🎍46〕─1─日本武士は死の穢れに満ちた卑しい芸能者で、最初の仕事は用心棒・護衛・警護であった。~No.144 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本神道は、「血と死」を「穢れ」として忌み嫌い遠ざけてきた。
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 日本武士は腕力ある芸能身分出自で用心棒を生業としていて、西洋のキリスト教徒騎士のような存在ではないし、中華(中国・朝鮮)の武官とも違うし、その他に国や地域の武人とも違う。
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 日本武士は、死の穢れに満ちた卑しい身分であった。
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 鮮卑拓跋族とは、漢族系中国人とは血が繋がらない別の民族で、古代アジアのトルコ系(モンゴル系)遊牧民族である。
 日本民族日本人が尊敬し憧れ真似をした中華帝国(中国)とは、漢族系中国人の異民族支配を打倒した独立帝国ではなく、西方蛮族系遊牧民が中国を侵略して興した占領帝国であった。
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 現代日本人は、武士の心・志・精神・気概・士道を持っていないので、武士の子孫とはいけない。
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 日本では、出自が重要とされている。
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 2017年12月7日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [中世篇]
 43 『武士』は京都生まれ
 中世の歴史を考える上で、まず、『武士』って誰や、という問題がすぐ大きいと思います。
 かつて僕たちが学校で教わったのは、地方の有力者が自分で汗水たらして農地を開墾し、その土地を守るために武装したのが武士の始まりだ、という話でした。今年の高校教科書にも、そのような記述が出ています。
 〈10世紀に国司が国内支配を強化する中で、各地に成長した豪族や有力農民は勢力を拡大し、国司に対抗する時に、武装して弓矢をもち、馬に乗って戦う武士となった〉(『新日本史』山川出版社
 こういう考え方を、『在地領主制論』と言います。これは戦後石母田正さん(1912〜89)によって提唱されたもので、例えば関幸彦さんの『武士の誕生』でもそう書かれています。
 〈石母田の領主制理論は、マルクス主義の立場から武士を都市貴族=荘園領主に対抗しうる在地領主と規定し、これを中世への唯一の推進主体と認識することで、理論的な道筋を明らかにした。石母田の領主制理論は1960年代以降も、大枠としては支持されていた〉
 でも、今では研究が進んで、この考え方は下火になっています。代わって優勢になっているのが『職能論』で、これはごく簡単に言うと、武士は京都から始まった、という考え方です。
 武士は都の芸能人だった
 平安時代は、王家という権門と、藤原氏のような有力貴族の権門、それに延暦寺興福寺春日大社などの寺社の権門が並立していた時代だとすると、そういう人々は極端に言えば悪いことをかなりしているわけですから、誰かに守ってもらう必要がある。そこで武力を専門とする職能が始まった、『京武者』が誕生した、というのです。
 これを示す史料として、川合康さんは『源平合戦の虚像を剥ぐ』の中で大江匡房編纂『続本朝往生伝』を示しています。ここで武士は管絃・和歌・医方などの諸道・諸芸の一つとして数えられている。また同じ時代(11世紀)の『新猿楽記』(藤原明衡著)には、猿楽見物にやってきた人々の所能(職業)の一つとして、大工や僧侶、商人と並んで『天下第一の武者』も挙げられていて、川合さんは、〈武士特殊な芸能(技能)をもつ職能者と見られていたことがわかる〉と書いています。
 『新能楽記』の記述については木村茂光さんも、〈ここに記された武者には在地領主としての性格はまったくない〉(『中世社会の成り立ち』)と指摘しています。
 つまり地方の在野の人間が武士となり、その後で京都へ上がってきたのではなく、京都の有力な権門が用心棒を雇ったのが武士の始まりだ、というわけです。
 それは武士の具体的な戦闘技術や、武器そのものを見てもわかるのです。
 これは川合さんの本に書かれていることですが、武士に欠かせない技能は、馬を自在に操りながら弓矢を射ることでした。馳射(はせゆみ)・騎射(うまゆみ)・笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)などさまざまに呼ばれていますが、これはそれまでの歩兵中心の戦法からの転換であり、馬を活用した機動的な盗賊団などに対応するための、国家による軍制改革に基づいていたのです。
 だから木村さんも、〈一人前の百姓の資格として『腰刀』を所持し危険から身を守る=自衛する能力が不可欠であった。しかし、彼らが所持した腰刀と武士が帯した太刀や弓と同じ武力であると評価することはできない〉(前掲書)と指摘しているのです。
