🎍28〕─1─聖武天皇は、日本を仏教国家にする為の宗教改革を行った。行基と東大寺の大仏。神仏混合の始まり。723年~No.87No.88No.89 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国を中心とした中華世界は、何れの国も王朝の変わり目に易姓革命が起き、旧勢力に対する大虐殺が起きていた。
 中華世界は、大虐殺・大殺戮で新しい時代が訪れ、大流血と屍体の山から新たな活力が生まれ、進歩発展した。
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 葉室麟奈良時代は女帝で幕を開ける。元明天皇です。その後を元正天皇が継ぐ。やがて聖武天皇が登場しますが、その横に光明子(こうみょうし)という存在感ある皇后がいた。それから、その娘の孝謙(称徳)天皇になる。一般には藤原不比等のような男の政治家がいて、これらの女帝は傀儡だったと見做されているが、本当にそうなのか。正倉院光明子の筆になる『楽毅論(がっきろん)』が残っており、その筆勢はとても雄渾(ゆうこん)。彼女たちは強固な意志と政治意識を持っていたと思います。
 国家の形成過程において、わが国は〝祈る人〟としての天皇を中心に据えた。そう考えると、女帝の出現は自然なことに思えます。光明皇后は、民たちから畏(おそ)れられ
る対象ではなく、優しく慕われる存在だったのです」
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 仏教は、日本の死後と精神の世界を法力で支配し、鎮護国家の祈祷を神道にかわって行った。
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 猫が、日本は輸入されたのは奈良時代であった。
 猫の輸入は、仏教の経典をかじるネズミを駆逐する為であったが、後に愛玩動物として可愛がられて日本全国に広がった。
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 百済高句麗系両帰化人は、日本化する事によって多数派となった。
 新羅系渡来人は、日本化を拒否する事で日本国内の少数民族として天皇と日本に叛旗を翻していた。
 ヤマト王朝は、日本を分裂国家として崩壊させない為に、日本とは縁を切って独立を求める少数派を討伐した。
 少数民族は、独立を認めてくれればヤマト王朝との戦争を望んではいなかった。
 少数派への戦争を仕掛け、彼等の国に侵略したのは、ヤマト王朝であった。
 少数民族は平和的であり、ヤマト王朝は攻撃的であった。
 ヤマト王朝が、寛容に、少数民族の自主独立を認め別の国である事を承認し、列島に於ける複数国家との共存の道を選べば戦争は起きなかった。
 その意味に於いて、ヤマト朝廷を中心とした国を創った日本民族は排他的で好戦的な民族と言える。
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 祭祀王・天皇は、自然災害や疫病が発生して多くの庶民が犠牲になるや、詔を発して「自分に徳がなかった為にこうした事が起きた」と庶民に謝罪した。
 儒教中華思想は、徳を失い天に見放された君主は排除して、天に認められた徳のある君主に還る事が正道であると説いている。それが、易姓革命である。
 中国や朝鮮では易姓革命が度々起きていたが、日本では起きなかった。
 歴代天皇は、戦乱や災害や疫病で苦しむ臣下を、自らの手で直に救う事ができない無力を自覚していた。
 中華思想の実体のない観念的な正義や理想ではなく、自然という現実に即した生き方を示し導く為に詔を発した。
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 律令制の下で虐げられた民衆を救ったのは、仏教僧の行基であった。
 行基は、豪族らから布施を集め、行き倒れの役夫や運搬夫、災害で田畑を失って被災者や浮浪者を救い小屋に引き取り、粥を施した。
 そうした困窮民を集め、罪業と福徳の因果と大陸から伝わった各種技術を教え、農業用のため池と溝を掘り、河川の堤を築き、人と物の往来の為に橋を架け道を建設した。
 自分の欲得の為のみで悪行をなした者は地獄に落ち、世の為人の為に善行を積んだ者は大乗の菩薩となる。「菩薩行=他利行」
 行基の教えは、自分一人が堂に籠り経典・仏典に向かって読経して悟りを開くものではなく、他の生きとし生きる一切の救済を願い修業する事で悟りを開くというものであった。
 「自他共に仏道を成就して菩薩の境地にいたる」という教えは、唐・大慈恩寺の三蔵法師玄奘から日本の道招に直伝された「弥勒菩薩の教え(唯識論)」であった。
 道招は、帰国したが説法と禅譲だけの官立寺院に疑問を抱き、弟子を連れ全国を巡礼して他利行を実践した後に官寺・法興寺飛鳥寺)の禅院に落ち着いた。
 行基は、道招の弟子となって薫陶を受け、官寺を出て山野で荒行を行い、奉仕と布教活動を始めた。
 行基の教えを最初に受け入れたのは、愛欲・煩悩の塊として仏に救済されないと切り捨てられていた女性達であった。
 行基は、誤解を招かないように僧院と尼院を併設した。
 日本仏教は、独創性のない模倣された朝鮮仏教を捨て、儒教道教の影響を受けた中国仏教に飽きたらず、天竺の仏教真髄に一歩でも近づこうとしていた。
 自分はもとより祖先の極楽往生を願い、祖先や死者が地獄に落ちないように供養し追善の法要を行った。
 豪華絢爛とした豪壮な寺院の中で、世俗を離れ、庶民の惨苦から目を逸らし、真理を究める為に経典や仏典を読み、思索に専念する、逃避的修行を良しとしなかった。
