🎌8〕─3─令和は国書から採用したが、日本の知識・教養は中国古典である。~No.70No.71No.72 * 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・ {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・       
 2019年7月号 Hanada「一定不易   加地伸行
 天の孽(わざわい)を作(な)すや、
 猶(な)ほ違(のが)るべし。
 自(みずか)ら孽(わざわい)を作(な)すは、
 逭(のが)るべからず。
   孽 災難。
   違 避ける。逃(のが)る。
   逭 逃げる。

 4月1日、新元号が公表されてから、早くも二個月が経った。その間、新聞各紙は新元号について、ほぼ同じような説明を繰り返してきた。
 すなわち、新元号『令和』は、①国書である『万葉集』を出典とする。②従来は、中国の漢籍を出典としていたが、今回はそのような形ではなく、日本独自の形となっている。
 こうした説明に対して、もちろん、中国学研究者から異論が出た。すなわち、『令和』は、中国の詩文集の『文選』所収(しょしゅう)の張衡の作である『帰田賦(きでんのふ)』に基づいている、として。
 しかし、この異論はほとんど無視されており、何度もの『国書、国書、国書が出典』という声に掻(か)き消されていった感がある。
 そして二個月が経った今、もはや『令和』の由来、出所等は論じられることなく、このまま〈令和は、国書『万葉集』を出典とする〉という話になってしまいかねない。
 それでいいのであろうか。
 さらに言えば、『令和』の提案者と目される中西進文化勲章受章者の発言中に、老生のような中国古典研究者としては絶対に承服できない話が出てきており、これは黙って見過ごすことはできない。
 こういう発言である。『令和』の『和』に対し〈聖徳太子が作った十七条の憲法の「和をもって貴しとせよ」を思い浮かべます〉と(読売新聞4月17日付)。
 これはよくある誤謬(ごびゅう)である。聖徳太子は或る中国古典を踏んで『以和為貴』と記したのである。すなわち『論語』学而(がくじ)の『礼之用、和為貴』(礼の用は、和もて貴しと為す)が出典である。
 中西某は『論語はつぶさに研究したことがあります』(産経新聞4月29日付)と大見得を切っていたが、『論語』全五百章余の内、最初から12章目に出てくる『和為貴』を早くも素っ飛ばしているのではないか。
 因みに、『礼記(らいき)』儒行にある句、すなわち『礼之以和為貴』(礼の和を以{もつ}て貴しと為{な}す)も聖徳太子の念頭にあったであろう、右の『礼の』は『礼は』の意。
 その他、本誌6月号ならびに産経新聞5月12日付の拙稿『古典個展』において、老生、出典について詳述している。結論は、新元号『令和』は中国漢籍に出典があり、国書『万葉集』に基づくと言えない、とする。
 これは〈事実〉として文献に基づく、研究者の良心から発言である。しかし政治的立場から、すなわち〈国書に基づく〉ことを旗幟(きし)とするならば、それはそれでいい。歴史上、よくある政治的利用である。
 今回の元号出典騒ぎで痛感したことは、古典(出典)自体の伝統的意味が理解されていないことである。
 前近代まで、人々が学び身に付けるのを古典とした。すなわち聖人(これは観念的に創造した、人間として完全な理想像)が古代に存在し、聖人が集めたり記した文献を古典とし、それを後世の者は学び、その意味を〈祖述{そじゅつ}する〉ことが第一。その結果、自分の草(そう)する詩文において、身に付いた古典のことばを多く踏むことが教養であった。もちろん元号の選定においてもそうである。
 こうした古典意識には、中国礼賛はない。中国だの日本だのを超えた、あえて言えば、東北アジアにおける理想的文章すなわち古典を踏んで最高教養を内外に示す行為なのであり、かつてはそれが生きていた。
 しかし現代では、もうそれは消えてゆきつつある。それどころか漢籍だの国書だのと〈矮小化(わいしょうか)〉されつつある。東北アジアの古典は、国家を超えた文化という意識で存在していたのであった。一つの読み物といった普通の地位になりつつある。それも『和を以て貴しと為す』を聖徳太子作と誤読する無惨な姿で崩壊しつつ。
 古人曰く、天の孽({わざわい}災難)を作(な)すや、猶(な)ほ違る(のがる)べし。自(みずか)ら孽を作(な)すは、逭(のが)る(逃る)べからず、と。」
   ・   ・   ・   
 日本神道は、縄文時代の自然崇拝を古層にしているが、遡れば長江文明揚子江流域民(現・中国の少数民族の祖先)と南方系海洋民の宗教が源泉である。
 時代がくだることによって、大陸から様々な宗教や哲学・思想が渡来し、日本の宗教や哲学・思想と融合していった。
 中国の儒教道教などの諸子百家、インドや中央アジアの仏教、ペルシャゾロアスター教拝火教)、中東のユダヤ教イスラム教、西洋のネストリウス派などキリスト教諸派などが、ヒトやモノのシルクロード移動に伴って日本に渡ってきた。
 日本は地の果てとしてシルクロードの終着地であり、日本の首都奈良は国際都市として遊牧民族唐人(漢族系中国人ではない)はもちろんインド人、ペルシャ人、ユダヤ人など多く人種や民族が人数は少なかったがいた。
 日本民族日本人は、乱婚を繰り返してきた混血の雑種民族である。
   ・   ・   ・   
 中国の近代的知識・教養、学術語・科学用語などを表現する単語、熟語の70%は、日本が創り出した和製漢字である。
   ・   ・   ・   
 韓国は、和製漢字を使用しない為に文字をハング文字に統一して漢字表記を廃棄した。
 ハングル文字一本化とは、日本が作った和製漢字の排除である。
   ・   ・   ・   
 日本の古典的知識・教養は、漢書であって国書ではない。
   ・   ・   ・   
 古代の古典は、現代の人為的国籍に縛られない。
 古代の古典には著作権がない以上、誰がどう利用しようと自由である。
 数千年前に生きていた古代の人間と現代の人間は、血筋が繋がっているわけではない。
 古典が書かれた当時の古代文化が、近代化された現代文化と繋がってはいない。
 古代人が偉いかと言って、現代人も同レベルで偉いわけではない。
 ある面において、現代人は古代人よりも劣っている事がある。
   ・   ・   ・   
 古代ギリシャ人であるソクラテスプラトンアリストテレスなどの哲学者・思想家は偉大であり、数多くの著書を後世に古典として残しているからといって、現代のギリシャ人に感謝する必要があるのか。
   ・   ・   ・   
 中国の古典を学んで現代の中国人を尊敬し感謝する事は、くだらない話である。
 ましてや、古典を政治利用している中国共産党の中国に何の恩義もない。
   ・   ・   ・   
 日本の教養や知識とは、古代の中国古典、中世の仏教経典、近世のオランダ書籍、近代の西洋学などである。
 これらに比べて、日本独自の古典から紡ぎ出された教養や知識は少ない。
 キリスト教の聖書やマルクス主義共産主義)の書籍からきている教養や知識は、さらに乏しい。
   ・   ・   ・   
 日本民族の日本文化は、海の外にある素晴らしいモノ・優れたモノ・秀でたモノを取り入れ、真似し、模倣し、受け入れられるモノは素直に受け入れ、そのままでは受け入れられなければ改良して受け入れ、どうしても受け入れられない異質なモノはキッパリと拒絶し排除した。
 日本に合わない素晴らしいモノは「敬して遠ざける」事で、白痴となっり、思慮分別を放棄し、盲従して、無理矢理日本に押し込む事はない。
   ・   ・   ・   
 日本が拒否した最たるモノが、キリスト教共産主義であった。
   ・   ・   ・   
 儒教は、原理主義論語儒教を受け入れたが、朱子学が尊んだ四書五経儒教は形骸化して受け入れた。
 日本儒教は、中国や朝鮮で流行った主流派の朱子学より陽明学など諸派の影響が強い。
   ・   ・   ・  
 仏教は、改良に改良を加え、原形を留めぬほどに改造・変形させて受け入れた。
   ・   ・   ・   

🎌8〕─2─令和時代と皇室の危機。元号「明治」はクジで決まった。~No.68No.68No.69 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つを立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 天皇が詔で発する元号とは、宗教性の強い伝統的日本文化である。
   ・   ・   ・   
 元号とは、独立宣言であり国政方針である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人の歴史的事象は、例外なく、全て、歴代天皇が定めた元号・年号で記載され、言葉として表現されている。
 天皇所縁の元号・年号のない日本史は、天皇を否定しない限り存在しない。
   ・   ・    ・   
 西暦とは、キリスト生誕紀元であり、キリスト教文明圏のみで採用されている宗教紀元である。
   ・   ・   ・   
 共産主義諸国は、反宗教無神論に基ずく建国記念日の人民革命暦を使用する。
   ・   ・   ・   
 元号・年号を例えるなら、船の帆柱に高々と掲げられた「旗」であった。
   ・   ・   ・   
 2019年6月号 Hanada「令和時代と皇室の危機
 第一人者が語る元号ヒストリア
 所功
 ……
 過去には元号消滅の危機が
 私が感無量だったのは、多くの国民が元号について好意的に受け止め、評価していることです。
 新元号発表当日、新宿アルタ前や渋谷スクランブル交差点などに大勢の若者が集い、発表の瞬間、歓声さえ上がっていました。読売新聞の世論調査によれば、新元号の『令和』に『好感を持っている』と答えた人は62%、また新元号が日本の古典から引用されたことを『評価する』は88%にものぼっています。
 しかし、私が元号の研究を始めた昭和30年代後半頃は、いまとはまったく状況が異なりました。敗戦直後から昭和の終わりにかけて、『元号など廃止すべきだ』という声が強かったのです。
 占領政策によって、旧皇室典範が廃止され、新憲法下の一法律として新皇室典範が定められましたが、そこには元号に関する規定がありません。しかもその頃、いわゆる天皇制への疑義や非難が巻き起こり、元号についても否定論が強かった。実際、消滅の危機が何度かありました。
 とくに昭和20年(1950)、参議院の有力議員が中心となり、『元号を廃止して西暦に一本化しよう』と画策、委員会をつくり多数の参考人を招致しましたが、ほとんどが元号廃止論者でした。
 その当時はまだ占領下ですから、参議院事務局の責任者がGHQ(連合国総司令部)にお伺いを立てたところ、こう言われています。
 『こちらとしてはそれで構わない。ただ、日本国憲法政教分離を厳しく定めている。西暦はキリスト生誕紀元だから、これを公式に採用すると、政教分離違反だという声が出てくる恐れがある』
 これは対日占領文書を研究している私の友人が最近論文に書いていますが、GHQのなかにも、なかなか本質を見抜く人がいたわけです。GHQにそう言われたせいか、元号廃止の動きは急にしぼんでしまいますが、元号廃止論はその後も根強くありました。そこで、心ある人々は懸命に努力して、昭和54年に『元号法』を制定し、元号を定める法的根拠ができたのです。
 説得力のない元号批判
 しかし今回の改元についても、批判的な報道をするメディアがないわけではありません。
 ある全国紙は4月2日の紙面で、安倍首相がツイッターやインスタグラムに談話を投稿したり、国書にこだわったこと、談話を発表したことなどを批判するため、わざわざ元政府関係者の言葉を引いています。
 こういう旧態依然とした反対論には、ほとんど説得力がありません。誰であれ、時の総理が公的に元号に関して強い責任感と使命感を持つのは、むしろ当然のことです。元号法には、はっきりこう書かれています。
 『元号は、政令で定める』
 つまり、時の政府が責任を持って新しい元号を決めるものと明記されています。したがって、政府のトップである総理大臣と実務にあたる官房長官のもとで、しっかり準備して、最善策を決定するのは重要な責務であり、誰が総理であっても、そうするべきものです。今回はそれが達成されたわけですから、素直に評価してもよいと思います。
 かつて元号廃止論者が声高(こわだか)に主張したのは、それが『天皇制の残滓(ざんし)』であり、『人民支配の道具』だという考えです。
 逆に言えば、日本に1300年以上も元号制度が続いていり、とくに明治以降、一世一元であるのは、日本独自の天皇という君主のもとで、立憲君主制が維持されているからです。
 元号の本家である中国、また同様に元号を使っていた朝鮮半島も安南({あんなん}ベトナム)も、王政が亡くなった途端、元号まで消えてしまいました。いま元号制度が健在なのは、象徴世襲天皇制度をもつ日本だけです。
 少し歴史を振り返れば、いまから2200年ほど前、漢の武帝時代に始まった元号は、徐々に周辺国へ広まっていきました。
 ただし、中国は自身を世界の一等国、周辺国は劣等国と考えていました。したがって、周辺の諸国が中国の元号を使うのは認めるけれど、独自の元号を建て、使うことはけしからんという態度をとっています。
 たとえば朝鮮の新羅で、7世紀前半に独自の元号を作り、使っていたところ、新羅使節に対して、時の皇帝太宗がこう言っています。
 『新羅は、わが大唐帝国の臣下ではないか。その分際で、勝手に元号をつくるとは何事か!』
 そう言われると、新羅は抵抗できず、その直後から独自元号をやめ、中国の元号をそのまま使っています。
 一方、ベトナムは朝鮮と同じく中国と地続きですが、かなり結束が強く、10世紀から20世紀半ばにいたるまで、独自の元号を使い続けてきました。
 元号は国家独立のシンボル
 この点、日本はどうかといえば、645年に『大化(たいか)』という独自の元号を建てましたが、まだ国内外で公然と使うことはできなかったらしく、ほとんど用例が残っていません。
 しかし、半世紀ほど経って、701年に『大宝(たいほう)』という年号を建てた頃は堂々たる中央集権国家ができつつありましたから、最高法規大宝律令に次のごとく定めています。
