☰41〕42〕─1─天津条約。閔妃の陰謀。大阪事件。巨文島占領事件。朝露密約。甲午改革。大院君の王位簒奪計画。明治18年~No.106No.107No.108No.109No.110No.111 @  

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 極東アジア史では、日本海を「渤海海」と呼ぶ。
 渤海王国とは、親日派国家であった。
   ・   ・   ・   
 閔紀は、第四代世宗の母方である名門・閔氏の出身で自尊心が強く、儒教価値観で身分低い者を下賤として見下していた。
 四書五経を諳んじ、孫子兵学にも通じる、高度な文化的素養を持った才女であった。
 日本から派遣されてくる外交官や軍人は、公家や大名ではなく、武力で幕府を倒して高位高官となった下級武士か町人であった。
 閔妃は、知性も教養もない、がさつで、下品で、粗野だけの無知無学な日本人を野蛮人として嫌った。
 世界の常識では、大使・公使などの上級外交官や高級将校になるのは洗練された教養ある貴族出身者であった。
   ・   ・   ・   
 日本政府は、清国との戦争を避ける為に、開化派を政治亡命者としながら身柄を軟禁状態においた。
 開化派は、日本の裏切りを不誠実となじった。
 朝鮮政府と清国軍は、金玉均らを暗殺する為に多数の刺客を日本に送り込んだ。
 日本政府は、政変の事後処理の為に、井上馨外務卿を特使として朝鮮に派遣した。
 朝鮮は、日本側の要求を全てのんで漢城条約を結んだ。朝鮮側が、全面的譲歩の屈辱を受け入れたのは、宗主国清国の圧力があったからである。
   ・   ・   ・   
 1885年1月 大阪事件。大井憲太郎らは、金玉均親日派に協力して朝鮮改革を断行し、親中派や保守派を追い込んで動乱を引き起こさせ、日本政府の外交失敗を追求して政変に持ち込もうとした。
 官憲は、大阪にいた大井等を逮捕した。
 ロシア帝国は、ドイツ人メンドルフを顧問に送り込んで閔妃に接近させ、陸から朝鮮半島に忍び込もうとしていた。
 閔妃派は、独立自尊の気力なく、祖国滅亡の危機感を持たず、金銀財宝の賄賂を貰う事で西洋諸国を引き入れようとしていた。
 閔妃は、ロシア帝国との反日的提携を成立させる為に、優柔不断の高宗を説き伏た。
 外交顧問のドイツ人メンドルフは、謝罪使として東京に赴きロシア公使館書記官スペールと密談した。
 日本は、朝鮮と漢城条約交渉を始めた。
 閔妃は、王宮外交として朝鮮政府に報せず、メンドルフと密使をウラジオストック(名前、東方を征服せよ)に送った。
 朝露密約。
 1,金玉均ウラジオストックに上陸したら、ロシアは逮捕して身柄を朝鮮政府に引き渡す。
 2,日本への賠償金は、ロシアが日本政府への影響力を行使する。
 3,外国(日本)が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手する。
 4,朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。
 そして、天津条約における「朝鮮は自国で軍隊を訓練するとき、訓練の教官を日本・清国以外の国に依頼する」件について、軍事教官をロシア軍に依頼すると要請した。
 朝鮮政府は、王宮外交の朝露密約を報されていなかった為に、軍事教官をアメリカに依頼する事を決定した。
   ・   ・   ・   
 3月 朝鮮政府は、日本に対して、金玉均ら国事犯の身柄を引き渡す様に特使を派遣した。
