☲20〕─2─朝鮮人徴用工に対する日本の米配給。昭和16年4月。~No.62No.63 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 昭和16年4月 日本国内で食糧不足から米の配給制が始まった。
 成人の1日当たり米配給量は二合三勺(しゃく)、機械工などの重労働者(乙種労働者)は二合七勺、炭坑夫などの激しい労働を伴う筋肉労働者(丙種労働者)は三合八勺である。
 戦時。軍需工場や炭坑で働く労働者は日本人・朝鮮人に関係なく一般日本人よりも量が多くの米が配給されていた。
 ただし、日本人と朝鮮人の食生活が違う為に、朝鮮人にとって日本人と同じ食事を強制的に食べさせられる事は苦痛であり、民族に対する差別にうつり反論せず耐え忍ぶ日本人への敵意をさらに募らせた。
 日本人にとって「戦争に勝利する」事が最優先課題でった為に、日本人労働者不足を補う朝鮮人労働者、生産に欠かせない朝鮮人徴用工の要求を無理をしても叶える必要があった。
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 『在日朝鮮人関係資料集成 第4巻』「在住朝鮮人の大部分は労働者にして……内地人に比して遙かに大食にして一人1日の消費量概ね一升乃至七、八合なりし為、規正当初に於いては著しく苦痛を感じ徒らに不平不満を唱へ飯米不足を理由に……治安上憂慮すべき事象を幾多生起し」
 深川宗俊(『海に消えた被爆朝鮮人徴用工』)「広島機械、広島造船〔ともに三菱〕ともに逃亡者が続出し、その穴うめのために、労務、訓育課等で、随時、人集めに朝鮮に出かけていた。……広島機械の朝鮮人徴用工の通帳記載の数字は、当時1,200人であったが、徴用工の実数は400人余に減少していた。1年たたぬ間に約3分の1以下になったわけである」
 「徴用工の不満は、まず最初は唐辛子がないということで、爆発した。食堂に集まった彼らはいっせいに口笛を吹き、どんぶり茶碗をたたく。統一された要求である。あわてた三菱側は遠く九州まで唐辛子の買いあつめにかけずりまわったほどだ。徳光さんは闇魚を下関まで買いに行ったという」
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