 『およそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用ゐよ』
 すると、それまで主に干支(えと)で年を表していた人々が、大宝元年から元号を使っています。遣唐使が持参した外交文書にも、日本の元号を堂々と書いていたから、唐の歴史書にきちんと記されています。その頃までに日本が中央集権的律令体制を整え、国家として自立していましたから、中国もそれを認めるほかなかったのでしょう。
 元号というのは、そういう意味でまさに国家独立のシンボルでもあるわけです。
 ただ、現在のような『一世一元』になったのは明治からです。それまでは、天皇の即位に際して改元することを原則としながら、天変地異などが起きた際も、特定の厄年(やくどし)にも改元を繰り返しています。
 これは、天帝が人君を見ていて、良いことをすれば褒め、悪いことをすれば懲らしめる、という天人相関思想が根底にあります。ところが、明朝の時代に入るとほぼ『一帝一号』となり、それに続く清朝も完全に『一世一元』となっていました。
 そこで江戸後期に入りますと、中国がお手本だったことに加え、近代的な社会を目指すにあたり、天人相関思想にもとづく再三の改元は無意味なものと考え、日本も『一世一元』にすべきではないかという意見が、大坂の町人学者や水戸の歴史学者などから出てくるようになります。それから数十年後、幕末維新のリーダー岩倉具視が、明治改元の際、『一世一元』を提唱しています。
 『明治』はくじで決まった
 岩倉はお公家さんですが、合理主義者でしたから、これまで時々の最高の学者と政治家が協力して元号を選ぶ際に行った『改元定の儀式』は無用な論議のくりかえしだ、と批判します。その代わりに、漢学者の考案する多数の元号を優れた識者に三つくらいに絞り込んでもらい、それを天皇に奏上(そうじょう)して『くじ』で決めてもらうというユニークな方法を提案し、実践しています。
 維新を象徴する『明治』元号はくじ引きで決まったのです。そのいきさつは『岩倉公実記』中巻や松平慶永(春嶽)の『逸事史補(いつじしほ)』および『明治天皇紀』巻一に詳しく書かれています。
 最近、私の友人が宮内庁の書陵(しょりょう)部で、四つ折りにされた『明治』と書かれた紙を発見したと知らせてくれましたが、これはひょっとしたら、あのくじ引きに用いられた一枚かもしれません。
 明治天皇は当時満15歳ですから、どの元号を採用するか判断できたとは思いますが、大事なことは臣下の意見をよく聞き、慎重に神意をうかがうことにより、天皇というお立場にある至尊(しそん)が自らお決めになったという形を整えることです。
 そう考えた岩倉は、周囲の識者がきちんとお膳立てをし、人事を尽くしながら、最後は天命を待つというか、神の計らいに委(ゆだ)ねることにしたのです。
 『くじ引きで決めるなんて・・・』と思われるかもしれませんが、これは古代から日本でも外国でも行われてきたことです。たとえば、室町時代に第6代将軍・足利義教はくじ引きで決められたことが知られています。
 しかし、その後、これでは近代的な公議政体としていかがなものかという意見が出て、明治の皇室典範と当極令(とうきょくれい)で法的ルールが定められます。それが大正と昭和の改元に適用され、枢密院で議論をして、その決議を奏上すると天皇がお決めになる勅諚(ちょくじょう)形がとられたのです。
 あの大誤報の真相 
 余談です、昭和と改元された際、いまのM新聞が勇み足の大誤報をしました。大正15年12月25日、新元号を『光文』だとスクープしたのです。巷(ちまた)では、実際『光文』に決まっていたが、政府がスクープを見てから慌てて『昭和』に差し替えた。とまことしやかに言われています。しかし、これはまったく事実ではありません。」
   ・   ・    ・   
 天皇号は、国統治として中華帝国・中華皇帝からの独立宣言である。
 元号は、文明・文化として中華世界・中華文明圏からの自立宣言である。
 こうして、日本民族は、国及び文明・文化として中国からの独立を勝ち取り、世界と付きつ離れずの按配路線で生きてきた。
 だが、元号の出典が国書(日本の古典)ではなく漢籍(中国の古典)から選ばれ、中華文明の影響・支配が色濃く残され、文明・文化の独立は未完のまま終わった。
   ・   ・   ・   
 日本文明は、好戦的漢族の黄河文明ではなく、黄河文明に滅ぼされた少数民族長江文明の後継文明である。
   ・   ・   ・   
 日本の元号は、天皇が暦として時代と時間を支配する宣言であり、天皇が自分の治世における統治理念である。
 天皇一代一元号とは、天皇崩御後に贈られる尊号・諱・諡号である。
 一代一元号時代における日本の歴史は、天皇の御名を尊号・諱・諡号で呼び、歴史書には諱・諡号で記して後世に残す。
 元号を否定する事は、崩御された天皇に贈られる尊号・諱・諡号を否定する事であり、歴史書から天皇の個人名を削除する事を意味する。
 つまり、民族宗教・日本国・日本国民の歴史を否定し抹消する事である。
 裕仁天皇昭和天皇明仁天皇は平成天皇徳仁天皇は令和天皇
 元号を廃止するという事は、崩御された天皇に尊号・諱・諡号を贈らないという不遜行為である。
 それ故に、日本民族日本人は天皇の尊号・諱・諡号となる元号を辱めないように生きている。
 元号とは、そうした尊きものである。
 現代生きている日本人は死亡すれば名前は消え去り歴史に残らないが、天皇の名は、良きにつけ悪しきにつけ、日本国と日本国民が存在する限り日本の歴史さらには世界の歴史に残される。
   ・   ・   ・   
 天皇・皇族・皇室に対して、日本民族日本人の一般庶民は愛着を抱き、日本国民日本人の高学歴出身知的エリートは愛着を抱かない。
 反天皇反日的高学歴出身知的エリートは、天皇・皇族・皇室に関わる如何なる事に対して、元号にも否定的である。
 少子高齢化で人口激減する日本では、日本民族日本人は減少し、日本国民日本人が増加する。
   ・   ・   ・   
 アメリカ、GHQ、連合国=国連は、日本を大改造する為に昭和天皇天皇制度を利用すべく残したが、将来的に天皇制度を廃絶し天皇・皇族・皇室を消滅させる方策を日本に押しつけた。
 それを実行したのは、ユダヤアメリカ人のマルクス主義者(隠れ共産主義者)と日本人共産主義者達であった。
 血筋・血統に基ずく現皇室の皇統は、反天皇反日勢力から、日本固有の在来種(血筋)である日本産トキ同様に滅びる道を歩かされている。
   ・   ・   ・    

🎌8〕─1─日本の元号は、改定版独立宣言であり、天皇の諡号であり、日本文化である。ドイツ・オペラ。~No.65No.66No.67 * 

  ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・    
 かつて、正統なオペラはイタリア語で歌われるのが常識であった。
 西洋文化の中心はイタリアで、ドイツは文化度の低いド田舎であった。
 世界の共通語はイタリア語で、ドイツ語は田舎言葉であった。
 モーツァルトの時代に、イタリア語ではなくドイツ語で上演され始めた。
 親イタリア派など教養人や常識人達は、ドイツ語のオペラは野蛮で下品で聞くに堪えないと非難した。
 だが、ドイツの作曲家達は、ドイツ語はオペラに向かないとされたが、それでも民族言語・ドイツ語でのオペラに情熱を持って作曲を続けた。
 諦めず作品を生み出し続け、成功と失敗、称賛と酷評、挫折を繰り返し味わいながら実勢を積み上げ、時代を経る事によってドイツ語オペラは世界で認められ、遂にクラシックにおける不動の地位を築いた。
 ローカルなドイツ文化が、グローバルなイタリア文化から独立した瞬間である。
 民族の独立は、民族固有の言語・文字による独自文化の確立にある。
 文字は、イタリアもドイツもギリシャで生まれたアルファベットを使用している。
 哲学、思想、文学など諸々の源流は、全て古代ローマ古代ギリシアにある。
 ナショナリズムは、民族の独立から生まれる。
 ドイツオペラは、偉大な作曲家ワグナーが数々の名作を生み出す事で成熟した。
 同じクラシック・オペラといっても、イタリア・オペラとドイツ・オペラは別物である。
 ドイツ・オペラは、イタリア・オペラ負い目を感じる必要はない。
 演劇も歌劇も全てのルーツは、古代ギリシャ劇である。
   ・   ・   ・   
 2019年1月1日・4日合併号 週刊ポスト「ベストセラー『東大教授が教えるやばい日本史』『日本史のツボ』の著者が綴る『元号』で読む日本史
 本郷和人
 『徴用工判決』と元号の関係
 ……
 中華帝国の〝第一の部下〟
 ジャーナリストの鈴置高史は、韓国は『反日』ではなく『卑日』を推進していると捉えるべし(日経ビジネスオンラインより)と説く。この主張は歴史的な見地からすると、とてもよくわかる。『私たちが日本に文化を教えた』、歴史的には『朝鮮が兄であり、日本は弟だ』と発想するお国柄なのである。一段高い立場にあるからこそ、『日本を卑しむ』という視点が生じる。
 東アジアの歴史は、中国を核として発展してきた。中国は文化の薫り高い世界の中心、『中華』であると自ら誇る。北狄(ほくてき)・東夷(とうい)・南蛮・西戎(せいじゅう)に分類される周辺の野蛮な国や部族は、その徳を慕って貢ぎ物をもって挨拶にやって来る。これが朝貢、という概念である。ただ挨拶だけでは済まさず、中国をあがめ、臣下になる国も出現する。そうなるとその国の王は中国の皇帝の家臣となる。この関係を築くと、当然だが家臣側の国のトップは『皇帝』を名のれず、皇帝の許可を受けてはじめて『王』を称する。また、元号を自ら定めることができなきなり、中国のものを用いることになる。
 朝鮮半島の王朝は、長いあいだ中国帝国のいわば『第一の部下』であり、中華秩序の優等生であった。だから中国の威を借りて周辺の国や部族を下に見る。しかも中国大陸で漢民族の『明』が女真族の『清』に滅ぼされると、『清』に臣従しながら、(『清』は野蛮な女真族の国なので、いまや)わが朝鮮こそが文化の本流だと自認した。『面従腹背』を地で行ったわけで、『経済では助け合うけれど、謝罪はずっと求める』という『ツートラック政策』はかの国の年季の入ったお家芸なのだ。
 元来、文化は朝鮮が優位にある。その『礼の国』朝鮮を暴力で踏みにじり、植民地にした。文化を教えてやったのに、恩を仇で返された。そう考えるから、恨みは収まらない。そこで、いつまでも謝罪要求がなされる。仏教文化を伝えたのも我々だ。だから盗んだ仏像は返さずともよい。加えて『反日』より『卑日』。この負の感情の爆発は文大統領の在任中は続きそうなので、頭が痛くなる。
 聖徳太子の危険な冒険
 さて、一方の我が国であるが、ぼくは聖徳太子の遣隋使は意地の表明であり、ギリギリのやせ我慢だったと思っている。当時の日本と『隋』王朝とでは国力に雲泥の差がある。賢明な聖徳太子がそのことを認識していないはずはない。だから、『日いづるところの天子、日没するところの天子に書をいたす、つつがなきや』という国書の文章は、日本の大王と『隋』の皇帝を同格のものとした。きわめて危険な冒険であった。『隋』の皇帝は激しく機嫌を損ねるかもしれない(実際に激怒したらしい)。でも我が国が自立する国家であるという一線は譲ることができない。それが太子の考えだったのだと思う。
 実際に現地に赴く使者の小野妹子は、無礼である、と殺されることも覚悟していたのではないだろうか。幸いにして妹子は返書を得て帰国したが、日本の無礼を厳しく糾弾する内容だったと伝わる返書は、途中で失われたとして朝廷には提出されなかった。
 そんな緊張に晒されても、日本は中華帝国の家来となる道を選択しなかった。天武・持統天皇の頃には神話世界を天照大神を中心として整理し、神の子孫が天皇であると位置づけた(だから持統天皇天照大神のモデルだといわれる)。皇帝と同格の『天皇』という称号を用いたのもこの頃からであり、『日本』を国号と定めた。
 そして、わが国は独自の元号を用いるようになった。元号は『大化』から始まるが、その後しばらくは定められたり空白期があったりで、不安定であった。持統上皇が補佐する文武天皇5年(701年)に『大宝』が元号として掲げられ、それからは現在の平成まで、切れ目なく続いている。言うまでもないが、天皇の代替わりのときにのみ改元されるようになったのは明治になってからで、それまでは大きな事件(政争、戦乱、天変地異、飢饉など。もちろん天皇の代替わりもこれに該当する)が起きると、人心一新を図るために、改元が行われた。
 この意味で、元号とは、日本が自立する国家である証しであった。太平洋戦争の敗戦後、天皇主権が否定されると、元号の廃止も検討された(例えば石橋湛山は否定論者であった)。昭和25年(1950年)2月には、参議院元号を存続させるや否や、という議論がもちあがった。
 このとき高名な古代史研究者(東京大学教授、1951~62年まで史料編纂所所長)の坂本太郎は『元号は独立国の象徴である』と論陣を張った。坂本の説には、歴史事実から見て、確かに一理があったのである。
 平将門源頼朝の違い
 もっとも、日本の庶民までが元号を知っていたかというと、字の読み書きができなかった彼らの日常生活には浸透していなかったであろう。元号よりも十干(じゅっかん)十二支(甲・乙・丙・丁・・・と、ね・うし・とら・う・・・の60通りの組み合わせ)が使われて、時間の概念を構成した。だから関東の荒野で平将門が反乱を起こしたとき、彼は『新皇』を名乗って幼稚ながら自分の政府を作っているが、元号を新たに制定していない。元号を意識していなかったのだろう。
 同じ武士でも、鎌倉幕府を開いた源頼朝になると、元号をしっかりと政治に取り入れている。治承4年(1180年)に反乱軍として歩み始めた彼は、平家や木曽義仲などライバルの影響下にあry中央政府改元しても、養和とか寿永の年号を使用しなかった。寿永2年(1183年)に朝敵の汚名を返上して初めて、中央と同じ年号を関東でも用いるようになったのである。このあたり、政治家・頼朝の意識の高さを見ることができる。
