🗾20〕─1─縄文人は、日本列島から朝鮮半島南部に移住して日本独自の土器や石器を持ち込んだ。水田稲作。日本産天然のアスファルト。6000年前。~No.89No.90No.91 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 縄文時代は1万年以上続き世界の奇跡と言われ、縄文文化は世界の文明論を覆すている。
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 ヴィーナス像とその信仰は、ヨーロッパの旧石器時代末に登場し、ゆっくりユーラシア大陸を移動しながら、新石器時代縄文時代)に日本に伝えられた。
 日本のヴィーナス像は、縄文土器の影響を受けて日本独自の表情豊かな土偶として完成した。
 その代表が、妊娠状態の奇妙なヴィーナス像である。
 日本の原始的信仰は、創造・創られるではなく、なる・生まれるであった。
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 朝鮮半島新石器時代は、日本の縄文時代から弥生時代にあたり、代表的な遺跡は可楽洞(カランドン)遺跡である。
 韓国・朝鮮史も人類史の一部である以上、壇君神話による民族史は真っ赤な嘘で、に渡ってきたモンゴロイドである。
 つまりは、アフリカ人の子孫にすぎない。
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 日本は山紫水明として、自然に逆らわず共存し、水の流れを妨げないように巧みに取り込み、水辺の空間で生活していた。
 縄文人は、水の民である。
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 巨石・奇石に精霊を認める磐座の信仰は、縄文時代から始まった。
 巨木に精霊が宿るとする御神木の信仰は、古墳時代までは遡れてもその前は不明であるが、何らかのつながりがあるはずだとも言われている。
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 6000年前から5000年前にかけて 日本独自の縄文式文化は、日本列島の気候風土に南方系要素とが融合して、朝鮮半島や中国大陸とは全く異なる高度な文化へと発展していた。
 その深層部にあるのが、南方系の自然循環神話であった。
 途切れる事なく永遠に繰り返される命の循環、魂の流動である。
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 6000年前 富山県。小竹貝塚の近くで人骨が発見された。
 貝殻のアルカリ性が土壌の酸性が中和された。
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 5200万年前 三内丸山遺跡縄文人は、農耕を基盤とせず狩猟採集のみで1200年間住みつき、栗の木を植林し育て鬱蒼たる人工的栗林の中に計画的土木工事で集落を造り、豊かな食生活を送っていた。
 食べる為に狩った動物は雄だけで、子を産む雌を狩る事はしなかった。
 縄文文化とは、自然を活用し共存する持続的文化であった。
 三内丸山遺跡から発掘された土器は4万個以上で、大半が調理道具として食べ物を煮炊きに使われていた。
 土器には文様がなく、煮炊きに使わない土器には装飾が施された。
 縄文土器の文様は、
 縄文人は、永らく狩猟採取を選択し農耕を拒否していた。
 三内丸山遺跡から、日本オリジナルで実用性の高い「弦で編んだ漆塗りのポシェット」が発掘された。
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 5000年前 気象の寒冷化で、広葉樹の森は後退して食べられる果実や山菜も減り、動物の数も激減した。
 食料豊かな山麓地帯に住んでいた縄文人達は、住み慣れた先祖からの土地を捨てて、温暖で食べ物が豊富な地方へ移住していった。
 寒冷地に残った縄文人達は、食べ物を得る為に焼き畑農業を始め、作物を得る為に自然を崇める宗教を始めた。
 食べ物が取れると知れ渡るや、食べ物を求めた縄文人弥生人達が移り住んだ。
 争わず棲み着いた移住者もいれば、奪い取った移住者もいた。
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 土偶は、願望や望みを託して祈る道具であり、達成できない事が達成できる事を願って割る道具であった。
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 5000年前 縄文時代。数多くの土偶が、日本各地で製作されていた。
