🏹33〕34〕─1─明国は南朝系九州王国を属国とした。日本分裂崩壊の危機。 ~No.103No.104No.105No.105No.106No.107 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 南朝方残党は、日本国王の称号を得て、明国の軍事力を借りて九州を分離独立させ第2日本国を建国しようとしていた。
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 日本は、古代から中国の歴代帝国や朝鮮の諸王朝の影響と侵略攻勢を受けていた。
 九州は、近畿・京都から遠く、中国や朝鮮に近く、中央・ヤマト王権に反攻し従わない勢力が存在していた。
 九州は、古代から中国や朝鮮と交流し、ヒトの往来が盛んな為に高度な知識が流入し、モノとカネのやり取りが盛んで開けて豊かであった。
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 北九州には。筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井は、ヤマト王権から独立する為に古新羅と手を組み反乱を起こして。
 南九州には、ヤマト王朝=反京都朝廷の熊襲や隼人が存在していた。
 東北蝦夷にも、古代から反ヤマト王朝=反京都朝廷勢力が抵抗運動を繰り返していた。
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 国人=武士は、恩賞として領地をくれる相手に付き従う。
 当時の日本人には、日本国意識はなく愛国心もなく、民族意識もなかった為に連帯意識もなく、当然アイデンティティーもなかった。
 ひたすら、土地大事の一所懸命の一点張りであった。
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 2020年3月号 歴史街道「九州に『南朝王朝』を築いた皇子・懐良(かねよし)親王
 建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に皇子を遣(つか)わし、南朝勢力の軍事的な拠点を築こうとした。
 そのとき九州に派遣された懐良親王──。
 わずか12名の共とともに上陸した親王は、『南朝王国』ともいうべき強力な支配体制を築いていく。
 森茂暁
 京都朝廷・幕府の支配は、九州に及んでいない
 南北朝時代も後半期にさしかかったころの1367年(貞治6,正平22)、当時朝鮮半島にあった高麗国は京都の北朝朝廷に使者を派遣した。目的は、いわゆる『倭寇』(対馬壱岐などを本拠とする海賊)の鎮圧である。
 『倭寇』の強盗・放火・略奪といった乱逆行為に苦しめられた朝鮮王朝が、日本に自主的な鎮圧を要請してきたのである。北朝の公家三条公忠は、その日記『後愚昧記(ごぐまいき)』同年5月23日の条に以下のように書き付けている。

 当時本朝のていたらく、鎮西(ちんぜい)九国ことごとく管領するにあらず。禁圧(きんあつ)の限りにあらず。
 
 本朝とは京都朝廷=北朝(およびそれを擁立する武家政権室町幕府)を指すので、右の記事で公忠は『北朝・幕府の支配力は「鎮西九国」、つまり九州にはみな及んでいない。だから(倭寇の)禁圧はできない』と述べている。当時幕府の支配権は九州に及んでいなかったのである。
 ここでは、南北朝時代の後半期、1360年代から70年代にかかる時期に、九州において『南朝王国』ともいうべき強力な支配体制を築きあげた後醍醐天皇の皇子、『西征将軍宮』懐良親王の生涯を素描する。
 懐良が九州に南朝王国を築きえたのはなぜだろう。その要因の1つに、九州の国人(こくじん)たち独特の行動上の性格があった。中央政府の動向に即応(そくおう)する『中有直結』の性格と、これに相反(あいはん)する土着の『反中央』の性格である。この2つの性格は、時代の状況に応じて変幻自在に見え隠れした。その最も極端なケースが南北朝時代であった。
 随従者12名を伴って九州へ
 日本の中世の天皇家では、天皇の子息たる皇子たちは、跡継ぎとして皇太子となる者を除いて多くの者が門跡寺院に送り込まれ、俗人としての社会的活動の跡はほとんど残していない。しかし、南北朝時代天皇である後醍醐天皇の皇子の場合は例外である。
 後醍醐天皇は、その分身としての皇子たちを日本列島の主要な地域に派遣し、王権の分枝(ぶんし)として軍事的な結集の中核に据(す)えようとした。陸奧の義良(のりよし)、関東の成良(なりよし)、北陸の恒良(つねより)などがそうである。
 こうした後醍醐による全国制覇の一環として九州に派遣されたのが、懐良であった。
 懐良親王南朝の拠点吉野から九州にむけて派遣されたのは、1338年(暦応元、延元3)9月のことである。随従者は五條頼元を筆頭に総員12名。ここでは南朝の軍勢を伴っていない点が注目される。