 頼朝は中央政府が定めた年号を用いなかったときに、治承の年号をそのまま使い続けた。これに対し、自分の支配している地域でのみ有効な年号を使われた例もある。こういう年号を『私年号』というが、私年号が用いられた事例は、調べてみるとさほど多くない。たとえば京都の朝廷や幕府が衰退し、地方に下克上を旨とする大名たちがしきりに勃興した戦国時代においても、改元の情報はそれなりに地方に伝えられ、戦国大名たちは新しい元号を直ちに自分の治世に取り入れている。
 この辺りは『分裂』がキーワードであるはずの戦国時代の『(日本)国のまとまり』を考える際に、大切な材料を提供してくれる。
 織田・豊臣政権が生まれ、江戸幕府が誕生すると、天皇や朝廷が政治・経済に積極的に関与することはなくなっていった。このとき天皇のもとにどんな権限が残っていたのかを考えてみると、ぼくはそれは『時間を司る』権能であると理解している。具体的に言うと、暦を制定すること、それに改元を実施することである。
 このうち、暦の制定はやがて幕府が担い手になっていく。朝廷がもっていた宣明暦は800年も使われていた古いものだったので、日蝕や月蝕が明らかに当たらなくなっていった。そこで幕府は渋川春海の貞享暦(じょうきょうれき)を新たに採用したのだ。ついでに言うと貞享暦もやがてズレが生じるようになった。それは地球の大きさが正確に分かっていなかったために、計算にどうしても狂いが生じたからであった。そこで幕府は天文方を創設し、地球の大きさの測定に乗りだした。このこき日本列島をくまなく歩いて地図を作ると共に、地球の大きさを計算するためのデータを実測したのが有名な伊能忠敬だった。
 それはさておき、かくて天皇の大きな仕事として最後まで残ったのが、実に改元だったのである。」
   ・   ・   ・   
 政教分離の原則からすれば、元号以上に西暦は絶対に使ってはならない年代表記であり、政治の場や公文書から西暦を完全排除すべきである。
   ・   ・   ・   
 日本天皇・皇族、皇室は、在来種の日本産トキと同じ運命を辿る。
 如何なる種も、その血筋は何時かは絶える。
 古代文明を持って現存する原始民族は、日本民族だけで、後は全て滅び、残骸としての人が住めない廃墟を晒している。
 死に絶えない、絶滅しない生物はいない。
 日本国も日本民族も、何時かは死滅するし絶滅する。
   ・   ・   ・   
 「時の流れ」には、始まりがある。
 歴史には、開始の時間点が必要である。
 宗教であれば、絶対神による天地創造である。
 国家であれば、建国された時である。
 人であれば、生まれた年である。
 その時と年を定める方法は、神話・宗教と憲法・法律の2つがある。
 西暦やイスラム暦などは、神による宗教である。
 革命暦は、人民による法律である。
 日本の元号は、神意的な神話・宗教と人為的な憲法・法律の折衷である。
 元号を捨て西暦を使う事を拒否する反宗教無神論の日本人は、宗教・神を持って共同体を形成したホモ・サピエンスを拒否し、宗教・神を持たず共同体を作らなかったネアンデルタール人的生き方を理想としている。
   ・   ・   ・   
 元号は、言霊である。
 元号とは、独立宣言である。
 日本民族は、自立した独立国であるの為に万世一系男系天皇(直系長子相続)をつくり、一人自立した人である事を宣言する為に元号を定めた。
 万世一系男系天皇(直系長子相続)とは、政治と宗教の独立宣言である。
 元号とは、日本文明・日本文化・日本伝統そのものである。
   ・   ・   ・  
 元号は、これから生きる時代に思いを込める文化であり、その思いに従って生きる道標であったあった。
 日本神道の教義は、言霊によって元号に込められている。
   ・   ・   ・   
 宮崎緑「日本文化とは何か、我々のアイデンティティは何で、心の拠り所をどこに置けばいいのかと社会が揺れている中で、良い元号になってと思っています。令和にはある種のメッセージが込められていると思いますから」
   ・   ・   ・   
 一代一元号制度における元号とは諡号(しごう)の事で、崩御された天皇上皇(前天皇)の諱(いみな)・諡(おくりな)の事である。
 日本の歴史は、睦仁(むつひと)天皇明治天皇と、嘉仁(よしひと)天皇大正天皇と、裕仁(ひろひと)天皇昭和天皇と呼ばれている。
   ・   ・   ・   
 2019年4月21日号 サンデー毎日「世界透視術  金子秀敏
 元号ナショナリズム
 『思い切った選択』と安倍首相が言ったのは『万葉集』を使ったことだ。645年の『大化』以来、日本の元号で初めて中国の古典の語句を使わなかった。ついに日本文化の脱中国を果たしたというナショナリズムだ。
 中国の反日世論を先導してきた『環球時報』ネット版が新元号発表直後の速報で日本の右傾化に警鐘を鳴らした──『脱中国元号が始まると日本の政治経済のムードが大きく変わるのかもしれない』と。
 中国の古典には『正朔(せいさく)を奉ず』という言葉がある。『正朔』とは1年の始めと1ヵ月の始めで、世界の時間は中国の皇帝が支配しており、周辺国は中国皇帝の定める暦や元号に従わなくてはならないという中華思想だ。周辺国が独自の元号を使うことは反中国になり、許されない。安倍首相が高揚したのも、『正朔を奉ず』という中華思想に縛られてきた証しだろう。
 『環球時報』は、すぐに新元号叩きをやめた。かわりに『令和という文字には中国の影響がある』と言い出した。『令月』『風和』はもともと中国の詩にあった言葉だから脱中国ではない、という屈折した理屈で振り上げかけたこぶしをおろした。なぜなのか。いずれ習近平国家主席国家元首として訪日する、その時には『令和時代』の新天皇に面会する日程が浮上する。『令和』をけなすことはできない。『環球時報』の速報は、うっかりそのことを忘れていたのだろう」
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、中国の暦を採用して、中華帝国の忠実な属国、中華皇帝の家来である事を示したいた。
 朱子学の中華儒教を絶対真理とし、中国語を公用語とした。
 文字も、漢字が公用文字とされ、ハングルは野蛮な文字として禁止された。
 姓名も創氏改名して、古朝鮮の姓名を捨て中国の姓名に変えた。
 中華皇帝の権威を否定し、中華帝国の権力を否定する、如何なる学問も異端として弾圧された。
 朝鮮を支配していたのは朝鮮国王ではなく中華皇帝であったが、中華帝国は朝鮮を領土とする事なく放置していた。
 朝鮮人は中国人になりたがったが、中国人は朝鮮人を中国人にする事はなかった。
 中国にとって、朝鮮はキーセン(妓生=宮廷慰安婦)や宦官(宮廷使用人)を献上してくる国にすぎなかった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人が、少子高齢化で人口激減して少数派となり、外国人(主に中国人)移民・難民が急増して多数派となれば、日本の元号は存在意義を失って消滅する。
 多様性による文化の共生において、日本独自の宗教・文化・伝統に基づく元号は邪魔になる。
 何故なら、元号は、祭祀王・日本天皇と一体化し、日本天皇を言語や文字で見える化しているからである。
   ・   ・   ・   
 キリスト教世界を破壊する方法は、イエス・キリストの誕生を正統とする西暦を消滅させる事である。
 天皇制度を廃絶する方法は、天皇由来の元号を廃止する事である。
   ・   ・   ・   

🎌7〕─7─日本の伝統・文化、宗教・芸能は一子相伝の家元制・世襲制である。〜No.53No.54No.55 * 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の伝統・文化・宗教・芸能・芸術などは、家伝・相伝、奥義・秘技の一子相伝を原則として、血筋・血統の家元制・世襲制で閉塞的に守られ継承されている。
   ・   ・   ・   
 世襲だからと言って優れた後継者が育つとは限らないが、遺伝子・DNA的に血が繋がらない子供比べれば幾分かマシな子が生まれる可能性が高い。
 日本民族日本人は、「血は争えない」信奉者として家系・家における世襲制を信じている。
 つまり、日本は、イギリスのように優れた人物だからと言ってドイツ人やフランス人をイギリス国王などには絶対にしない。
 ゆえに、西洋の王家は開放的寛容的平等的で、日本の天皇家・皇室は閉鎖的不寛容的差別的である。
   ・   ・   ・   
 民族主義アイデンティティーも、日本と西洋・中華(中国・朝鮮)とでは異なる。
   ・   ・   ・   
 2019年9月6日号 週刊ポスト「POST BOOK Reiew
 池内紀
 『神主と村の民族誌』 神崎宣武 著 講談社学術文庫
 民俗学者としての観察が光る、実体験を通した貴重な記録
 著者は宮本常一門下の民俗学者であるとともに、岡山の古い神社の宮司である。現当主で28代。秋から旧正月にかけては東京と岡山をのべつ往復する。
 神主が世襲制をとっているのは意味があるだろう。祭主として祭礼をとり行うのを、すべて経験で学びとる。一つの紙の切り方、むらのしきたり、当番とのかね合い、神楽太鼓の打ち方、幼いころから目と耳で親しんでいなければならない。神主の立場で座っていても、たえず世俗的な話を聞いておく、そんななかで気がついた。『祭りの盛衰も経済(かね)しだいとまではいわないが、祭りは世相を反映する。伝統という言葉だけではかたづけられないものがあるようだ』
 その語り方からもわかるように、これは神崎宣武宮司の若いときの記録である。禰宜(ねぎ)として乳の補助役をしていた。まだ余裕があり、燃えるような好奇心があり、氏子とのつき合いも若々しい。(だから本書が1991年に出されたときは『いなか神主奮闘記──「むら」と「祭り」のフォークロス』のタイトルだった)『八百(やお)や万(よろず)の神遊び』『マレビトの眼』『信心は宗教にあらず』『むらの祭りを伝える意義』・・・おおかたの章に、地元の人が語り手として登場して、腹蔵のないところを語ってくれる。備中弁をまじえた語り口がなんともうれしい。祖父、父と神主がいたころなので、若手はここでは『若』である。若は何だって聞いてくれる。若は話しよい。そんなふうに言われていたのではなかろうか。
 『ま、ま、その盃をあけてくだせえ』
 ひとり祈祷をしている若に、そんなお相手もしてくれる。
 貴重な記録である。一般に寺の僧侶のことはほとんど知らない。妙な帽子や奇妙な靴や、目を洗うような白さの衣装や、独特の音色をもつ楽器を、ほんのてょっぴりしるばかりである。それがここでは実体験を通して、くわしく語られている。おりおり民俗学者の観察がキラリとまざりこむ」
   ・   ・   ・   
 大事なのは、家であって主ではない。
 江戸時代の武士・藩士は、御家・大名家のためにならない主君・大名・藩主は座敷牢に入れて強制的に隠居させるか、急死させて家督を幼い若君に家督を継がせた。
 何故か、藩の事を考えない主君でもし幕府に咎められ改易されたら、藩士は牢人となって路頭に迷う事になるからである。
 守るべきは、御家であって主君ではなかった。
 それが、日本の世襲制度である。
   ・   ・   ・   
 数百年、1000年近い歴史を持つ老舗は、全て一家秘伝を持った世襲店舗である。
 日本で偉いのは、長い歴史を伝統として持つ事である。
 それが、永遠の命である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、突飛でもない奇抜な個人芸を愛したが、それ以上に特殊な血筋・血統による特別な家系・家だけに伝えられた数百年の歴史を持った昔ながらの「古典・お家芸・十八番」と今と未来に繋がる時流に則した「奇抜・新奇・外連」を好んだ。
 日本に於ける正統は、天才型一個人ではなく、秀才努力型家に存在している。
 つまり、日々精進しない優れた者は傲慢として信用しなかった。
   ・   ・   ・   
 家元制という世襲制度は、日本独自の家制度で他国には存在しない。
 ただし、中国ににたような男系家制度があるが根本的には異なる。
 朝鮮には存在しない。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、家元制・世襲制が理解できなくなっている。
 その証拠が、国民の80%以上が女性天皇女系天皇擁立と女系宮家創設を支持している事である。
 その傾向は、伝統を軽視し文化に価値を認めない国際的高学歴出身知的エリートに特に強い。
 彼らは、グローバル基準を絶対基準として日本民族を消滅させようとしている。
   ・   ・   ・   
 日本の象徴的代表的家元制・世襲制は、天皇家・皇室である。
 日本の家元制・世襲制は、日本民族固有の日本中心神話・天孫降臨神話の高天原神話が深層に存在している。
 天皇家・皇室が、男系世襲制を固辞するにはワケがある。
 天皇制度は、政治制度でもなく宗教制度でもなく、家族制度である。
 天皇の家族制度とは、祖先神・氏神の人神崇拝の継承である。
   ・   ・   ・   

🎌7〕─6─神道の女帝と儒教の易姓革命。天皇制度は究極の家元制度。~No.50No.51No.52 * 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 栄枯盛衰として古代エジプト諸王朝、古代ペルシャ諸王朝、古代ギリシャ都市国家古代ローマ帝国、歴代中華帝国、歴代朝鮮王朝など、大陸で高度な文明を築き富み栄えた数多くの王朝が滅んだのに、何故、古代日本のみが滅びずに今日まで存続できたのか。
 その違いは何処にあったのか。
 王朝交代や政治体制交代時に自然発生として繰り広げられた、旧王朝や旧政治体制に対する不寛容な大虐殺と容赦なき大略奪という生き地獄が「なぜ」日本で起きなかったのか。
   ・   ・   ・   
 大陸は、男性的な勝者の論理である。
 島国日本は、女性的な弱者の論理である。
   ・   ・   ・  
 日本の家系図は、掛け軸か巻物であり、家系は男系女系に関係なく一本の直系しか存在しない。
 西洋の家系図は、大判で分厚い書物であり、女性も含めた家族全員の名前が記され、傍系も、男系も、女系も、全てが一冊の系譜本に表されている。
 正統な家系図は、日本では一巻しかないのに比べて西洋では何冊も存在する。
