☰47〕─1─日清戦争。新興弱小国・日本は、世界的植民地帝国・清国と戦った。明治27年7月23日。~ No.128No.129No.130 @ ⑮ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 朝鮮は、国際情勢を理解する能力がなかった。
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 日本は、ロシア帝国の侵略から祖国を守る為に、朝鮮を独立させ緩衝地帯にするべく戦争を起こした。
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 日本にとって日清戦争は祖国防衛戦争であった。
 日本は、清国から朝鮮を独立させる事と朝鮮の近代的内政改革を目的とする戦争であった。
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 シル(漢城駐在アメリカ弁理公使)の報告。「日本は朝鮮に対して非常に好意的である様に思える。日本が欲する事は、朝鮮に対する支那の宗主権という束縛を一挙に断ち切る事、そして次には朝鮮国民を平和と繁栄と啓蒙をもたらすような改革を援助する事によって、その弱き隣国が独立国としての地位を強化するのを助ける事、この動機は、多くの聡明なる朝鮮国官吏を満足させるものであり、またアメリアの否認すべきものでもないと考える」
 日本は、アメリカに対して、東学党の乱に対する派兵は天津条約に基づくものであり、朝鮮の近代化を促一環であり、朝鮮の領有化は一切考えていないと伝えた。
 朝鮮の近代化を成れば、即時撤退させると確約した。
 ワシントンの清国と朝鮮の両公使館は、アメリカ政府に対して、東学との乱が終結しても日本軍を駐留させているのは領土を拡大させる意図があると抗議し、撤退させる為に仲介する事を依頼した。
 アメリカは、日本が提出した改革要望書を受け入れれば朝鮮は独立を維持しながら近代的国内改革できると理解し、清国と朝鮮の仲介依頼を拒否した。
 ベイヤード駐英アメリカ大使への指示「7月11日 東京のダン公使は、日本の朝鮮駐留の軍隊は朝鮮との戦いの為ではなく、朝鮮の独立の保持、反乱再発の防止を目的として派遣されたものと日本政府から説明を聞いた。日本政府は、朝鮮官僚組織の腐敗一掃、公金横領の防止、政府組織改革を実現したいと考えている。清国は朝鮮に改めるべき事を改めさせていない。朝鮮の不安定な国情が東洋の平和を危ぶませている。これが日本の主張である」
 次第に。アメリカは、朝鮮を独立国として自立する能力がないと見限り、アジアの平和の為に日本に任せた方が安心できると考える様になっていった。
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日清戦争
 菊池寛「『これらの憐れな兵隊たちが、近代式な日本軍の砲火に刈り倒される準備をしているのは、見るに忍びざるものがあった。短期の訓練が終わると、派手な実用的でない軍服、即ち胸と背とに大きな円い的のついた真紅の短服を着て、欣々然として定められた運命へと行進して行く。10人毎に赤い旗をひるがへした棒を担いで行く。近づきつつある戦争についての一般の見解は、─日本が小癪にも反逆した。勿論支那はこれを鎮圧せねばならぬ、お安い御用だ─といふにあった』と、組織なき、駆り出された支那軍の哀れな状態を描写している」(『大衆明治史』)  
 ロシア公使ヒトロヴォーは、陸奥宗光外相に対して、朝鮮に対する欧州列強の干渉を防ぐ為に意見交換したいと提案した。清国に肩入れするイギリスを牽制する為に、日本との関係改善が目的であった。
 日本軍と清国軍は、朝鮮国内で対峙し、戦争は避けられない情況に至っていた。
 伊藤博文「英国艦隊が今、横浜にいて、函館の方に向かうようであるが、なるべく、朝鮮か、上海、あるいは横浜にでもいてくれたほうが、ロシア牽制上、はなはだ都合がよい」(陸奥宗光への書簡)
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 クリスチャンの内村鑑三は、日清戦争は、朝鮮を清国から独立させる為の「正義の戦争」として支持した。
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 イザベラ・バード「都市であり首都であるにしては、お粗末さはじつに形容しがたい。……路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体及び液体の汚物を受ける穴か溝で狭められている。悪臭ふんぷんのその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中を転げ回ったり、日向で瞬きしたりしている」(『朝鮮紀行』)
 首都・漢城ですら劣悪な衛生環境であり、地方ではさらに最悪な生活環境にあった。
 毎年、何処かで伝染病が蔓延し、数多くの病死者が路上に放置されていた。
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 1894年
 清国軍 自称 常備軍 約150万人。近代化できている兵力、数万人。