 そして、武士が着込む大鎧はもともと騎兵用で、京都の貴族社会で完成したものであり、京都の工人の高度な技術を不可欠とする製品でした。弓も、木弓に竹を貼り合わせて改良したものが使われましたが、この合せ弓というのは、まず宮廷の正月行事に用いられていたのです。そもそも馬上から弓矢を射るという技自体、宮中の端午の節句などに天皇臨席のもとで披露されたパフォーマンスだったんですね。
 こういうところから見ても、武士は京都が起源で、王家や貴族たちの用心棒として発生したと考えていいと思います。その意味では、在地領主制論者が想定していたような、支配階級の古い体制を突き崩していこうとするダイナミックな民衆の尖兵というようは、武士は権力者側の一員であり、軍事貴族と呼ばれるのにふさわしい存在だったようです。京都でそういう地位を得たうえで、
 『地方の荘園が荒らされているから、ちょっと片付けてこい』
 と命じられて、押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)というかたちで派遣されるようになっていった。
 これは荘園の成り立ちについて、地方から寄進されたというよりは、上皇などが上から証文を発してつくっていった面が強いという。前回の話と同様になっています。
 中国を真似た源氏の姓
 武士の代表が源氏と平氏です。
 源氏という名前がどこから来たのかと言えば、中国の北魏の政治家だった源賀(げんが、407〜79)からです。源賀は、もとは禿髪破羌(とくはつはきょう)ちう名前でしたが、北魏の太武帝に仕えたとき、太武帝が、
 『お前の一族と俺の一族(鮮卑拓跋{せんびたくばつ})はもとは一緒やったから、お前に源という姓をつけてやろう』
 と源の姓を与えたという故事があるのです。
 北魏、隋、唐と続く拓跋帝国は日本にとって憧れの対象の世界帝国でしたから、その初期の故事を引いて、天皇家から枝分かれしているのだから、ということで源氏と名づけたのだと思います。平城京の名も北魏の都から来ていましたよね。
 源氏には21流あると言われています。中でも一番家格の高いのは、村上天皇の血筋の村上源氏で、室町時代足利義満清和源氏)が氏長者(うじのちょうじゃ)になるまでは、村上源氏がずっと氏長者、本家だったようです。
 平氏の名前は、おそらく平安京の平から取っているのではないかというのが、学界の通説だと思います。桓武天皇の血筋の桓武平氏の血筋が一番有名ですが、全部で4流ぐらいしかなくて、21流もある源氏に比べると少数派だったのですね。
 源氏とか平氏、それに藤原氏橘氏というのが姓で、源平藤橘が姓の代表と言われていますね。これに対して名字(苗字)があります。
 名字はどうしてできたのか。例えば藤原氏でも、結局、道長・褚通(よりみち)の系統が本流になりましたね。そうすると、同じ藤原姓でも本流とそうでない人を区別しないといけないじゃないですか。そこで本性は藤原でも、近衛、鷹司、九条、一条、二条などと名字をつくっていったんです。もっとも、この五家は嫡流ですが。
 鎌倉幕府の執権になった北条氏も、もともと平氏ですが、他の平氏と区別するために北条と名乗ったのだと思います。源氏も足利氏とか新田氏などの名字に分かれています。そのように、住みついたところの地名などをもとにして名字ができていったと考えたらいいと思います。ただ明治時代になって法律で名字だけに決められたので、姓と名字を区別する考えはなくなってしまいました。
 軍事貴族の源氏と平氏は、前九年合戦・後三年合戦などの戦いを経て、武士の棟梁の地位を占めるようになっていきます。……」
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 日本を歴史教育は、戦後にGHQによって皇国史観愛国主義神話物語歴史からマルクス主義階級闘争史観科学論理歴史に改造され、1980年代から反日派敵日派外国勢力(中国共産党・韓国・北朝鮮及ぶ一部のアジア諸国)の外圧に従い東京裁判史観自虐歴史(日本人極悪非道の重罪人歴史)に塗り替えられた。
 日本の教育界・学界・大学の歴史教育は、マルクス主義階級闘争史観が主流派である。
 日本の知的エリートは、大学でマルクス主義的教育を受けている。
 歴史的事実として、マルクス主義は、高学歴の知的エリートで都市に浸透するが低学歴の庶民で地方には浸透しない。
 マルクス主義的革新派は都市部に多く、民族主義的保守派は地方に多い。
 共産主義勢力は、民意・世論・輿論を味方につけ、人民・大衆を扇動する為に、学校教育活動を重視していた。
 共産主義者の目的は、天皇制度を崩壊させ、天皇家・皇室・皇族を消滅させ、日本を共産主義国家に改造する事であった。
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 天皇主義者は保守的な庶民(百姓や町人)であり、異常なほどの熱狂的天皇主義者は最も穢れた非人・エタ・河原乞食(役者=歌舞伎役者・芸人=愚行で笑いを取って稼ぐ者など)・血と死に関わる職業人と山の民・海の民・川の民ら賤民達であった。
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 卑賤観から言えば、人を傷つけ命を奪う武器を使い、血を流し死と共に生きている武士は賎民の最たる存在である。
 武士は、庶民の尊敬を集める名誉な人間ではなく、庶民から知識のない野蛮な卑しい人間と嫌われていた。
 定職を持って生活する庶民からすれば、武器を振り回し暴力で生きている武士は半端者で正常な神経を持った真面な人間ではなかった。

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