   ・   ・   ・   
 2017年2月号 新潮45「女系図でたどる驚きの日本史 大塚ひかり
 9,女帝と易姓革命
 奈良時代、名字のない天皇という原則が崩れそうになったことがあった。
 それは藤原氏の娘・光明子が、天武天皇の『皇后』となった時であった。
 天皇になぜ名字がないのか
 女性天皇だの女系天皇だのについて考えていた時、『なぜ天皇には名字がないのだろう?』と気になったことがあった。それで調べたところ、天皇は姓を授ける側であって、名乗る側ではない、ということだった。
 『もし天皇が姓を名乗ったら、「誰から賜姓されたのか」「天皇より上位の存在があるのか」ということになってしまうからである』(奥富敬之『名字の歴史学』)
 といっても古代の姓は今の名字や姓とは違う。もともと古代の人たちは、地名や神にちなんだ名を名乗っていた。それが天皇家の祖先が王権を確立していく過程で、もともとあった名を氏(うじ)として追認したり、新たに命名することで、すべての氏名が天皇支配下に入ることになった。
 同じころ、臣(おみ)・連(むらじ)といった姓(かばね)ができて、蘇我『臣(おみ)』、大伴『連(むらじ)』などと氏について、朝廷での序列を表した。姓は身分を表す爵位のようなもの、梅原猛に言わせれば『一種のカースト制度』(『海人と天皇』)だったのだ。
 姓の歴史は複雑で、そもそも姓を与える天皇の王権が確立した時期に諸説あり、数ある豪族の一つだったであろう天皇家の祖先に姓はあったのか、あったとしたらいつごろなくなったのか等々については、調べても定かなことは分からなかったが、一つ面白い説があった。
 有史以来、常に日本がお手本にして、漢字や制度を取り入れてきた中国の革命はすべて易姓革命・・・つまりは姓の異なる一族が取って代わる・・・の繰り返しであった。ということは、革命を起こされぬためには『姓を持たなければいい』と、古代のいつかは分からぬものの、誰かが考えたのではないかというのだ(松本健一『「孟子」の革命思想と日本』)。
 なるほど、姓の違う一族に乗っ取られないためには、姓などなければいいわけだ(ちなみに名字は氏姓制度が崩壊したのち、平安時代に生まれた通称で、名字は北条や梶原でも、氏=本姓は平(たいら)といったぐあい)。
 が、天皇家の歴史を調べると、天皇も姓を持ちそうになった危険がある。
 それが729年8月、聖武天皇の夫人(ぶにん)だった藤原氏光明子が〝皇后(おほきさき)〟になった時だ。
 史上初の藤原氏天皇
 藤原氏が皇后になるなんて普通じゃない?と、平安時代藤原氏天皇家外戚として権勢を振るっていたことを知る人は思うかもかもしれない。
 普通じゃない。
 当時、天皇の妻は上から、皇后→妃→夫人→嬪(ひん)という序列があり、正妻である皇后は別格だった。皇后には皇位継承権があり、平安時代以前の6人8代の女性天皇(以下、女帝)のうち、推古・皇極(重祚して斉明)・持統といった最初の3人はすべて皇后出身だ。皇后は天皇になり得るわけで、だから当然のように皇族から選ばれていた。
 ソンな時代、臣下の藤原氏藤原光明子が皇后になったのである。しかも将来の即位を見据えての立后であったことは、前年9月、光明子腹の皇太子が死んでいることからも分かる。
 古代の天皇は30歳過ぎで即位することが多い中、あとで触れるように藤原氏腹の初の天皇となる聖武は24歳で即位した上、母の異母妹である光明子をめとり、生まれた皇子は生後わずか2ヶ月という異例の幼さで立太子した。藤原氏がいかに一族から天皇を出すべく焦っていたかがうかがえる。
 この皇太子が死んでしまったため、皇族や他の氏族出身の出したくない藤原氏は、臣下であるにもかかわらず、光明子立后を急いだのだ。
 長屋王が讒言(ざんげん)によって自殺させられたのはこうした動きに反発したためで、立后は、長屋王の死から半年後のことであった。
 そして立后に際しては、異例の長い勅(みことのり)が発せられた。その中で臣下が皇后になる根拠として、先例に挙げられたのは〝葛城曾豆比古(かづらきのそつひこ)〟の娘〝伊波乃比売命(いはのひめのみこと)〟の存在だ。彼女は葛城氏出身ながら仁徳天皇の〝皇后(おほきさき)〟となったので、光明子立后も〝今めづらかに新(あらた)しき政(まつりごと)には有らず〟というのだ(『続日本紀天平元年8月24日条)。
 実は仁徳の時代の葛城氏は皇族並みかそれ以上の家柄で(詳しくは次回)、実質的に光明子は『史上初の臣下出身の皇后』なのだが、」聖武天皇の時代から数えれば数百年も昔の例を持ち出さなくてはならぬほど、その立后には無理があった。
 しかも皇后出身の女帝は、皇太子を経ずに即位するのが常だ。逆に言えば皇太子が決まらぬ時は女帝が誕生しやすいわけで、もしも皇太子不在という事態になって光明子が即位すれば、藤原氏天皇になって、易姓革命が起きることになる。
 光明子立后はそんな革命の可能性を秘めていたわけだが、そもそも新興勢力の藤原氏が、はじめて天皇家に娘を入内させたのは、聖武の曾祖父天武の時に過ぎない。中大兄皇子(天智)と共に蘇我氏を倒し、藤原の姓を賜った中臣鎌足が、二人の娘を天武の後宮に送り込んだのが始まりだ。
 『天皇』の称号が生まれたのもこのころで、それまでは『大王(おおきみ)』と呼ばれていた(天智、天武といった名も天皇の死後につけられた中国風の諡{おくりな}で、多くは8世紀後半に決められた。以下、煩雑さを避けるため、天皇の名は基本的に諡で呼ぶ)。
 それが持統と手を組んだ藤原不比等鎌足の子)の代になると、持統の孫の文武を、即位は30以上が普通だった当時、15で即位させ、娘の宮子を入内させたあげく、宮子の生んだ首皇子(おびとのみこ)を即位させる。これが歴史上初の藤原氏腹となる聖武天皇である。
 この、聖武に至る道筋は、長い天皇の歴史の中でも異例づくし、『初●●』の連続だ。
 ……
 41代持統の次に即位した42代文武は草壁皇子の子である。天武の皇子たちがまだ生きている中での即位で、弓削皇子など反対勢力があったことは日本最古の漢詩集『懐風藻』(751)の葛野王の伝記からうかがええう。
 この時、持統は太上天皇上皇)となり、若い文武に代わって政務をとった。太上天皇はもともと退位した天皇の称号に過ぎなかったが、持統の強い意志によって、天皇と同等の地位を持つと『大宝令』『養老令』に定めたのである(新日本古典文学大系続日本紀』一 補注)。
 生前譲位はやはり女帝の皇極が孝徳に譲位した先例があるが、太上天皇による執政ははじめてで、『初院政』と言える。
 この文武が25歳で死んだあとに即位した43代元明は、持統の異母妹であり、文武の母であり、草壁皇子の妻であった。
 草壁は皇太子ではあったが、母持統が、有力な皇位継承者だった大津皇子を謀反の罪で殺すなどの苦労をしたにもかかわらず、即位の前に死んでしまう。その妻であった元明はつまり『皇后を経ずに即位した初の女帝』である。
 そして44代元正は独身のまま即位。『初の独身女帝』の誕生である。
 が・・・。
 彼女の父は草壁皇子であり、天皇ではない。けれど母は元明というわけで、明らかにこの母の娘であるため、即位した形である。
 これって『女系天皇』ではないのか?
 そして日本の天皇は、父から子へと継承される男系天皇であって、母から子へと継承される女系天皇は、存在しなかったとされているのではなかったか?
 女系天皇を許容する古代法
 実は当時の日本では、女系天皇を許容しているというか、その可能性を法で認めている。
 『養老令』(718編纂、757施行)の『継嗣令』冒頭には、
 〝凡そ皇(わう)の兄弟、皇子をば、皆親王と為(せ)よ〟
 とあり、本条の本注として、
 〝女帝(にょたい)の子も亦(また)同じ〟
 とある。〝皇〟は天皇のことで、〝兄弟皇子〟は姉妹皇女、〝親王〟は内親王も含む。
 『天皇の兄弟姉妹や皇子皇女は皆、親王内親王とせよ。女帝の子も同じく親王内親王とせよ』
 というのだ。〝女帝の子も亦同じ〟というのは、『養老律令』の注釈書『令集解』第17(9世紀後半)に引用された『古記』の解釈によれば、
 『父親が諸王(親王宣下のない皇子・皇孫)であっても、母親が女帝なら、生まれた子はそれでも親王になる』(〝謂父雖諸王猶為親王〟)
 という意味だ。
 『古記』は失われた『大宝律令』(701成立・令施行、702律施行)の注釈書で、散逸したものの、『令集解』に引用されることで『大宝律令』の復元の手がかりになっている。
 これによって、この条文と本注が701年の『大宝律令』にも存在していたことが分かる。
 古代法では、女帝に夫はもちろん、子がいることが前提となっている。
 しかも、父が〝諸王〟でも、母である女帝の血筋を重んじて、その子や兄弟姉妹は親王にせよと規定している。
 この令の存在に気づかされたのは、『天皇にはなぜ姓がないのか』を調べているうち出会った中村友一の『日本古代の氏姓制』がきっかけで、
 『本条はいわゆる「女帝論」や「皇統論」における重要な史料性を帯びている』
 『これらの議論において今後必ず本条が参照されるべき』
 という中村氏の意見に賛成だ。
 一方で、この法律が、時の権力者の思惑と無関係ではないことにも注意すべきだろう。
 『大宝律令』は『養老律令』と同じく、藤原不比等が編纂に関わっている。『大宝律令』の完成した701年といえば、史上初の藤原氏腹の天皇となる聖武が生まれた年だ。彼が即位にふさわしい年齢になるまで、『法律から変えていこう』と不比等が考えたのが、この継嗣令ではなかったか。
 親王になるということは、強い皇位継承権を持つということで、天皇の地位に近づくということだ。
 女帝の兄弟姉妹も子も、男帝の場合と同様、親王になるということは、女帝の兄弟姉妹や子も天皇の地位に近づくということだ。
 藤原氏に敵対する有力氏族出身の王族の即位を避けるため、天皇の皇后でなくても、不比等と手を組んだ持統女帝の妹であれば即位できるようにしよう、そうして即位した元明のあとは、その娘(元正)も即位できるようにして、藤原氏腹の皇子(聖武)の成長を待つ。
 古代法の女帝の規定は、一つにはその準備のために作られたはずだ。
 卑母を拝むな
 権勢に都合よく法や詔が発せられるのは、701年の『大宝律令』に始まったことではない。天武天皇の8年(679)正月7日には、
 『諸王はたとえ自分の母親であっても、王の名を称する者でなければ、拝礼してはいけない。諸臣もまた〝卑母〟に拝礼してはならない。正月に限らずこれに従え。もし違反する者があれば罰する』という詔が出された(『日本書紀』)。
 時は正月、父母にも年始の挨拶をする。そのタイミングを見計らっての命令で、母の身分が低ければ敬礼してはならぬ、正月に限らずふだんからそうせよという衝撃的な内容だ。その4ヶ月後、天武と皇后(持統)は皇子たちを集め、同腹・異腹にかかわらず天皇に逆らわぬという誓いを立たせた。この誓約が卑母拝礼の禁止の直後に行われた意味について、倉本一宏は、
 『この時点で成人していた天智・天武の皇子のうち、卑母から生まれた高市皇子忍壁皇子・施基皇子の4人』を『皇位継承から除外するというもの』(『持統女帝と皇位継承』)
 と指摘しているが、同感だ。
 初の藤原氏腹の天皇となる首皇子聖武)が皇太子となったのはそれから35年後の714年のことだ。この聖武の母藤原宮子が〝卑母〟の可能性がある……。
 宮子は不比等と賀茂比売とのあいだに生まれた娘で、加茂氏は神につながる名門だが、道成寺に伝わる『道成寺宮子姫伝記』(1821)によると、実に海人の子で不比等の養子となって入内したという(梅原猛『海人と天皇』)。
 そのまま鵜呑みにできないとはいえ、宮子が首皇子を生んだ時は〝是の年、夫人藤原氏に、皇子誕(あれま)す〟(『続日本紀大宝元年)と、あっさり書かれるに過ぎず、誕生日すら記されない。これは、光明子の生んだ皇子の誕生日が記され、生後33日目に立太子したのと対照的だ。
 しかも首皇子立太子の前年には、石川氏と紀氏という文武の2人の妻たちが〝嬪〟の称号を剥奪され、文武から遠ざけられている。石川氏は名族蘇我の流れをくみ、紀氏もまた蘇我氏と同じく、孝元天皇の子孫と伝えられる武内(建内)宿禰の末裔だ。そんな彼女らが排除されたのは、宮子の生んだ皇子が皇太子になる前に、宮子にまさる身分の女に皇子を生まれては困るからではないか。宮子は〝夫人〟で〝嬪〟の二人より序列が上とはいえ、『続日本紀』の697年の記事では、二人を〝夫人〟の上の〝妃〟としている(文武天皇元年8月20日条)。これは〝嬪〟の誤記とも、そもそも当時はまだ妃・夫人・嬪などの区別は存在しなかったなど諸説あるものの、二人の身分が宮子より下なら、わざわざ追放する必要はない。
 宮子は聖武出産後、〝幽憂に沈み〟、久しく通常の生活ができなかったため、聖武に一度も会っていなかったのが、僧玄纊の働きで実に36年ぶりに再会したことからも見ても(『続日本紀天平9年12月27日条)、彼女が天皇家に適応できない何らかの事情があったことがうかがる。
 女性皇太子の誕生
 『史上初の藤原氏腹の天皇』で、『史上初に近い臣下出身の皇后』光明子は、その後、皇子を生まなかった。
 とはいえ、『臣下出身の初女帝』の誕生にならなかったのは、718年に生まれた安倍内親王が無事成長していたからで、738年、38歳となった光明皇后にこれ以上の出産は望めないということになったのだろう、安倍内親王が皇太子となる。
 『史上初にして唯一の女性皇太子』の誕生だ。
 749年、彼女は即位。46代孝謙天皇である。ちなみに聖武にはほかに、県犬養宿禰広刀自が生んだ安積親王がいたが、744年、17歳で死んでおり、藤原氏に毒殺されたという説もある。
 この孝謙天皇は、重祚称徳天皇)したあと、寵愛する弓削道鏡を『史上初にして唯一の臣下出身の法王(法皇)』にしたことで名高い。
 そればかりか道鏡天皇にさえしようとした。正真正銘の易姓革命を起こそうとしたのだ。
 その試みは失敗に終わったものの、臣下を即位させようという彼女の発想は、今までの流れ、とりわけ母光明子が、即位の可能性を見据え、臣下の身で皇后になったことを思えば、決して突飛なものではないことが分かる」
   ・   ・   ・   
 2017年3月16日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 『古代編』
 10,『聖徳太子』はいなかった?