 吉田外務大輔は、該当者は国内にはいないし、いたとしても国際法上から引き渡すわけには行かないと拒否した。
 3月16日 福沢諭吉は、中国人と朝鮮人の残虐非道の暴挙に絶望して『脱亜論』を発表した。
 4月3日 天津会談。日本と清国は、天津条約を結んだ。清国側、李鴻章。日本側、伊藤博文西郷従道
 伊藤博文は、「今後は第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清共に朝鮮に出兵するべきでない」との、『永久撤兵案』を提示した。
 日本は、ロシア帝国の南下に備えて軍備を強化するべく、朝鮮をめぐって清国との戦争は避けたかった。
 李鴻章は、清国は朝鮮の宗主国としての義務から要請されれば派兵しないわけには行かないと、拒否した。
 清国の一部には、朝鮮を属国ではなく領土として併呑すべきとの意見もあった。
 4月16日 日清天津条約。1,両軍の朝鮮からの共同撤兵。2,軍事顧問の不派遣。3,今後の出兵に際しての相互通告。
 李鴻章は、軍事大国という傲慢から、「清国軍兵士が逃走する日本人居留民を殺傷したのは戦闘中の出来事であるとして」、謝罪要求を拒否した。
 清国が、日本と妥協したのは、清仏戦争で失った海軍力の再建とロシア帝国の動きの為であった。だが、朝鮮は独立国ではなく保護属邦であると主張した。
 日本は、朝鮮は独立国であるとして、清国の主張を無視した。国家安全の為に、朝鮮から如何なる国の干渉も排除しようとしていた。
 閔妃は、日本と清国が戦争一歩の緊張状態にあるとき、朝鮮王国の存在を強化する為に、南下してきた軍事超大国ロシア帝国をわざと朝鮮に引き込んだ。
 閔妃は、清国とロシアと日本を対立させる事で、朝鮮の安泰をはかろうとした。
 イギリスは、ロシアから朝鮮を守る事を理由にして半島南部の巨文島に軍事上陸した。
 日本政府は、朝鮮半島をめぐる国際環境の激変と親日派金玉均への支援で国内政局を混乱させようとする動きに憂慮して、金玉均の取り扱いを変えて小笠原諸島に流した。
 そして、金玉均を見捨てた。
 清国は、属国・朝鮮の完全統治を完成させるべく軍隊の常駐を増やそうとした矢先に、日本によって朝鮮半島から完全撤退させられた事で面子を潰された。
   ・   ・   ・   
 4月15日(〜87年3月) 巨文島占領事件。ロシア帝国、イギリス、アメリカなどが、植民地化しようとしている事はだれが見ても明らかであった。
 イギリスは、朝鮮国領巨文島を軍事占領して、清国の面子をたてる為に、李氏朝鮮国王ではなくイギリス駐在清国大使の曾紀沢(曾国藩の嗣子)に事実を伝えた。
 清国大使は、宗主国としての権限で、李氏朝鮮の了解を得ることなく朝鮮国領の占領を了承した。
 イギリス海軍の巨文島占領は、李鴻章が、朝鮮への進出を狙っているロシア帝国に対する牽制の為に黙認した事であった。
 イギリスは、海から朝鮮半島に入り込もうとしていた。
 ロシア皇帝は、イギリスと軍事占領を容認した清国に抗議した。
 中国の属国である朝鮮には、主権はもちろん外交権もなかった為に、中国の指示を無条件で受け入れた。
 当時の朝鮮王朝は、腐敗が横行し、権力闘争が絶えず、内部崩壊を起こしていた。
 財政は、贅沢三昧な宮廷生活を満喫する王宮と私腹を肥やす官吏らの不正で破綻寸前にあった。
 良民や常民と言われた農民は、重税による悪政で塗炭の苦しみに喘ぎ、そして餓死者が至る所で見られた。
 重税と借金で生活が破綻した庶民は、満州やシベリアへと逃亡し、逃亡できない者は徒党を組んで盗賊になるか暴動を起こしていた。