 日本軍 近代化した7箇師団約24万人を投入した。
 財政。清国、8,000万両(日本円で1億2,000万円)。
    日本円、9,862万円。
 清国は、アジア一超大国意識から、小国日本は戦わず軍門に降って臣下の礼をとるとみくびっていた。
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 世界の軍事専門家は、清国が本気で戦争をすれば、日本はひとたまりもなく敗北し滅亡すると分析していた。
 欧米列強は、清国を「眠れる獅子」と恐れていた。 
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 清国軍が最初の一発を発砲して、戦争に突入した。
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 7月23日 日本軍は、朝鮮側が最後通牒に対して期限を過ぎても回答しなかった事を理由にして、漢城への進撃を開始した。
 大鳥圭介公使と杉村濬一等書記官は、閔妃派を排除して親日派政権を作る為に、日本軍を動かして王宮・景福宮を占領し、国王高宗を拘束した。
 日本軍が、王宮に突入した事で戦闘が始まった。
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 7月24日 大鳥圭介公使は、嫌がる大院君を強制的に雲峴宮から景福宮に連れ出し、執政として高宗に代えて政務の権限を与えた。開化派の金弘集を領議政につけ、反日的な閔妃派閣僚を更迭した。
 大院君は政敵の閔妃を処分しようとしたが、大鳥圭介公使はこれ以上の混乱は好ましくないとして閔妃を庇った。
 日本側は、反日的な朝鮮政府軍を後方においては清国軍と戦えないとして、大院君に対して政府軍の武装解除を命じた。
 大院君は、日本側の不当な要求に屈し、朝鮮政府軍に対して武装解除を命じた。
 朝鮮政府軍は、日本軍の横暴に煮えくり返る様な怒りを感じたが、政府の命令に従って武器を日本軍に引き渡した。
 反日派は、秘かに、日本軍の動向を清国軍に伝え、反日武装闘争を計画した。
 日本側は、親中国派の大院君の暴走を抑える為に、内政と外交の最高決定機関として軍国機務処会議を設置し、金弘集を総裁官に任命した。
 日本の大鳥圭介公使が、顧問として参加し、朝鮮を親日に誘導し日本式の近代化を指導した。
 軍国機務処会議は、日本軍の圧力下で、半強制的に、日本軍の兵站輸送への協力と国内での自由行動を認める大日本大朝鮮両国盟約を結んだ。
 「日本国は清国に対して攻守の戦争の任し、朝鮮国は日本兵の進退および其の兵糧準備のため、及だけ便宜を与うべし」 
 高宗は、朝鮮は日本より上位者にあるという儒教価値観から、日本が大日本を名乗る以上、上位者の朝鮮も大を国名の前に付けるべきであるとして譲らなかった。
 日本は、大国清国との戦争を前にして、戦場となる朝鮮を敵に廻す事を避ける為にやむなく譲歩した。
 日本軍は、かっての豊臣秀吉の失敗を教訓として研究していた。
 大院君は、積年の恨みから、閔妃派高官を逮捕して遠隔地に流罪とし、王宮や政府から閔妃派を一掃した。日本軍の監視が厳しかった為に、反対派の大粛清は行わなかった。
 閔妃は、王宮の中に引いたが、日本と清国に変わる新たな勢力としてロシア帝国に期待した。
 日本側は、朝鮮から清国・中国の影響を完全排除する為に、明治維新で行った近代改革を雛形として、改革案である甲午更張の実行を強要した。
 ・朝鮮は、自主独立の国として、清国・中国の暦を廃し、中国皇帝の元号を使用しない。
 ・両班、平民、貴賤、門閥を問わず広く人材を登用する。
 ・公私奴卑を廃止する為に人別帳的文書の廃棄と、奴卑を奴隷として売買する事を禁止する。
 ・罪が、一族に及ぶ連座制の廃止。
 ・寡婦の再婚の自由を認める。
 ・アヘンの吸引の禁止。
 ・科挙制度を廃止して、近代教育による官吏登用法を導入する。
 ・宮内部職を独立官吏として、他の官職を兼務させない。
 ・官吏による権力を笠に着て不正に蓄財する事を禁止し、発見次第、処罰し、その財産を没収する。
 ・新しい貨幣制度を定める。清国・中国の貨幣を廃止して、独自の貨幣を発行する。税金は、その貨幣で正しく納める。
 ・度量衡は制定し、全土で統一する。
 ・その他。 
 事大主義の反日派は、祖先から受け継いだ高貴な伝統が破壊され、大陸から伝わった高度な儒教文化が汚されるとして猛反対した。 
 彼等は、中国を中心として華夷秩序が、下位国である野蛮な日本によって踏みにじられる事が我慢できなかったのである。
 高宗と大院君は、宗主国清国の勝利を確信して、日本側が要求する改革案を一時の方便として受け入れた。
 そして、秘かに平壌に集結した清国軍に、日本軍を駆逐し、臣下の朝鮮を横暴な日本から救出してくれるように依頼する信書を送り、同時に日本軍の動静を逐一知らせた。
 国防力を持たない朝鮮は、清国軍に国土防衛を依存した。
