🎍45〕─1─平安時代は魔界の時代で、都大路には無数の死体が転がる地獄であった。安倍晴明。~No.141 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 平安京の人口は10万~12万人。
 公家と官人は約1万人。
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 陰陽道は、中国から渡来したが神道の怨霊信仰が加わり日本で独自に発展した呪術で、中国や朝鮮の呪術とは異なる。
 よって、日本の陰陽師と中国の陰陽師・朝鮮の呪術師とは全くの別人である。
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 日本列島は、自然災害多発列島のである。
 京の都大路には、疫病による病死者と凶作による餓死者の死体が到る処に転がっていた。
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 民族の和歌と渡来の陰陽道そして役行者修験道の言霊が、天皇と民族と国を護っていた。
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 2018年1月号 歴史街道「『安倍晴明』ってどんな人?
 ──藤原道長の陰にいた〝謎の陰陽師
 ……
 富樫倫太郎
 平安時代の最先端科学
 平安時代というと、つい優雅なイメージを抱きがちである。『源氏物語』に描かれているようにきらびやかに着飾った公達(きんだち)や女官(にょかん)たちが、美しい花々の咲き乱れる宮廷で恋愛ゲームに憂(う)き身をやつす・・・。
 それはファンタジーに過ぎない。
 現実の平安京は、そんなところではなかった。
 ふたつ、大きな特徴がある。
 まず、疫神(えきじん)の暴威である。
 毎年のように疫病が流行し、そのたびに多数の死者が出た。
 当時は疫病が『病(やまい)』ではなく、『疫神』という悪神(あくじん)の祟(たた)りだと考えられていた。
 疫神のせいで都大路(みやこおおおじ)には無数の死体が転がっており、その数があまりにも多すぎて路肩(ろかた)の下水口が詰まってしまい、汚水や糞尿が溢(あふ)れた。
 暑い日や風の強い日には堪え難いほどの死臭(ししゅう)が充満し、その臭いが内裏にも届き、
 『これでは息もできんやないか』
 と、天皇が怒って、検非違使に死体の処理を命じた事がある。検非違使は下人(げにん)を指図して、死体を牛車に乗せ、鴨川に捨てに行く。
 しかし、河原はすでに死体でいっぱいで、あまりにも多く死体があるために、川の流れすら止まっている有様だったという。
 もうひとつの特徴は夜の暗さである。
 一般庶民の家には照明器具がない。宮中には紙燭(しそく)や燭台(しょくだい)があるが、隣にいる者の顔を見分けることも難しいという程度の明るさしかない。日が沈むと、平安京は漆黒(しっこく)の闇に包まれた。
 暗い世界では見えないものが見える。
 平安時代には魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類(たぐ)いがいた。妖怪変化もいた。現実に存在するかしないかという話ではなく、この時代の人々が、その存在を信じていたということが重要である。
 平安時代というのは、疫神が暴れ回り、魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)する迷信に支配された時代なのである。
 こうした疫神や魑魅魍魎に立ち向かったのが、当時の最先端の科学である陰陽道を駆使した陰陽師であり、数多(あまた)いる陰陽師の頂点に君臨したのが安倍晴明である。
 名家出身でなくても異例の出世
 陰陽道は6世紀の初めに大陸から伝わり、平安時代には貴族たちの日常生活を支配するほどに浸透した。陰陽寮(おんみょうりょう)という役所まで設置されていた。
 古来、陰陽道の宗家と言えば賀茂氏である。賀茂氏奈良時代から続く名家で、忠行という大名人(だいめいじん)が出るに及んで宗家の地位を確立した。
 忠行の得意技は透視術である。醍醐天皇の御前で、八角形の箱を透視し、その中に水晶の数珠(じゅず)が入っていることを的中させたという逸話が『今昔物語』にある。
 この忠行の弟子が晴明である。
 晴明の出現によって、安倍氏賀茂氏と肩を並べる陰陽道の大家(たいか)となった。以後、この2氏が双璧として明治時代まで続くことになる。
 本来、陰陽道占星術天文学、暦学を中心とする技術色の強い学問体系であり、魔術的な要素はない。
 にもかかわず、晴明や忠行が魔術師のように畏怖されたのは、悪神や魑魅魍魎の存在が信じられていたせいであったろう。それら悪(あ)しき者たちと戦うとき、優れた陰陽師は方術を用い、式神を己の手足の如くに使いこなしたという。
 晴明は幼い頃から忠行のもとで修行した。
 ……
 名家に生まれたわけでもない晴明が、天文博士、左京権大夫、播磨守などを歴任し、従四位下まで出世したのは忠行の後押しのおかげである。」
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 平安京は魑魅魍魎・怨霊・悪神が支配する魔界で、都大路には汚水や糞尿が溢れ死体が転がり、都に悪臭や死臭が充満していた。