 精霊信仰や地母神信仰の宗教儀式として、死者の埋葬儀礼用として、安産の祈願用として、その用途は多彩であった。
 土偶とは、大地の奧に宿っている精霊を呼び出し憑依させる神像である。
 何らかの目的として呼び出した精霊を役目が終われば、大地に返す為に土偶から精霊を抜く為に一部を壊して泥人形にして埋めた。
 役目を終えた土偶から精霊を抜かず放置すると、大地に帰れなかった精霊が悪霊・付喪神(つくも神)となって彷徨い人々に禍をもたらすと怖れた。
 表現力が富んだ完成度の高いな土偶は、八ヶ岳山麓から出土されている。
 八ヶ岳山麓からは良質な黒曜石が大量に出土し、そこに住んでいた縄文人は黒曜石を加工して周辺地域に供給していた。
 富と高度な加工技術によって文化が生まれ、国宝に指定される「縄文の美女」と「仮面の土偶」いう二つの土偶がつくられた。
 福島・会津からは合掌土偶など、各地で独特の形を持った土偶が発掘されていた。
 2015年 ロンドンのオークションで、日本の土偶が1億6,000万円で落札された。
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 5000年前 新石器時代の櫛文(くしもん)土器文化時代。韓半島に、この時代から人が住んでいたという遺跡が再び発掘している。
 約5000年間、韓半島では人が住んでいたという痕跡がなく、遺跡のない空白時代となっている。
 半島の空白な原始時代を埋める為に、半島人が住んでいたという新たな遺跡の発見が待たれる。
 金両基静岡県立大学教授)監修『図説 韓国の歴史』
 「半島人の直接の祖先は約4000年前にやって来た新石器時代人」
 「(東三洞貝塚の)2期と3期の層から日本の縄文時代の中・後期の土器が発見され、注目された。その頃、日本との交流があった事を裏付けられたからである」
 「櫛目文土器に混じって、九州の縄文土器片や西北九州型の釣針・黒曜石などが出土し、海峡を越えた交流を裏付けた」
 「金海水佳里貝塚 南部地方櫛目文土器中・後期の標準遺跡。特に、蛍光X線分析により出土遺跡中の黒曜石は九州腰岳産のものである事が判明」
 NHK出版『日本人はるかな旅 4』「最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていた事を示す痕跡が見つかっている。東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。そこに出土する縄文土器縄文人がやって来た確かな証拠品といえる」
 南方系海洋民である縄文人は、船を造り操船して海を自由に行き来し、海峡を渡り、対馬を経由して朝鮮半島南部に移り住んでいた。
 5000年前(〜4000年前) 井戸尻文化。長野・八ヶ岳南麓の縄文遺跡から数千点の蛇や蛙、人の顔などの土器や土偶が出土し、縄文人が高度な文化生活を送っていた事を示していた。
 縄文土器は、南は沖縄から北は北海道、さらには半島南部からも出土していた。
 DNA分析によると、沖縄人、本土人アイヌ人は遺伝子的に近縁性が強い。
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 2019年5月20日 産経WEST「【萌える日本史講座】大阪、縄文時代は海の底…遺跡は今も地下深く
 40年以上にわたって大阪府内の遺跡調査や縄文時代の研究を続けた府文化財調査事務所元所長の渡辺昌宏さん(65)が3月末に府教育庁を退職した。大阪は、世界文化遺産登録が確実視される百舌鳥(もず)・古市古墳群など古墳時代にスポットが当たりがちだが、縄文時代は現在の大阪平野が海底にあるなど全く異なる光景が広がっていた。渡辺氏は「縄文人は激変する自然環境に適応しながら豊かな文化を育んだ」と魅力を語る。   (小畑三秋)
 縄文後期に人口急増
 福島県郡山市出身の渡辺さんは、明治大で考古学を専攻、昭和51年に府教育委員会(現府教育庁)に入り、参事などを歴任。平成26年に定年退職したあと再任用で主任専門員を務めた。
 「気候も地形も大きく変わったのが縄文時代。遺跡がそれを物語っている」と指摘する。府内には約400カ所の縄文時代の遺跡があり、半分ほどが生駒山西麓の河内地域に集中する。現在の大阪平野の大部分は温暖化による「縄文海進」で海水が入り込んで「河内湾」が広がり、生駒山西麓以外は多くが海底だったためだ。
 大阪の縄文時代に転機が訪れたのは約4千年前の後期だ。約5千年前までは今の陸地のほとんどが海の中だったが、気候変動などの影響で海域が後退。日本列島の気温は数度下がり、アワなど雑穀の栽培に適した環境になり畑作も広がったという。近畿の人口も中期には2800人だったのが後期には4400人に急増したという推計もある。