 朝鮮は、法的秩序を失い、治安が悪化していた。
 清国やロシア帝国は、朝鮮人脱国者による大量の密入国で犯罪が増加した為に、不法入国者を朝鮮に強制送還させると共に、朝鮮人密入国を阻止する為に国境警備を強化した。
 両国は、犯罪を起こす恐れのある貧困朝鮮人が、大挙して日本に流れる事を期待した。
 当時の朝鮮人は、嫌われていた。
 日本は、朝鮮を清国から独立させ、国内整備を行い、産業を発展させ、貧民を朝鮮内で救済する事が東アジアの安定に不可欠であると判断した。
 井上馨外務卿は、朝鮮を近代的国民国家として独立させる為に、清国に「朝鮮弁法八ヵ条」を提出した。「第一条 朝鮮の政務を清国と日本とで共同管理する」
 日本と清国は、今後は朝鮮への派兵する際は相互に通告し、共同で行動するとの天津条約を結んだ。
 李鴻章は、ロシア帝国に対抗する為に、中国を盟主として日本と朝鮮を属国とした縦方向の三国連合を模索した。
 日本は、欧米列強に対抗する為に、対等関係による日本と中国と朝鮮の水平方向での三国連合を模索していた。
   ・   ・   ・   
 1885年 巨文島占領事件。 イギリスは、朝鮮と不平等条約であるチーフー条約を結び、ロンドンでさらなる利権を得る為に追加条約を結んだ。
 当時の朝鮮は、町中の道には汚物が溢れ、川は汚れて変色し、井戸水は悪臭で飲めた代物ではなく、不潔で不衛生なであった。
 身分低い庶民は、ボロボロの白いチマチョゴリを着て、今にも崩れそうな藁葺き屋根のぼろ家で、粗末な食事を食べて生きていた。
 山野は、乱伐によって荒れ果てて緑は少なかった。
 治安が悪く、漢城と釜山以外では山賊や海賊が横行していた。
 朝鮮は、世界でも希に見る程の悲惨な極貧国家であった。
 イギリスは、対ロシア戦略で朝鮮を利用しようとしたが、投資しても利益が得られそうもないとして深入りはしなかった。
 宣教師達は、そうした哀れな非文明社会で絶望している朝鮮人に、文明の光を伝え隣人愛で救い出すという崇高な使命感から朝鮮へと渡った。
 少しでも駄目国家朝鮮のイメージを好転させる為に、カネで事実をねじ曲げ現実を誤魔化して報道する堕落新聞記者を買収して欧米の新聞社に記事を送らせた。
 これ以降。アメリカのユダヤ系国際報道機関は、人種差別的な反日的記事と中国や朝鮮に同情的記事を世界に発信し始めた。
 政府高官や王族・貴族等は、キリスト教会から多額の賄賂を取って布教を黙認し、欧米資本から更なる賄賂をせしめる為に新聞記者を歓迎した。
 科挙合格者の両班は、役人となっても無給であった為に、赴任地で外国人から賄賂を取ると共に、貧困に喘いでいる農民に法外の重税を課し、税収の大半を横領し一部をソウルに送金していた。
 儒教は、野心家が出世する為に学ぶ官学であり、貧困者を救う為の民学ではなかった。
 科挙試験に合格できない貧困両班は、儒教価値観でキリスト教や西洋近代化に猛反対して神懸かり的土着信仰の東学に参加した。
   ・   ・   ・   
 6月 日本政府は、清国に対して、朝鮮内部の政争に辟易として、従来の朝鮮を清国の服属国から独立させるという基本方針を諦め、両国で朝鮮を共同管理するという「朝鮮弁法8ヶ条」を提案した。
 清国は、共同管理案を拒否し、朝鮮への支配体制を強化して、清国指導による近代化を推進しようとした。
 日本は、中国による近代化ではロシア帝国の南下を止められないとして憂慮した。
 東京のスペール書記官は、漢城に赴き、軍事教官の件を外務督弁・金允植と協議したが紛糾した。