 西暦589年、中国では北朝から興った隋が南朝を打ち破り、全土を統一しました。漢が滅んでから370年近い歳月が過ぎていました。
 気候は安定して、食料がたくさん生産できるようになったことで、大勢の官僚や兵士を養う大帝国の維持が可能になったのです。
 この天下統一の余波は周辺諸国に広がります。日本は120年ぶりに使節を中国に派遣しました。
 その頃日本では、蘇我稲目の息子・蘇我馬子が587年にライバルの物部氏を滅ぼして権勢を確立。その後女帝・推古天皇(在位:593〜628)を立てました。
 ……
 推古天皇蘇我馬子
 ところでこの当時には譲位の習慣がなく、基本的に大王の位は終身でした。先の大王が亡くなると、次の大王は群臣たちが合議により推挙して決めていたのです。
 仏教が伝来した欽明天皇の後、その子どもたちである4人の天皇(敏達、用明、崇峻、推古)が続きます。用明天皇推古天皇も、その間の蘇我馬子の手の者に殺された崇峻天皇も、お母さんは蘇我馬子のお嬢さんたちでした。
 事実上、天皇家は『祭祀とY染色体(男親)』を、蘇我氏は『政治とX染色体(女親)』を受けもつという役割分担の時代だったと言えます。
 崇峻天皇は大伴氏からキサキを娶ったり、蘇我氏を中心とする豪族の意向に沿わなかったために、馬子に暗殺されたと言われています。
 『東アジア最初の女帝』とされる推古天皇は、甥の聖徳太子を摂政(皇太子)にして593年に即位し、政治については、叔父の蘇我馬子聖徳太子の二人に任せた、と言われてきました。
 おもしろいことに、大王の前で順位を付けて、臣下のえらさを定めた冠位12階からは、王族と蘇我氏は除かれています。王族が除かれることはわかりますが、蘇我氏まで除かれている。蘇我氏はいってみれば、この頃準王族扱いだったのです。
 のちに『日本書紀』を記す時、蘇我氏直系を滅ぼし仏教で国を治めようと考えた人々は、自らの正統性を示すために蘇我氏を悪役に仕立て、代わりに仏教を取り入れて律令国家を目指した人を必要としました。
 そこで子孫が絶えた厩戸王を聖人・聖徳太子にして、蘇我馬子の功績を移したのではないか・・・と見方もできるのです。
 隋の統一の衝撃
   *   
 さて推古天皇の後継者選びでは、敏達天皇の孫・田村王(非蘇我系)と厩戸王の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)とで群臣たちが割れた。
 馬子の死後、その権力を継いだ蘇我蝦夷は、田村王を推しました。
 蝦夷にしてみれば、蘇我氏の血が入っていなくても政治は自分がやっているのだからいいだろう、ということだった思います。
 629年に田村王は即位して、舒明天皇となります。
 欽明天皇百済大寺という初の官立寺院を造っています。それまでは法隆寺飛鳥寺も王族や豪族の建てたプライベートな寺だったんですね。この寺は、のちの大官大寺、大安寺と移転して奈良時代の大寺の一つになります。
 この官立寺院の建立も、中国や朝鮮に対し『わしらも負けてへんで』と背伸びしたものだと思います。
 そして、641年、舒明天皇が亡くなると、舒明天皇との間に中大兄皇子大海人皇子らを産んだ皇后が、皇極天皇として立てられます。
 宮廷を揺るがしたクーデターの起きる、4年前のことでした」
   ・   ・   ・   
 日本神道は、今生きている自分は祖先が命を繫いでくれたお陰であると感謝して、日本神道に従って祖先を氏神として祀った。
 反宗教無神論は、祖先を大事にする祖先神・氏神の人神信仰を完全否定する。
 反天皇反日的日本人は、日本神道の祭祀王である日本天皇を廃絶しようとしている。
 反天皇反日的日本人も反宗教無神論も、個の自分のみが価値があるのであって、会った事も見た事もない祖先など自分にとっては無関係な存在であるとして切り捨てている。
   ・   ・   ・    
 天皇家・皇室・皇族とは、天照大神を祀る伊勢神宮神武天皇を祀る橿原神宮(かしはらじんぐう)・明治天皇を祀る明治神宮と血縁を持つ家族・一族である。
 皇祖皇宗を祖先とする直系の子孫のみが、その血筋を正統として天皇に即位できる。
 日本天皇が一族の家長とするならば、皇祖皇宗を祖先とする血筋のみを絶対条件としてその直系子孫のみが即位できる。
 血筋を絶対条件とするならば、血の繋がらない赤の他人が日本天皇にはなれない。
 もし、天皇制度が、君主制・僭主制・封建制独裁制・民主制・共産主義制などのような普遍的な制度であれば特定の家族・一族の血筋には関係なく、血の繋がらない赤の他人や他国人・異民族・異人種出身者でも天皇に即位できる。
 天皇制度が、皇祖皇宗に繋がる血筋に無関係のない普遍的統治制度であれば、日本天皇に即位する者は皇室・皇族ではなく、日本民族日本人でなくてもかまわない。
 現イギリス王家は、イギリス人ではなくドイツ系でり、エリザベス女王の配偶者・エジンバラ公ギリシャ人である。
   ・   ・   ・   
 自国の君主・元首が他国出身者である例は、古今東西、無数に、山とある。
 人種や民族に関係なく、他国の者が他国の皇帝・国王に即位して国を統治し国民を支配する事が、開けた帝室・王家の真の意味である。
 例えるなら、「日本天皇に中国人、朝鮮人ユダヤ人、アメリカ人、アラブ人、アフリカ人が即位する」、と言う事である。
 雑婚を繰り返してきた混血の雑種民族の日本民族であれば、それもありかもしれない。
   ・   ・   ・  
 そして、家臣であった者が叛乱を起こし主君であった帝室・王家を乗っ取り、主君であった国王を皇帝を追放若しくは惨殺して帝位や王位に就いて新たな帝室・王家を創設する建国物語も尽きない。
   ・   ・   ・   
 中国を支配した皇帝の大半が、漢族ではなく異民族であった。
 漢族の皇帝は、大きな帝国では秦帝国漢帝国(前・後)、宋帝国明帝国であとは弱小王朝であった。
 各王朝は、侵略してきた敵による大虐殺の中で消滅した。
 即位した中華皇帝は、自分の正統性を証明する為に前皇帝の一族と忠誠を誓う家臣の一族全てを一人残らず虐殺し根絶やしにした。
 古代ローマ皇帝は、オクタウィアヌスは初代皇帝に即位するさい養子とはいえカエサルの血筋を正統とした。
 オクタウィアヌスの直系が絶えるや傍系に、傍系が絶えるや血筋に関係のないローマ人が、適任のローマ人がいなくなればローマ市民権を持つ最適な異邦人が即位し、そして異民族の侵略を受け侵入を受け、ローマ帝国は大虐殺の中で滅亡した。
 ローマ皇帝位は、フランク王国フランク族に、そして神聖ローマ帝国のドイツ人に受け継がれ、オーストラリア帝国ハプスブルク家の正統性の根拠となり、一時スペイン帝国を併呑した。
 だが、オーストラリア帝国が崩壊するやローマ皇帝位も消滅した。
   ・   ・   ・   
 もし乱暴に世界基準を天皇制度に当てはめるなら、政治的日本天皇には誰もが即位できる。
 ただし、血筋を絶対条件とする家族・一族制度においては、皇祖皇宗の血を引く直系子孫のみしか家長である宗教的天皇にはなれない。
 天皇制度とは、血筋を保ち祖先から子孫へと継ぐ究極の家元制度である。
   ・   ・   ・   
 政治的な天皇制度下の天皇が何処の馬の骨とも分からない人間が即位してもかまわないが、家族・一族的な天皇は血筋を根拠とした日本民族日本人のみが即位するべきである。
 もし、皇祖皇宗を祖先としない血筋が異なる人間が即位すれば、それがたとえ日本人であってもそれは偽天皇となる。
   ・   ・   ・   
 古代制度である天皇制度が現代まで滅びず受け継がれてきたのは、皇祖皇宗を祖先とする血筋を正統とした天皇家・皇室・皇族が天皇位を家族・一族で独占し、血の繋がらない赤の他人を偽天皇として即位させなかったからである。
   ・   ・   ・   
 天皇制度は、政治統制の制度であると同時に家族・一族の宗教的な制度でもある。
 家族・一族の宗教的な制度は、同じ血筋が絶対条件である。
 日本民族日本人のローカル的民族宗教である、祖先を氏神として祀る人神信仰の原形。
   ・   ・   ・   
 天皇位が、日本神話・古事記日本書紀で皇室の祖先とされる天照大神を祀る伊勢神宮神武天皇を祀る橿原神宮と直接に繋がる血族の家長とするなら、その血筋を絶対条件とした直系であらねばならない。
 けっして血の繋がらない赤の他人が、祖先神・氏神を祀る血族の家長になるべきではない。
 直系子孫という血筋を絶対条件にすれば、その時代、その時、その場所で血が繋がる長老が皇族会議(皇室会議とは別物)に集まり、一族から最適な者を選べばいい。
 その者が、男系であれ、女系であれ、祖先の血と命を受け継いでいればいい事である。
 祖先の血と命を絶やさない為の直系であれば、男系も女系も関係ない。
   ・   ・   ・   
 皇統譜は、血筋を絶対条件として伊勢神宮天照大神橿原神宮神武天皇に繋がっている。
 祖先神としては、皇室の天照大神神武天皇天皇神・天皇霊は、その他大勢の日本民族日本人の祖先神・氏神とかわりはしないが神格が違う。
 祖先神・氏神を人神信仰として正当性を持たせる為には、一段上にある神格を持った高位な神が承認する必要がある。
 各々の一族が祀る祖先神・氏神を正式な神と承認するのが、人神信仰の宗家・家元である皇室の神格である。
   ・   ・   ・   
 天皇が神聖不可侵の存在とされたのは、全ての祖先神・氏神の正当性を承認する天照大神神武天皇に繋がる皇室の神格ゆえにである。
 祖先を祖先神・氏神を正当な神として神社に祀れるのは、日本神話・古事記日本書紀を根拠とした高位の神格を持つ皇室の正統性にある。
 それが、皇室祭祀・宮中祭祀である。
   ・   ・   ・   
 天皇家・皇室に姓名がないのは、臣下に姓名与え承認するのが天皇の役目であった。
 天皇家・皇室が最高位の家系であり、その上の上位者がいない為に、天皇家・皇室の姓名を定める事ができなかった。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、明時代の中華皇帝から下賜された国名であり民族名であった。
 中国国内と近隣の国名・民族名・部族名の大半は、中華皇帝が定めた名称である。
 中華皇帝は、自称する姓を持ち、その姓を正当化して易姓革命を行い、大虐殺の大流血の末に王朝を開き帝国を建国した。
 ゆえに、日本天皇と中華皇帝・朝鮮国王とは違うのである。
   ・   ・   ・   
 天照大神にしろ神武天皇にしろ日本の神として祀られても、グローバルな普遍宗教の神とは違って、世界の中心から遠く放れた大陸の縁にあるにある少数民族のローカルな神にすぎなかった。
 絶対真理の絶対神でもなければ、天地を創造した万能の神でもない。
 異教の神や悪や邪をなす悪魔を滅ぼし、絶体正義を打ち立てる強者の神でもない。
 信仰する者は助け信仰しない者は容赦なく切り捨てる、厳格で不寛容な神でもない。
 絶対真理を教義とし、絶対的な戒律や律法を定めて、信仰を求める絶対善の神でもなかった。
 神の御名によって、運命を変え、奇跡を起こし、恩寵や恩恵を与える唯一の全知全能の神でもない。
 日本の神々は、神の霊力では自然災害の一つも止められず、奇跡を起こして自然災害から一人も助けることのできない、無力な神であった。
   ・   ・   ・   
 天照大神は、天岩戸に隠れてしまう初心な女性神である。
 神武天皇は、寿命が尽きて死んだ初代天皇で、死んで神として祀られた。
 現人神とされた天皇は、永遠の命を持たない限られて年数を生きる死ぬ神である。


   ・   ・   ・   

☶57〕─2─北主導の統一朝鮮は日本との断交を希望する。日本の「非韓三原則」。~No.462 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 統一朝鮮は、反日派敵日派の統一新羅・高麗・李氏朝鮮の再来となるか。
 統一朝鮮が、事大主義を捨て、大国に依存せず一ヵ国で自立していけるのは初代か2代までで、3代頃からランドパワー大国に靡いていく。
   ・   ・   ・   
 世論は、ポピュリズムに支配され、アジテーションに誘導され、その時々の風潮や時代の潮流に乗って変化しやすい。
   ・   ・   ・   
 産経新聞iRONNA
 関連テーマ
 韓国の「イメージ戦略」が虚しすぎる
日韓首脳による突然の「11分面談」は、文在寅大統領が安倍晋三首相に無理強いしたもので、関係改善に疑問符が付く。そういえば、天皇陛下に謝罪を要求したあの議長も日本メディアで「謝罪」したとされるが、かえって日本国民への謝罪を求める始末。やはり韓国の「イメージ戦略」に日本が利用されただけではないのか。
   ・   ・   ・   
 2019年12月号 Hanada「2025年までに『統一朝鮮』誕生
 茂木誠
 韓国保守派は事大主義
 『文在寅(ムンジェイン)に感謝しよう』
 そう言うと、『Hanada』の読者は何事かと思うかもしれません。しかし、文在寅が意図的としか思えない日韓関係の破壊を繰り返し、北朝鮮との関係改善、さらには統一に向けての前のめりな姿勢を示してくれたことで、『日韓友好』の幻想を抱き続けてきた日本人に、火や水をぶっかけてくれた。このことに、日本人はむしろ『ありがとう、文在寅』というべきではないでしょうか。
 もちろんこれまでも、端(はな)から韓国に対する幻想など抱いていない人たちもいましたが、今回の文在寅の振る舞いには、ついに日本人の一般層までもが、韓国に対する強い反発を抱くに至りました。
 少し前まで、韓流ドラマや韓流アイドルを肯定的に扱っていたワイドショーまでもが、韓国批判を報じるようになりましたし、安倍内閣の対韓外交姿勢も、多くの人が支持しています。