 「この頃から土器の種類が多くなった」と渡辺さんはいう。それまで煮炊き用の鉢が中心だったが、皿や小型の壺、現在の急須(きゅうす)のような注口(ちゅうこう)土器が登場した。
 「最古の大阪市民」森の宮遺跡から
 「土器がバラエティーに富むようになったのは、食文化が豊かになったため。注口土器には神にささげる酒を入れたとも考えられる。子孫繁栄などを祈った土偶も増えた」と解説。生産活動や祭祀(さいし)を通じて集団内の結びつきが強まり、社会的変化が起きたという。
 大阪市中央区の森の宮遺跡では昭和40年代、厚さ2メートルもある貝塚や約20体分の人骨が出土。人骨は「最古の大阪市民」と、話題を集めた。とはいえ、大阪の縄文遺跡は、百舌鳥古墳群などと比べると注目を浴びることは多くない。
 その背景には、大規模な遺跡が見つかりにくいこともありそうだ。
 東大阪市の鬼虎(きとら)川遺跡などでは地下4メートル以上から縄文時代の地層が見つかった。「いくら掘っても縄文時代の地層にたどりつかないこともあった」と渡辺さん。
 「大阪の縄文遺跡は地下深くに埋まっていることも多く、これからも興味深い発掘があるのでは」と今後の調査に期待を寄せた。」
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 縄文人は、ダイヤモンドに近い強度を持つヒスイを加工して身に着けていた。
 ヒスイよりわずかに硬い石英の粉を木に付けてヒスイに穴を開けた。
 身に着けていたヒスイの飾りやピアスは、権威材であった。
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 4500年前 新潟県十日町市の笹山遺跡から日本最古の「縄文雪火焔土器」が発掘された。
 工業デザイナーのルイジ・コラーニは、「人類が作り出した最高の創造物」と評し、装飾性豊かで芸術性に優れていると絶賛した。
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 2017年11月29日 産経ニュース「4300年前の人の顔が描かれた石製品出土 全国初 北海道・木古内町
 北海道木古内町幸連5遺跡で見つかった人の顔が描かれた石製品。顔料で目(矢印)や眉とつながった鼻などが描かれている=29日午後、札幌市
 北海道埋蔵文化財センターは29日、木古内町幸連5遺跡の約4300年前(縄文時代中期後半)の竪穴住居跡から、顔料で人の顔が描かれた石製品が出土したと発表した。同センターによると、顔料で人体が描かれた土器はこれまで長野県富士見町で見つかっているが、顔料で人の顔が描かれた石製品は全国初。
 石製品は一辺12〜13センチの三角形の砂岩。瞳が描かれた目や、眉とつながった鼻などが、黒い顔料で表現されている。砥石で成形したような跡も確認できる。
 発掘調査は自動車専用道路の建設に先立ち、同センターが今年5月に開始。10月19日、竪穴住居跡の地中50センチほどの場所で見つかった。縄文文化に詳しい小林達雄国学院大名誉教授(考古学)は「縄文時代にはこのような写実的な絵はほとんどなく、非常に珍しい。三角形も類似のものより大きい。顔は命の象徴でもあり、縄文人はこの石製品に特別な意思を込めていたのではないか」と指摘した。」
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 4000年前 縄文時代後期。北海道や東北北部で、四角い石を円く積んだ環状列石(ストーンサークル)の遺跡が40以上発見され、その周囲から土器や石斧などが出土した。
 日本の環状列石遺跡は、埋葬や祭祀の場とされた。
 縄文人が信仰の対象とした霊山は、富士山のような左右対称の均整が取れた高い山であった。
 縄文人は、ヒスイで作られた「勾玉」を死者と一緒に埋葬した。
 勾玉は、自然のサイクルともいえる輪廻転生の象徴として、死んで生命力を失った霊魂が自然神の元で新たな生命力を得ての世に帰還する証しとした。
 自然と共に生きていた縄文人にとって、死と生は一方向ではなく、行ったり来たりできる双方向であった。
 (2018年3月中旬発掘)茨城県つくば市の上境旭台貝塚から、精巧な彫刻が入った大型容器など約40点の漆塗り木製品が出土した。
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 縄文時代。北海道から東日本の日本海側にある各地遺跡で、地表に滲み出したアスファルトを集め、加熱して精製あい純度を高め、関東や西日本と海路で交易した。
 北日本天然アスファルト、岩手のコハク、新潟のヒスイ、西南諸島の貝などの加工材料が、希少品として交易を行っていた。
