🗾6〕─2─遺伝子情報。最新ゲノム解析。旧石器時代の古朝鮮人は日本の縄文人の子孫であった。~No.20 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 何故、朝鮮半島の古層文化に「恨」と「怨」が根付き、その憎悪の対象として日本が1000年も2000年も時空を超えて槍玉にあげられ続けるのか。
   ・   ・   ・   
 狩猟採取の石器時代は、個人的な動機に基ずく小規模な争いがあったが、それ以外の殺人はなかった。 
 農耕が始まった1万年前以降から、人類は権力に目覚め支配する事を覚え、一転して凶暴になり、集団闘争として戦争を始めた。
 しかし、高等な霊長類は生まれ付き凶暴で殺し合いをおこない、チンパンジーやオランウータンなども同種殺害率は1.8%と高かった。
 人類の同種殺害率は、2%と推測されている。
 多の哺乳類の同種殺害率は0.3%で、300匹のうち平均1匹の割合であった。
 無秩序に個人の自由を放置すると殺し合う為に、社会秩序を安定させる手段として憲法や刑法をという公的制度を設け、法の番人として監視する警察を設置し、被害者の報復権を代行する裁判官が置かれた。
 犯罪者は犯した罪に見合った刑罰が科せられ、被害者に代わって報復権を行使して人殺しは死刑に処せられた。
 「目には目を、歯には歯を」であった。
   ・   ・   ・   
 2016年 別冊宝島「古代史15の新説
 第三章 対外関係からみる古代日本
 縄文人こそ日本人と韓国人のルーツ 長浜治明
 統一新羅の成立により韓半島の『縄文人』国家は滅亡。
 Y染色体から日本人は縄文人のDNAを受け継いでいた。
 ……
 それは平成22年(2010)に出版した『日本人のルーツの謎を解く──縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!』のことでした。そして講演で、『縄文学は、渡来系弥生人に征服された先住民の研究ではなく、私たち日本人のご先祖様の研究を行っているのだ』と話しを進めると、会場は静まりかえり、聴衆の目の輝きが違ってくるような印象を持ちました。
 聞くところによると、日本人は半島起源だ、韓国が日本にすべてを教えてやったのだ、と主張する韓国人が多いとのこと。わが国においても、日本人は半島からやって来た、韓国は日本人の祖先の国だ、が歴史額の常識になっているとのこと。開いた口が塞がらないとはこのことです。
 そういえば、国民的作家といわれた司馬遼太郎も次のように書いていました。
 『縄文・弥生文化という可視的な範囲で、我々日本人の祖先の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは拒否すべくもない』
 では私の見解と、歴史学の常識や司馬の古代史観と、どちらが正しいのか、いくつかの角度から事実を紹介し、検討を加えたいと思います。これは私が執っている研究方法であり、学生時代に川喜多二郎教授から学んだ文化人類学手法の一つです。
 日本人と韓国人のY染色体は大きく異なる
 今では誰でも『Y染色体は男性の系統を表す』ということを知っています。仮に、『日本人の大多数は、韓国からやって来た』、『今の韓国人は縄文時代から今日まで、半島で連綿と住み続けた人々の子孫』が正しいなら、今の日本人と韓国人のY染色体構成は、類似して然るべきです。
 ……Y染色体の解析結果を見ると、日本人と韓国人は大きく異なっています。これをどう解釈すればよいのでしょうか。
 この図を紹介した分子人類学者篠田謙一氏は次のように断じました。
 『ミトコンドリアDNA(以下 mtDNA)のハプログループ頻度が日本と朝鮮半島中国東北部でよく似ていたのに対し、Y染色体のそれは大きく違っています。その原因はハプログループDの頻度にあることは明瞭です。日本の近隣集団では、ハプログループDをこれだけ高頻度で持っている集団はありません』(『日本人になった祖先たち』NHK出版)