 世論調査によれば、韓国の『ホワイト国』除外について支持する人が67.7%、政権不支持層でも55.2%を超えるなど(FNN・産経新聞合同世論調査、7月調査分)お人好しの日本人もようやく目が覚めたといえるでしょう。
 海洋国家日本は、大陸国家に極力かかわらないほうがいい。そのためにも、文在寅大統領には『いまの方向で、もっと頑張れ』と言っていいのでしょうか。何より、いくら日本が対韓関係を改善しようと動いても、もはや『北主導の統一朝鮮』という未来は不可避だからです。
 韓国では保守派であれ、進歩派であれ、『反日』であることに変わりはないように見えますが、その内実は大きく異なっています。
 韓国の保守派は親米で、外国からの助けを借りて軍事独裁政権をルーツとしています。この『外国からの助けを借りる』というところが要点で、韓国の保守派が親米派なのは、自由主義陣営であることを理由としているわけではありません。単に、強いものにつくという朝鮮民族の価値観、『事大主義』ゆえです。
 親米派政権だった李明博(イミョンバク)・朴槿恵(パククネ)政権が米韓同盟を維持する一方で、中国の台頭をみるや対中融和政策に転じたことを思い出してください。親北派に比べて日韓関係を重んじていたのも、強い日本経済の助けに期待していたからで、これが期待できなくなれば反日に走る。要するに、韓国の保守派は、アメリカであれ、中国であれ、強いものに近づいていく『事大主義』的な勢力です。
 断行を望んでいるのは韓国
 一方、親北派は『南北統一』を至上命題とし、『朝鮮民族』の主体(チュチェ)を回復することによって自主独立すべきだと考えています。そのため、戦後の韓国が米軍の駐留を許し、日本からの支援で経済発展したことを恥じているのです。
 文在寅がこれまでの歴代政権以上に日韓関係を破壊しにかかっているのも、ここに理由があります。日本の干渉によって近代化し、米軍の占領下で独立し、1965年の日韓基本条約による日本からの経済支援で復興を成し遂げた過去を、彼らはすべて否定したいと思ってきました。文在寅をはじめとする親北派は、大韓民国の歴史そのものを『精算』したかったのです。
 日本のメディアが『日韓断交』といった見出しの特集を組んで、日本の左派から批判されていますが、むしろ『断交』を望んでいるのは韓国側なのです。
 それが及ぼす悪影響など、彼らは考慮しません。どこの国でも進歩派、リベラル政権には、『リアリズム』(現実主義)を軽視し、『アイデアリズム』(理想主義)だけでひた走る傾向があります。日本でいえば民主党政権、なかでも鳩山政権時代を思い出していただければ、実感できるでしょう。
 問題は、理想主義だけでひた走る文在寅政権を、韓国民の約半数がいまだに支持していることです。
 私は、2025年までには『統一朝鮮』が誕生し、韓国という国は消滅しているだろうと考えています。
 もちろん、統一には北朝鮮の意向もかかわってきますが、これも問題ありません。『Hanada』2019年10月号で、篠原常一郎さんが『文在寅朝鮮労働党秘密党員疑惑』を報じていましたが、文在寅の思想背景は、北朝鮮の指導理念と完全に一致しています。
 チュチェ思想とは、簡単に言えば『マルキシズムの化粧を施(ほどこ)した朱子学』であり、朝鮮民族という一つの有機体において、金(キム)一族が頭脳、朝鮮労働党が神経組織、軍などその他の国家組織が臓器になたるという思想です。そのため、金体制と党の意志に従わないものは異物として排除される。
 そして、チュチェ思想朝鮮民族がどの大国にも屈せず、主体的に国家を運営するためのイデオロギーですから、自主独立を志向する韓国の親北派も飛びつく。しかも北朝鮮は核ミサイルを持ったのですから、朝鮮民族の独立を守るためのこの『宝』を手放すはずもない。
 北朝鮮は韓国を、中国における香港のような立場に置くでしょう。つまり『一国二制度』です。核を持つ一方で、韓国から自由経済のおいしいところをストローのように吸い上げ、金正恩(キムジョンウン)体制を生き永らえさせるための栄養源とする。ひいては、金正恩朝鮮民族統合の象徴となるかもしれません。
 米は『統一朝鮮』を容認する
 韓国には、これまでも『統一朝鮮』を夢見た政権がありました。たとえば金大中(キムデジュン)は南北会談でノーベル平和賞を受賞、太陽政策を続けてきました。しかし、それでも統一がならなかったのは、常にアメリカに妨害されてきたからです。
 韓国の赤化、あるいは統一ヘの動きがわかると、これまでのアメリカは即座に韓国に手を突っ込み、親米派を支えてきました。朴正煕による軍事クーデターなどは、まさにその典型でした。
 今回も、本来ならアメリカが韓国の親米派軍部のクーデターを支援してもいいはずです。が、このような動きが今回見られないのは、アメリカのトップがトランプ大統領だからです。
 トランプは大統領選の時点で、『在韓米軍を退く』という大戦略を明確にしていました。在韓米軍基地を縮小し、韓国を守るためにアメリカのリソースを費やしたくない『アメリカ・ファースト』のトランプと、民族統一の夢を追う文在寅の『朝鮮民族ファースト』は、奇妙な一致を見せているというわけです。
 仮に来年の選挙でトランプが敗(ま)けても、この方向性は変わらないでしょう。実はトランプだけではなく、アメリカ議会は民主党共和党も、在韓米軍縮小の方向に動いているからです。
 現在のアメリカの世界戦略にとって大事なのは、対北朝鮮朝鮮半島情勢ではなく対中戦略です。その点で考えれば、在韓米軍基地を維持するよりも、台湾に基地を置くほうがいい。アメリカにとって、『反米・統一』に傾く韓国を防衛しなければならない理由はほぼなくなっているのです。アメリカは『統一朝鮮』を容認し、核保有すら黙認するでしょう。
 チュチェ思想で民族独立
 さて、米軍の撤収後、核を持った『統一朝鮮』が中国につけば脅威になるのでは、という疑問を持つ方もいるかもしれませんが。
 しかし、これは全くの誤解です。韓国の『事大』を中国に向けるのは保守派であり、親北派はチュチェ思想に基づき、外国勢力の力を借りない民族独立を志向しているからです。これは日・米だけではなく、中国に対しても同様。支配や干渉など、まっぴらごめんという立場なのです。
 北朝鮮朝鮮戦争で中国軍の支援を受けましたが、戦後は中国軍基地を置かせず、独自路線に転じました。とりわけ、金正恩体制になってから『脱中国』を加速させています。象徴的なのが、中国とのパイプ役といわれてきた叔父・張成沢(チャンソンテク)の処刑、そして中国のエージェントだった実兄・金正男(キムジョンナム)の暗殺です。これによって金正恩は実質的に、中国との紐帯を切ったのです。
 ですから、『少なくとも北朝鮮は中国の傀儡であり、一連托生(いちれんたくしょう)である』と考えるのは間違いなのです。
 先祖返りする朝鮮半島
 歴史的に見ても、朝鮮半島は中国大陸の政権に対して面従腹背、つまり表では頭を下げていても、『いつか見てろよ』という気持ちを中国に対して持ち続けてきました。
朝鮮半島で最も長く続いた王朝は『李氏』朝鮮王朝で500年。李氏朝鮮は明の制度を全面的に取り入れ、中華思想イデオロギーである朱子学を官学とすることでリアリズムを捨てました。明の崩壊後、李氏朝鮮は清に表面的には服属しながらも、実は面従腹背して清を内心見下し、『明の継承者はわが朝鮮なり』との小中華主義を持ち続けたのです。
 この長期の間に染み付いた思考パターンは、国民性として骨の髄まで染み込んでおり、そう簡単に抜けるものではありません。まるで形状記憶シャツのように元に戻る。つまり『あの頃の朝鮮半島』に戻りたいと考える。分かりやすく言えば、いまの朝鮮半島は『先祖返り』しようとしているわけです。
 アメリカはおそらくこのことをよくよく理解したうえで、『統一朝鮮』をむしろ中国の防波堤にしようと考えています。そのため、アメリカ本土には届かず、北京や上海には届く程度の核ミサイルの保有を、アメリカは許すことになるのです。
 もちろん中国側は朝鮮半島、特に北朝鮮を自分の駒として使うためにたびたび介入してきました。しかし、張成沢処刑と金正男の暗殺によって金正恩は中国に『三下半(みくだりはん)』を突き付け、『核を持った以上、中国には従わない』という姿勢を明確にしています。トランプはこれを見て、『金正恩は使える』と思ったに違いありません。
 だからこそトランプは、文在寅の頭ごしに金正恩との交渉を進めているのです。今年6月にも、大阪G20の帰りに電撃的に板門店(パンムンジョム)を訪問したトランプは金正恩とのトップ会談に臨み、文在寅は一歩下がって米朝会談を眺めるしかない立場に置かれました。金正恩から見れば、文在寅は自分に忠誠を誓うべき『労働党員』の一人に過ぎず、対等な交渉相手とは見ていないのです。
 このような読み解きは、『地政学』によって裏付けられます。
 日本では戦後、『地政学』は侵略につながる危険思想とみなされてきました。しかし各国首脳が地政学的観点から国家戦略を考えている以上、世界史を語るにも『地政学』的観点がなければ真の意味で理解することはできません。
 日本は典型的な島国、海洋国家であり、自由貿易や経済合理性を重んじるシーパワー国家です。にもかかわず、戦前は朝鮮半島の併合、中国大陸への進出というランドパワー的な方向へ進み、同じシーパワー国家である米英と戦争を始めてしまったところが大きな間違いでした。
 統一朝鮮が直面する矛盾
 一方、中国やロシアなどのランドパワー国家は陸軍を増強し、イデオロギーに基づく中央集権的な発想で、強力な国家権力と官僚機構による富の再配分を重視します。
 強力な権力が農民たちをガッチリと管理し、配分することでさらに権威を高める。巨大な官僚機構による計画経済で国家を運営してきた中国・ロシアのランドパワー国家が、20世紀に共産主義を受容したのは当然の成り行きだったのです。
 では、半島である韓国、ひいては『統一朝鮮』はどうなのか。シーパワー国家である日本やアメリカとの関係を希薄化し、ランドパワー化するのでしょうか。
 ここに『統一朝鮮』が直面する矛盾が生じてきます。ランドパワー国家は歴史的に見て、必ず経済的に失敗してきました。崩壊したソビエト連邦や現在の北朝鮮がいい例でしょう。人間の理性では経済活動を完璧にコントロールすることはできませんから、北朝鮮もこのままランドパワー的発想でいる限り、崩壊の日がやってくる。
 中国共産党はこの弱点を改革開放で乗り切ったかに見えますが、汚職が増え、格差が広がった。この反動から、毛沢東統制経済を継続したい習近平のグループと、改革開放を続けたい上海閥が、政権内部で熾烈な争いを展開しています。しかし、米中貿易戦争で経済成長が鈍化している以上は、もはや分配すべき富も枯渇し、習近平路線は破綻するでしょう。中共は、崩壊する前に習近平を『総括』しなければならなくなるでしょう。
 では、『統一朝鮮』はどうするのか。香港型の『一国二制度』によって韓国の自由主義経済を統一後も認めたうえで、そこから北が利益を吸い上げる。もちろん韓国経済は弱まっていく一方ですが、シーパワー的な経済発展よりも民族の誇りを重視する文在寅政権を国民が支持し続ける以上、その方向で進むよりほかない。貧しいけれど誇り高い、朝鮮王朝の復活です。
 もちろんいまの韓国にも、日米をはじめとするシーパワー、自由主義的な価値観で国家の発展を維持しようとする親米派がまだいます。しかし『事大主義』の誘惑に乗り、アメリカを凌(しの)ぐ大国になるかに見える中国に接近したことで、アメリカの信頼を裏切ってしまいました。
 日本との関係でも、『昼は反日、夜は親日』という隠れ親日派が少なからずいました。しかし結局は、親北文在寅政権の成立で、シーパワー勢力との連携を模索する人々は政権からパージされてしまいました。
 これは、かつて19世紀の朝鮮でも起きたことです。日本と組んで近代化を図ろうとした金玉均(キムオツキュン)ら『開化派』が、政権によって粛清されました。彼らを支援するため、日本は日清・日露戦争に踏み切り、その結果として満州進出を図り、朝鮮半島満州に莫大な投資をした挙句、敗戦ですべてを失い、感謝もされず、謝罪と反省を求められていまに至るのです。
 大日本帝国に代わって韓国防衛を引き受けた米国は、朝鮮戦争期に日本を兵站(へいたん)として利用しました。日米は足並みを揃えて韓国の経済を支え続け、ニクソン訪中後は中国に対してさえ過剰に肩入れして、投資を行ってきました。
 もし韓国や中国に対する政府開発援助(ODA)を日本国内に回していたら、『失われた30年』どころか、平成を通じて浮上することのなかった日本経済は、いまとは全く異なった状況になっていたでしょう。
 大陸国家への過剰な関与が地政学的に致命的な間違いだったことを、まず誰よりも日本人が学習する必要があると思います。
 地政学的観点と過去の歴史を学べば、日本は『統一朝鮮』の成立に関与せず、静観するべきでしょう。シーパワーたる日本は、むしろ台湾・東南アジア・豪州と連携すべきなのです。韓国に対しては、筑波大学名誉教授の古田博司さんが『助けるな、教えるな、かかわるな』という『非韓三原則』を唱えていらっしゃいますが、全く同感です。
 地政学的観点を持って総理
 安倍総理は、戦後には珍しい地政学的観点を持った政治家です。麻生財務大臣外務大臣時代に『自由と繁栄の弧』という地政学的価値観を掲げていましたが、これは近年の日本の外交の大きな流れであり、今後も変わることはないでしょう。
 特に安倍総理は第二次政権発足後、インド、オーストラリア、イギリスなどとの防衛協力体制を築くところまで踏み込んでいます。特筆するべきは、インド・ロシアとの関係を深めたことです。インド・ロシアを繫ぎ止めることで、位置的にも中国を包囲できるという。まさに地政学的感覚をお持ちなのです。