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 4000年前 朝鮮半島南部煙台島で人骨が発見された。、煙台島人は、現代の韓国人・朝鮮人の祖先ではなく縄文人であった。
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 日本に伝えられた最も古いコメは、赤米であった。
 赤米の原産地は、朝鮮や中国・黄河流域ではなく雲南省で、漢族(中国人)ではなく非漢族の苗(ミャオ)族などの少数民族であった。
 栽培されていた赤米は、揚子江を下って東に向かったのが冷夏に強いインディ系統で、西や南に広がったのがジャポニカ系統であった。
 最初に稲を栽培しコメを主食にしたのは、日本人ではなく、中国人でもなく、朝鮮人でもなく、山間僻地に住んでいた少数民族であった。 
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 3800年前〜3500年前 さいたま市の大木戸遺跡から、100点を超える漆塗り木製品が出土し、少し離れた低地部の水辺の跡から多数の植物製品が出土した。
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 約3600年前 海から20キロ以上離れていたさいたま市真福寺貝塚から製塩を行ったとみられる痕跡が見つかった。
 真福寺遺跡では、約4200年前〜約1400年前まで縄文人が住んでいて、ミミズク土偶や漆塗りの木製品などが多数出土し、それらの品々は全国の集落と交易していた証しである、とされている。
 阿部芳郎「小規模集落ごとの分業化が進む中で、地域の中核として発展していたのでは」
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 紀元前3600年頃から紀元前1500年 富士山は噴火を繰り返し、現代の「新期富士火山」が生まれた。
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 2018年5月10日 産経ニュース「東日本系「異形土器」が島根・出雲で出土、窓のような部分持つ…縄文後期「出雲平野のイメージ覆す」
 京田遺跡から出土した異形土器片
 窓のような部分を持つとみられる変わった形の土器の破片が、島根県出雲市の京田(きょうでん)遺跡からみつかり、同市の出雲弥生の森博物館で公開されている。主に東日本で出土するタイプの特殊な土器とみられ、山陰地方で見つかったのは初めて。
 この土器は、窓のような部分を持ち、「隆線文」と呼ばれる文様が曲線的に施され、表面には水銀朱が塗られている。さらに、人為的に掘った穴に土器を壊して埋め、その上に石を置く「配石土坑(どこう)」で見つかったことから、調査に当たった同市文化財課は祭祀(さいし)の場で使われた「異形土器」の一種と推定。東日本で、中心的な役割を持つ集落から出土することがあるという。
 京田遺跡は、縄文時代後期(約3500年前)の集落跡で、同課が平成28年度に約250平方メートルを調査。東日本系の異形土器片をはじめ、九州系の土器「西平(にしびら)式土器」とみられる土器片やお守りのような土器、水銀朱をすり潰した「磨石(すりいし)」など特殊な出土品が多数見つかった。
 発掘を担当した幡中光輔主事は「弥生時代古墳時代に比べ、縄文時代の発掘例が乏しかった出雲平野のイメージを覆す発見。京田遺跡一帯は、東日本や九州など遠方とも交流を持ち、文化的に豊かなエリアだったと考えられる」と話している。これらの出土品を紹介する「京田遺跡発掘調査成果速報展」は14日まで。」
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 2019年5月28日 産経新聞北方領土に竪穴住居跡 100軒発見「奇跡的」
 北方領土国後島を24~27日の日程で訪れていた学術交流訪問団が27日、同島で続縄文時代の竪穴住居跡約100軒を見つけたと発表した。古いもので約2300年前のものという。訪問団の団長で北海道博物館の右代啓視研究部長は「これまでの調査でこれだけ多くの遺跡が見つかるのは初めてで、奇跡的」と話した。
 学術交流事業には、道内の博物館や資料館の学芸員らが参加した。竪穴住居は深いもので1・5メートルで、形状からほとんどを続縄文時代のものと推定した。かつては海だった場所に砂丘ができ、そこに竪穴住居の集落が形成されたとみている。
 また島内では他に、17~18世紀のものとみられるアイヌ民族のとりで「チャシ」も数カ所見つかった。周辺にはアイヌの集落「アイヌコタン」があったと考えられるという。」