 李鴻章は、朝鮮王宮の密使外交を止めさせ、国政の混乱を鎮める為に大院君を帰国させて、閔妃派を政治の中枢から排除した。
 だが、日本を封じ込める手段としてロシア軍の軍事力を利用する為に、満州への制限付き侵出を許した。
 7月13日 大鳥圭介特命全権公使は、日本軍を率いて景福宮を占領した。
 日清両国は、天津条約に基づいて撤兵した。
 日本軍は、大院君を擁立し、金弘集を首班とする開化派政権を組閣して、近代化の為の甲午改革を進めた。
 大院君は、小中華主義の排外派として日本を軽蔑し、日本軍を朝鮮半島から排除するべく清国軍や反乱軍と気脈を通じていた。
 8月 福沢諭吉は、朝鮮王朝が内で自国民の人権を踏みにじる悪政を行い外では独立自尊なく巨文島を占領されるなどの体たらくは日本の害であるとして、時事新報に「朝鮮人民の為にその国の滅亡を賀す」の論説を掲載した。
 日本政府は、朝鮮との関係悪化を招く恐れがあるとして、治安妨害の廉で時事新報に対して一週間の発行を禁止した。
 福沢諭吉は、腐敗堕落した朝鮮に無用な配慮する政府の弱腰を罵倒した。
 9月 李鴻章は、親ロ政策を推し進める閔妃に対抗する為に、日本の了解のもとで軟禁していた大院君を帰国させた。
 だが、大院君には政治力はなく、閔妃をおさえる事ができなくなっていた。
 閔妃は、宗主国清国の意向に従って、大院君の帰国を受け入れたがそのまま軟禁して外界との接触を遮断した。数度にわたって大院君を暗殺する為に暗殺者を送ったが、全て失敗に終わった。
 大院君は、郄宗から王権を簒奪するべく、郄宗の兄李載冕(イチェミョン)の子、孫の李筇鎔(イジュニョン)を盛り立て陰謀をめぐらした。
 11月 李鴻章は、清国の宗主権を強化する為に26歳の袁世凱を清国代表として漢城に送り込んだ。
 袁世凱は、高宗と閔妃を威圧し、親清派の保守層を引き締めた。同時に、親日派を中央から放逐し、親ロ政策を牽制した。
 閔妃は、日本嫌いから、表面的に袁世凱反日方針に協力した。
 日本の朝鮮における影響力は後退し、大陸からの侵略という危機感を強めた。
 12月22日 小作人出身の伊藤博文は、初代内閣総理大臣に就任した。
   ・   ・   ・   
 1886年 閔妃は、高宗に半島有事の際にロシア軍の保護を求めるという親書を、ロシア帝国に送る様に求めた。
 閔妃の戦略は、朝鮮の独立を守る為に、清国とロシア帝国と日本を敵対させ、疑心暗鬼を深めて殺し合って自滅させる事であった。
 袁世凱は、極秘親書の一件を知るや、面子が潰されたと激怒して、李鴻章に国王を退位させ王妃を追放する様に進言した。
 李氏朝鮮は、宗主国の清国の激怒に恐怖して、平身低頭で謝罪した。裏ではなおも、ロシア軍を利用して、清国と日本を牽制しようとの陰謀をめぐらしていた。
 清国は、対日戦に備えて、内政干渉を強め、朝鮮管理を強化した。
 伊藤博文は、ロシア帝国の南下から日本を守る為に、朝鮮の独立を望んだ。
 イギリスは、南下政策を行うロシア帝国からインドを守る為に、アフガニスタンを中心とした中央アジアで紛争中であった。ロシア軍の南下を阻止する為なら、日本でも清国でもどいらでも良かったのである。
 1885年頃から、朝鮮は異常気象に襲われて大凶作となっていた。
 重税に苦しむ農民は、腐敗堕落した李氏朝鮮政府の悪政に激怒し、各地で暴動を起こしていた。
 閔妃派政府は、暴徒鎮圧の為に軍隊を派遣したが、連戦連敗の為に清国に軍隊派遣を要請した。