 自分の為に富を求める事を嫌い、他人の為に汗を流し泥に塗れる重労働を好み、利他の菩薩行を実践した。
 官立寺院の権威をひけらかす僧侶は、奉仕と布教によって行基が信者が数千から数万人に膨れ上がったことに恐怖した。
 勝浦令子(東京女子大学教授)「行基に帰依した女性の中には、行基から受戒したとも伝えられる光明子がおり、光明子国分寺国分尼寺を併設させた事に、行基集団の尼院併設の影響を考える説もあります。そしてまた光明子の帰依が行基集団に与えた影響も大きかった」
 723年 朝廷は、租税を増やす為に、新たに溝を掘って開墾した者には三世にわたり、古い溝を利用して開墾したもには一世に限り、墾田の私有を認めるという「三世一身法」を定めた。 
 地方の豪族や大規模農家は、さらに農地を広める為に行基に工事を依頼して寄進を増やした。
 朝廷の官僚は、地方の豪族が財を増やして行く事は中央の権力が脅かされると恐れた。
 官僚と官立寺院は、私度(官許を得ない私的な出家)で信者を増やす行基教団を危険分子と見なし、718年の僧尼令を根拠にして弾圧した。
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 藤原氏は、古代からの名門豪族や富を持つ有力豪族でもなく、関東・常陸鹿島神宮に所縁のある中小豪族と言われている。
 新しい時代に相応しい権力者が、地方出身の中流以下の階級から誕生した。
 古い時代に固執する上流階級は、新しい時代の潮流が理解できず取り残され、権力の地位から追放されて没落していった。
 古い歴史を持つ名門・名家とは、時代に取り残された豪族達であり、由緒正しいという誇りはあっても、権力も権威も無縁であった。
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 723年 藤原不比等は、日本の政治・経済・文化を唐王朝に倣って国際化する一環として、度量衡(尺・升・秤)を国際基準に合わせるべく秦の始皇帝が定めた度量衡を導入した。
 724年 首皇子は即位して、第45代聖武天皇となる。
 3月25日 奥州の反乱。
 725年1月17日 聖武天皇は、天災を除く為に僧600人を請して宮中にて大般若経を読誦させた。 
 9月23日 聖武天皇は、天変地異が起きるのは自分に徳が少ないからとの自責の念から、3,000人を出家させ、災害を除くべく7日間の転経させた。 
 727年 渤海国の第二代大武芸王は、唐と新羅に対抗する為に、日本に使者を送った。
 渤海使節団の船は、日本海の荒波で遭難して出羽国に漂着した。
 出羽の蝦夷は、使節団を襲って正使の郄仁義ら16名を殺害した。
 生き残った郄斎徳ら8名は、助けられて平城京に送られて聖武天皇に拝謁して使命を果たした。
 日本は、親日派高句麗が滅んで味方を失ったが、新国家の渤海国親日派として使者を送ってきた事を喜んだ。
 渤海国使節団の船は、日本海の荒波で破損する事が多かった為に、日本側は友好の証しとして船を作って無事に帰国できるように取りはからった。
 日本は、財政に負担となっても、唯一の親日国家渤海国を大事に持て成していた。
 渤海国は、統一新羅に対抗する為に唐の臣下の礼をとり属国となった。
 唐は、渤海国を帝国領・中国領の一部と見なし、渤海王を独立した国王ではなく地方官の「渤海郡王」に封じた。
 東アジアで、唐・中国に臣下の礼をとって朝貢しないのは日本一国となった。
 2月 聖武天皇の詔「このころ、天の咎の徴がしきりに現れ、災いの気が止まらない。聞くところによれば、時の政が道理にそむき、民の心が憂え、怨むようになると、天地の神々は咎めを告げ、鬼神は異常を表すという。朕が民に徳を施すこと少なく、なお怠っているということだろう」
 728年 日本は、渤海に使者を送った。
 渤海国は、親日国家として、唐と新羅に対抗するべく日本と軍事同盟近い国交を結んだ。
 後年。渤海を利用して、遣唐留学僧を送った。
 9月23日 皇太子(基王)が薨去し、那富山に葬られた。
 729年2月12日 長屋王の変左大臣長屋王は、濡れ衣を着せられて妻・吉備内親王に自殺に追い込まれた。
 藤原氏から嫁いだ娘とその子は助けられたが、残りは全て殺された。
 8月5日 聖武天皇は、亀瑞により神亀6年を改め天平元年とした。
 8月10日 聖武天皇は、内親王天皇の姉妹か皇女)でなければ皇后になれないという大宝律令の定めを破り、臣下の出である正三位藤原夫人を皇后に立てた。光明皇后の誕生である。
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 730年 新羅は、唐との国境問題が解決した事に伴い、日本への朝貢使派遣を取り止めた。
 これ以降。新羅は、進物を中国などから取り寄せた高価な物「調」から、国内で獲れたとれ価値の低い物産「土毛」に改めた。
 日本は、名誉を踏みにじる無神経な新羅の豹変に激怒して、土毛の受け取りを拒否した。
 新羅は、日本と対抗する為に、唐に臣下の礼をとって朝貢を行った。
 朝鮮の伝統的外交は、日本と中国を天秤棒にかけてより利益がある方に乗っていた。
 朝鮮人は、日本人をくだらない輩と軽蔑し、自分達よりも無能者として差別し、中国に対抗す為に日本との攻守同盟を望んではいなかった。
 日本と新羅は、唐王朝内の席次をめぐって熾烈に争っていた。
 4月17日 光明皇后は、皇后宮職に疫病に苦しむ病人を助ける施薬院や貧者・孤児を収容する悲田院を設けて、慈善活動を行った。
 長屋王一家滅亡など藤原氏が行ってきた罪業に対する懺悔から、正しい方法で懺悔すれば罪障が総て消滅して救われると説く「金光明最勝王経」が受け入れられた。