 民間を見てみても、冒頭で触れたように韓国に対する不信感は募(つの)り、強大化する中国に対しても、手放しで信じ切っているような人たちは少数派になりつつある。日本企業も中韓からは退いていくフェーズにはい入ってきました。だからこそ、安倍政権の支持率は高止まりしているのではないでしょうか。
 これは安倍政権が世論を誘導したのではなく、むしろ世論が変わったことによって、政権がこのような外交姿勢を取れる土壌が生まれたというべきでしょう。
 もちろん、このようなシーパワー的な発想を理解できず、自由経済よりも配分を重んじ、あるいはトランプよりも習近平こそ世界のリーダーであるべきだ、という権威主義を重んじるランドパワー的な発想をする人たちも、日本にはまだまだ存在しています。しかし彼らが日本のメインストリートになることは、今後はおそらくないでしょう。
 安倍総理退陣後の日本外交が心配だという声もありますが、世論、とりわけ若年層が安倍路線を支持している以上、この流れはそう簡単には変わりません。政治家は世論を見て考え、動くものですから。
 今後、東アジアは『統一朝鮮』誕生など大転換期、大きな分岐点を迎えます。しかし『地政学的』観点を身に付けた日本であれば、大きく国策を間違えることはない。私はまったく悲観していません。」
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、反日派敵日派国家であって、親日派知日派国家になった事は一度もない。
   ・   ・   ・   
 朝鮮は、面従腹背で、表面的には従うように見せながら内心は不服従で、信用や信頼は軽く価値も意味もなく、約束は方便として利用できれば守り利益にならなければ紙クズのように捨てた。
   ・   ・   ・    
 韓国人で、知日派といわれるのは1割前後で、反日派は3割から4割で、残りは無関心派である。
 日本との友好関係を、維持したいと思う韓国人は少数派で、維持する必要がないと思う韓国人は多数派であった。
   ・   ・   ・   
 日本の朝鮮半島や中国大陸との関係は、信用・信頼を強化して親好を深める事ではなく、尽きず離れずで距離を置き、合法的な揺るぎない契約で利益・金儲けを目的とする事だけで十分である。
 筑波大学名誉教授の古田博司さんが唱える『助けるな、教えるな、かかわるな』という『非韓三原則』。
 日本にとって朝鮮とは、利するところは1割で、害するところが5割で、4割が利も害もないところである。
 現代日本人、特に試験高得点の高学歴出身知的エリートはその道理が理解できない。
   ・   ・   ・     
 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海である。
   ・   ・   ・   
 現代日本人には、理想的平和学が理解できても、現実・事実に基づいた歴史学戦争論地政学、治政経済学などは理解できない。
 東アジア情勢とは、シーパワー大国のアメリカとランドパワー大国の中国・ロシアのせめぎ合いで動き、日本、韓国、北朝鮮そして台湾はその間で何れかの大国の庇護下に入らなければ生き残れない。
   ・   ・   ・   
 現在の金王朝北朝鮮は、核武装アメリカはもちろん中国やロシアなどの支配・影響を薄め、金王朝維持の為に巧みな外交を繰り返している。
 金王朝は、核兵器開発途上の時期は瀬戸際外交を繰り返してきたが、核兵器弾道ミサイルを完成させて配備すれば強面外交を展開する。
 アメリカや国連との最悪な衝突を避ける為に、核弾道ミサイルは日本と韓国に照準を合わせている。
 金王朝北朝鮮の強硬外交は、アメリカや中国を意のままに翻弄するほどに、日本の協調ありきの妥協外交よりも数段も優れている。
 それが、日本の高学歴出身知的エリートによる自主外交あるいは民間外交の限界である。
   ・   ・   ・   
 韓国内の保守派は、進歩派・従北派同様に反日派で、本心から日本との友好・善隣を希望せず、利益・金儲けだけの付き合いを望んでいる。
   ・   ・   ・   
 地政学的に、朝鮮半島大陸国の影響力に入るしか生きられない。
 歴史的伝統、地理的宿命として、朝鮮は中国の軛・支配から逃れる事はできない。
 弱小国朝鮮が、海の外の海洋国日本より陸続きの大陸大国中華に従うのが道理であった。
 中華帝国・中国に対し、戦う意志のない朝鮮と戦う意志のある日本との対等関係での攻守同盟はあり得ない夢物語にすぎない。
   ・   ・   ・   
 朝鮮の行動は、傀儡国・属国・従属国として、主体性・自主性・独自性ではなく、あくまでも中国国内の権力闘争・派閥闘争・政権争奪戦などに左右されている。
   ・   ・   ・  
 東アジアの深刻な問題とは、経済大国となった中国共産党政府が「中華帝国の栄光」を復活させるべく莫大な軍事予算を投じて強大な中国軍を作り、その軍事力を使って領土と支配地・影響地の拡大を進めている事である。
 それが、南シナ海東シナ海尖閣諸島・台湾などの問題である。
 中国共産党は、確実に日本をも狙っている。
   ・   ・   ・   
 深刻な問題は、国内に中国共産党の野望・陰謀に加担する反政府勢力が潜んでいる事である。
 日本で、日本侵略の中国共産党に味方するのが反天皇反日的日本人達である。
 中国の常套手段は、攻撃する相手国に対して調略・謀略を行い、利益、金、美女・美男子を使って味方を作り不満分子を増やし、親中国派・従中国派に武器と金を与えて反乱・暴動・騒動を起こして内部から崩壊させる事である。
 一般中国人と中国共産党員・中国軍人とは別の中国人である。
   ・   ・   ・   

☲2〕─1─韓国のキリスト教会は狂信的な反天皇反日であった。〜No.3 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として中国、東南アジア、南アジア、南北アメリカ大陸やヨーロッパにまで売って大金を稼いでいた。
 日本人は、国内外の合戦・戦場で捕らえた日本人や朝鮮人を奴隷として売っていた。
 日本人の本性は、血も涙もない薄情・非情な冷血漢である。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、歴史力がないために、その歴史的事実を否定して恥じない。
   ・   ・   ・   
 日本人で、いい人は2割で、悪い人は3割で、何方ともいえない人が5割である。
   ・   ・   ・   
 朝鮮人キリシタンには、排他的不寛容な原理主義者が多くいた。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人共産主義者テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
   ・   ・   ・   
 上海にあった大韓民国臨時政府は、キリスト教徒の政権であり、テロリストの巣窟であった。
   ・   ・   ・   
 産経新聞iRONNA編集部
 大衆化した韓国キリスト教の正体
 韓国のキリスト教徒は国民のおよそ3割に上る。わが国では1%にも満たないが、隣国では「国家的宗教」として浸透する。むろん、大衆化した宗教は政治や社会とも密接に関係する。なぜ韓国はキリスト教国になったのか。iRONNA韓国リポートの新テーマ「宗教編」をシリーズでお届けする。
   ・   ・   ・   
 歴史の裏に宗教あり
 「あえてこの場所を待ち合わせ場所にした意味が分かりますか」。平昌五輪の喧騒がすっかり落ち着いた4月、韓国・ソウルの官庁街を走る目抜き通り「世宗路(セジョンノ)」の交差点で、キリスト教の牧師、洛雲海(ナク・ウンヘ)氏は、出会ったばかりの私にこう聞いた。世宗路は、景福宮の正門「光化門」から続き、かつて豊臣秀吉軍と対峙し国民的英雄となった李舜臣(イ・スンシン)将軍の巨大な銅像がある。近くに大統領官邸である青瓦台があり、各国の大使館や新聞社が立ち並ぶ歴史と政治の要所だからだろうと思っていた。
韓国のカトリック教会「明洞聖堂」で祈りを捧げる信徒たち=2018年4月4
 だが、洛雲海氏が指さしたのは交差点の一角にある20階建てビルだった。このビルの16階に、韓国で3番目に多い信徒を抱えるキリスト教メソジストの本部があるという。洛雲海氏は「韓国の歴史と政治に、キリスト教が深く根差していることの象徴と言えるでしょう」と教えてくれた。
 そもそも韓国は、国民の約30%がキリスト教徒と言われており、アジアの中でも特徴的な宗教事情を抱える。歴代大統領の信仰に目を向ければ、保守派で知られる李承晩(イ・スンマン)氏、金泳三(キム・ヨンサム)氏、李明博(イ・ミョンバク)氏らはプロテスタント、一方、進歩派で知られる金大中(キム・デジュン)氏、現大統領の文在寅ムン・ジェイン)氏はカトリックだ。
 朴槿恵前大統領の失脚劇にも宗教色が滲んでいたが、韓国の政治とキリスト教派はどれほど密接な関係にあるのか。その歴史と現状を知るべく、洛雲海牧師や韓国宗教文化研究所長、李進龜(イ・ジンク)氏らを訪ねた。2人が口を揃えて話すのは、文在寅大統領を支える進歩派のキリスト教グループ「正義具現司祭団」の存在だ。政権の動きや政策とキリスト教の勢力図はまさに連動していると同時に、韓国でキリスト教の影響力が増幅した背景に、日本の存在が深く関係していることも力説した。
 キリスト教勢力と政治勢力の連動は、アジアの中でみれば特異だが、世界的な視点でみればそう珍しいことではない。李明博元大統領はキリスト教団体の役員だったが、同じくキリスト教の信仰が深い米国のオバマ元大統領と親密な関係だったことが知られている。「信仰に基づく理念の共有は外交にも通ずる」と、洛雲海氏は指摘する。時として宗教は、政治に大きなうねりや変革をもたらすということだ。
 韓国のキリスト教牧師や伝道師が集まる会合を取材中、話を聞いた女性牧師の言葉が印象的だった。
「日本は民主主義といいながら、実態が伴っていないのではないか。安倍首相は政治家の家系出身で、血筋が政治を牛耳っているようにしかみえない」
 女性牧師の目に映る日本の政治のイメージでしかないが、この言葉の裏に、2016年11月のロウソクデモを通じて国民が政治を変えたのだ、という自負がうかがえた。隣国でありながら日本と韓国の政治的背景の違いはあまりに大きい。それだけに、韓国の政治を理解する上で、キリスト教の存在をどう捉えるかが重要な視点の一つだと実感した。(文と写真、iRONNA編集部 中田真弥)
   ・   ・   
 なぜ韓国でキリスト教が爆発的に浸透したのか
 『島田裕巳』 2018/07/25
 島田裕巳宗教学者
 戦後の韓国社会では、キリスト教の伸びが著しい。米調査機関、ピュー・リサーチ・センターによれば、2010年における韓国のキリスト教徒の割合は29パーセントに達し、仏教を凌駕している。仏教は23パーセントである。
 キリスト教徒の割合は、1950年の時点では、まだ8パーセントだった。それが、1970年には18パーセント、85年には21パーセントに増えた。95年で26パーセント、2005年で28パーセントだから、伸びこそ鈍化している。
 だが、日本のキリスト教徒の割合が1パーセント程度なのに比べると、韓国でのキリスト教の浸透はすさまじい。実際韓国に行ってみると、親は仏教徒だが、自分はキリスト教徒だという人によく出会う。
 そこには、戦後の韓国における経済発展と、急激な都市化がかかわっている。都市化は首都ソウルへの一極集中と言ってもいい。
 日本でも、高度経済成長の時代には、産業構造の転換に基いて経済が大きく発展し、それに伴って都市化が著しく進行した。それまで伝統的な村社会に生きていた人々は、都市に信仰を携えてはこなかった。しかも、彼らは家や地域社会のというネットワークから切り離された。そうした人間たちを掬い取ったのが、創価学会をはじめとする新宗教だった。
 韓国では、日本の新宗教の代わりをキリスト教が果たした。韓国のキリスト教は、日本のキリスト教とは大きく異なるのである。日本では、キリスト教は、主に富裕層や知識人層に広がった。逆に大衆化は進まなかった。
 ところが、韓国では、キリスト教は庶民層に広がった。したがって、日本のキリスト教とは異なり、むしろ日本の新宗教に近い、現世利益や病気治療を中心とするものが受容された。その際には、韓国に伝統的なシャーマニズムがそこに取り込まれ、かなり怪しげなものとなった。なにしろ、説教師が神懸りしたりするのである。
 必然、韓国のキリスト教徒の中でも、知識人層はそうした土着化したキリスト教を評価せず、「あれはキリスト教ではない」と否定的にとらえている。安延苑(アン・ジョンウォン)青学大准教授と浅見雅一慶大教授との共著に『韓国とキリスト教』(中公新書)という本があるが、そこでは、大衆化したキリスト教についてはほとんど触れられていない。触れたくないというのが、著者たちの本音なのである。
 日本では、土着の神道と外来の仏教が融合し、それが新宗教の基盤にもなった。ところが、韓国には神道にあたるものがないし、仏教は、儒教による圧迫も受けてきた。そのことが、キリスト教の受容に結び付いたのである。
 ただ、「漢江の奇跡」と称された経済発展が曲がり角に達し、韓国も低成長の時代に入ると、キリスト教の伸びは前述したように鈍化した。それは、新宗教に近いキリスト教から活力を奪うことにもなった。最近の韓国では、プロテスタントからカトリックに改宗する人間が増えているといわれるが、現世利益や病気治療ではない、社会的にも認知された宗教が求められるようになってきたのであろう。