 ちんみに『ハプログループ』とは、亜型レベルでDNA配列が同じ単一グループのことです。……
 遺伝子学の斎藤成也氏は次のように説明しました。
 『日本列島ではかなりの頻度で存在しているが、その周辺ではほとんど見つからない遺伝子が存在することは、3000年前以降という、人類進化の時間では最近に属する頃に、縄文時代から弥生時代の人々に置換したという考えを否定するものだ。
 何故なら、置換を仮定すると、日本列島に特異なタイプは、置換した後に生じたと考えなくてはならないからだ。しかし、これはほとんど不可能である。……結局、この突然変異(ハプログループD)は、もっとずっと古い時代に、おそらく縄文時代かそれ以前に出現したと考えた方が良いのでる』(『DNAから見た日本人』ちくま新書
 氏は、『縄文時代の人々が、弥生時代に渡来してきた人々に置換した』という考えを否定しました。それは誰でも分かります。
 縄文時代から、今の韓国人の祖先が半島に住んでいて、彼らが弥生時代に日本にやって来て、あるいは特異的に人口を増やして、私たちの祖先になったのなら、今の日本人のY染色体は韓国人に似て然るべきです。だが、現実は大きく異なっている。すなわち、今の韓国人は、私たち日本人の祖先ではないということです。
 韓国人女性のルーツを探る
 ヒトの細胞は常に分裂し生まれ変わっています。遺伝子内のDNAも絶えず複製されていますが、その過程でまれに間違って複製されることがあります。これが突然変異であり、性染色体に生じたDNA変異は親から子へと受け継がれます。その変化の順番、変わった部分を解析することで、親子関係、民族の成り立ちから人類の起源まで探っていく学問が分子人類学です。 
 ヒトのルーツ研究は、解析が容易なmtDNAから始まりました。mtDNAは縄文時代の古人骨から採取可能であり、現代日本人や韓国人のmtDNAと古人骨のmtDNAを比べることができます。
 注意すべきは、これは母親から娘に受け継がれるDNAであり、女性の系統をたどることに過ぎず、男性を含めると誤りです。では日本人と韓国人のmtDNAは、Y染色体同様、大きく違っているでしょうか。
 篠田氏は、『日本人になった祖先たち』で、日本の縄文人弥生人と相同なmtDNAを持つ現代人はどこにいるかを調べ、次のように記していました。
 『注目されるのは、朝鮮半島の人たちの中にも縄文人と同じDNA配列を持つ人が、かなりいることです』『DNAの相同検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNAを持つ人が住んでいたと考える方が自然です』『縄文時代朝鮮半島の南部には日本の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持つ人々が住んでいたのではないでしょうか』。
 氏は『人々』と記しますが、mtDNAから導かれた結論なので『女性』と書かねば正しくありません。それを意識してか次のように続けます。
 『単純に考えると、渡来系弥生人の多くが女性だったということになるのですが、その説明には説得力がありません。むしろ、その後の歴史時代を通して、この差が生じたと考えるのが自然でしょう』と。
 なぜ篠田氏の仮説が破綻したか
 氏は次ぎに、チベットでDが3割程度を占めているとして、以下のように推論しました。
 『もともと北東アジアに広く分布していたこのハプログループが、その後中国を中心とした地域で勢力を伸ばしたハプログループOの系統によって、周辺に押しやられしまった結果を見ているに思えます。日本やチベットは海や高い山によって隔てられたので、このハプログループが高頻度で残ったのかもしれません』。
 次にこの仮説を検証してみましょう。氏は、Y染色体の専門家ではないのでご存じないのかもしれませんが、……ハプログループDは大きく二種類に分かれます。日本人に特有のDlbとチベット人のDlaです。しかもDlbは約3万5000年前に日本で誕生し、日本中に拡大しています。