 金光明最勝王経「もし国中にこの経を講じて読誦し、恭敬して流通させる王がいれば、我ら4天王が来たりて擁護し、一切の災厄と悪疫を消滅させ、人々の願いを叶え歓喜を生じせしめるであろう」
 光明皇后は、三十一品(章)の内の第十五品「大弁財天女品」を篤く恭敬し、経典が教える様式や儀式に従い施薬院悲田院を設置して病人や貧民に慈愛の手を差し伸ばした。
 光明皇后「我背子(わがせこ)と二人見せばいくばくか このふる雪のうれしからまし」『万葉集
 4月28日 光明皇后は、興福寺内に五重塔一基を造立した。
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 731年9月 聖武天皇「今年は天地の祝いを受け、豊作で穀物が大いに実り、朕はまことに嬉しく思う。天下の人々とこの慶びを共にしたいので、京及び諸国の田租の半分を免除せよ。但し淡路・讃岐・壱岐などの国の租と、天平元年以前の出挙(すいこ)で未納となっている稲は、悉(ことごと)く免除する」
 聖武天皇は、豊作になった事を喜んで租税を大幅に免じた。
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 732年7月5日 諸国を大干魃が襲って飢餓が広がり、京の都大路に難民が流れ込み餓死者や病死者が溢れた。
 光明皇后の施薬院悲田院は、彼らを救うべく積極的に活動した。
 聖武天皇は、旱魃解消するべく諸国の主だった寺院に雨乞いを祈らせた。
 詔「春から夏に至るまで雨が降らず、川の水は減り、五穀はややしぼんだ。まことに朕の不徳による。百姓に何の罪があって、このような作物が萎える事が起きようか。諸国に命じて、天神地祇と山川に、国々の長官自ら幣帛を奉らせよ」
 歴代天皇は、天変地異による凶作や疫病を自分の不徳のせいで、恵みを与えてくれるはずの神が鬼神となって怒っていると自戒して、神々の怒りを静めてもらう為に祈った。
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 733年 高句麗帰化人の満功上人は、武蔵国の古刹・深大寺を開基した。
 古代出雲民族の末裔である出雲国造は、大和王権の勅命に従って『出雲国風土記』を編纂したが、その内容は天孫族による建国神話と異なる点が幾つか存在していた。
 「まつろわぬ民」が多く住む筑紫や隼人などの風土記においても、大和王権記紀神話と矛盾する物語が幾つも存在していた。
 大和王権は、日本を統一国家にする為にそうした異なる物語を強引に取り込み、歪曲・ねつ造しながら大和神話・日本中心神話を創作した。
 7月15日 聖武天皇は、先祖の天皇神・天皇霊と庶民の霊魂が御霊化して祟りを起こさないように供養する為に、仏教の盂蘭盆会を年中行事と定めた。
 日本の文化や行事は、皇室行事から始まっている。
 皇室行事を否定すると、日本行事の殆どが否定される。
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 734年 聖武天皇は、天覧相撲を行う為に、諸国の郡司に対して力自慢の壮士を力士として選んで送る様に勅令を発した。
 この後。宮中で行われる天覧相撲を「相撲節会」として、正式な国家行事とされた。
 農耕儀式として神前で行われていた奉納相撲は、天覧される資格のある格式を持った伝統的芸能の一つとして保護された。
 1月11日 光明皇后は、昨年薨去した生母・橘三千代の追善供養の為に興福寺に西金堂を建立し、阿修羅像を苦悩と悲哀にもがく自分の内心と仏法で聖武天皇を守護しようという決意を表すべく、自分に似せて造らせた。
 4月1月 聖武天皇は、光明皇后が母・橘三千代を亡くした後の心労で憔悴するや、その病の平癒を願って大赦を行った。
 4月7日 大地震が起き、多くの家屋が倒壊し、大量の犠牲者が出た。
 大地震などの天災が耐えず、聖武天皇は自分の不徳のせいであるとして大赦をおこなった。
 聖武天皇は、民衆に対して、頻発する災害は自分の不徳のせいであるという自戒と赦しを請う詔を発した。
 「朕が万民を撫育する事によって何年も経つが、未だ風化は及ばず、牢屋は空にならない。夜もすがら眠るのを忘れて憂い悩んでいるが、天変が頻りに起り、地の震動がやまず、多くの民が罪を犯して捕らわれている。この〝責任は朕一人にある〟のであって、民に関わるものではない。よろしく寛大に罪を許して寿命を全うさせ、瑕(きず)と汚れを洗い流して生まれ変われるよう、天下に大赦を行うこととする」
 光明皇后も、臣下の女である自分が皇后になったから、天災が連続し飢餓や疫病が蔓延して民百姓が苦難に喘いでいるとの強い自責任で心をさらに病んだ。
 現代の天皇制度を否定する日本人は、聖武天皇光明皇后の自己保身の欺瞞的演出として完全否定している。
 聖武天皇は、篤く仏教を敬い、御仏の法力で国家の隆昌・安寧を祈り国を治めるという仏教立国の詔を発した。
 「朕、万機の暇を以って典籍を披覧するに、身を全うし命を延べ民を安んじ業を存するは、経史の中、釋教最上なり。是に由りて仰いで三宝に憑(よ)り、一乗に帰依し、敬て一切経を写し、巻軸已に訖んぬ。是を読むものは至誠の心を以って、上は国家の為に、下は生類に及ぶまで、百年を乞索(もと)め、万福を祈祷し、是を聞くものは無量刧の間、悪趣に堕ちず、遠く此網を離れ、倶に彼岸に登らん」
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 735年 新羅は、唐から大同江以南の領有を正式に認められた事を機に、日本とのは関係は対等であるとして朝貢を廃止し、国号を王城国と告知した。
 日本は、大国・唐に靡き、唐の軍事力を背景にして掌を返した様に尊大な態度を取る新羅の無礼さに激怒して、新羅使を追い返した。