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 翰林院の文廷式「ロシア人は、朝鮮を得ようと欲する点では、日本より甚だしい。……朝鮮は黄海を扼し、これを取らないと、ロシアは東洋の海で思う事が出来ない。したがって、朝鮮のそばで虎視眈々としているロシアは、日本よりも恐るべき存在である。日本人もまた、これを知っている。日本が従来とも、朝鮮半島で色々策略をめぐらし、機会があればそれに付け込もうとしているのは、ただ清国に対して優位を得ようとしているだけでなく、ロシアが朝鮮に先に手をつけるのを深く恐れているからである。……北洋大臣李鴻章はロシア人に頼っているという説を聞くが、ロシア人を信用してはいけない」
 陸奥宗光「欧州列強の干渉は、招かなくとも、早晩、来るべき時には来るという事は、誰でも予測できる事だった。それを、清国政府は、自分から強国に向かって憐れみを求め、自国の体面を汚す事も考えず、ことさら、門を開いて豺狼を迎える様な愚計に出た。……もし将来、この極東方面が、欧州列強の勢力争いの場となる様な危機的事態が起こるとすれば、それは、今回の戦争がその発端になるものであり、清国が自ら招いたものと言わざるを得ない」
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 7月25日午前6時30分頃 豊島沖海戦。日本艦隊第一遊撃隊「吉野」「秋津洲」「浪速」の三艦と北洋水師所属巡洋艦「済遠」と小型艦「広乙」は、豊島沖で遭遇した。
 両国は、いつ戦争が起きてもおかしくない緊張状態の中にあっても、まだ宣戦布告はなされていなかった。
 午前7時25分 済遠は、不意を突いて第一弾を吉野に向かって発射した。
 吉野乗り組んでいた常備艦隊司令官坪井航三少将は、直ちに戦闘命令を下した。
 第一遊撃隊は、迅速に攻撃陣形を取り、反撃に出た。
 済遠と広乙は、猛攻を受け被害が出た為に降参を意味する白旗を揚げたが、砲撃を止めて接近した第一遊撃隊に砲撃と水雷攻撃を再開した。
 中国軍艦は、国際法を無視し、白旗を悪用して第一遊撃隊を誘き寄せ攻撃してきた。
 第一遊撃隊は、砲撃を再開した。
 中国軍艦二艦は、戦意を消失して逃走した。
 中国の戦争に於いて、勝利する為ならば国際的なルールも約束も全て守る気はなく、如何なる卑怯・卑劣な悪辣な手段も当然の事として実行した。
 対して。日本は、国際社会から近代国家として認めた貰う為に、国際法を遵守し、国際的ルールや約束事を全て守りながら戦っていた。
 中国は「汚い勝利」を目指したのに対し、日本は「綺麗な勝利」を心がけていた。
 高陞号事件。ロンドンの日本公使館付き顧問アレクサンダー・シーボルトは、高陞(こうしょう)号事件でイギリスのバルチー外務次官と面談した。
 「イギリスが不平等条約を改正したいま、日本はイギリスに大きな感謝の念を抱いている。二国間関係がこれからますます良くなろうというこの時期に、高陞号事件ごときで関係を潰していいのか」
 イギリスは、対露戦略から、日本をアジアでの重要なパートナーとして、国際情勢が読めない清国を見限った。
 イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキは、この問題に対し別個にタイムズ紙に寄稿して国際法を説明し、結論として日本側に違法行為はないことを主張した。
「高陞号の沈没したのは戦争が開始されたあとである。戦争というものはあらかじめ宣言せず始めても、少しも違法ではない。これは英米の法廷で幾度も審理され確定している。高陞号の船員は初め戦争が起こったことを知らなかったに違いない。だが、日本の士官が船に乗り込んできたときこれを知ったとみなさざるをえないし気づくべきであった。このとき英国旗をかかげていたか否かは重要ではない。戦争が始まったのであれば交戦国の艦艇は公海上ならあらゆる船を臨検し交戦国の船、第三国の船でも相手国向けの戦時禁制品が積んであればこれを没収、あるいは破壊・処分し、必要なら撃沈するというのは艦長に認められる権利だからである。日本水兵が乗船しても捕獲することは不可能と認められるので、日本の(浪速)艦長が、いかなる暴力を用いようとも、それは艦長の職権である。また沈没後に救助された船員は規則通り自由になることができたので、この点でも国際法に背馳していない。それゆえ日本政府が英国に謝罪する義務は生じない」。
 7月29日 日本軍の大島混成旅団約3,000人は、牙山の清国軍約2,000人を攻撃して敗走させた。
 大院君は、緒戦での清国軍の敗走に衝撃を受けたが、最後には大国清国が勝利する事を確信していた。
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 清国の「宣戦上論」(「宣戦布告書」)「朝鮮は我が大清の藩属であり、二百余年にわたって臣下の礼をとって貢ぎ物を納めてきた事は、国内外に知られている」
 清国は、朝鮮の独立を認めず服属関係を絶対化し、武力で半島全域を占領して日本を追放使用とした。
 清国も朝鮮も、アジア侵略の為に南下してくるロシア帝国よりも、ロシア帝国の南下に危機感を抱く日本を脅威と見なしていた。
 日本は、西洋列強が植民地を拡大しながらアジアに進出してきているという世界情勢を見ながら、国家戦略を立て軍備を強化していた。
 清国や朝鮮は、世界情勢を理解できず、目先の日本しか見ていなかった。 
