🎌7〕─3─江戸時代は家名変更による出世魚型世襲封建制度であった。〜No.41No.42No.43 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 日本民族の歴史は、天皇元号がなければ語り継げない。
 天皇元号を否定する日本人には、日本の歴史を語る資格はない。
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 世襲制天皇家・皇室は、別格の存在である。
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 日本の世襲制は、世界の世襲制とは違い、その為に世界の常識から理解されづらい。
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 名は体を表す。
 役職が人を育てる。
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 武士は、自分が出世して高位の役職に就く為ならば、先祖代々の姓名・家名を捨てて別の姓名や家名に変える事に抵抗はなく、むしろ喜んで変えた。
 武士にとっての姓名や家名は、その程度の認識であり、価値でしかなかった。
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 日本人の子供は、双六遊びが好きである。
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 日本民族日本人は、先祖代々の家名に愛着もなければ価値も持たず、自由に、好き勝手に創氏改名を繰り返していた。
 日本民族日本人にとって家名とは、季節によって衣替えをする衣服と同じであった。
 中国・朝鮮は、儒教価値観から創氏改名を嫌、先祖代々の家名を守る為に命を捨てた。
 その為に姓名の数は、日本では万単位であるが、中国は千単位であり、朝鮮は百単位である。
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 「名を惜しむ」の「名」とは、先祖代々の家名ではなく、自分の名誉であった。
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 日本民族日本人は、社会の安定や秩序の維持の為に、個人の才能・能力・才覚より家格・家柄・家名に重きを置く。
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 役職は、個人ではなく家格・家柄・家名に存在する。
 特に、武士社会においては役職は、家格・家柄・家名で決まっていた。
 個人としてずば抜けた才能・能力・才覚があろうとも、生まれた家が就任する役職に相応しくない家格・家柄・家名であれば出世できなかった。
 その反対に、個人として才能がなくても、生まれた家が役職に相応しい家格・家柄・家名であれば自動的にその役職に就く事ができた。
 身分低いが野心的な才能ある武士・サムライは、望む役職に就く為に役職に相応しくない家の養子になり家名を変えながら出世した。
 それが、下剋上であった。
 その代表例が、斎藤道三であり、北条早雲であった。
 上杉謙信も、関東管領職に就く為に先祖代々の長尾の姓を捨てた。
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 斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。
 道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。
 法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。
 武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、美濃守護土岐氏守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。
 (土岐)頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗った。
 天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。
 天文23年(1554年)、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
 子孫
 後に江戸時代には、旗本の井上家や松波家などが道三の子孫として存続した。井上家は長井道利の子孫、松波家は道三の子、松波政綱を祖とする。江戸町奉行を務めた松波正春が著名な子孫である。
 道三の娘は稲葉貞通に嫁ぎ、稲葉典通を産んだ。典通の子孫からは臼杵藩主となり幕末に至った者、皇室へ血を繋げた者、公家へ血を繋げた者などがいる(斎藤道三 - 娘 - 稲葉典通 -(略)- 稲葉知通 - 稲葉恒通 - 娘 - 勧修寺経逸 - 勧修寺ただ子 - 仁孝天皇 - 孝明天皇 - 明治天皇 - 大正天皇 - 昭和天皇 - 明仁上皇)。
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 北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
 名称と生年
 諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が定説となりつつある。
 伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはなく伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったが、一般に北条早雲の名で知られている。なお本項での呼称は、便宜上「北条早雲」で統一する。
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 三好長慶は、無能な人間が家格・家柄・家名による世襲制で役職に就くのは合理的ではないとして、家格・家柄・家名に囚われず採用した。
 その代表例が、松永久秀であった。
 織田信長は、三好長慶の人材登用を真似て、有能な人物を積極的に登用し、無能な人間は家格・家柄・家名があろうとも左遷し追放した。
 登用された代表例が、明智光秀滝川一益である。
 追放された代表例が、佐久間信盛林秀貞である。
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 豊臣秀吉徳川家康は、家名を変える世襲制出世魚として出世した。
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 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし )、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。
