に伴って出世するように名称が変わる魚」を出世魚(しゅっせうお)と呼ぶ。「縁起が良い魚」と解釈されて門出を祝う席など祝宴の料理に好んで使われる。ブリ・スズキ・ボラなどが代表的。
   ・   ・   ・