 天然痘が大流行して、大勢が死亡した。
 4月26日 下道(しもつみちの)朝臣真備(後の吉備真備)や僧玄纊らが、唐より帰朝した。
 僧玄纊は、大蔵経の経論5,048巻を持ち帰った。
 玄宗皇帝は、帰国する玄纊の優れた英才を愛で紫衣を授けた。
 日本にある中国古典書の多くは、正規な手続きで、多額の金で買い求めたものであり奪ったものではない。
 5月詔「私は、天皇の位に立って天下を治めている。ただ、治める方法に暗く、なかなか万民を安堵させる事ができない。このころ、災異がしきりに興り、咎めのしるしにあっている。戦々競争々として、責めは私にある」
 8月12日 大宰府管内に天然痘が流行した。
 8月詔「朕は天下に君として臨み、長い年月が過ごした。しかし、徳によって民を教え導く事はまだできず、民を安らかにしていない。夜もすがら、寝る事も忘れ、憂いている。また、春から災厄の気がにわかに興り、天下の民が多く亡くなった。亡くなった百官も少なくない。まことに朕の不徳により、災厄を生じさせたのである。天を仰いで恥じ恐れ、安じるところもない」
 聖武天皇は、絶える事なく襲い来る天災で苦しむ民百姓に、幾たびも自分の不徳を告白して詫び、神々や怨霊に許しを請い祈った。
 歴代天皇が、神の裔という神格を根拠にして怨霊や神々を祀り、そして一心不乱に安らかになるようにと祈った。
 日本民族日本人は、幾度も大災害にあって死ぬ思いをしても、神の裔・天皇の祈りを信じ切り、天皇による必死の祈りを心の支えとして、死んでいった者の無念さを心に刻んでへこたれる事なく立ち上がった。
 天皇教徒である日本人は、政府を当てにせず、指導者に頼らず、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の神憑り的にして迷信的な祈りに安心しきっていた。
 こうした「絆」は、女系天皇には生まれないし、政治的な天皇制度には特に無縁である。
 だが、反天皇の左翼・左派のマルクス主義者は、無能な天皇の自己弁明で無意味であるとし、庶民の為に社会の害悪である天皇制度は廃止すべきであると主張している。彼等には、神代から続く日本民族としての「絆」はない。
 信仰心篤い人々は、長屋王が怨霊となって祟っていると恐れ、怨霊の祟りが治まるように必死に祈った。 
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 日本には、古代から幾つもの宗教が混在し、おおむね信仰の自由が保証されちていた。
 736年 入唐副使中臣名代が、3名の景教僧を連れて帰国した。
  第45代聖武天皇は、来日したペルシャ人で景教ネストリウス派キリスト教)宣教師の皇甫と李密医の二人を歓待して官位を授けた。日本は、他国人を寄せ付けない閉鎖した社会ではなく、逆に優れたものは何事においても謙虚に受け入れた。
 「開放された国家」を証明するのが、正倉院である。
 日本の村は、決して排他的でもなく、閉鎖的でもなかった。その証拠に、村はもちろん都にさえ、大陸では常識とされた他者を寄せ付けない堅牢な城塞はないし、中央や地方の各役所にも威圧する様な重厚な屏はない。日本の城は、戦闘員とその家族のみが住む純軍事要塞であり、一般庶民が住む城塞都市とは違っていた。
 聖武天皇の后である光明皇后藤原不比等の娘)は、土俗的祖先神・現人神信仰にはない景教の「他愛」の教えに感動した。勅命で悲田院や施薬院などを造り、日本の神々と外来の仏に貧しい人や虐げられた人や病人を自らの手で救う事を誓った。
 ここに、「感染の危険を冒してまでも、病人の苦痛の訴えに無条件で応じて、相手の身体に出来た腫れ物の膿を自ら吸い出した」という、「他愛」の自己犠牲的貧者救済神話が生まれた。「自愛」を強調する現代日本は、この民族的物語を否定している。
 民族中心宗教・神道は、自分の事よりも弱い相手や差別され虐げられた相手や老いて病に罹った相手に、「やむにやまれず」に手を差し伸べるという「情理」によって、「相手を思い遣る」という宗教的意識改革を行った。それが、評判の悪い「人の為、社会の為」という没個性の日本型集団主義である。
 第16代仁徳天皇の「仁愛」と、第31代用明天皇の皇子・聖徳太子の「博愛」と、光明皇后の「慈愛」は、弱い者や貧しい者や虐げられた者を庇う為の「徳育」の教訓とされた。
 万世一系男系天皇(直系長子相続)の使命とは、自己犠牲や利他精神といった日本の「道徳」や「良心」を伝える事であった。女系天皇は、国際基準によって伝統的日本精神を否定するものである。
 左翼や左派などのマルクス主義者は、万世一系男系天皇(国體)を否定する立場から、天皇中心の日本神話と民族中心の物語を抹消しようとしている。
 反天皇派日本人の究極の目的は、天皇を中心とした日本国家の消去であり、天皇を尊崇する日本民族の死滅である。
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 736年 日本は、新羅が反省して以前の様な関係に復帰したかどうか探る為に使者を送った。
 安倍継麻呂は、「新羅は礼儀を失し、使者の意向を無視した」と報告した。
 体面が潰されたとして激怒する者は新羅討伐を上奏したが、意見がまとまらず紛糾した。
 朝廷は、征新羅派を宥めるべく、時間稼ぎとして派兵の前に「新羅の無礼」を神前に報告するとして、伊勢神宮住吉大社に勅使を派遣した。
 インド人僧の菩提僊那(ぼたいせんな)は、東大寺大仏開眼の為に日本に招かれたて来日し、百済帰化人僧の行基にソラ豆を与えた。
 2月22日 光明皇后は、唐からもたらされた仏具などを法隆寺に施入し、玄纊に皇后宮職の写経所で五千余巻の写経事業を依頼した。 