 もう一つ、韓国の宗教の特徴は、経済界と結びつきやすいということがあげられる。韓国は依然として財閥社会で、「10大財閥」が力を持っていると言われるが、財閥が強いということは、経済構造が十分には近代化されていないことを意味する。だからこそ、財閥をめぐってさまざまな事件が起こるのである。
 セウォル号事件の際には、この船の実質的なオーナーは、兪炳彦(ユ・ビョンオン)という造船業や海運、遊覧船を経営するセモグループの前会長だとされたが、この人物は、同時に救援派(クウォンパ)という宗教団体の開祖であった。この団体の正式な名称はキリスト教福音浸礼会である。
 救援派はキリスト教の異端とも言われるが、プロテスタントの場合、バチカンのような世界的な組織があるわけではなく、正統と異端を区別する仕組みが存在しない。救援派のような新宗教に近いキリスト教の宗派は、韓国にいくらでも存在するのである。
 経済活動を実践しつつ、宗教活動も行う組織としては、世界基督教統一神霊協会がよく知られている。いわゆる「統一教会」のことだ。この組織は、世界平和統一家庭連合に名称が変更されている。
 日本の統一教会と言えば、勝共連合との結びつきもあり、政治的な宗教団体のイメージが強い。だからこそ、日本共産党やそのシンパと対立してきたわけだ。
 しかし、韓国では、むしろ財閥グループとしての性格が強い。経済活動は、宗教活動を支えるための資金集めの範囲には収まらず、むしろそちらの活動の方が中心であるようにも見える。少なくとも、日本の統一教会と韓国の統一教会は、かなり性格が違う組織なのだ。
 韓国のキリスト教は、「富者は神の祝福を受けている」と主張することによって、資本主義のイデオロギーを支持する役割を果たしたともいわれる。宗教には、信仰によって人々を結び付ける働きがあり、韓国の財閥や経済グループの中には、その点で宗教を利用してきた勢力もあったことになる。
 韓国では、キリスト教が庶民層をも引きつける生きた宗教であるがゆえに、経済や政治と結びついていきやすい。弾劾された朴槿恵元大統領も、キリスト教の影響も受けた新宗教の教祖とその娘と深い結びつきを持ったことが疑惑の一つの焦点になった。
 以上のように、韓国社会を見ていく上で、宗教とのかかわりということは、現在でも極めて重要な側面なのである。
   ・   ・   
 韓国のキリスト教はいかにして「反日感情」と結びついたか
 『iRONNA編集部』 2018/07/25
 洛雲海(日本基督教団韓国派遣宣教師)
 1945年に太平洋戦争が終わり、朝鮮半島が北と南に分かれ、大韓民国という国家が新しく生まれました。国家をつくる上で要になるのは、憲法です。1948年、韓国の憲法を定める最初の会議(制憲国会開会会議)が開かれましたが、そこで驚くべきことが起こります。
 国会開会を宣言する議長が発した第一声が、なんと神への感謝の祈りを議場に促す言葉だったのです。それは「大韓民国独立民主国第一次会議をここに開催するに至りましたことを、私たちは神に感謝しなければなりません」というものでした。
 日本では考えられないでしょうが、韓国という国はそのようにして始まったのです。その時の議長がだれかといえば、のちに初代大統領になった李承晩(イ・スンマン)でした。これは速記録にもきちんと残っています。このエピソード一つ踏まえるだけでも、韓国の政治とキリスト教がいかに密接に関係しているかがわかると思います。
 キリスト教といってもいろいろな教派や立場があります。保守系キリスト教、進歩系キリスト教、つまり、キリスト教にも右派、左派があるんですね。
 キリスト教右派、左派というのは、カトリックプロテスタントかで分かれているのではありません。カトリックプロテスタントも、大部分は保守でしょう。ただ、一部に進歩的な人たち、北朝鮮とも仲良くしていこうという人たちがいて、その人たちを左派と呼ぶわけです。そしてその代表がカトリックや「聖公会」の一部、また「長老教会」や「メソジスト教会」などのプロテスタントの一部の人たちです。
 そして政治的保守層のキリスト者たちは保守系キリスト教と結びつく傾向があり、政治的進歩層のキリスト者たちは進歩系キリスト教と結びつく傾向があります。歴代大統領の宗教をみれば、それは明らかです。
 例えば李明博(イ・ミョンバク)大統領はプロテスタント「長老教会」の長老でした。彼は長老教会の中でも「統合」と呼ばれる中道派に属し、保守から進歩までを含む一番幅が広い教派です。
 その後の朴槿恵(パク・クネ)大統領は非常に保守的な政治家でした。父親の朴正煕(パク・チョンヒ)を支持していたキリスト者たちは主として保守的キリスト者たちでしたから、同じような人々が支持していたとみてよいでしょう。
 そして進歩派で知られる現在の文在寅ムン・ジェイン)大統領は、カトリック信徒です。ご存じの通り、廬武鉉(ノ・ムヒョン)と文在寅は親密な同志ですが、彼らを支えているのは同じキリスト教グループです。
 政治的進歩を支えているキリスト者たちは、軍事独裁政権と呼ばれた時代に、民主化闘争のために命を張って戦った人々である、という共通点があります。彼らは多くの保守系キリスト教が体制側に立っているのに対して、弱きものの立場に立ってキリスト教の精神を具現化していくんだと、独裁政治に対抗したのです。中でもカトリックで構成された「正義具現司祭団」というグループが中心的な役割を果たしました。
 そして民主化運動が成功し政権交代が果たされた後、金大中(キム・デジュン)、廬武鉉大統領の時には、民主化運動をした神父や牧師たちが政権のブレーンになっていきました。その牧師や神父は政府の中枢部に入って行きブレーンとなっていきました。特に南北関係の核心的なポストに、神父や神学者が入っていったわけです。
 韓国政界は、表向きにはあまりキリスト教の存在はわからないでしょうが、国家の決定的なところにキリスト教徒たちが多数入っているのが現実です。
 日本のキリスト教徒の人口比率は、1%に満たないと言われています。一方、韓国のキリスト教徒はカトリックプロテスタントを併せて俗に30%ほどと推測されます。最近は韓国でもキリスト者人口は減ってきていますが、それでも日本とは大きく違いますよね。
 すぐお隣の国にも関わらず、なぜ韓国でキリスト教徒が多く、日本では少ないのか。それは、韓国において、本来結びつくはずのないナショナリズムキリスト教が結びついたことが大きな要因の一つだと、私は見ています。
 ナショナリズムキリスト教の結びつきを象徴する出来事として、「3・1独立運動」をみてみましょう。日本の植民地支配に抵抗して独立を願う人たちが立ち上がり、宣言書が読まれ、デモ行進が行われました。この宣言に民族代表33人が名を連ねたのですが、全員が宗教的指導者でした。
 その宗教の内訳をみると、キリスト教指導者が半分以上を占めている。これは注目に値すると思います。日本でキリスト教といえば、むしろ日本を超えた「世界」のことについて訴えているイメージが強いのではないでしょうか。日本のナショナリズムを鼓舞する人の中に、キリスト教徒たちはほとんど目につかないですよね。
 韓国では、政治的保守・右翼とキリスト教が結びつくことが多く、それが韓国でキリスト教徒の多い要因ではないかとする見方があります。でも、私の牧師としての立場からすれば、本来ナショナリズムキリスト教の教えは結びつかないものですし、むしろキリスト教ナショナリズムを克服していくべきものです。
 なぜなら、キリスト教では、神の前ではみな平等であると教えるからです。それが基本的人権の思想につながっていくわけですが、理由はそれだけではありません。キリスト教が世界に広がる過程も関係しています。
 キリスト教国家が他の発展途上の地域、あるいは非文明的な地域を植民地化しようと入っていくときに、宗教も一緒に入って広められていった歴史があります。入ってこられた側としては、もちろん好意的に受け入れる人たちもいたことでしょうが、当然反発する人たちもいるわけですね。
 侵略を受ける側は、侵略をしてくる側をよく思うはずがないですよね。搾取されていくわけですから、反発が起こります。もちろん、文明の力を取り入れて自らに利しようとする人たちはいるでしょうし、実際いました。織田信長が鉄砲を取り入れて日本を統一していったように、先進技術や文明の力を取り入れて手を組もうとする人たちもいますが、多くは反発します。
 そして、侵略者たちが信じている、核心になっているものに対しても反発が起こるのが普通でしょう。例えばキリスト教を信じているという侵略者たちが、口では愛とかなんとか言っておきながら、ものすごい勢いで搾取をして現地の人々を隷属化していく。そういうことが起こってきたときに、志のある人たちは反発しますよね。その反発は、侵略者たちが信じている宗教に対する反発にもなるわけです。
 でも、侵略者たちの力があまりにも大きいがゆえに、やがて取り込まれて、そして教化されるようなことが起こります。植民地化された国にキリスト教会が入っていき、現地が搾取され教化されるという形は、世界中のいろいろな国で見ることができるでしょう。
 南米でもカトリックの信徒がほとんどで、フィリピンでも同じです。それは、どのような宗教を信奉する国が現地を侵略し、また植民地化するのか、まさにそのことが影響するわけです。
 そこで韓国を考えてみましょう。韓国を植民地化した国はどこかといえば、日本です。ところで、日本はキリスト教国家と言えるでしょうか。その当時の帝国日本という国家の基軸となるような宗教があったとすれば、それは「国家神道」です。
 植民地化されると感じれば、朝鮮民族としての自負心を強く持っている民族主義者たちは抵抗するでしょうし、実際に抵抗しました。彼らは、自らを搾取し植民化しようとするものたちの背後にあるものにも一緒に反発します。宗教にだって反発するでしょう。そこで神社参拝の問題が特に出てくるわけです。
 もしも、日本の背後にある宗教がキリスト教であったなら、彼らはキリスト教に対する反発を持ったのではないでしょうか。しかし朝鮮半島ではそうではなかったわけです。それは「国家神道」でした。
 そしてもうひとつ、彼らの民族的な精神、あるいは民族独立の運動を支持する人たちがいました。それがキリスト教の宣教師たちだったわけです。
 朝鮮の人々から見れば、日本に無茶苦茶なやり方で入って来られたという思いが強い中で、宣教師たちはそんな彼らをかわいそうに思い、愛をもって助けようと、朝鮮側の立場になったことでしょう。
 宣教師たちからすれば、日本は朝鮮の人々の自由を奪っていく、そのような行為はキリスト教の愛の精神に反するわけですから、朝鮮の民族独立運動家と共に反日に動きました。それでナショナリズムキリスト教が結びついていった、という側面があったのではないでしょうか。
 ある神学者が唱えた理論で、「帝国日本触媒論」という考え方があります。触媒というのは、Aという物質とBという物質が一緒にいるだけではなんの反応もしないのに、そこに関係のない触媒が介入してくると、触媒自体は変わらないのに、AとBは激しく反応して新しいものを生み出すような役割を果たすものです。
 その触媒こそが日本だとする理論です。これは私もなるほどと思います。キリスト教と韓国のナショナリズムというものは本来結びつきようがないものなのに、そこに帝国日本というものが触媒のように入ってきたがゆえに二つは激しく反応して結びつくことになりました。「3・1独立運動」主導者の過半数キリスト教の指導者たちだったという例は、この結びつきが顕著に表れた例と言えるわけです。
 そして日本が負けたおかげで(韓国の民族独立主義者たちの側からみると「おかげ」ですよね)、ついに独立が可能になりました。そこで、これまで韓国で民族のために命を張って抵抗してきた人たちは、その後、国家においてどのような位置を占めると思いますか。当然、国家の指導層に出てくるわけです。
 基本的にキリスト教の教えは、愛による和解を願う赦(ゆる)しの宗教です。つまり現代における、「反日」的なメッセージとキリスト教の教えは必ずしも一致しません。しかし、朝鮮半島には、事実日本から痛い目にあったという過去があり、そのために複雑な思いを持った人々がキリスト教徒たちの中にもいます。日本からのさらなる謝罪が必要だと思っている人々も多いことでしょう。
 例えば、靖国神社に参拝する日本の政治家がいます。日本のある人々からすれば、参拝は英霊に対する当然の礼儀だと思うかもしれませんが、外国から見れば、それは宗教行為に他ならないでしょう。ある閣僚が、キリスト教信仰を持つ信徒でありながら靖国に参拝するというのは、本来ならありえません。
 少なからぬ日本人からすれば、政治家の靖国参拝は許容範囲というか、礼儀として受け止められるかもしれませんが、外から見ればそれは異常な行為に見えることでしょう。どっちの神を信じているんだと。帝国日本の時代に、宗教行為ではないからと強要された神社参拝に反発して、虐殺までされたキリスト教徒たちがいますから、「政治家の神社参拝」とそれらの出来事が重なって見えることでしょう。
 韓国とキリスト教の関係は奥が深いものです。これを理解すれば、韓国という国家を見る視点が変わり、現代に残る強い反日感情の根源などについても、真に理解することにつながるのではないでしょうか。
 (聞き手 iRONNA編集部、中田真弥)
 洛雲海(ナク・ウンヘ) 昭和39年東京生まれ。日本人。韓国政府招請奨学生として長老会神学大学校大学院に留学、博士課程修了(神学博士)。現在、長老会神学大学校助教授(組織神学)、韓国・セムナン教会協力牧師、聖学院大学総合研究所客員教授
   ・   ・   ・