☲28〕─2─拉孟守備隊全滅戦で生還した日本兵の証言。~No.113 @  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 網野善彦「徹底的に負けた人々に学ぶべきだ」
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 日本民族日本人は、悲しいほどせつない。
 だが、哀れでもなく、惨めでもなかった。
 現代の日本と日本人は、その事を御価値、無意味として切り捨て、そして忘れた。
 それが、靖国神社問題の本質である。
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 日本民族日本人は、現代の日本人とは違う。
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 日本民族日本人は、やるせないほど切ない。苦しいほど悲しい。
 身の不運を嘆いたが、自分が不幸(ふこう)だとも不幸(ふしあわ)せだとも思わなかった。
 人生は不条理の連続で、生きる事は苦しいのが当たり前と諦め、今いる場所で今やるべき目の前の事を確実にこなした。
 片田珠美「なんだか気持ちがめげてしまう、すぐにやる気がなくなってしまう、毎日がつまらなくてどうしようもない。それをシャキッと一瞬で直すことは、はっきり言ってできません。しかし『めげる』原因を人生から排除することはできません。一番いいのは、自分の人生を他人の人生と比較するのをやめることです」
 「17世紀フランスのモラリスト文学者、フランソワ・ド・ロシュフコーは『羨望とは、他人の幸福が我慢できない怒りである』という言葉を残していますが、まさしくそのとおりだと思います。華やかで楽しそうにしている同年代と自分を比べては、『いいなあ、腹が立つ』。そして腹を立てては、自分は〝負け組〟なのではないかとめげてしまう。この繰り返しはかなりキビシイですよ」
 「他人の悪口などに走らないことです。他人と比較することをやめて、自分がいま置かれている現実を受け入れるべきです」
 「でも現状は〝あきらかに見る〟べき。つまり〝あきらめる〟ことが大切。もちろん積極的な意味でね。そのうえで、いまいる場所で自分自身ができることに集中するのです。隣の芝生なんて、チラ見せずに」
 「世の中には実にさまざまな生き方があり、さまざまな人間がいます。今後の人生で、時にびっくりするほど自分と違うタイプの人に出会うこともあるでしょう。でもその人の発言にいちいち傷ついてはダメ。『こういう人もいるのだ』と受け入れたうえで、割り切ることが大切なのです」
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 2017年12月号 前衛「南京事件80年 戦争と侵略の体験
 『戦場体験』を受け継ぐとはどういうことか  遠藤美幸
 拉孟(らもう)戦との出会い
 ……
 では、拉孟戦とはどんな戦闘だったのか。1944年7月のサイパン陥落で絶対国防圏が崩壊し、海軍で言えば、旗艦を失い、同年9月に横浜市の現在の慶応大学日吉キャンパス内に連合艦隊司令部がやってきます。同時期に陸軍においても拉孟守備隊(約1,300人)が、日本から遙(はる)か遠い中国雲南省の山上で、約4万人の米式装備の中国軍を相手に100日間の死闘の末、洋上の孤島でもない内陸部での全滅は、戦史上類がありません。
 日本軍が雲南省まで進出した目的は、英米連合軍による中国軍(蒋介石軍)への軍需物資の補給路、『援蒋ルート』を遮断することにありました。1944年頃の補給路は、インドのレドから北ビルマのミートキーナ、バーモ、ナンカンを経て、中国雲南省の芒市、龍陵、拉孟、保山、昆明に通じるルートです。ビルマを横断し、中国に至ることから『ビルマルート』あるいは『滇緬(てんめん)公路』とも呼ばれています。滇は雲南を、緬はビルマを表します。雲南省での戦闘にもかかわらず、拉孟戦をビルマ戦線と見なすのはこのような理由からです。