 7月23日 南インド出身の仏僧僧ボーディ・セーナ(菩提僊那・婆羅門僧正)・林邑(ベトナム)僧仏哲・唐僧道(どうせん)らが来朝した。
 ボーディ・セーナは、インド直伝のヨーガを日本にもたらした。
 ヨガとは、瞑想である。
 シルクロードを通じて、才能豊かな人や物珍しい文物が日本に伝来していた。
 11月19日 聖武天皇は、不作につき四畿内等で今年の田租を免じた。
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 737年 大和朝廷は、日本を統一する為に東北地方侵略を本格化させた。
 東北を生活基盤としていた蝦夷の諸勢力は、大和の侵略から生活圏を守る為に抵抗した。
 蝦夷は、大和からの自主独立の為に戦った。
 藤原麻呂大野東人は、出羽柵と多賀城雄勝村を制圧して、太平洋と日本海を結ぶ直通ルートを開いた。
 蝦夷は、大和への帰属を拒否して独立する為に立ち上がった。
 大和朝廷は、統一国家としての体面から、従わない蝦夷を撃つべく大軍を東北に派遣し、東北を日本化する為に東国の農民や渡来人達を入植さ蝦夷の地を奪った。
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 737年5月1日 都に天然痘が大流行する中で日蝕が起き、前後して長屋王の変を画策した藤原四兄弟が相次いで病死した。
 人々は、長屋王の祟りと恐れ戦いた。
 藤原氏は、長屋王の怨霊を法隆寺に祀って封じた。
 藤原氏は四家に別れ、反藤原勢力には一致協力して対抗したが、内部では宗家の座を巡って争っていた。
 年月と供に、藤原氏内部の抗争が激しくなって力を失った。
 又。聖武天皇も、藤原氏の横暴に嫌気をさして政治への意欲を失い、壬申の乱で進撃した天武軍の後を追想する様に関東行幸を行った。
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 740年 藤原広嗣の乱。広嗣は、九州の新羅系渡来人と反天皇派地方豪族らの軍事支援を受けて、九州・太宰府で叛乱を起こし、奈良中央に向けて進撃を開始した。
 聖武天皇は、広嗣叛乱鎮圧の陣頭指揮を放棄し、都を離れて近畿巡幸の旅に出た。
 広嗣軍に参加した、渡来人らは倭・日本からの分離独立を切望し、地方豪族は大和中央からの自立を掲げていた。
 各地の下級役人や身分低い小豪族となって土着した天皇帰化人は、朝廷軍(皇軍)と協力して広嗣軍を破った。
 敗れた広嗣は、新羅へ亡命しようとするが、渡航に失敗し、捕らえられて処刑された。
 吉備真備は、敗死した藤原広嗣が怨霊・鬼となって祟らない様に鏡神社に祀った。
 聖武天皇は、戦乱や身内の怨霊などから逃げる様に遷都を繰り返した。
 伊勢に向かい、神宮の近くに行宮(仮宮)を築き、10日間逗留して勅使を遣わして奉幣した。そして、国家の平和と民の安寧を願って神道ではなく仏教に救いを求める赦しを請うた。
 神の裔・天皇は、戦乱や天災が絶えず世が乱れるのは「自分に徳がないからだ」と公言して、神や仏やその他すべての尊いとわれる霊的なモノを祀り祈った。
 聖武天皇光明皇后は、河内にある帰化系氏族の智識寺が皇族や豪族に関係なく民衆が協力し合って建てた寺である事に感動し、国内最大の石仏・毘盧遮那仏を拝して、「民衆の手による民衆の為の寺を建立する」と発願した。
 東大寺建立は聖武天皇の勅命で国家事業となったが、指揮監督は権力に反発する帰化人僧・行基に依頼した。
 東大寺造営予定地は、百済系僧侶良弁が住んでいた金鐘寺と定められた。
 金鐘寺は、新羅僧審祥が「華厳経」を講義した事で有名となっていた。
 東大寺造営と大仏造立には、大陸の優れた技術を持った多くの渡来人達が参加していた。
 東大寺(754年完成)の建設地は、藤原氏菩提寺である興福寺の後ろの高台とされた。
 行基は、莫大な建築費を得たが、租税に苦しむ貧民を救済する様に彼等を積極的に雇って工事を行った。それは、律令を悪用して私腹を肥やす藤原氏や既存仏教勢力への抗議の意思表明でもあった。
 聖武天皇の后・光明子皇后(藤原不比等の娘)は、平城京興福寺の間に法華滅罪之寺(法華寺。741年完成)を建立した。
 藤原氏は、氏神神社として春日大社東大寺の並びに造営・拡張した。
 光明子皇后は、聖武天皇の為に春日大社(747年)の隣に新薬師寺を建立し、藤原氏が行ってきた罪をつぐなう為に貧民に対して善行をおこなった。
 それは、世の為人の為という已むに已まれぬ自己犠牲である。
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 相澤 理「奈良時代には、仏教は朝廷の支配下に置かれていました(国家仏教)。……
中央集権国家の完成による都への富の集中を背景に、きらびやかな貴族文化が開化した奈良時代ですが、その裏では、政争の繰り返しや疫病の発生、あるいは先に指摘した浮浪者の増加などによって社会不安が高まっていました。こうしたなかで、仏教は国家の安泰を図るための鎮護国家の役割を果たすようになります。
 聖武天皇による国分寺国分尼寺の建立や大仏造立の事業も、この鎮護国家(思想)に基ずくものです。……
 大仏造立という大事業を行ううえで、現実的に大きな課題だったのが労働力の挑発です。そこで、朝廷は『聖武天皇時代になるとその態度を変え』、行基とその集団に協力を求めようとしました。……朝廷にとって、行基のもつ土木技術力、そして『千人以上』の弟子を率いる動員力は、喉から手が出るほどに欲しかったに違いありません。また、浮浪・逃亡して戸籍支配から離脱した人たちを再び掌握するチャンスでした。……
 朝廷は、禁止・弾圧するのではなく、国家事業に協力させ支配下に組み込む方針に転換したのです。……