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 約3000年前から紀元前10世紀、縄文時代晩期に、日本で水稲栽培が始まった。
 中原地方の大陸民が、畑作小麦農耕と最新の水田稲作農耕を持って朝鮮半島を経由して日本列島に渡来した。
 揚子江流域を発した水田稲作技術を持った南方系海洋民は、倭族となって山東半島から朝鮮半島南部を経由して対馬に移り、そして九州北部に上陸して弥生人となった。
 対馬南部の豆酘(つつ)村には、龍良(たてら)山を神体山とする海神(海蛇)信仰と米を神に捧げる稲米儀礼を合わせた最古の神道的祭りが伝えられている。
 龍良山の奧、島の中程にある阿連(あれ)の村に、西海岸近くに雷命を祀る八龍(はちりゅう)神社ありその東の山中に太陽を祀る日照神社が鎮座している。
 対馬と日本は、赤米伝承神話によって結ばれていた。
 紀元前9世紀 縄文人達は、水田稲作用の灌漑を行う為に人々の力を結束する必要がって集団を形成した。
 ムラの誕生である。 
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 3000年前 半島から、酒に弱い遺伝子を持った弥生人の祖先が移住してきた。
 酒に弱い日本人体質は、弥生人によるものである。
 半島から農耕系海洋民と草原系大陸民の混血である倭人が、日本に移り始め、大陸風弥生式生活様式を伝えた。
 稲作・漁労・山野採種の多様性で成り立っていた縄文式階層社会に、弥生式階級社会が持ち込まれ新たな国が各地に誕生した。
 弥生式階級国家は、稲作農耕地を拡げるという領地所有欲が強かった為に隣国との戦争を引き起こした。
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 縄文人は瞳の色が青色であったが、弥生人は東アジアで共通の茶色であった。
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 日本は、紀元前3〜4世紀の縄文時代末期には青銅と鉄器を使って稲作を行っていたといわれている。
 小規模の製鉄が行われ始めたのは、1世紀中頃〜3世紀初めとされている。
 つまり、稲も鉄も朝鮮からではなく南方から持ち込まれたのである。
 黄河文明圏の騎馬農耕民族である漢族は、幾つかの専制君主国家を建国して群雄割拠し、支配欲から戦争を繰り返して揚子江流域に勢力を拡大してきた。
 揚子江文明圏の水田稲作民族は、北方漢族の圧倒的武力に征服され支配されたが、一部は散り散りバラバラに奥地へ逃げて少数民族となった生き延びた。
 南方系海洋民は、水田稲作民族と物々交換しながら平等に生活していたが、余剰生産物から貢納を命ずる漢族の専制的国家を嫌って海へと逃亡した。
 海洋民の社会構造は、陸上生活者のトップ・ダウンによる上下関係ではなく、海上生活者のボトム・アップによる横の繋がりを大事にしていた。
 船の上で頼れるのは、血のつながった家族ではなく、横に立っている他人であった。
 海を渡る海洋民では、暴力的に群れ・船団を束ねる絶対的ボスは存在せず、航海や上陸、漁業や農業などその場その場に応じた能力を持つ者が水先案内的なリーダーとなっていた。
 海洋民と陸地民との心性は、異なる。
 陸上の戦いは負ければ一目散に逃げれば助かるが、海上の戦いは負ければ船が沈没して誰も助からない。
 だからといって、海洋民が平和的で戦いを嫌う事はなく、殺し合いをする時は殲滅戦を行う。
 ゆえに、陸地民は積極的で、海洋民は消極的になる。
 日本特有の「場の空気」とは、運命共同体、一蓮托生、といった同じ船に乗り合わせた者達が感じ取っていた独特の感覚である。
 海洋民は、日本列島に渡り、似たような価値観を持つ海洋民系縄文人の間に入り込む、争う事なく、同居して、雑婚しながら同化していった。
 海洋民は、中国人でもなければ朝鮮人でもなく、日本人の祖先の一部であっても日本人そのものでもない。
 この時代に日本列島にいたのは縄文人と海洋民であって、島国・日本人ではない。
 日本列島から、北は寒冷で温暖な南方から来た海洋民には生活できなかったし、東は島がない大海原であった。
 海洋民は、海の上で急変する天候に素早く適応しなければならなず、船上で周囲にある物を利用して創意工夫で対応しなければならず、幾日も幾日も同じ海を見ながら変化のない状態に順応しなければ、生きて行けない。
 海洋民と陸地民の生き方は、自ずから異なる。
 海洋民が海を渡る手段は二つあって、一つが海流であり、もう一つが渡り鳥である。
 人の移動の基本は、陸及び島は東西で、海は南北である。
 何もない海原を旅をして最初に目に入るのが、陸地の山である。