 拉孟戦を一言で言えば、ビルマルートの貫通をめぐって、それを拉孟で遮断したい日本軍と貫通させたい中国軍(米軍支援)の激しい攻防戦です。無謀な作戦で有名なインパール作戦(1944年3月〜7月)の失敗後、その失策を挽回するために、支那派遣軍から第33軍参謀に着任した辻政信作戦参謀と若い黍野弘後方参謀がビルマ防衛の最終手段としてビルマルートの遮断作戦を考えたのです。当時、軍部は『断作戦』と名付けました。こうして拉孟はビルマ防衛作戦の『最後の砦』として一挙に重要視されますが、実際の拉孟戦は勝算のない戦闘でした。慢性的な兵力不足、制空権のないこと、十分な軍需物資の補給がないことが主な理由です。最終的に拉孟守備隊には最後の一兵まで死闘を命じられます。結局、拉孟は、『最後の砦』どころか、軍上層部が撤退する際の時間稼ぎの『捨て石』にされたのです。
 敗戦まで続いたビルマ戦線の戦死者は膨大で、投入した兵力は約33万人、うち19万人が戦死し、その戦死者の8割が戦闘ではなく、マラリア赤痢脚気、栄養失調などが原因の餓死や傷病死でした。まさに『地獄のビルマ』だつたのです。
 戦友会・慰霊祭に足しげく通い
 ──では、日本軍の兵士たちが体験した『戦場』とはどういうものだったのでしょうか。全滅戦と言われたたたかいとはどういうものだったのでしょうか。
 ……
 私は決して口を出さずに、お茶くみ・会計係として振る舞いました。するとおじいさんは私のところに来て、こっそり『遠藤さん、いまの若い者は、浅い理解です』と言う。彼らは、『解放戦争』と言うとおじいさんたちは喜ぶと思っているのです。しかし、おじいさんたちは、自分のしたこと、見たことに対して複雑な思いがあるのです。自分が戦争に行って、仲間が無残に死んだことに対する思いです。たとえば、沖縄戦の生き残り兵士の近藤一さんは中国でさんざんひどいことをやったことを証言していますが、何十回聞いても、最後は、沖縄の戦争で無残に死んでいった仲間たちの話に戻ってしまうそうです。また、ガダルカナルで生き残ったおじいさんは、ひどさや虫けらのように扱われたことに憤怒を抱えながらも、最後は、目の前にいた、あの時に、置いてきた同郷の兵士たちの顔が忘れられないというのです。
 加害を研究対象にしている人は、ダイレクトに加害について『何をしましたか?』と聞くでしょう。私は、おじいさんたちがどんな体験をしたのかを聞くのに12年かかりました。1回2回の聞き取りでは用意された、相手が求めるような話しかしないのです。『戦争は悪いよ。けれど、あのときは行かざるをえなかった。かあさんのため、妻のため、国のためまっすぐな気持ちで』──天皇陛下はなかったかもしれません──と言うのです。『目の前で死んでいった仲間も、その気持ちは純粋でまっすぐなんだ。そのことも覚えておいてほしいんだ、遠藤さん』と言うのです。ダイレクトに、加害のことだけを教えてくれと言う人には、話さないし、話せないんだと思います。かといって、右翼の人たちが来たとて、『あなたたちは被害者ですよね』と言われたとき、『いや私たちは、こんな悪いことをしました』とわざわざ言わないでしょう。
 文献史料といっても、たとえば連隊史では、隊長が『検閲しているわけですから、あまりマイナスのことは書けません。ほんとうに伝えたいことがあるときは、自費出版で、家族や戦友だけに配るものに書く、ないしは、しゃべって伝えます。しかし、研究者の中には口述史料は価値が低いという考える人がまだいます。しかし、加害などで自分がしてしまったほんとうにしゃべれないこと、心の叫びのようなものは史料には残りづらいので、聞き取らなければなりません。……受けとめてくれる場所のない日本の社会に放り出され、普通に生きてきた元兵士たちに、『反省がない』といったニュアンスで接して心を開くでしょうか。彼らは、無意味かもしれないけれども、自分の戦場地に慰霊碑を建てたり、現地の人たちのために何かしたりしています。そこには、内面の反省と贖罪の気持ちがあるのです。
 拉孟全滅戦とはどういうものだったのか
 拉孟戦は、東北の勇(いさむ)師団(第二師団)と九州の龍(たつ)師団(第五六師団)が中心でした。私は、この二つの師団の戦友会に出かけました。戦友会の主な目的は慰霊です。中でも、靖国神社の慰霊を重要視します。私は、靖国の本殿にも行きます。神楽祭の奉納神楽も見て、『海行かば』を歌っているときは口を動かし、『君が代』も自分の気持ちを折ってでも歌うわけです。それは、何人でもいいから、無残に死んでいった人たちの無念を引きだして、少しでも世の中に伝えることが私の仕事だと思うからです。そうなると、日本兵の死にざま、生きざまにも心を寄せざるをえないのです。
