🏹48〕─1─第1回朝鮮通信使。平仮名・片仮名を真似て訓民正音・諺文・ハングルを作った。1421年~No.147No.148No.149 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1421年 首都を北平(北京)に遷都し、反燕王派高官を家族諸共に根絶やしにして、支配基盤を固めた。
 1424年 永楽帝が死亡した。
 洪熙帝は、祖法の海禁政策を復活させた。
 外征や大土木事業などで銀貨が大量に国以外に持ち出され、海禁策で国際交易が出来きず銀貨の環流がなくなり、深刻な銀不足に陥った。
 中央の大官は、沿岸部の官職を引退した郷紳や豪商らを特権商人と認定し大型船を作り、地方の取締官史に賄賂送って、海禁を破り密貿易を行って銀を輸入した。
 一部の中国人商人は、私腹を肥やす為に、朝鮮人や日本人などの犯罪者を集めて海賊行為を始めた。
 非日本人による後期倭寇の始まりである。
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 1428年7月1日 世宗は、日本に使節団を派遣し、使節に日本にある『尚書』の購入と日本の紙や米などの製造法や建築技術の習得を命じられていた。
 日本を訪問した第1回朝鮮通信使の朴瑞生(パクソセン)は、世宗(セジョン)に、日本が朝鮮より優れている所が多いとする報告した。
 朝鮮からの使節団は、日本に来て文化・経済・技術など多方面で朝鮮よりも優れている事に驚き、帰国して日本を見習って朝鮮にも取り入れるべきであると報告した。
 灌漑に使われる日本式水車「揚水(ようすい)水車」を導入したのは、木を曲げる技術を習得した1800年代後半といわれている。
 朝鮮には、水車に必要な寸法通りの丸い枠組みを作るだけの技術がなく、その為に荷車もかった。
 335年後の第11回朝鮮通信使随行書記官である金仁謙(キムインギョム)も、朝鮮にはない淀川の水車を見て感動し、『日東壮遊歌』に「見習って作りたい」と書き留めた。
 朝鮮使節団は、日本の市場には御用商人だけではなく民間商人も商店を開き、全ての店頭にはあらゆる品物が並べられ、貨幣が流通していると報告した。
 「銭が盛んに用いられ、布や米による支払いを凌駕している。旅行する人々は、千里を行くにしても銭だけを身に付け、食糧を携帯しない。……重い荷物を持って、遠い道を行く苦労はない」
 朝鮮に於いて、貨幣が流通し始めたのは1600年代後半で、市場で民間人商店が品物を並べて自由に売り始めた1930年代に入ってからであった。
 物流は、荷車が無かった為に、人が品物を担いで運んでいた。
 庶民は、行商人らが開く闇市で生活物資を物々交換していた。 
 朝鮮通信使は、王侯貴族しか許されていない色とりどりの着物を、日本では身分が低い一般庶民が着ている事に驚かされた。
 朝鮮では、特権階級以外は白か薄汚れた色のチマチョゴリしか切れなかった。
 つまり、庶民の間では色彩は存在せず、使ったり持つだけで厳罰に処せられた。
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 日本は、外交能力がなく、外圧に弱いというのが世界的常識である。
 韓国慶尚南道馬山市議会は、日本領竹島を韓国領独島として実効支配している事を認めさせる為に、日本侵略に成功した3月18日を「対馬の日」と制定して、日本に圧力をかけた。
 現代日本は、自国領土を守る為の抗議をせず、主権を侵害されても沈黙を守った。
 北朝鮮軍は、軍隊を日本に侵攻させる為の上陸艦を持っていなかった。だが、100人以上の日本人を拉致したり、日本社会を混乱させる為の破壊工作員を送り込む小型潜水艦や小型高速艇を多数保有している。
 中国軍は、日米同盟を見据えて大型空母の建造などで海軍力を強化しながら、安心して太平洋に出る為に沖縄への軍事圧力を強めている。そして、海上の要衝である日本領尖閣諸島の領有を目論み、多くの核ミサイルの照準を日本に向けて威圧している。
 中国共産党は、貿易で得た資金を使って日本の土地や森林を買い漁っり、反米親中の世論を創る為に巨額の融資を行っている。
 日本の反戦平和市民団体や左翼・左派や知的リベラルは、自衛目的の武力行使を禁止した平和憲法第九条に則り、自衛隊の破棄と沖縄米軍基地のグアム移転による無力化を望んでいる。彼らは、「自分が殺されても、自分が愛する者や自分に関係する者が目の前で殺されようとも、けっして人を殺さない」を自己の信念とし、その非暴力無抵抗主義を日本人全員が共有すべきだとして子供達に教育している。
 彼等は、如何なる犠牲を出そうとも、話し合いによる平和を目差している。
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 神国日本は、島国である為に大陸の攻撃には無防備であり、決して海峡が日本を守ってはくれてはいなかった。
 神州日本は、何時の時代でも無防備国家であった。都市もまた、無防備都市であった。
 特に、現代日本は、国防意識がないだけに、東アジアの中で亡国になるかもしれないという危機感もない。身近にない、固有領土である北方領土竹島尖閣諸島の帰属には興味もなかった。
 「海」が日本を守ってくれていたと公言する日本人には、セキュリティーを語る資格はない。
 大陸の植民地帝国は、海に出る為に、絶えず小国日本の領土を自国領とし、日本人を奴隷にする為に侵略を繰り返していた。
 中国は尖閣諸島と沖縄を、朝鮮は竹島対馬五島列島を、ロシア・ソ連は千島列島と北海道を。
 サムライは、死活問題として閉鎖的生活圏の為に、巨大軍事国家である大陸国の侵略から祖国を守る為に戦っていた。
 島国日本の戦争の大半は、大陸に対する「自衛戦争」であった。
 名君世宗は、庶民にも読み書きできる様にハングル文字を創設した。