 縄文人も海洋民も、立ち現れる山を霊力が満ち溢れた聖地として崇めていた。
 縄文人は、長い陸地生活から、漁業の他に、獣の狩猟と木の実や山菜の採集で暮らしていた。
 海洋民は、最新の水田稲作農法と自然霊力を制御する宗教儀式を縄文人に伝えた。
 山を自然霊力の源泉地とする、原始神道が生まれた。
 日本独自の原始的アミニズム(自然宗教)とは、三元論的に、山・川・海、森・平地・浜辺という地形を神聖視し、光・緑・水の自然霊力との一体感に陶酔する事であった。
 自然霊力は、山から里に下りてきて大地を豊かにし、水田に命を与え、稲穂となって実りをもたらすと考えていた。
 恵みを与える役目を終えた自然霊力は山に昇り、来年また新たな自然霊力を得て里に下りてくる。
 それは、日本の四季から編み出された自然哲学である。
 自然霊力は命の糧としての恵みを授けてくれるが、過剰になると災害や疫病を引き起こすと恐れた。
 恵みと災いもたらす自然霊力を制御する為に、銅鐸と剣による宗教儀式を行った。
 自然霊力には、恵みを与える和魂と災難をもたらす荒魂の二面性があると考えていた。
 剣を振るって、過剰になって荒れ狂う荒魂の自然霊力を切り払い、過剰な霊力を外に追い出して鎮めて和魂に変え。
 例えれば、盆栽である。
 銅鐸を打ち鳴らし、均一な音リズムで乱れた荒魂の自然霊力を穏やかの和魂に整えた。
 例えれば、泣きぐずる赤児をあやす事である。
 後年に至ると、銅鐸以外に笛と舞いが加わった。
 原始神道とは、世界的普遍宗教の二元論的な自然を征服して従わせるのではなく、日本独自の民族宗教の三元論的な自然を受け入れて一体になる事であった。
 自然と一体となるという三元論の自然哲学が崩壊した時、異質なモノと折り合いを付けて相互に補完共生する多様性豊かな神道も消滅する。
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 5世紀頃 オホーツク文化を持った人々が、シベリアからサハリンを南下して日本に渡来し、縄文人と雑婚を重ねて混血児を生み、雑種の日本人を作った。
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 日本人で純血種は存在せず、全てが混血による雑種である。
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 イネの「イ」は命で「ネ」は根っこと言う事で、イネとは命の元と言う事である。
 ゆえに。「イネ」には魂が有り、「稲魂」ともいう。
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 東南アジアに住んでいた人間は航海術に長けた海人として、ミクロネシアポリネシアへと海洋を渡っていった。
 その一部が、台湾から揚子江流域・沖縄に辿り着き、さらに島伝いに北上して日本列島に上陸した。
 海図もなく海洋を旅する海人にとって、何もない大海原で忽然と「あらわれる」島の山に生きる感動をもたらしていた。
 死の恐怖を感じながら航海していた海人にとって、緑に覆われた山のその奥に隠れるように聳え立つ巨木や鎮座する大岩に秘めた聖なる力を感じ、生きて出会えた事に理屈や観念を通り越して純朴に神を見出し信仰の対象とした。
 神聖な力を感じる緑の山の中では、絶えず生きる為に必要な水と食べ物が生まれていた。
 聖なる山の下には、漁に適した入り江と居住するに快適な平地が広がっていた。
 海人は、生きて陸地に辿り着く為に山と大蛇と雷を信仰していた。
 後から上陸した海人達は、神聖な山を求めて海岸伝いに移動して定着し、自立した部族を形成した。
 海人は、稲作を持ち込んだが、土地柄に合わせて多様な生活と多種な生産を行った。
 海人部族の集落は、海岸沿いにそして河川沿い広がり、権威による上下関係ではなく平等な資格での水平的な関係でつながっていた。
 海人部落は、戦争を避ける為にお互いの生活様式や神話や儀式を尊重し、生産した物を持ち寄って公平に交換した。
 活発に交易を行うと共に、嫁や婿のやり取りも行った。
 時には。取引上の行き違いで争いを起こしたり感情のもつれから喧嘩をして怪我人を出しても、相手を殺し尽くす様な最悪な事態を避けて、曖昧に取り繕って和解して友情を深めた。
 島国の海人社会には、大陸の農耕民社会とは全く異なる社会哲学として、争わず疎遠にならないちょうど適当ないい加減での距離を保つという「世間の空気」が存在していた。
 上手に距離を保つ秘訣は、排他で不寛容な絶対的価値観を持たず、多種多様な相対的価値観をお互いに持つ事であった。
 お互いの宗教や神話を尊重して踏み込まず、お互いの聖域を否定せず認め合い、彼我の神の優劣を付けず曖昧に放置する事であった。