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 8月 福沢諭吉は、私財から1万円の金を軍事費の足しにするように献金し、時事新報の社説で「日清の戦争は文野の戦争なり」として開戦を支持した。
 そして、朝鮮改革の為に日本軍を派遣すべきであると言う自説を訴えた。
 東学の残党は、清国が味方する政府を相手にするより、清国が敵視する日本を攻撃した方が政府内の反日派の支持が得られると判断した。
 閔妃派政権は、漢城の日本公使館に対して、公使館員や居留民保護目的の約400名の海軍陸戦隊と警視庁巡査隊は数が多いと抗議し、即刻退去させる事を要請した。
 大鳥圭介公使は、撤兵要求を拒否し、さらなる兵団が上陸する予定であると圧力をかけた。
 だが、日本には朝鮮に派兵する名分は無かった。
 漢城の清国代表袁世凱は、日本の軍増派情報をはったりとして、信用しなかった。
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 8月1日 日清戦争の勃発である。
 伊藤博文首相は、閣議で決定した「宣戦の詔勅」原案を明治天皇に提出した。
 明治天皇は、本心では清国との戦争は不本意であったが、憲法に規定し従って「宣戦の詔勅」を裁可した。
 「朕の戦争に非ず、大臣達の戦争なり」
 各大臣は、憲法に従って連署して「清国に対する宣戦の詔勅」は正式に公布された。
 清国側は、大国という自信から、巨大な軍事力を見た小国の日本は恐怖して謝罪し従属を表明するこそすれ、まさか無謀にも戦争を仕掛けてくるとは信じていなかった。
 李鴻章は、朝鮮内の内通者の情報を得て対日作戦を練り、朝鮮へ軍隊と艦隊を移動させた。
 清国の反日強硬派は、「天皇」が支配する西欧化した日本を懲罰し、野蛮化した日本を儒教に基づく「徳」「道徳」で正道に戻すべきであるとした、日本征服計画案を「皇帝」に提出した。
日本政府は、戦費を賄う為に消極的外債政策から漸次積極的金融政策に転換した。同時に、イギリスのエジプトに対する経済支援を参考にして、朝鮮に対して借款供与を行う。
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 日本陸軍は、原案に朝鮮国をも敵国に含める事を求めたが、伊藤博文首相らが反対し、明治天皇が裁可しないだろうと言う事で断念した。
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 日本政府は、国際社会に日本は近代国家である事を知らしめる必要から国際法をを全軍に厳守する様に命じ、各軍司令部に各国の観戦武官や国際特派員を帯同させた。
 日本軍は、厳しい軍律を持った西洋式軍隊として、軍事物資の運搬などの作業に朝鮮人や中国人を雇い、高額な労賃を正確に支払った。
 清国軍は、規律なき中世期の軍隊として、日本軍と戦わず各地で略奪と虐殺を行っていた。
 アジアに利権を持つ西洋列強は、日清戦争ロシア帝国の南下に利するだけであるとして、アメリカに戦争終結の仲介を依頼したていた。
 アメリカは、問題は朝鮮が自主独立国として自己決定する事であるとして「仲介」を拒否し、朝鮮駐在アメリカ公使に「周旋条項」を持ち出さない様に朝鮮政府に釘を刺す様に命じた。
 アメリカは、局外中立の立場を取りながらも、極東アジアの安定の為には日本側の主張が道理にかなっていると支持していた。
 アメリカ人は、事大主義で大国の庇護を求めて努力しない朝鮮に幻滅を感じ、小中華思想で尊大て傲慢な態度をとって恥じない朝鮮人に嫌気をさしていた。
 日本は、日清戦争で、アメリカとイギリスの支持を取り付けていた。
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 8月15日 日本側は、金弘集を首班とする親日派政権を樹立させ、日清戦争への協力を取り付けた。
 大院君は、近代化の名目で儒教的王朝体制を破壊する日本に嫌悪し、清国側に日本軍の情報を流し、ロシア帝国には朝鮮への干渉を有利にする為に別の情報を伝えた。
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 8月20日 朝鮮は、日本との間で日韓暫定合同条款を締結し、日本に鉄道施設健を認めた。
 日本は、朝鮮の近代化には鉄道事業と製鉄事業が欠かせないとして、資金提供、技術者派遣、技術供与を行った。
 今日の韓国・北朝鮮の鉄道網及び主要幹線道路網は、日本が国家予算を投じて建設し整備したものである。
 さらに、釜山港など主要港湾を国際港並みに整備し拡張した。
 1945年までに、莫大なる血税を投じて総延長距離5,000キロメートル以上の鉄道を施設した。
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 親清国派朝鮮人は清国に、親露派朝鮮人は、日本を滅ぼす為に情報を流していた。
 反日朝鮮人は、日本を滅ぼす為なら如何なる事でも行っていた。
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 9月15日 山縣有朋が率いる日本軍第一軍1万7,000人は、最新式兵器を装備した1万2,000人の清国軍主力部隊が守る平壌城を攻撃した。
 清国軍は、日本軍の猛攻で敗走し、遼東半島の旅順と大連に後退した。