 朝鮮は、早々に自助努力による国内問題の自力解決を放棄し、他国の軍事での暴力的解決策を採用した。
 その無責任な安易さが、東アジアの混乱を助長し、戦争を引き寄せた。
 閔妃とその一族は、気弱な高宗を手玉に取り、権力を欲しいままに操り、賄賂や横領を公然と行って腐敗堕落していた。
 地方の役人は、汚職に塗れた貪官汚吏とりとして、強欲に貧民から税金以上のモノを容赦なくむしり取っていた。
   ・   ・   ・   
 1886年 アメリカ人宣教師が朝鮮を訪れて、培材学堂と梨花学堂を創設し、布教活動を本格化させた。朝鮮人キリスト教徒は、積極的に反日天皇の先頭に立っていった。
 1月下旬 大院君は、李筇鎔を新国王に即位させるべ画策していた。
 大院君の配下の者は、開化派の朴泳孝(パクヨンヒョ)内務大臣と徐光範(ソガンボム)法務大臣の暗殺して新政府を樹立を企んだ嫌疑で捕らえられ、大院君の王位簒奪計画が発覚した。
 郄宗は、王位簒奪を企てた者は厳罰に処するという法に従い甥の李筇鎔を処刑しようとした。
 朝鮮の近代化を指導していた日本は、郄宗の復讐で国民に人気のある李筇鎔を処刑する事は欧米列強への心証を悪くすると判断して介入した。
 大鳥圭介に代わって特命全権公使として赴任した井上馨は、謀反罪で極刑の判決を情状酌量と特赦で喬桐島へ10年間流罪に変更させた。
 さらに圧力を掛け、8月には釈放させ、10月には特旨によって懲戒免除とし、国外追放の如く宮内府特進官の身分で日本に留学させて、日本で保護した。
 だが、大院君は李筇鎔を新国王に即位させるという野望は捨てず、日本国内で保護されている李筇鎔に多額の活動資金を送った。
 李筇鎔は、活動資金を、日本に留学している朝鮮人留学生等にバラ撒いて派閥を形成した。
 日本政府は、朝鮮王宮内の内紛に巻き込まれる事を恐れて李筇鎔を欧州に留学させる事にした。
 李筇鎔は、明治天皇から下賜された4,000円を旅費として、1894年8月25日にイギリスに留学するべく東京を出発した。
 8月13日 長崎事件。 清国は、属国・朝鮮からの要請という名目で、アジア最強の北洋艦隊を日本に派遣して小国日本に軍事的威圧をかけた。
 戦力から、日本海軍は清国海軍の敵ではなかった。
 北洋艦隊は、ウラジオストク日本海朝鮮海峡黄海、旅順、威海衛などで軍事演習を繰り返し、軍事力を誇示して日本に恫喝を加えた。
 日本政府は、日本に亡命していた親日派の金玉鈞を小笠原諸島に流した。
 イギリスは、ロシア帝国の南下に備えて清国を支援して来たが、その清国が朝鮮支配の為に日本と戦争しようとしている事に失望した。
 清国に隠れて、暗号名「ゼームス」と呼ばれるイギリス人を使って、清国の陸・海軍の極秘軍事情報を日本側に流し始めた。
 10月 紀州沖でイギリス汽船ノルマントン号が沈没して、ヨーロッパ人26名は救命ボートで脱出して救助された。日本人乗客25名とインド人火夫は、救助される事なく全員が溺死した。
   ・   ・   ・   
 1888年 朝鮮は、清国の要請を受けて、ロシア帝国と露韓陸路通商条約を結んだ。
 親露派朝鮮人は、ロシア帝国から多額の賄賂を得ていた。
 朝鮮半島北部の慶興をロシアの租借地とし、豆満江の航行権を与えた。
 鴨緑江の航行権と森林伐採権と河口の龍岩浦の使用権を与えた。
 ロシア帝国は、軍隊を民間人と偽って派遣し、龍岩浦をポートニコラエフスクと改名して港に整備した。16年後に、軍港にする為の港湾工事を始めた。
 日本は、ロシア帝国が朝鮮国内に軍事基地を建設し軍隊を駐留させる事に警戒し、朝鮮国内の親露派の利敵行動を監視していた。