 朝廷は事業の推進や墾田の開発に行基集団のもつ動員力・技術力を利用しようと考え、さらに戸籍支配から離脱した班田農民を再び取り込もうとした」(『東大のディープな日本史2』P.59〜63)
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 光明子皇后が体現した「慈愛の心」こそが、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の大御心・御稜威である。
 現代日本天皇制度否定論者は、合理的にそして論理的に、日本民族が祖先から受け継いできた皇道・ヤマトの心・あるがまま・惻隠の情を完全否定している。
 天皇制度廃止論者には、民族的な無常観に基づいた「絆」はない。
 女系天皇擁立及び女系宮家創設を求める日本人の中にも、「絆」を拒絶している者がいる。
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 740年 玄宗皇帝は、息子の妃であった楊貴妃を一時的に出家させて夫と離縁させ、その後に自分の後宮に入れて寵妃とした。
 唐王朝は、中国人の王朝でない為に儒教的規範に縛られる事がなく、息子の配偶者を奪う事に罪悪感は薄かった。
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 741年2月24日 聖武天皇は、度重なる飢餓や疫病などの天災からの救いと希望を求めて、国分寺国分尼寺建立の詔を発した。
 仏教政策で諸国に七重塔一基を造営し、金光明最勝王経と妙法蓮華経の写経を一揃え置くようにという、七重塔建立令を発した。
 「この頃穀物が実らず、疫病が頻りに起り、身の不徳を慙(は)じる気持ちと懼(おそ)れが入り交じって、一人己が罪を責めてきた」
 聖武天皇は、国分僧寺国分尼寺に対して、毎月8日に「金光明最勝王経」を転読を命じた。
 天皇の絶対権威が、日本全国つっうらうらまで行き渡っていなかった時代。各地の地方豪族は、氏神・祖先神神社を中心にして地域を支配していた。租税徴収も諸事もめ事の裁決も五穀豊穣も疫病退散も、諸事すべて神社の神域内で、氏神・祖先神の前で行っていた。
 律令制度は、公地公民の原則の基で国民も国土も全て天皇家の所有とし、地方の豪族を百官や神祇官に任命して地元の管理を命じた。
 宗教においても、皇祖神・天照大神天皇の霊力よりも強力な神威を持つ存在として、諸豪族の氏神の上に置いた。宮中祭祀で祀られていた祖神・天照大神は、命の源である太陽の光さえ奪う恐ろしい霊力を持つとされた為に、都から遠ざけ伊勢の地に祀った。全てのモノに災いをもたらす恐ろしい荒魂の性質を持つがゆえに、持統天皇が参拝して以来、明治天皇までの間で自ら伊勢神宮に参拝した天皇はいない。
 天皇と百姓の間に立って諸事を取り仕切っていた地方豪族は、官吏・神官としての安定生活の上で堕落し、朝廷に納める租税を横領して私腹を肥やす者が続出した。さらには、氏神神社の威光を悪用して公共物を私物化した。
 朝廷は、地方の乱れの原因となっている、唐を見習って導入した律令制の不備・矛盾を早急に改善する必要に迫まれた。如何に優れた大陸の制度であっても、そのままでは日本の社会風土には馴染まないよう事であった。神社中心の豪族支配から仏寺中心の朝廷支配に転換するために、全国に国分寺を建てた。
 そして、「私は久劫を経て、重い罪をなし、新道の報いを受けた。今こいねがうのは、長らく神身を離れる為に、三宝に帰依したい」(三重県・多度神社)という、神が自ら神である事を捨て仏に帰依するという神離れのご託宣が流れた。神仏習合の始まりである。 神道と仏教の垣根は低くなり区別が付かなくなり、神社の霊験と祖先神・氏神の信仰を奪う為に各地の神社に神宮寺が建てられた。よほどの例外がない限り、多くの場合で僧侶が神官の上位に就いた。
 日本民族日本人は、異なる宗教観の仏教を神道同様に、ありがたいモノはありがたいとして柔軟に受け入れた。ホントのところは、生活を苦しめるように金や物を奪う神官に嫌気をさしたからである。汗水たらし、苦労して得たモノを、道理無く徴収して私腹を肥やす神官の体たらくが我慢できなかったのである。だが、彼等は神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を神に近い尊き人と貴び、如何なる鬼神をも鎮められる霊力を持つ恐ろしい人として崇めた。
 藤原氏は、天皇を政治的にも経済的にも無力の存在として奉り、朝廷の中枢を占め、富を集中させた。公地公民の原則で土地の私有が禁じられているにもかかわらず、広大な土地を独占する為に天皇の威光と仏教の滲透を最大限に利用した。
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 743年 当時の日本の総人口は約500万人で、世界的に言って小国であった。
 聖武天皇は、頻発する地震や異常気象による旱魃や多くの死者を出している天然痘の大流行などの未曾有の国難に苦悶し、「責任は私一人にある」との自責の念かられた。
 鎮護国家、五穀豊穣、疫病平癒、等を全国の神社に祀る日本の神々に祈ったが厄災は一向に治まる事なく続いていた。
 聖武天皇は、自分の非力を認めて、大いなる救いを求めて大仏造立の詔を出した。
 1月13日 聖武天皇は、衆僧を金光明寺に請じ、77日を限りて最勝王経読ましめ、別に大和国光明寺に殊勝の会を設け、国土の厳浄、人民の康楽を祈り、像法の中興を期せんとした。
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 10月15日 盧舎那大仏像の造顕を発願(盧舎那仏造顕の詔)の詔を発して、日本の神々を諦め仏に救いを求める事にし、最大の法力を持つと聞く盧舎那仏を安置する東大寺の建立を決めた。