 清国軍本営跡で高宗、大院君、閔妃らの信書を押収したが、清国領への侵攻を控えて、事を表沙にする事は好ましくないとして一時不問とした。
 9月17日 黄海海戦。日本艦隊11隻、総砲門数は大口径砲11門を含む220門。清国北洋艦隊14隻、総砲門数は大口径砲21門を含む162門。両艦隊の戦力は、清国北洋艦隊が圧倒的に優勢であった。
 海戦は、日本艦隊の圧勝に終わった。
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 東学党の第2回蜂起。
 「斥倭斥化」(日本を排斥し、開化を排斥する)
 東学党幹部の全琫準は、日本人を朝鮮から追い出すべく、南部の政治的東学党派・南接派の支持を得て再蜂起を決意し、解散した農民軍の再結成に取り掛かった。
 北部の東学教団第二世教主崔時亨は、非政治的宗教活動にこだわり、政治活動として再蜂起する事には反対した。
 崔時亨や高弟の孫秉熙ら北接派は、日本の侵略から祖国を救うという主張を受け入れ、両派による一斉蜂起に同意した。
 日本軍は、東学党の不穏な行動を察知して、漢城周囲の守備を固めた。
 朝鮮人盗賊団は、自分は東学党であると嘘をつき、半島各地で犯罪を行い、略奪と虐殺を行っていた。
 安重根の父親である知日派の安泰勲は、義兵団を結成して東学党、盗賊団、民衆暴徒らを攻撃して鎮圧した。
 安重根は、義兵団に参加して、政府の勝利の為に貢献し、日本軍に協力した。
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 朝鮮政府は、国家の面子から東学党軍を撃破し、治安回復の為に半島内にいる東学党を徹底的に弾圧した。
 日本政府は、清国の復讐戦とロシアの侵略を恐れて、朝鮮政府に東学党の叛乱鎮圧を迫った。
 朝鮮政府軍は、日本軍の協力を得て、武器を持った東学党残党も武器を持たない無抵抗な東学党も容赦なく捕らえて銃殺や焼殺などの処刑方法で殺戮した。 
 約5万人の東学党が殺された。
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*朝鮮王国の独立
 10月24日 日本軍第一軍は、清国軍を追って国境を越えて進軍した。朝鮮北部には、補給部隊などの少数部隊がいるのみで、南部には日本軍部隊はいなかった。
 東学党が組織する農民軍1万人は、「斥倭斥華」を旗印に全羅道全域で蜂起した。
 同様の農民蜂起が全土で起きたが、清国軍が朝鮮半島から敗走した為に、目的は日本軍の後方の兵站の破壊であった。
 半島南部で蜂起した反日農民軍11万人以上は、「逐滅倭洋」「除暴救民」「保国安民」を旗印に掲げた。
 漢城の日本公使館は、農民軍討伐の為に、朝鮮政府軍内の親日派将兵約1,400人に武器を返還した。
 日本政府も、清国との戦闘中の事であり、事態の深刻さを痛感して予備兵力を治安用に派遣した。
 日本軍は、朝鮮政府軍と共同して東学農民軍の鎮圧に全力をあげた。
 10月26日 日本政府は、大院君の利敵行為を封じる為に、李氏朝鮮王朝に同情的な大鳥圭介公使を解任し、内務大臣の井上馨を後任公使として漢城に送った。
 井上馨公使は、清国に内通し、ロシア帝国を引き込もうとしている、大院君を執政の座から追放して高宗を復権させた。
 王宮の奧で身を潜めていた閔妃も、高宗の復権と共に政務に関与し、追放されていた閔妃派を集めて政権復帰を画策し始めた。
 閔妃も、反日派として、清国の最終勝利を信じて情報を李鴻章に流し、ロシア公使ウエーバーに接近した。
 日本側は、改革派である親日派官僚の協力をえて、朝鮮を世界に通用する近代的法治国家に改造する為に経済従属化政策を強制した。
 守旧派は、正統派儒教による前近代的人治国家を守る為に抵抗したが、日本軍の武力の前に屈服した。
 反日派は、日本に対抗する為に清国や帝政ロシアなど協力し、日本側の情報を流していた。
 井上大使は、荒廃した朝鮮を整備し近代化させる為に、朝鮮政府の歳入約750万円のうち500万円を内政改革の経費にあてる様に内政干渉した。
 朝鮮は、計画性無き財政の失敗と王族や高官らによる国費の私的流用で破綻状態にあった。
 日本は、朝鮮における国内整備に必要な経費の不足分を補う為に、関税収入を担保として借款供与を決めた。
 同時に、鉱山開発や電信施設整備や鉄道敷設や道路及ぶ橋梁建設の権利を獲得した。
 民族派は、日本主導のインフラ整備を経済侵略と反発した。
 陸奥宗光外相は、借款供与を認めたが、政府間ではなく民間で行うべきであると主張した。
 三井など民間の金融業者は、反日的にして政情不安定な国情を考慮し、利率1割以上として、担保に関税収入を要求した。
 そして、返済が不能に陥るのを防ぐ為に、独自で特別紙幣を発給する権利と国庫を管理する許可を求めた。
 だが、民間主導にした時、欧米のユダヤ系金融業者が日本側の条件より低い条件を提示してくる危険性があった。
 金融能力の脆弱な日本は、国際金融資本の外圧を恐れた。
 政府は、朝鮮を親日派で固める為にも、借款供与を民間ではなく国家で行う事を必要がある判断した。
 衆議院は、審議を重ねた末に、翌28年2月に政府案である、臨時軍事費から300万円を朝鮮に借款する事を認めた。