 漢学の素養のあるよ国際派朝鮮人は、ハングル文字を下等な愚民の言語として軽蔑し普及させる事に猛反対した。
 中国価値観を絶対視する事大主義から、民族文字であるハングル文字の使用は宗主国中国への反逆行為であるとして使用を禁止された。使用すれば、弾圧された。
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 1426年 第102代後花園天皇。近江坂本の馬借が、京都に乱入して公家や豪商の邸宅を襲い放火と略奪を行った。京やその周囲の下層民も、古代から差別され続けた不満から、騒動に参加して乱暴狼藉を働いて社会の荒廃は加速させた。
 これ以降、京や大坂などの近畿では、将軍や守護大名との主従関係を拒否する武士・国人は中央から自立する為に国人一揆を起こした。
 独立心の強い国人は、独自の地方政権を樹立する為に守護大名を追い出して国一揆、惣国一揆を起こした。下克上時代の到来である。
 1428年 正長の土一揆興福寺の僧尋尊「日本が始まって以来、土民が蜂起するのは初めての事である」
 1429年 播磨の土一揆
 朝鮮使節団は、帰国するや日本型水車による灌漑用水を報告した。
 世宗は、水車の製作を命じたが、悉く失敗した。
 李晬光(リサイコウ 1563〜1628年)「中国の水車は、(三国時代の)魏の馬均が初めて作った。田圃に水を引く事に効果があった為、世界へと広まっていった。最近、楊万世は日本で水車の作り方を学んで来た。非常に便利であるが、我が朝鮮の民は生まれつき愚かなのでこれを用いない。残念な事だ」
 下って、1881年の朝鮮通信使も日本の水車の作り方を学んだが、日本型水車を作る事ができなかった。技術レベルの低下の原因は、豊臣秀吉の1592年と1597年の倭乱によって有能な職人を全て日本に強制連行された為と言われている。
 朝鮮は、日本から大砲や鉄砲やや日本刀や鎧甲冑などの兵器と砂糖や漆食器などの生活用品と漢籍などの書物を輸入していた。
 日朝貿易において、朝鮮は輸入超過にあった。
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 中山の尚巴志は、北山と南山を滅ぼして琉球王国を建国した。
 琉球王朝は、中華思想に倣って、周辺海域の支配者として、先島諸島奄美大島など周辺諸島を差別し、臣下の礼をとり貢ぎ物を献上する事を強要した。
 儒教価値観を持つアジア諸国は、中国を頂点とした華夷秩序の下で臣下の礼をとっていたが、地元では独自の中華思想で周辺所部族に対して臣下としての朝貢を命じていた。
 東アジア諸国が中国を手本として国造りをした以上、朝貢を正当化する中華思想を持っていた。
 日本も、アイヌ琉球、朝鮮を朝貢者として遇していた事は自然な事であった。
 朝鮮のみが、東アジア世界で唯一朝貢国を持っていなかった。
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 1432年 足利義持の弟義教は、クジ引きで第六代将軍に選ばれた。新将軍義教は、幕府の財政を立て直す為に、明国に臣下の礼をとって勘合貿易を復活させた。
 1438年 鎌倉公方足利持氏は、関東を幕府から独立する為に反乱を起こした。永享の乱
 1441年 嘉吉の土一揆
 足利義教は、将軍の権威を取り戻す為に、有力守護大名を潰すという強攻策に出た。赤松満祐親子は、潰される前に逆に主君義教を殺すべく計画を立て、将軍を誘き出して殺害した。嘉吉の乱である。この後、有力大名による反乱が続いた。
 足利義教は、誉田八幡宮に、新羅百済高句麗の国王大臣が、日本の犬となって守護すべしと誓ったという『神功皇后縁起絵巻』を奉納した。
 日本史において、古代から、「朝鮮が日本の犬となる事を誓った」と云う事が常識となっていた。
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 1443年 申叔舟は、日本を訪問して、日本国内を見聞し、日本の軍事力や経済力から日本との和平を訴えた。『海東諸国紀』。
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 ピーター・F・ドラッカーは、日本美術品コレクターとして有名であるが、特に室町時代の雪村周継らの水墨画に惚れ込んで収集していた。
 「正気を取り戻し、世界への視野を正す為に、私は日本画を見る」
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 通信使は日本から帰国して、世宗に、日本が朝鮮よりも技術が優秀なのは庶民が読み書きでるからであり、庶民は漢字ではなく平仮名や片仮名を使っていると報告した。
 世宗は、庶民に教える平仮名や片仮名を真似た諺文(おんもん)を作るべく諮問機関を設立した。
 1444年 集賢殿副提学だった崔萬理は、上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル・西夏女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。
 世宗は、「これは文字ではない(中国文化に対する反逆ではない)、訓民正音(漢字の素養がないものに発音を教える記号)に過ぎない」として、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。
 が、事大主義的な保守派の反発は根強かった。
 1446年 世宗は、「訓民正音(民を訓{おし}える正しい音)」の名で公布した。に訓民正音の名でハングルを頒布した。
 1504年 燕山君は、ハングルの教育や学習を禁止し、ハングルの書籍を焼却、ハングルを使用する者を弾圧した。




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