 魑魅魍魎・妖怪変化・怨霊・悪神・荒魂が持つ忌まわしい穢れを、言霊を持っ和歌が鎮め、陰陽道修験道の呪文で払いそして封じ込め、産土神・御霊・和神・和魂へと導いた。
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 『源氏物語』『枕草子』『伊勢物語』『土佐日記』『今昔物語』など平安時代の古典文学の根底には、そうした日本独自の宗教的精神的神秘的「怖れ」の要素が隠されているが、けっして訓戒の宗教文学ではない。
 光明は、漆黒の闇があるから神々しいのである。
 清浄は、汚濁があるから清々しいのである。
 神聖は、世俗・俗世があるから尊いのである。
 表は、裏があるから表なのである。
 日本の古典は、2者を対立させ切り離す事なく、対等に共存・共生・両立・併記している。
 その事をあえて口に出さない、言葉にしない、文字に表さない、それが「穢れ」に対する「怖れ」という奥ゆかしさである。
 日本の古典文学が穏やかな和んだ明るさを湛えているのは、その裏に底の深い怖ろしい暗黒の闇を秘めているからである。
 そうした怖ろしい暗黒の闇の中で救いの明かり・光明・慈光が、言霊の和歌を詠む天皇であった。
 故に、全ての古典文学は例外なく万世一系男系天皇(直系長子相続)の神性・神聖に繋がっている。
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 ウィキペディア
 安倍晴明(延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。
 史実上の人物像
 出自
 晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。
 各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする[2][3]。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。
 経歴
 921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる。
 948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。50歳頃、天文博士に任ぜられる。貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上位にあった。
 979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。このころから花山天皇の信頼を受けるようになったらしく、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。そのほか、『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙された。また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されている。
 陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。
 伝承の人物像
 疫病神退治をする安倍晴明(泣不動縁起より)
現代では『蘆屋道満大内鑑』による人物像が定着しているが、平安時代では最先端の学問(呪術・科学)であった「天文道」や占いなどを、体系としてまとめた思想としての陰陽道に関して、卓越した知識を持った陰陽師ともいわれ、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。蘆屋道満こと道摩法師とはライバル関係にあった。
 晴明が死んだ11世紀の内に、早くも晴明は神秘化されていった。歴史物語の『大鏡』『十訓抄』や説話集の『今昔物語集』『宇治拾遺物語』はいくつかの晴明に関する神秘的な逸話を載せる。
 後世に陰陽道の経典となる秘伝書『??内伝』(別名『金烏玉兎集』)の著者に仮託されている。実際の晴明の著作としては土御門家に伝わった占事略决がある。
他にも『源平盛衰記』『北条九代記』『古事談』などがある。
 奉祀
 晴明神社京都市上京区
 安倍晴明神社(大阪市阿倍野区
 名古屋晴明神社名古屋市千種区
 安倍文殊院奈良県桜井市
 安倍晴明陰陽道の修行をした場と伝えられる。
 安倍晴明像(安倍晴明神社・大阪市
 墓所は京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。
安倍晴明を祀る神社は、屋敷跡に建てられたという一条戻橋近くの晴明神社や、生誕地とされる大阪市阿倍野区に建てられた安倍晴明神社、東国では数少ない晴明ゆかりの社立石熊野神社尾張で毒蛇退治をした際に居住していた屋敷跡の名古屋晴明神社など全国各地に存在する。
 後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したため、日本各地に晴明塚といわれる塚を建立し、祀った。
 詳しくは「安倍晴明の所縁」の項目を参照
 寺社
 晴明神社京都府京都市上京区晴明町806番地)- 一条戻橋のたもと(北西)にあった晴明の屋敷跡に鎮座する、安倍晴明を祭神として祀る神社。境内には晴明が念力により湧出させた井戸「晴明井」がある。
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