 氏の仮定に従えば、『歴史時代(先史時代以降)に大陸にいたD系統がO系統(漢民族)によって周辺に押しやられた』となります。そうなら、日本人とチベットのD系統は同じでなければなりません。だが、日本人とチベット人では違っています。すなわち、篠田氏の仮説は科学的根拠なき空論、破綻していると申せましょう。
 では、『日本人と韓国人男性のルーツは遠く離れた関係なのに、女性は縄文時代から近い関係にあった』をどう理解すればよいのか。以降は、文化人類学では無理であり、歴史学、考古学、形態人類学の力を借りる必要があります。
 韓半島・5000年の空白が意味するもの
 ……これは1993年(平成5)、韓国国立中央博物館発行に掲載された年表の一部です。
 見ると、『半島の歴史は旧石器時代から始まる』とありますが、発見された遺跡数は50程度に過ぎません。この時代、日本からは1万もの遺跡が発見されており、密度で比べると日本は半島の100倍以上、元々、半島にはほとんど人はいなかったのです。
 その後、紀元前(以下 前)10000年から5000年まで、半島から遺跡がなくなります。これを考古学の常識で解釈すると、半島の人々は絶滅した、となります。しかも、5000年の長きにわたって誰も住んでいなかった。
 そして再びヒトの痕跡が現れるのが前5000年頃、年表の『新石器時代 櫛文(くしもん)土器文化』がそれです。人はボウフラのように湧いて出るはずがありませんから、どこからかヒトがやって来たのです。
 念のため『図説 韓国の歴史』(河出書房新社、2002年)を開くと、『旧石器時代人は韓民族の直接の祖先ではなく、直接の祖先は約4000年前の新石器時代人からである』とありました。
 すなわち前2000年頃、韓民族の祖先はどこからか半島にやって来た、となります。奥付を見ると、これは静岡県立大学金両基(キムヤンキ)教授が監修し、日韓の専門家、韓国の国家機関や博物館が協力して上梓(じょうし)された本でした。
 では、7000年前、すなわち前5000年頃やってきて『櫛文土器文化』を築き、3000年以上にわたり半島の主人公だった人々はどこから来たのか。さらに4000年前、すなわち前2000年頃、先住民が住む半島に侵入し、やがて『韓国人の直接の祖先』になった人々は、どこから来たのでしょう。
 半島の歴史は縄文時代から始まる
 古代史本を読みあさっていた私は、『日本人はるかな旅 4』(NHK出版)の一文に驚いたことを覚えています。
 『最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。東三洞貝塚(トンサムドンベチョン)では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。そこに出土する縄文土器縄文人がやって来た確かな証拠品といえる』。
 何と縄文時代に、人々は日本から半島に渡来していたのです。『図説 韓国の歴史』にも同様の記述があります。
 『櫛文土器はある特定の地域だけにあるのではなく、北部・中部・南部などほぼ全国的に出土しているが、地域によって特色が見られ・・・・』。
 …… 
 さらに、『東三洞貝塚は三つの文化層からなっており、最下層の第一層からは隆起文(りゅうきもん)・押引文(おしひきもん)・無文土器や磨製石器が、二期層からは櫛目文土器や黒曜石が、三期層からは無文平底土器などが発見された。二期と三期の層から日本の縄文時代の中・後期の土器が発見され、注目された。そのころ、日本(九州)との交流があったことが裏付けられたからである』。
 これらの土器は縄文時代・草創期からのものです。
 次いで、『櫛目文土器にまじって、九州の縄文土器片や西北九州型の釣針・黒曜石などが出土し、海峡を越えた交流を裏付けた』。
 櫛目文土器は九州特有の曽畑(そばた)式土器に酷似し、黒曜石は腰岳(こしだけ)産(佐賀県)のものであることが判明しています。