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徳川家康(とくがわ いえやす)徳川家の始祖。旧称は松平元康(まつだいら もとやす)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名[1]・天下人。安祥松平家九代当主。戦国時代に終止符を打った武将で、江戸幕府を開府し初代征夷大将軍[1]となる。三英傑のひとり。
 家系は三河国の国人土豪松平氏。幼名は竹千代[1]。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。
 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している[3]
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 徳川家康は、江戸幕府を開くに当たり、社会の安定化の為に下剋上的役職を廃止鎌倉幕府以来の世襲制出世魚的役職に代え固定した。
 ただし、才能の人物を登用する為に養子を認めた。
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 江戸時代には、世襲制出世魚的出世ではなく下剋上的出世する者がときおり現れた。
 その代表例が、田沼意次であった。
 世襲制出世魚的役職の家格・家柄・家名派は、下剋上的出世を潰した。
 庶民(百姓や町人)から武士となり、養子を繰り返して町奉行・郡奉行・勘定奉行を歴任しながら出世した者が少なからず存在した。
 その代表例が、川路聖謨である。
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 川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。
 豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。
 生涯
 享和元年(1801年)4月25日、豊後国日田(現・大分県日田市)に、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。幼名は弥吉。母は、日田代官所手付の高橋誠種の娘。弟に井上清直、母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代である窪田鎮勝がいる。根津勢吉、永峰弥吉もいとこにあたる。
 文化5年(1808年)、父・吉兵衛は江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。文化9年(1812年)、弥吉は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となる。翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。その後、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向。この時仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格した。その後、佐渡奉行を経て、老中・水野忠邦時代の小普請奉行、普請奉行として改革に参与した(この頃、名を萬福から聖謨に改む)。
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 特別な家系を正統とする御家に変わりないが、血筋・血統的には初代と現代では全く異なる。
 武士は、御家・大名家・藩を存続させる為ならば主君・大名・藩主を強制的に替え、時には急死・病死・事故死として殺した。
 武士にとって大名・藩主は、忠誠を誓う主君ではなく、自由に操れる木偶の坊・人形である事が好ましかった。
 強力なリーダーシップを発揮するリーダーとして、先例を無視して諸改革を行う事は迷惑千万であった。
 藩政改革を行うのは、大名・藩主ではなく、家老や諸役などの世襲重臣である事が好ましかった。
 大名・藩主・主君が落ち度を犯して幕府から改易を命じられ領地を召し上げられたら、藩士である武士は職を失い家財道具を失いわずかな路銀で追放され、最悪、乞食になるしかないからである。
 それ故に、武士の忠誠心は主君・大名・藩主ではなく御家・大名家・藩に向けられる。
 それが、真の武士道である。
 「我が身可愛さ」こそが武士の本音で、「死ぬ覚悟」の葉隠的武士道は建前に過ぎない。
 武士社会とは、ブラック社会である。
 その最悪な大名・藩主が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭である。
 だが、浅野内匠頭の失敗は、補佐すべき江戸詰め家老ら重臣達の怠慢が原因であった。
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 商家や豪農でも、優秀な使用人が婿養子となり名を代え世襲を継いだ。
 日本に数百年続く老舗が多いのは、世襲制出世魚的慣習があったからである。
 名門や名家も、世襲で守られていた。
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 代表的な世襲制出世魚的職業とは、歌舞伎・落語・相撲などの芸能・演芸で、芸事に打ちこみ精進する事で芸名・雅号を改め大名跡を受け継いだ。
 代表的人物が、葛飾北斎である。
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 名人・匠・職人の名前は、生まれた時に親が神仏に誓って名付けた名前ではない。
 自分の名前を高めるのも辱めるも、時の運不運はあっても、突き詰めれば自分の生き方・努力であって神仏には関係なかった。
 問題は、自分がどう生きるか、どう生きたいか、どう死にたいかであった。
 本当の名人・匠とは、己が名を天下に知らしめる為に妥協を一切許さず、神仏に誓い、死を覚悟して、失敗を繰り返しながら職に打ちこんでいた。
 名人・匠が目指したのは、ナンバーワンであり、オンリーワンであり、トータルワンであった。
 それが、「一芸百芸に通じる」である。
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 出世魚(しゅっせうお)とは稚魚から成魚までの成長段階において異なる名称を持つ魚。江戸時代までは武士や学者には元服および出世などに際し改名する慣習があった。その慣習になぞらえ「成長に伴って出世するように名称が変わる魚」を出世魚(しゅっせうお)と呼ぶ。「縁起が良い魚」と解釈されて門出を祝う席など祝宴の料理に好んで使われる。ブリ・スズキ・ボラなどが代表的。
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