 もちろん、侵略戦争によって、膨大な中国の人たち、アジアの人たちが殺されました。それをまったく日本人は知らないということに対して、いったい何だとも思わない。しかし、歴史認識も考え方もまったく違う立場の人をシャットアウトしては、兵士だったおじいさんには寄り添えないです。みんな自分のことは知ってほしい、自分の主張を言いたいのです。自分のことを知ってもらいたいなら相手のことも知ろうとしなくてはなりません。私は、2002年から、小林さんを元将校の聞き取りをしてきました。
 拉孟戦は全滅戦で、元々生存者が少なく、その大半は現地で捕虜になり戦後復員した人でした。私が拉孟守備隊の生存者で話を聞けたのは2人だけでした。その後十数年かけて、30人以上の拉孟関係者をたずね何年も聞き取りを重ねて証言を集めました。
 拉孟戦は文献資料も極めて少ないのです。1944年6月から開始された戦闘は、はじめから苦戦でした。先にもふれたように守備隊は、兵力も武器弾薬などの補給も劣勢だったからです。戦史叢書『イラワジ会戦─ビルマ防衛の破綻』の記述は、勇戦敢闘が強調され、『玉砕』戦が記され、その『栄誉』をたたえて締めくくられていますが、事実ではとうていありえません。なぜ、無残な作戦がおこなわれたのか、リアルには伝えていないのです。私が聞きとった拉孟戦とは、成功するはずのない作戦だったのです。
 私は、拉孟守備隊の生存者の1人、木下昌巳元砲兵中尉から話を聞くことができました。彼は、金光恵次郎守備隊長の命令で、戦局を報告するため陣地を脱出し、生き残ったのです。追い詰められた兵士たちが全滅した拉孟の横股陣地の中隊長だった木下中尉の聞き取りは、厳しい全滅戦であっただけに何度も断られ、なかなか話してもらえませんでした。その木下さんは、『玉砕』の前夜、『明日は俺と一緒に死んでくれ』と語ったそうです。その言葉に偽りはなかったと言います。木下中尉は、全滅間近の壕の中の様子を、『拉孟の最後では片足でも動けぬものは塩化水銀の服用か手榴弾で自決した。陣地周囲の塹壕は、今では腰までの深さもないくらいに無残に崩壊し、戦死者の死体もそのまま放置され、ゴムまりのように膨らんだ屍体の傷口には、蛆(うじ)が真っ白くかたまって蠢(うごめ)いていた』と語ってくれました。そんななかで、命令とは言え、部下を残して陣地を脱出する際の心痛は想像を絶するものがあったと思います。木下さんは2013年9月に92歳で亡くなるまで、生涯、そのことに苦しみ続けていたのです。
 もう一人、拉孟戦の生き残りで私がお聞きすることができたのが早見正則元歩兵上等兵です。拉孟は食糧事情が悪く、タンポポみたいな草を、缶詰の缶を鍋の代わりにして湯がいて粉末の醤油や岩塩を混ぜた『拉孟汁』にして食べたと語っていました。その後、攻防が激しくなると、恐怖の体験をするようになります。それは米国で開発された中国軍の新型兵器・火炎放射器の物凄さです。多くの兵士が犠牲になり、その凄惨さは筆舌につくすことはできない、と。それに比べると日本軍は粗末な旧式の兵器と貧しい弾薬だけだったのです。さらに、孤立していく陣地の様子を『壕の中は膝まで泥でぬかるんでおって、敵の砲弾がすごくて頭をだすこともできんから、用便をするのも砲弾の薬莢(やっきょう)を空き缶にして壕の外に放り出した』と語ってくれました。
 『戦争というものは、人間の感情を麻痺、鈍化させ、死という恐怖心や人間性も、何もかもなくさせてしまうものである。・・・このように無感覚になった将兵には、笑いも怒ることもなかった。あるのは食うことと寝ること、そして敵を刺し殺すことだけである。戦友が戦死しても、段々と何の感傷もなくなってゆく気がした』と森本謝上等兵が『玉砕 ああ拉孟守備隊』の中で書いていますが、全滅戦の実相をリアルに語っていると思います。