 それは。相手を無視して無関心に突き放すとは正反対に、相手を深く理解する事であった。
 海に漁に出れば運悪く遭難して死ぬ事もある為に、双系として母系も父系も平等に重んじ、純血や混血に拘らず部族内はおろか部族外の結婚も認めていた。
 海人社会は大陸人社会とは根本的に違う原理で存在し、海人の船は大陸人の船とは違い命令系統で航海していた。
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 海の彼方から渡って来た海人こと「賓・まろうど」と列島に古くから住んでいた縄文人は、祖先を辿れば同じ南方系である。
 海人と縄文系海洋民の共通は海の生活者としての漁業であったが、違いは、縄文系海洋民は陸で狩猟採取と根菜栽培を行い、海人は水田による陸稲を行っていた。
 両者は、三元論的価値観に基ずく世界観、宗教観、死生観が似通っていた為に、相手に配慮しながら好奇心で相手をよく理解しようとし、抵抗なく一緒に暮らして自然と同化して縄文人となった。
 両者の出会いで地域社会は広がり、仕事の分担がハッキリして職業が生まれ、貧富の差も目立ち初め、人間関係が徐々に変化して上下関係が形成し始めた。
 宗教も体系化に向かって発展し、政治との結びつくで重要な地位を獲得し始めた。
 生活の多様化に伴って、地域社会は次第に複雑化していった。
 海に生きる自由人である縄文系海洋民も海人も、他人から硬直した一つの絶対原理を押し付けられ事を嫌って中華世界の二元論的国家を形勢しなかった。
 好奇心旺盛な縄文人は、海人が海の向こうから持って来る新しい知識や技術を積極的に吸収し、役に立ちそうなのは取り入れて利用し、役に立たないものは捨てた。
 縄文人は、長く一ヵ所の狭いムラで暮らす隣近所としての調和を乱さない為、相手の価値観を否定して自分の価値観を押し付ける事を避けた。
 原初から日本列島は、曖昧な空気に支配されていた。
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 養老孟司「日本人というのは外交にせよ、基本的に『反応』しかしないんです。『空気を読む』という言葉のように、自分から主体的に何かを提示するんじゃなく、その場の状況や起こった事に反応して動く。逆に、自分から動こうとすると損をする社会、出る杭は打たれる。
 それに加えて面白い事に、日本社会の本音というのは常に、だいたい五分五分に落ち着くんですよ。自然とね。社会的な問題が起こった時に、賛成派と反対派が半々になる。僕は『内部の安全平衡』と呼んでいるんだけど、日本の場合、社会が安全平衡点に到達するのがすごく早い」
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 海人は、非定住者として、土地に拘る農耕民とは事なり土地への執着心はなく、何処にでも移動する自由人として己が才能と技能に頼って漂白する根無し草的民であった。
 海人部落は、たまたまそこに上陸して腰を下ろした仮の宿で、生涯をそこで送るという定住地ではなかった。
 海人は、土地にしがみついて生きる事に興味がなく、たまたまそうしたまでで、気分が変われば何時でもその土地を放棄すして立ち去った。
 そうした勝手気ままな非定住者の海人気質は、西洋の近代的私有財産制に基ずく土地所有権が認められた明治中期で完全消滅した。
 地価高騰で金儲けができるという歪な土地神話・土地信仰が、土地に関心がなく伸びやかに物事に拘らない日本人の大らかさを卑猥に変質させ、目先の欲得で才覚と技能で独り立ちしようという自立心を蝕んだ。
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 環太平洋の海人古層文化には、ヘビ・山・雷の存在を一体化させる信仰が存在する。
 ヘビは、地中奥深くに隠された神秘なエネルギーと深く結びつき、躍動し、立ち上がる時、隠されたエネルギーが地上に放出されて現実世界に活力を与え形作る。
 雷は、天界に充満している神聖なエネルギーを雨と共に地上に落とし、全ての生物に命を与える。
 山は、立ち上がるヘビと落下してくる雷が垂直に交わり、天と地のエネルギーがぶつかり渦巻く聖なる場所であった。
 俗にまみれた人は、聖なる場所に気安く立ち入らないように厳しく禁止した。
 エネルギーが充満する山は、大海原に忽然と「あらわれ」ていた。
 海人は、この垂直的神聖世界を思考しながら世俗的現実世界を認識して、海原を航海していた。
 環太平洋の古層文化は同じ逸話を土台に、祖先の航海記録と辿り着いた島嶼ごとの自然環境によって多様に変化し、山の中の巨木や巨石を信仰の対象とした。