 これら韓国での考古調査の結果、『韓国人の遠い祖先は、日本の縄文文化を持って無人韓半島に移り住み、3000年の間に北部まで広がった縄文人だった』となります。儒教文化圏は父系を祖先としますが、日本は母系も大切にするので、上記のような表現になります。
 韓半島の文化は、日本から渡来した縄文人が伝えた縄文文化から始まったのです。そして、南部の人々は父祖の地である日本とのあいだを往来していた。それが『海峡を越えた交流』の実態です。
 たとえば、沖縄の祖先も縄文時代前期に九州から移り住んだ人々であり、その彼らによって、海峡を渡り、半島間を行き来するなど容易(たやす)かったに違いありません。
 この時代、九州と半島に移住した人々のDNAは近かったと推定されます。やがて、縄文人の住む韓半島に、北方から異民族が侵入してきます。3000年もの長きにわたり、わが世の春を楽しんでいた縄文社会に危機が訪れたのです。
 古人骨は韓国人に似ていなかった
 次に『形態人類学』から日本人と韓国人の関係を見てみましょう。『形態人類学』とは『人骨の各部位を測定し、それらのデータや指標化した数値を比較検討することで、ヒトの系統関係やルーツを研究する』学問です。では、形態人類学から見ると韓国人はどこから来たのでしょう。
 文献を調べると、人類学者の小片丘彦(おがたたかひこ)氏は『朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴』(『鹿児島大学歯学部紀要』第18巻、1998年)において、韓国人の『身体的形質』の特徴を次のように記していました。
 『短頭(頭の幅に比して前後が短い平べったい頭)、高顔(顔が細長い)、蒙古ヒダ(上まぶたが目頭を覆う、細くて小さな目)、扁平な顔。朝鮮半島に居住する人々に広く見られるような身体的形質は、いつ頃からそなわるようになったのであろうか』。
 この紀要で小片氏は、半島南部の煙台島(ヨンテド)で発見された前4000年紀の古人骨、半島南部の勒島(スクト)で見つかった弥生時代中期の古人骨、それに釜山(プサン)市近郊の金海礼安里(キメイエアンリ)古墳群から発掘された4〜7世紀の古人骨の調査結果を発表しています。
 ……煙台島人骨を調べると、現代韓国人と大きく異なっており、形態人類学の考え方に従えば、『彼らは韓国人の祖先ではない』となります。そしてこの古人骨は多くの点で同時代の日本人、すなわち縄文人に一致していました。このことから、『最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だった』という考古学上の推論は、形態人類学によって裏付けられたことになります。
 勒島の遺跡からは、人骨以外に多くの甕棺(かめかん)や北部九州の弥生土器も出土し、この地の人々が北部九州文化圏で生きていたことがわかります。
 ……礼安里古人骨のPenrose形態距離を算出すると『現代朝鮮人は遠く離れており、むしろ同時代の北部九州の人々と近かった』と小片氏は記しています。礼安里人も現代の韓国・朝鮮人とは遠い関係にあり、同時代の日本人に近かったのです。結局、どの時代の古人骨も、今の韓国人とは似ても似つかぬものでした。
 しtsがって、考古学をベースに、形態人類学の考えに従えば、縄文時代の煙台島人も、弥生時代の勒島人も、古墳時代の礼安里人も韓国人の祖先ではなく、日本から移り住んだ人々、あるいはその子孫だった、となります。
 縄文人は4000年にわたる半島の主人公だった
 半島も歴史時代に入るのですが、『図説 韓国の歴史』に次なる一文があります。
 『やがて時代は部族国家の成立へと向かう。その時代を古朝鮮と総称する。それは壇君(だんくん)朝鮮・箕子(きし)朝鮮・衛満(えいまん)朝鮮などが含まれるが、貴子朝鮮を省く見方もある。天孫の壇君が阿斯達(アサダル)に樹立した国家を壇君朝鮮または古朝鮮と呼ぶ。