 日本の安全の為には、親清国派朝鮮人同様に親露派朝鮮人を政府中枢から排除する必要があった。
   ・   ・   ・   
 1889年 北日本で冷害と洪水が起き、凶作となる。
 李氏朝鮮は、国内の食糧が不足していることを理由にして穀物令を発布して、日本へのコメ輸出を一方的に禁止した。
 コメ購入を約束していた日本人商人は、突然の禁令で困惑し、大損害を出した。
 日本政府は、正当な手続きでなされた商取引を禁止した穀物令の即時撤廃と損害賠償を求めた。
 李氏朝鮮は、李鴻章袁世凱の命令に従って、日本側の抗議をノラリクラリと誠意なく引き延ばした。
   ・   ・   ・   
 2018年4月6日号 週刊ポスト「逆説の日本史  井沢元彦
 近現代編 第四話
 大日本帝国の試練
 条約改正と日清戦争への道 その⑧
 防穀事件で外交勝利を収め条約改正交渉を任されることになった『陸奥外交』
 防穀令(ぼうこくれい)事件とは1889年(明治22)に起きた日本と朝鮮国との穀物貿易に端を発した紛争である。防穀とは『李氏時代、朝鮮で地方官が、自己の行政管轄内で凶作・兵乱などによる騰貴を防止するため、穀物売買・運搬の禁止、購入穀物の差し押えなどを行うこと』(『国史大辞典』吉川弘文館刊)である。
 これより先の1876年(明治9)に締結されていた日朝修好条規では、朝鮮で生産された米や豆類を日本が輸入できることになっていた。明治維新後、工業の育成に力を注ぎ人口も増加した日本では、そのぶん朝鮮産の需要が高まった。大豆など豆類は加工食品の原料としても重宝された。つまり工業でも朝鮮産穀物への依存度が高まったということだ。しかし農産物の出来具合は天候に左右される。そこで、その後の日朝間の貿易協定で、日本は朝鮮の地方官が一か月前に日本領事館に予告すれば防穀令を出せるものとしていた。したがって防穀令はこの事件の前にも複数回出されていた。
 ところが、この年の朝鮮は急激な天候不順に見舞われ、とくに北部の咸鏡道(かんきょうどう)では住民の食料が足りなくなるほどの凶作となったため、翌年にかけて咸鏡道など3か所で防穀令が出され日本への輸出がストップされた。だがしかし、この輸出の中止で大打撃を受けた日本企業がこれら三つの防穀令が一か月前に通告するという規約を守っていないとして、朝鮮に損害賠償を求めるよう日本政府に要求したのである。それを受けた日本政府は賠償要求に合わせて防穀令そのものを廃止するよう朝鮮政府に求めた。
 日本側の抗議に朝鮮側はとりあえず、これらの防穀令は事前通告義務違反だったとして発令した3人の官僚を罰して、事を収めようとした。しかし日本側はそれでは納得せず、改めて損害賠償を朝鮮国に要求するという強硬な姿勢に転じた。
 皮肉なことにこの背景には帝国議会の設立があった。それまでは『民意』というものが、国家を動かすということはあまり無かった。しかし一度議会というものができるとカネを持っている経済界が議員を通じて国会を動かし、それが行政府にも強い影響を与えるという、日本にそれまで存在しなかった構図が生まれた。
 そのうえ不幸なことには、明治維新以来日本には、朝鮮は無礼な未開の国という偏見が広がっていた。無礼というのは日本国天皇が朝鮮国王に対して親書を送ったのに対し、華夷秩序中華思想)の権化である朝鮮が『皇』の字を使った国書など受け入れられないと突き返したことであり、未開というのは福澤諭吉が『脱亜論』で強調したような自ら近代化することできない国というイメージである。