 朝鮮側は、日本が提示した借款条件に猛反対した。日本側は、清国との戦争継続中であり、アジア侵略を進めるロシア帝国やアジア市場の独占を狙う欧米金融資本を警戒して、朝鮮側の要求を受け入れ、妥協案で契約を結んだ。
 財務官の一部は、財政力の貧弱な日本が、自業自得で財政破綻した朝鮮王国に、貴重な財源を提供する事に猛反対した。
 軍人の一部も、世界最強の陸軍を持つロシア帝国との戦争の為に増強が急務な時に、自浄能力のない無能力な朝鮮に、貴重な資金を回す事には同意しなかった。
 何時の時代でも、相手の事を思い遣る日本の譲歩は裏切られた。
 朝鮮や中国は、自国の利益しか考えず、日本の利益への配慮は存在しない。
 日本の無能な政治家のみが、相手の主張に合わせる様に譲歩し、「相手の面子」に配慮して妥協案を提示する。
 物分かりの良い日本の政治家には、国際的な政治・外交・経済・軍事の能力は皆無である。
 えてして、そういう無能な日本人知識人は真顔で「徳」や「道徳」を気軽に口にする。
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 日本軍第一軍は、九連城を陥落させ、さらに幾つかの城塞を奪いながら清国領内へと進軍を続けた。
 日本政府は、戦争を早期で解決する為に、極秘で講和の道を探り始めた。
 但し、弱気と取られ交渉が不利になる事を恐れ、軍部は北京まで進撃して清国皇帝に城下の盟を強要すべきと息巻いた。
 11月 日本側は、王宮の政治干渉を排除し、朝鮮を親日派で固める為に、金弘集を首班とする開化派政権を樹立した。
 同時に、軍国機務処会議を廃止して全ての権限を新政権に移した。
 日本軍と朝鮮政府軍の連合軍は、農民軍に比べて兵力は少なかったが、近代兵器を装備していた。
 連合軍は、公州で北上してきた農民軍を激闘の末えに撃退した。
 朝鮮政府軍は、治安回復の為に、敗走する農民軍残党を反逆者として各地で掃討し、参加した農民や蜂起に賛同した者への弾圧を強めた。
 残党狩りは、この後、10年以上続いた。
 殺害された者は、40万人以上と言われるが、実数はさらに多いとされている。
 朝鮮人民は、朝鮮政府軍の執拗な弾圧を日本軍の所為として、日本への憎悪が増した。
 11月21日 大山巌(下級武士出身)大将率いる第二軍は、1万3,000人以上の清国兵が守る旅順要塞を攻撃したが、清国軍は戦わずに敗走した為に無血占領した。
 この時、日本軍による大虐殺が起きたとされている。
 日本軍は、兵站線が延びて補給が困難となった事を理由にして進軍を停止し、冬を越す為の野営を張った。
 12月28日 金琫準は、逃亡に疲れ報奨金に目が眩んだ部下の裏切りによって捕らえられた。翌95年4月23日に、仲間と共に処刑された。
 日本は、東学党農民軍を鎮圧して後顧の憂いを取り除いたところで、清国・中国と結んだ全ての条約を破棄させ、大改革として「洪範十四ヵ条」を押し付けた。
 日本軍の占領下にある朝鮮には、強要された「洪範十四ヵ条」を拒否する権利はなかった。
 王家と高位高官らの日々の享楽で民衆が飢え、王族と政治家による政治の私物化で国土は疲弊していた。
 朝鮮は、中央から地方まで、上から下まで、横領や賄賂が横行して腐敗堕落し、犯罪を犯しても法ではなく縁故や金銭で有耶無耶にされていた。
 儒教による個人的政治体制から、国政は無能無策の体たらくとなり下がり、計画性がない為に国家財政は破綻し、現実無視の理論理屈が横行して国家の体をなしていなかった。
 日本側は、朝鮮を日本化する為に強硬な改革を強制した。
 王家によって、国家財政が私物化される事を防ぐ為に、国庫と宮廷費を完全分離した。
 王権は制限され、国王といえども法律に従う義務が明記された。
 国王はもちろん王妃や王族が、政治に干渉し、官僚の任命および解任の権限は買官買職の温床であるとして取り上げた。
 朝鮮国王は、中国皇帝が任命した属国の王ではないとして、今後は、中国皇帝や天皇同様に「殿下」ではなく「陛下」の尊称がもちいられた。
 日本側は、朝鮮を親日化する為の洪範十四ヵ条が成立した以上、大院君の使い道がなくなったとして執政の座から降ろした。
 大院君は、清国軍への密書を日本側に握られていた為に、退陣要求を拒否できなかった。
 日本とロシア帝国は、朝鮮駐屯部隊の無制限な兵力増強は武力衝突の原因になるとして、兵力を制限する小村・ウェーベル覚書を交わした。
 両国は、合意に従って一個中隊200名を越えない三個中隊を、漢城と釜山に駐屯させた。
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 1895年1月7日 高宗は、王族と文武百官を従えて宗廟を詣で、祖宗を祀る大廟を参拝した。
 伝統的祖法を捨て、新たな国政の大綱である洪範十四ヵ条を発表した。
 内心は、下劣な倭夷・日本の強要によってやむをえず祖法を歪める事を詫びた。
 高宗をはじめ全ての者は、儒教の攘夷思想から朝鮮の近代化には反対であったが、日本側の威圧に屈し断腸の思いで改革案を受け入れ、そして屈辱に慟哭した。
 各地の両班は、500年間すべての規範としてきた受け継いだ儒教価値観を守る為に反日闘争に起ち上がった。
 日本側の圧力で、今後は、国王と王族が各大臣の輔弼で国政を決裁し、王妃の外戚を政治に関与させないと宣言した。