 『三国遺事』によれば、時は紀元前2333年であったという。無論それは神話のことではあるが、韓国の歴史や文化を語る慣用句の〈5000年の輝ける歴史と文化〉の5000年とは、壇君朝鮮の建国日を起点としてものである』。
 前2333年を切り上げて『3000年』としたようですが、これは『歴史』ではなく『神話』です。『壇君神話』は高麗の高僧、一然(いつねん)が書いた私撰の史書『三国遺事』に載っている話しです。成立年代は、『記紀』成立から約550年も後の1280年頃、韓民族の正史『三国史記』の130年後です。『神話』が『正史』の後に完成したのは、正史の編著者、金富軾(きんふしょく)が『信憑性なし』として捨てた話しなどを寄せ集めたからです。
 それは概略次のような話です。
 『天帝・桓因(かんいん)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間社会に降り、桓雄の力で人間の女になった熊と交わって生まれたのが壇君王険(おうけん)です。壇君は朝鮮なる国を開き、阿斯達に都を建てましたが、中国の周の虎王(武王)が箕子に朝鮮を与えて支配を委ねたので、壇君は蔵唐京に移り、後に阿斯達に隠れ戻り山神になったと記されています』
 儒者である金富軾によれば、韓民族のプライドを毀損するこんな話を正史に載せられるはずがありません。庶子、つまり『妾の子が、獣と交わって生まれた雑種が自分たちの始祖だ』などという民族の恥を、正史に載せなかったのは当然です。
 では壇君朝鮮は実在したのでしょうか。
 『壇君の古朝鮮が実在したかどうかを巡って論争が続いてきたが、紀元前800年ごろに実在したという説が強くなっている。わたしは歴史的事実とするにはいま一つ考古学的裏付けが欲しいと思うが、信仰的事実として捉えている』、『さて阿斯達はどこか。その位置を巡る見解は多様である。かつての平壌界隈説は否定され、現在の中国の遼東半島山東半島付近に求める説が強い』。
 金両基教授が記すように、建国の地は半島ではなく、しかも『紀元前800年ごろに壇君朝鮮が実在した』ことさえ怪しいなら、韓民族の『歴史』は長くて3000年となります。すなわち、前1000年頃までは、韓半島の主人公は日本から移り住んだ縄文人とその子孫だった、となります。
 すると韓半島の歴史の始まりから、4000年にわたる主人公は確実に縄文人であったのですから、韓国人にとって、『縄文人の祖先の地・日本は、韓国人の祖先の地』となります。そして当然ながら、縄文人は私たちの祖先なのです。
 では最後の疑問、現代の日本人と韓国人は、Y染色体が大きく異なるもんのの、mtDNAは近い、その謎を解きたいと思います。
 縄文人の消滅から混血民族の誕生へ
 津田左右吉も述べていますが、日本の戦争は異民族の戦争ではありません。だが、大陸の戦いは異民族の戦いであり、『旧約聖書』にもあるように『征服された』も稀ではありません。
 最近では満州民族の滅亡があります。満州国が滅びた時、男は中国人によりほぼ殺し尽くされ、満州民族は国・文化もろとも抹殺されました。それは現在も進行中であり、中国に征服されたチベット東トルキスタンには、大量の中国人が流れ込み、かつて少数であった彼らは、今や多数を占めるに至っています。
 これをDNAから見れば、彼の地のY染色体構成は大きく変化したことを意味します。これが篠田氏の言う『O系統により周辺に追い遣られ』、『歴史時代を通じて、この差が生じた』現在の事例です。
 では韓半島の歴史はどうだろうか。縄文人がノホホンと暮らしていた半島に、前1000年頃、北方民族が侵入してきました。統一新羅の成立時に、縄文人の血を引く最後の国、百済任那(みまな)は滅んだのです。その時、『日本書紀』によると、倭人の男は殺され、あるいは逃げ帰り、倭人女性は勝利者により陵辱されたのです。戦い敗れた倭人は女性を守れなかった。このことが半島全土で起きたことは想像に難くありません。満州で起きた日本女性の悲劇も同じようなものでした。