 そこには、善と悪、正と邪、生と死、上と下、右と左、前と後、といった二元論的な対立は存在しない。
 環太平洋の神話は、原初の混沌から世界の奥に隠されていた神聖なエネルギーが聖なる場所に泉の如く湧き上がってくる物語である。
 民族神話は、人類最古の哲学であり、人生の指南書であると言われている。
 日本神話は、唯一、民族国家の核として生きて輝きを放っている最古の神話と言われている。
 世界中に点在していた古層文化の原初神話は、現代の不寛容な二元論で大半が失われた。
 同時に、原初神話を語っていた固有言語も消滅した。
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 日本人は山信仰を持ち、山は、神々が住む聖地、祖先の霊が集う場所、天狗などのあやかしが跋扈する異界と怖れた。
 山への怖れゆえに、山は木こりやマタギや修験者など穢れを持った人間だけが踏み込む異界とされ、女や子供を守る為に入山を禁止した。
 こうして、日本各地に女人禁制の聖地が多数作られたが、それは女性蔑視ではなく、女性を魑魅魍魎から守ろうとしたがゆえである。
 こうした女性保護は、日本特有の宗教観によるもので世界では理解されない。
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 フロイド・ロス「物質と精神は、マルクス主義によって引き裂かれ、人間の精神は物質の奴隷となった。主体と環境は実在主義によって引き裂かれ、環境は主体の奴隷となった。科学技術と人間は近代科学によって引き裂かれ、人間疎外を生じた」(『神道』)
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 ブルーノ・タウト「(伊勢神宮は)日本的形態の偉大なる神秘を、その世界に独?の力を、そのなかに蔵する貴重なる結晶体にして初めて現し得る高貴さである」
 「(伊勢神宮とは)日本が世界に贈った全てのものの厳選、日本の全く独自な文化の鍵、全世界の讃嘆措く能わざる、完全なる形式を備えた日本の根源」
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 ケインズ「芸術や農業、あるいは伝統を生み出し、維持する余裕のない国は、生存する余裕のない国だ」
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 架空の天皇神話に生きる日本は、稲作による農業を国の本と定め、自然の一部として生きる運命共同体社会を形成した。人々は、神々の助けを得て、神々と共に泥に塗れ汗水たらして農産物を生産する重労働を美徳とした。
 労働集約型社会とは、全員参加がとの社会であり、階級・身分の拘束力は弱かった。
 現実に生きる合理主義の大陸は、家畜の様に地に這いつくばる過度な労働集約型農業社会を嫌悪し、狩猟などの娯楽を楽しめる牧歌な理想社会を人工に建設した。こうして、労働の少ない資本投資型農業が世界の主流となった。
 全てを独占する少数の支配者・上流階級と搾取される多数の被支配者・下層階級という、超える事の出来ない、排他的な二極化社会が大陸で生み出された。 
 大陸諸国は、例外なく、宗教的に「農耕を神の罰」と軽蔑していた。
 高レベルの教養を持った上流階級は、汚らしく泥に塗れた農作業を奴隷や下層階級に押し付け、収穫を搾取してゴージャスな生活を満喫していた。
 そのゴージャスな生活を維持する為に、広大な農地と大量の奴隷を確保する必要から侵略戦争を繰り返していた。同時に、洗練された高度な文明が世界各地にもたらされた。
 キケロ「汝は生きる為に食うべきで、食う為に生きるべきでない」
 キリスト教は、砂漠の遊牧民族ユダヤ人の民族宗教ユダヤ教から生まれた為に、「人はパンのみにて生くる者ににあらず」として非労働の信仰を優先した。 
 ユダヤ教は、絶対神から与えられた特権として「営利欲求」を肯定していた。異教徒に高額の利子で金を貸し、返済なくば相手の全ての財産を容赦なく奪った。
 ユダヤ人の富裕者は、異教徒の男女を奴隷として所有し、彼等に羊や山羊の管理と農作業の生産を命じ、利益を独占して使い切れない資産を蓄積した。
 ユダヤ人は、手に入れた資産では満足できず、さらに多くの資産を他人よりも先に増やす事に知恵を絞った。資産を増やして成功するのが、ユダヤ人の叡智である。
 佐藤唯行「ユダヤ教では、人間の営利欲求は神が創り出したよきものと考えたのです」(『雑学 日本人が知らない!ユダヤ人の秘密』P.138 PHP研究所)
 ゆえに、イエス・キリストは利益至上主義のユダヤ人金貸しを罵倒した。


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