 王族は、政治の場から閉め出され、利権によって暴利が得られなくなった為に、日本側の横暴に激怒した。
 閔妃は、王権が制限され、宮廷費が削減され、国庫が自由にならなくなった事に激怒し、日本を呪った。
 高宗も、内心では、傲慢に内政干渉を続ける日本への怒りがみなぎっていた。
 朝鮮政府は、日本に習って、断髪令を発布し、公式の場での洋服を強要した。
 民衆の自主性に任せたは、永久に近代化はできないとして、官吏が町に出て通行する人の髷を強制的に切った。
 両班はもちろん一般の民衆さえ、その強引さに激怒した。
 両班は、儒教の教えから「孝」を最高の美徳として、祖先崇拝をすべてに優先した。
 彼等は、断髪令を祖先冒涜として恐れ、断髪を逃れる為に地方に逃れて反日団体を組織した。
 1月20日 日本軍は、山東半島の軍港威海衛攻略の為に黄海を渡った。連合艦隊も、威海衛に逃げ込んだ北洋艦隊の残存艦隊を殲滅するべく出動した。
 2月2日 日本軍は、威海衛の砲台にいた清国軍守備隊を敗走させて陸地を占領した。
 2月12日 北洋水師司令官丁汝昌は、降伏を申し込んで、自決した。
 2月17日 連合艦隊司令長官伊東祐亨は、敗戦の責任を取って潔く自決した丁汝昌提督に敬意を表し、その遺体を辱め不潔なジャンクで帰国させるのは軍人として恥ずべき行為として、明治天皇の裁可を得ず独断で捕獲した輸送船「康済号」で帰国させた。
 大本営の許可を得ず独断で、戦利品である康済号は遺体移送任務終了後は返却する必要はないと付言した。
 連合艦隊将兵は最上甲板に整列し、白旗を掲げて帰途に就く康済号を、挙手の礼をもって見送った。 
 伊東は、敵将・丁汝昌への哀悼の意を表すべく、松島に弔砲を撃たせた。
 日本海軍を勝利に導いたのは、参謀長であった島村速雄であった。
 日本軍と共に戦場を移動していた各国の観戦武官や特派員達は、日本軍人の武士道精神を美談として打電した。
 サムライであった日本軍将兵は、戦場は人と人とが殺し合う醜悪な現実であっただけに、醜さを承知で「潔さ」で戦争の美談を生み出し、哀れな死に花を手向けた。
 2月22日 東京日日新聞「世界に向って誇るに足る 帝国軍隊の行動 仏国従軍記者驚嘆して語る」
 日本軍は、国際赤十字に協力する皇室の意をくんで、敵軍司令官には最大限の敬意を払って厚遇を与え、敵軍傷病兵は保護し治療し看護し、敵軍戦死者は丁重に葬り慰霊を行った。
 皇軍は、誰かが見ていようが見ていなかろうが、天皇の御稜威を忖度して行動していた。
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 清国皇帝光緒帝は、これ以上の敗北を続けては大国としての面子が潰れるとして、アメリカやイギリスを通じて日本との講和を求めた。
 日本は、清国は依然として大国としての自負心が強く、敗北を認めて講和を望んではいないと判断した。
 講和交渉を有利に導く為にも、清国に敗戦を自覚させる為に難癖を付けて時間稼ぎを行った。
 この間、日本軍は北京への進軍など好戦的姿勢を強め、清国軍に圧力を加えた。
 アメリカやイギリスは、日本が勝ち続けると日本に権益が奪われると警戒し、清国に対して日本側の要求を受け入れる様に要請した。
 3月3日 光緒帝は、これまでの責任が取れない下級閣僚に替えて、責任が取れる大物として李鴻章を全権大臣に任命して日本に派遣した。
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 3月20日 伊藤博文李鴻章は、下関で講和交渉を始めた。
 日本は、交渉を有利に運ぶ為に、日本軍に進撃を命じていた。
 清国側は、自国軍が連戦連敗で敗走している為に、大国としての面子から強硬に停戦を求めた。
 3月23日 李鴻章は、交渉会議を終えて宿舎の印接寺に向かう途中で、右翼過激分子に狙撃されて負傷した。
 日本側は、ロシア帝国などが清国に有利な条件で講和交渉をまとめにくる事を恐れて、これまでの強硬な要求を緩和して条約をまとめる事とした。
 右翼・右派の民族主義者は、単細胞的に行動していた。
 3月30日 日本側は、譲歩して休戦に同意した。
 各戦線の清国軍は、日本軍の猛攻にあって敗走した。
 敗走する清国軍兵士は、各地で略奪と虐殺を行い、放火を繰り返した。
 中国軍にとって、敵軍に何も残さず灰にするのが基本戦略であり、現地住民の中に多くの破壊工作員・便衣隊を忍ばせるのが常套手段であった。
 日本軍は、民間人に変装した清国軍兵士を処刑した。
 それが、戦争犯罪とされた軍港旅順虐殺事件である。
 反日派国際報道機関は、日本の非人道行為を非難した。
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 朝鮮は、統一新羅以来ようやく中華帝国から独立できた。
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 4月17日 下関条約が調印された。
「1,清国は、朝鮮が完全な独立自主の国である事を、承認する。
 2,清国は、遼東半島と台湾、澎湖島を日本に割譲する事。
 3,清国は、賠償金2億両(日本円で約3億円)を日本に支払う事。
 ……」
 日本は、戦費約2億円と約10万人を動員した。