 また、私は、軍の参謀であった黍野弘少佐の話を聞くこともできました。黍野少佐は、市ヶ谷の偕行社(元陸軍将校の親睦団体)で新古事記研究会の講師をしていました。私も参加し、講義のレジュメをワードファイルにする作業を黍野さんが亡くなるまでの約5年半請け負ったのです。この研究会の参加者の半数が旧軍人で、古事記の解説の合い間に戦争の話で盛り上がりました。2005年に、『「断作戦」は成功すると思っていたか』と黍野さんに尋ねたのです。黍野さんは、『成功するなんて、辻政信も自分も思っていなかった』とあっさり答え、『あの時、たとえ負け戦になっても戦を止めることは一参謀にはできない、たとえ辻政信でも・・・』と語りました。参謀ら自身が無謀で勝算のない作戦と認識しながらもやめられない戦争だったのです。戦争は一度起きたら簡単には止められず。代償はあまりにも大きいのです。
 慰安所についての語り
 ──『加害』の体験などが語られることはあったのでしょうか。
 もともと戦場体験は、加害体験と切り離せないものです。話せない、話したくないことでもあるのだと思います。そして、たとえば、『慰安婦』問題などは女の前ではなかなか言えないのでしょう。ほとんど聞く機会はありませんでした。
 しかし、右翼団体が『慰安婦はいなかった』というチラシに署名を求めてきたとき、話になったことがありました。駅前ビルの役所が入っているスペースで、『従軍慰安婦は嘘だ。 元兵士が証言』という展示をするさいに使うというのです。りょうど、『朝日』が吉野証言についての訂正(ていせい)をおこなったころです。おじいさんたちも、自分が慰安所のヘビーユーザーではなかったとしても、『慰安婦』がいたことは知っていました。しかし、『嘘はいっちゃいかんよな、「朝日」は』とサインしてしまう人もいる。その時、署名しようとしたおじいさんが『いやあ、「従軍慰安婦」はいないっていうよりも、俺、慰安所つくったんだな』と言ったのです。
 私は、とったに『どこにつくったのですか』と質問しました。ビルマを撤退し、仏印に入ったときに、インパールや拉孟からボロボロになって帰ってきた兵隊たちを慰安しなければいけないと、終戦間近に慰安所をつくったと言うのです。どこかの建物を接収し、ベトナムの女性たちをトラック一杯連れてきて、そこから6人を選別した。これはどう見ても軍が関与してつくられている。そのおじいさんは『あの時の猛者にはこれが一番の慰安になる薬になった。必要悪ばんだ』と私にこっそり言ったのです。
 『慰安婦』問題で言えば、通常、後方にしかない慰安所が、最前線の拉孟にあり、日本人『慰安婦』5人、朝鮮人慰安婦』15人の20人ほどの『慰安婦』がいました。軍がそれほど拉孟を重要視していたのがわかる証拠です。戦闘が激しくなるなか『慰安婦』の女性たちは兵士たちに弾薬や握り飯も運んでいましたが、彼女たちがこのような最前線にまで存在していたのは、性のはけ口として以外ありませんでした。彼女たちを、死線をともにした『戦友』と一部の元兵士が呼ぶのは一方的です。早見上等兵は語っています。『砲撃の最中に握り飯や弾薬を運んでくれたあの女の人たちに頭が下がった。日頃蔑(さげす)んで悪かった』と。
 戦友会に来る、日本会議の人や右翼的な人は、実は、朝日新聞岩波書店の本などいっさい読みません。だから私が新聞などに載せていただいても知られることはありません。本ができたとき、仕方がないので、おじいさんたちに配りました。すると、右翼の人が『遠藤さんが書いた本を読ませてください』と言ってくる。これで、私は『もう戦友会にいけない』と思いましたが、意外にも彼らは私の本を絶賛するのです。『慰安婦』問題について戦時性暴力と書いているんです。『遠藤さん、ここは間違いだよ』とは言われたのですが、おじいさんたちの話については、『あなたが戦友会にずっと詰めていることは知っている。だからこそ聞ける話だよね』と評価されました。ある日本会議の方が、偕行社の月刊誌『偕行』の中で、私の本をおすすめの一冊として載せてくれることもありました。もちろん靖国神社に行っているから、『俺たちの側だ』と思っているかもしれませんが、ある意味、人間として信用してくれたのだと思います。