 盧舎那仏造顕の詔(続日本紀)
 「天平十五年十月辛巳(丁卯朔十五)冬十月辛巳。
 詔して日く。
 朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志兼済に存し、勤めて人物を撫す。率土の浜、已に仁恕に霑うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に浴さず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かに、万代の福業を修めて動植咸く栄えんことを欲す。粤に天平十五年歳は癸未に次る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして、朕が知識と為し、遂には同じく利益を蒙りて共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易き心や至り難き。但恐らくは、徒に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪を生じて罪辜に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各介福を招き、宜く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当に念を存し各盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願刷る者有らば、恣に聴せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾し、強に収斂せしむること莫。遐邇に布告して、朕が意を知らしめよ。」
 {天平15年10月15日をもって,衆生救済・仏法興隆の大願をたてて廬舎那大仏の金銅像一体を造ることにする。国中の銅を尽くして像を鋳造し,大山から木を伐り出して仏殿を建て,広く世界中にひろめて仏道成就の同志として,ともに仏恩にあずかり悟りを開きたいと思う。天下の富と権威をあわせ持つ者は私である。この富と権威とをもってすれば,尊像を造ることは困難ではないであろうが,それでは発願の趣旨にそわないものとなる。かえって無益な労働に酷使するだけになり仏のありがたさを感じず,またお互い中傷しあって罪人を生ずるようなことも恐れる。・・・・もし,一枝の草や一握りの土でも持ちよって造像に協力を願い出る者があれば,許し受け入れよ。国郡の役人は,この造立事業にことよせて人民の生活を乱し無理な税を取り立ててはならない。全国遠近にこの旨を布告して私の気持ちを知らせるようにせよ。} 
 「普天の下、法恩あまねくあらず」
 帰化人の行基は、弟子から生き仏として慕われていたが、国よりも民の救済に力を入れた。
 聖武天皇の『盧舎那仏造営の詔』「ここに天平15年10月15日、菩薩の大発願を発して盧舎那仏の金銅像一躯(く)を造り奉らんとする。国中の銅を尽く熔かして像を造り、大山を削って堂を構え、これをもって仏法への朕の知識(善知識。仏の道へ正しく導いてくれる高僧)とし、遂には衆生と共にその利益を蒙って、共に菩提の境地に至りたい。
 天下の富を有する者は朕であり、天下の威勢を有する者も朕である。この富勢を持って尊像を造るのは容易い事かも知れぬが、それでは仏法の心が入り難い。人が徒(いたずら)に労苦のみ覚えて、聖法を感ずる事がなければ、反って誹謗と罪障を生ずる結果ともなろう。
 それゆえ知識(自主的に仏事や法会に寄進・勧進)に関する者は、懇ろな至誠に発して、宜しく福を招く為に、毎日盧舎那仏を三拝し、まさに各々自ら存念によって盧舎那仏を造るべし。 
 もし更に一枝の草や一握りの土でも持参して像の建立を助けようと願う者があれば、望み通りにこれを聴き入れよ。国と郡の役人は、この事業の故をもって百姓を侵したり擾(みだ)したり、強令をもって租税を取り立てたりしてはならない。遠近を問わず布告して、朕の意を全国に知らしめよ」
 大仏・毘盧遮那仏建立は、国の宗教政策として天皇の命令によるトップダウンで強制的重労働で造るのではなく、民衆の文化大事業として一人ひとりのボトムアップ的に自発的と自主性の奉仕で完成させるべきだと。
 日本の宗教は、海外から渡ってきたとしても、天上から舞い降りた様な君主・領主の宗教ではなく、地上から沸き起こる様な庶民・民衆の宗教であれと。
 救われたいと思う者は、奇跡や恵みのみを当てにして何もせず祈るのではなく、自ら汗水垂らして何かの為・誰かの為に行動を起こして祈れと。
 大仏建立の勧進僧に行基が選ばれ、優れた技術力を買われた教団は許され各現場で指導に入った。
 鋳造の最高責任者に百済帰化人の三世である国君麻呂が選ばれ、鋳造師には大陸や半島から新しい知識や最新技術を持って帰化した集団が当たった。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に大仏官製の為に知りうる知識と持てる技術を出した。
 諸方の豪族は、持てる資金や必要な資材を寄進した。
 大仏建立の話を聞きつけた民衆は、男はもとより女も子供も、先を争って工事に従事した。
 瞬く間に数万人の職人や人夫が集まり、感謝と喜びで、自ら重労働に精を出した。
 東大寺の大仏建立は、古代日本の総力を結集した大事業というではなく、古代東アジア世界の技術と精神が一丸となって成し遂げた人類文明史の金字塔といってもいいほどの快挙であった。