 その後、高麗や李朝は北方民族の侵略を受け、波状的に国土を蹂躙(じゅうりん)され、モンゴル、明、清の属国となる過程で、多くの男たちが殺され、征服者は半島の女性と交わり、子孫を残していった。戦に敗れた韓民族の男はこの蛮行を阻止できませんでした。
 元帝国の版図の男性の8%がチンギス・ハンに由来する、なる研究もあるくらいですから、日本人と近かったはずの半島人Y染色体は、世代を重ねるごとに入れ替わり、現在の韓国人のY染色体のようになったと考える蓋然性(がいぜんせい)は十分にあります。半島の歴史が、Y染色体とmtDNAの相違の原因だったということです。
 おわりに
 縄文人は日本人と韓国人のルーツでした。歴史時代を通し、日本は異民族の侵略を跳ね返せたゆえ、縄文時代からのDNAを保持していると考えられます。しかし韓半島は異民族の侵略を受け、女性を守れず、男性のY染色体は北方民族に置換されたのです。彼らは『縄文人を母』に『北方民族を父』に持つ、ごく最近に誕生した混血民族、このことが最近の科学で明らかになったということです。
 同時に、科学的・論理的根拠のない、旧態依然たる『歴史学の常識』や『司馬史観』は見直しが迫られている、そう申せましょう」
   ・   ・   ・   
 古縄文人とは、台湾・沖縄を経て日本列島に渡って土着した南方系海洋民である。
 新縄文人とは、南方系海洋民と揚子江流域住民が混血し、原始的稲作農耕を持って日本列島に渡った人々である。
 縄文人は、古縄文人と新縄文人が混血した雑種である。
 寒冷地の東・北日本に移る住んだ縄文人は、温暖な西日本に比べて繁殖力が強く人口を増やした。
 人間に優劣は存在せず、たまたま、そこの自然環境に逆らわず順応し、住環境に適応しながら住んでいただけである。
   ・   ・   ・   
 倭人縄文人弥生人の混血民族)は一つの統一国家を建国せず、日本と朝鮮半島に広く住み、南の琉球・台湾や北は樺太・千島列島の先住民と交易していた。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は倭人弥生人縄文人の子孫として、自分の祖先を愛し、自分の祖先の歴史を大事にする。
 日本民族日本人は礼儀として、中華の中国史朝鮮史には敬意を払うが、歪曲され捏造された事実に反した記述は断固拒絶する。
 日本民族日本人であれば、祖先が生きてきた証としての歴史を命に代えても守るべきであり、意に反して強要される祖先を貶めるような嘘偽りの歴史は如何なる犠牲を払っても粉砕するべきである。
 ただし、日本国籍取得者日本人はそこまで日本民族日本人の歴史にこだわる必要はなく、自分や親が生まれ育った遠い祖国の歴史を大事にすべきである。
 もし、日本国籍取得者日本人が多数派になれば、少数派となった日本民族日本人の歴史を日本列島から消し去っても構わない。
 それが、人類史・大陸史・世界史の常識だからである。
 人類の歴史において、普遍的文明と絶対価値観が世界中に広まる過程で、数多くの弱小民族が持っていた独自の歴史、伝統、文化、宗教、言語、風習、習慣などが消滅した。
 日本は世界の最果てにあるローカルであって世界の中心にあるグローバルではない以上、何時かは消え去る運命にある。
 大いなるローカル日本民族日本人を消滅から救ってきたのは、輪郭がハッキリしたイデオロギーや宗教に基ずく「政体」ではなく、曖昧模糊として何とそこにある「国體」であった。
 国體は、日本民族日本人を中心とした歴史、伝統、文化、宗教、言語、風習、習慣など諸々の事である。
 日本国籍取得者日本人にとって国體は無縁で以上、日本のグローバルを目指すのならローカルは切り捨てるべきである。
 人口激減時代に於いても金儲けがしたければ、グローバルを目指して日本国籍取得者日本人を増やし、ローカルな日本民族日本人の歴史、伝統、文化、宗教、言語、風習、習慣全てをドブに流して消し去る事である。


   ・   ・   ・