 それゆえ、江華島事件以来、朝鮮は武力で屈服させ日本の指導のもとに近代化すべきだと思うようになっていた政府も、『世論の支持を得た』という形で、この防穀令事件をことさらに問題化する姿勢をとったのである。
 賠償金の当初の額は約14万7,000円だったが、第二次伊藤博文内閣では外相陸奥宗光のリーダーシップのもと、強硬派の自由党員大石正巳を公使に起用し賠償額を約17万円にする強硬姿勢をとった。ただでさえ難航している交渉のなかで、切り上げることによって新たな交渉を始めたのだから、多くの人間がこの『陸奥外交』に危惧を抱いた。ところが陸奥は頑強に抵抗する朝鮮に対し、最後通牒を突きつけ外交断絶をほのめかす一方、朝鮮に対して強い影響力を持つ清国の李鴻章に斡旋を依頼し、とうとう賠償金11万円を朝鮮に支払わせることに成功した。この手腕に、交渉決裂を予測していた人々までが拍手を送り、『外交は陸奥に任せればうまくいく』という『信頼』を生み出した。そこで伊藤首相も陸奥外相に難航している条約改正交渉を一任するという思い切った決断を下したのである。」
   ・   ・   ・   
 1891年5月 大津事件
   ・   ・   ・   
 1893(明治26)年 ショウ事件。
 2018年4月6日号 週刊ポスト「逆転の日本史  井沢元彦
 近現代編 第四話  大日本帝国の試練
 条約改正と日清戦争への道 その⑧
 ……
 『ショウ事件』という大事件
 ところがここで、大隈外相『失脚』事件、大津事件に続いて第三のアクシデントが起こった。ショウ事件である。この事件はあまり有名で無く、歴史事典にも記載が無いほどだが、この条約改正交渉のさなかの1893年(明治26)、イギリス公使館付の英国国教会のショウ副主教が日本の路上で日本人に殴打されていたのに、日本の警官が見て見ぬふりをした(とイギリス人は信じた)事件である。なぜそういう事態になったのか?詳細は不明だが、前回述べたノルマントン号事件の影響もあったのかもしれない。殴打されたのは1人であり何人もの死傷者が出たというような大きな事件では無い。しかし、被害者が公使館関係者であると同時にキリスト教の聖職者であったことがイギリスの懸念を深めた。日本人はすぐに過去のことを忘れてしまう(過去の過ちや憎しみは水に流すことがもっともよいと考える神道的思考による)が、イギリス人はそうでは無い。むしろ歴史というデーターベースを非常に重んじる民族である。だから何度も述べたように条約改正の日本側のリーダーである伊藤博文が、昔は『イギリス公使館焼き討ち』に参加した『テロリスト』であったという経歴をファイルから消去することは無い。もっともこれも前に述べたとおり『五箇条の御誓約』でそうした過去は清算されたということもファイルにある。だから伊藤や陸奥は交渉相手として信頼できないと思っている。しかし、そうでは無い連中がまだまだ存在しているのではないかという危惧は当然あった。その危惧を現実の不安に結びつけたのがこのショウ事件であった。だから、この決して小事件では無く、むしろ大事件なのだ。
 日本の世論は対外強硬論であった。この点ではノルマントン号事件事件の影響は非常に大きかったと言えるだろう。確かにノルマントン号事件では、船長としての義務を放棄したイギリス人のせいで、25人の日本人乗客が全員死亡しているのである」
   ・   ・   ・    




   ・   ・   ・   

韓流時代劇にハマりまして

韓流時代劇にハマりまして