 専制君主が自分が信仰する神・仏を庶民に強制したわけでもないし、庶民から搾取し、庶民を奴隷的重労働に狩り出したわけでもなかった。
 多神教的多種多様な価値観から、他人が信仰・信奉・崇拝し大事にする神・仏を非難中傷して否定しない限り弾圧も迫害もされなけれなかった。
 日本神道同様に、庶民の自主的な信仰から立ち上がったのである。
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 744年 行基は、聖武天皇の勅命を受けて高尾山を開山し薬王院有喜寺を創建した。
 北モンゴルで、マニ教徒のウイグル人ウイグル帝国が建国された。現在のイスラム教徒ウイグル人とは血のつながりのない、別のウイグル人
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 745年 聖武天皇は、官僧ではない在野僧であり帰化人氏族の行基を、仏教界の頂点に立つ大僧正に任じた。
 行基は、聖武天皇の為というだけではなく、日本国の平和とそこに住む民草の安寧を祈って大僧正の職を引き受けた。
 私腹を肥やさず、私財を溜めず、欲得を捨て去り、赤貧を喜んで享受して他人の為世の為に行動した。
 官立寺院の権威を振りかざす官僚化した官僧達は、禁止された私度僧を徴用する事に不満であったが、聖武天皇行基の後ろ盾となっている以上は反対できなかった。
 4月27日 美濃国で三日三晩に及ぶ地震が発生し、甚大な被害がでた。
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 746年 近畿地方を中心に大干魃が起き、多くの犠牲者を出した。
 行基は、被災者を救済する為に大仏建立の仕事を割り振り、賃金を払い、食べ物を与えた。
 行基教団の技能集団は、手弁当で地域の復興と被災民の救済の為に被災地に入り、朝廷からの支援と余裕のある豪族や豪農から寄進を受け、被災者を励まし一緒になって「自利他」の菩薩行を行った。
 それが、日本独自の「お互い様」「相身互い」の困った時は助け合うというムラ根性であった。
 こうして、人の為世の為に献身的に重労働を行う勤勉革命が日本の土壌に染み込んでいった。
 日本の宗教は、自然と調和を取りながら行う「自分の為の仕事と世の為の働き」を美徳とした。
 日本の労働観・職業観において、労働とは天罰・神罰ではなく、神や仏に近づき、地獄に落ちず極楽に行く為の喜びであった。
 それが、三蔵法師玄奘から受け継いだ「自他利」の菩薩行であった。
 三蔵法師玄奘が日本に伝えた「菩薩地」の教えは、これまでの中国仏教や朝鮮仏教とは全く違う仏教であった。
 日本仏教は、中国仏教や朝鮮仏教とは異なり、貧者に寄り添って生きるという実践の行基を手本に独自の仏教として発展していった。
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 748年4月1日 『扶桑略記』「大仏に使用する黄金を得るために始め遣唐使を派遣して購入しようとしたが、宇佐神宮宇佐八幡宮)の託宣があって我が国で産金するという。そこで天皇金峰山に使いを遣わして黄金を産してほしいと祈ったところ、『我が山の金は慈尊出世時、即ち弥勒菩薩がこの世に出現された時に使うべきものである。しかし近江国志賀郡瀬田江付近に一人の老人が座っている石があるから、其の上に観音様をまつって祈れば黄金は自ずと手に入る』、とのお告げがあった。そこで其の場所を訪ねて(今の石山寺という)如意輪観音を安置し、沙門良弁法師が祈りを捧げたところ、間もなく陸奥の国より黄金が献上された。そこでこの黄金の中から先ず120両を分かって宇佐神宮宇佐八幡宮)に奉納した。」とある。
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 749年 藤原仲麻呂は、聖武天皇との暗闘を繰り返し、安積親王を密かに死に追いやり、阿倍内親王に譲位させた。孝謙天皇の誕生である。
 行基は、82歳で死亡した。
 『続日本紀』「和尚は早くから都鄙(とひ)を遍く廻り、多くの人を感化したので、慕って随従する僧俗が、時に数千人に上るほどであった。和尚が来ると聞くば、巷が空っぽになるほどみんな競ってその法会に集まって来て礼拝した。和尚はそれら全ての人を善に導いた。
 また自ら弟子を率いて、各地に橋を造り、堤防を築き、その評判を聞きつけた人々も諸方からやって来て工事に加わるので、完成するのがすこぶる早く、世人は今に至るまでその利益を蒙っている」
 12月 聖武天皇は、伊勢の天照大神の神威に対抗するべく豊前の宇佐八幡神の加護を期待した。
 宇佐八幡は、帰化系豪族が信仰する神であった。
 宇佐八幡神は、聖武天皇の依頼を受けて東大寺を参拝した。
 聖武天皇は、宣命を発した。
 「大仏建立が困難であった時、宇佐八幡が天神地祇を率い誘って、必ず盧舎那仏建立を成就させよう、と宣言して成功に導いて下さった」
 大仏建立は宗教改革として、古代からの祖先神を祀る国から外国渡来の仏教が信仰される国に変わった。
 朝廷は、東大寺の大仏の鋳造を国家事業として、造営に従事する技術者から人夫や雑役夫に至るまで全ての者に食事と賃金を払っていた。
 決して、人民から搾取し、奴隷的重労働を強いて造ったわけではない。
 1日、仏工は60文、鋳工と銅工は50文、土工・木工・瓦工は15文、専門技能を持たない雇夫は15文〜10文、雇女は8文〜5文。
 当時の寺院建設での日当の相場は、大人10文で、女子供で5文とされていた。
 聖武天皇は、大仏建立の目途がたつや退位して出家し、仏教徒太上天皇となった。





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