 日本軍の戦死者は約1万7,000人で、そのうち約7割がコレラチフスや呼吸疾患などの風土病による病死であり、残りが戦死である。
 日本の勝利により、3000年以上続いてきてきた儒教の宗属関係による華夷秩序(天朝朝貢冊封体制)は終焉し、万国公法による近代国民国家型国際秩序がアジアを支配した。
 時代は、弱肉強食・弱者必滅強者必勝の帝国主義であった。
 負けた者は、植民地となって滅ぶのが国際常識であった。
 そこには、話し合いによる平和は存在しなかった。
 清国は、日本に支払う賠償金をフランスの銀行から借りる為に、ロシア帝国に口利きを依頼した。
 清国は、日本への復讐船の為にロシア帝国と極秘軍事同盟関係に入り、強力な軍事力を付ける為に近代化政策を始めた。
 日本に本心を見られない為に、日本人に人懐っこいにこやか笑顔を見せ、警戒心を説く為に馴れ馴れしく近付いた。
 中国人の本心は反日であって、親日になる事は金輪際ない。
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 朝鮮は、屈辱的な迎恩門を破壊して独立門を建設した。
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 日本は、清国・中国との戦争に勝つ事で、中国の属国であった琉球王国を完全に日本の領土とした。
 これ以降、琉球が日本の領土である事に異を唱える者はいなくなった。
 そして、中国領台湾も領有した。
 日本は、沖縄と台湾を領有する事により、産業発展に必要な資源の安定供給を可能した。日本の産業にとって、東シナ海南シナ海は大動脈であった。
 台湾の儒教的知識人や民族主義者は、祖国・中国への復帰を希望し、日本の支配に対する反対運動を始めた。
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 朝鮮は、中国同様に不衛生な為に飢饉と共に疫病が蔓延し、近代医学と公衆衛生学による医療制度が整備されていなかった為に、大量の病死者を出していた。
 ビショップ夫人「下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外へと排泄している。その為、下水道の泥は真っ黒で、幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている」(『30年前の朝鮮』)
 ダレ神父「水は何処もまずく」(『朝鮮事情』)
 下関条約成立後。国際社会は、李氏朝鮮を主権を持った独立国家として認めた。
 アメリ国務長官から駐清公使ヤング宛書簡「朝鮮の清国からの独立は、いまや確立されたものと合衆国は見なしている」
 清国(中国)国民は、弱小国日本に屈辱的な下関条約を押し付けられたと知るや、世界の中心にある大国としての面子が潰されたとして激怒した。上位者に逆らい従わない小人国家日本に、今度こそ正義の鉄槌をくだすべきでると、中国皇帝に復讐戦を要求した。
 光緒帝は、勅諭を発して、軍費を貯めて軍隊の近代化を図り、練兵を行って強兵を育成し、その後に地上に正しい王道を広めるべきであると宣言した。
 つまり、何時かは日本に復讐戦を挑むが、今はその時ではないと。
 清国・中国は、日本に笑顔をもってにこやかに友好を語るが、裏では復讐を誓った。
 中国人は、臥薪嘗胆を信条とし、如何なる些細な事でも数倍返しの復讐を誓い、対等な関係での友好をけっして望まない。
 勅諭「以後、清国上下は、堅苦一心、痛く積弊を除くを期し、練兵と軍費の両大端において、実力を研求し、速やかに興事をはかり……」
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 日清戦争で戦死者した約3万人は、靖国神社に軍神として祀られた。
 戦後日本の国民感情は、政府高官が公式に参拝する事は憲法違反であるとしている。
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 4月 ロシア帝国は、ドイツ帝国とフランスと共に、「日本が遼東半島を領有する事はアジアの平和を危うくし、朝鮮の独立を危険に晒す」として、遼東半島の放棄を求めた。三国干渉である。
 日本は、三国干渉を受け入れた。
 朝鮮の反日派は、清国軍・中国軍の復讐戦を誘う為に、義兵暴動を起こして日本軍部隊を攻撃していた。 
 閔妃とその一族は、朝鮮から日本を完全に追い出す為に、アジア侵略を計画しているロシア帝国を引き込もうとしていた。
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 日清戦争後。リゼンドル(在日アメリカ領事)「北は樺太より南は台湾に至る一連の列島を領有して支那大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮半島満州に発言力を持つにあらざれば、日本帝国の安全を保障し、東亜の時局を制御する事は出来ない」
 リゼンドルは、外務省顧問として、日本軍の台湾出兵は日本の自衛措置として必要であると建言した。



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