 もしかしたら歴史認識も立場もまったく違うと思い込んでいるけれども、どこかで共通項はあるのではないかと、私は思ったりしますが、そうでなくても、私たちが一番問題にしなければならないのは、そうした右翼の人たちではなく、総理大臣が偏った発言を繰り返していることだと思います。市民活動でいろいろな主張があるのは当然とは思うのですが、一国のトップが、戦争認識に対して偏っているというのは問題です。安倍総理は、結局は、敗戦を認めていない。戦争に負けた意味、なぜ負けたのかについて、戦後の日本社会が向き合わなかったということです。兵士も、国民全体も、一言で言えば戦争責任のおおもとに向き合ってこなかったことが、いちばん大きな問題だと思います。安倍さんの主張はむちゃくちゃで、民主主義でもなんでもない。日本会議なども、お互いに利用しあって、いまこんな状態になっているのだと思います。
 ……
 みなさんに戦争というものが身近な話と同じだということを死ってほしい。現代でも社会に所属し、人間が抑圧され、人権もなくなり、『おかしい』と思った人を疎外し追い詰めていく。戦争の時代には『おかしい』と言ったら憲兵に捕まりました。やはり歴史はつながっています。たとえ『自分には戦争など関係ない』と思っていても、外国から見たら、『侵略した日本人は自分たちのことを何も反省がない』と思われている。そのことにすら日本人は気づかずに生きていて、『私が悪いわけじゃない。みんな過去のことでしょ』と思っている。戦争は究極の人権侵害と人間抑圧です。いろいろなところで戦争の芽は現代のいまにつながっているのです。だから『戦争体験』を受け継ぐとういことは、戦場の中身を知って、今の自分の生きている時代を見つめ直し、戦争に繋がる芽を摘むこと、未来のために何を選び取るかを判断すること、詰まるところ自分たちのいまの生き方を問うことなのです。
 ではなぜ戦争を見つめなければいけないか。いまの日本は、あの戦争を引き起こした体制がそのまま引き継がれている部分があるからです。だからまた同じことが必ず起きる。そのために都合のいいように世の中を変えようとしているからです。それを『おかしい』と思う人たちを削いでいくのも同じです。
 ……たとえマイノリティであっても、『おかしい』と思うことを自由に言える社会であってほしいです。そして目先の利益や保身にとらわれず、私たちがどのような未来を望んでいるのかをよく考えて、未来を選び取る責任をもつことが大切だと思います。平和な世の中を望むならば、戦場のリアルを知らなければ根ナシ草のような平和論になりかねません。今まで述べてきたように、戦場体験を聞くことは、本当に一筋縄ではいかないのですが、だからこそ、試行錯誤を繰り返しながらも奥行きや厚みのある聞き取りをしなくてはいけないと思います。おじいさんたちに一辺倒な『浅い理解』といわれないように、おそれを聞き、受け継いでいかなければならないと思うのです」
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 日本人は、一等国民として拒否権がなく、男性は徴兵や学徒出陣で戦場に送られて死ぬか、女性は女子挺身隊や子供達は学徒動員で工場に送られ空襲で死んだ。
 朝鮮人は、二等国民として日本国籍であっても兵役義務がなかった為に、徴用工として鉱山や工場で奴隷的重労働を強要されていたが、よほどの事が起きない限り死ぬ事はなかった。
 日本人は、女子供に関係なく、起きていようと寝ていようと四六時中、死がついて回る為に「死を覚悟」していた。
 朝鮮人は、日本に行かない限り死はなく、たとえ日本で奴隷的重労働をしても必ず死があるわけではなく、よほどの事が起きない限り死とは無縁であった。
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 軍国日本は、ヒト・モノ・カネが不足し、前線では補給がなく慢性的な兵員と武器弾薬・食糧・医薬品不足で苦しんでいた。
 その為に、日本軍兵士は戦闘による戦死ではなく、負傷や病気による死や栄養失調による餓死が多かった。
 靖国神社に祀られた約200万柱のうち本当の戦死者は3分の1のみで、残りは治療を受けられなかった傷病死者か食糧がなくなった餓死者と言われている。
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