 懐良主従が目的を果たすためにとりえた方法は、九州の在地勢力の対抗関係や、領主制的な発展に向けての動きを見極め、南朝皇子の貴種性を活用して彼らを組織化することしかなかった。
 京都では足利尊氏北朝によって征夷大将軍に任命され、初期段階の室町幕府が軌道にのる時期のことである。すでに九州には、筑前国博多に室町幕府の広域行政機関たる鎮西管領鎮西探題とも)が置かれ、幕府の九州支配を担当していた。鎌倉幕府を討つ戦い以来、足利尊氏との繋がりを有する在地武士も多く、懐良が博多から九州に入るのは困難であった。
 懐良親王が瀬戸内海を横断した後(途中、忽那{くつな}島に滞在)、九州の南端薩摩に到達するのは1341年(康永元、興国3)5月のことであった。薩摩国谷山郡を本拠とする谷山隆信が、北朝勢の薩摩守島津貞久に対抗するためである。
 こうして博多と谷山という九州の南北両端に、北朝勢力と南朝勢力の拠点が置かれることとなった。九州の在地武士たちは利害関係にもとづき、自らの判断で、或(ある)いは北朝側或いは南朝側に与力(よりき)したので、九州の南北朝動乱はここに本格化することとなった。
 肥後国菊池氏の支え
 懐良親王の九州制覇計画は当初、肥後阿蘇社大宮司阿蘇惟時を頼る形で練られた。阿蘇市鎌倉時代にあっては九州でも最有力クラスの神官御家人で、後醍醐天皇の篤い信頼をうけて白羽の矢が立っていたのである。
 しかし、阿蘇氏内部で総領(そうりょう)惟時と庶家(しょけ)の代表格とみなされた惟澄との間で内部対立が生起(せいき)していた。……
 このため懐良は、阿蘇氏に代わって、同じ肥後の菊池氏に期待を繋いだのである。……1348年には懐良親王を菊池に迎え入れた。
 この年には懐良は菊池において『成人』(数え20歳とみられ、これから逆算すると懐良の誕生は1329年となる)
 ……
 『観応の擾乱(じょうらん)』が九州に与えた影響
 この間の出来事として、中央政治の一齣(ひとこま)としての『観応の擾乱』が九州に波及したことを述べねばならない。
 観応の擾乱とは、1349年(観応3、正平7)あたりまでの期間、京都を中心として生起し、室町幕府政治を混乱に陥(おとしい)れた一連の武家政権内部の争乱をいう。
 この抗争のあおりを承(う)けて、足利直冬足利尊氏の実子。うとまれて尊氏の実弟直義の養子となる)が九州に下ったことで、九州に南朝北朝のほかに、いずれにも属さない、いわば第三の政治的結集の核が生まれ、九州の南北朝動乱の構造はなお一層雑化した。
 当時のふつうの武士たちの合戦に際しての行動原理は、肥後人吉の御家人相良氏の文書(1311年〈延慶4〉3月5日相楽連道置文)のなかに、『合戦がおこったときには、勲功をたてよう。狭小(きょうしょう)な所領はその勲功で広くもなるのだ』と言い置いているように、恩賞本位だったため、国人たちの行動は定まらなかった。これに先述の九州国人たちの性格がプラスされる。このようなわけで九州の南北朝の動乱は敵味方の関係がめまぐるしく変転し、結果的に複雑な様相を呈(てい)することになった。
 足利直冬が九州下向(げこう)した当初、九州国人たちの支持を急激に得たこと、逆に1351年(観応2、正平6)、直冬が足利尊氏によって鎮西探題に任命され、幕府配下に組み込まれた途端(とたん)、今度は急激に支持を失ったこと、さらに直冬勢力の幾分かは懐良の下に流れ込んだらしいと、それらはいずれも九州国人の『反中央』の性格のあらわれといえよう。
 観応の擾乱によって、九州南朝はまさに『漁夫の利』を得たのだった。
 明の洪武帝に『日本国王』と認定される
 筑後国大保原(おおほばる)合戦から2年後の1361年8月、懐良はついに、古代律令の時代に九州統治の政庁が置かれた筑前国太宰府に入った。薩摩上陸以来、19年かけての九州縦断であった。太宰府は、いまだ九州の中心都市としての地位を失っていなかった。
 この懐良の九州入りの先導役を果たしたのは、むしろ菊池武光であった。九州南朝軍の拠点たる征西府は、主としてこの菊池氏の軍事力によって支えられ、九州の北半、つまり筑前筑後肥前、肥後、それに豊前に支配が及んだことをうかがわせる史料が残っている。
 冒頭で、1367年に高麗国から申し入れられた倭寇鎮圧要請に室町幕府がお手上げの状況だったことを述べたが、それはまさに九州の政治状況がこのようなときのことなのである。特に北部九州は征西府の黄金時代で、敵対勢力は介入することができなかった。
 1368年に中国大陸に誕生した明国も、倭寇問題には高麗と同様に頭を悩ませていた。初代皇帝太祖洪武帝(こうぶてい)が太宰府懐良親王を『日本国王』と認定し、懐良との間に国交を開こうとしたのも、この倭寇問題と密接な関係があると考えられる。しかし、まもなく征西府が衰退したことによって、懐良は日明間の国交を実質化することができなかった。
 やがて統一政権を樹立した室町3代将軍足利義満が1401年(応永8)に日明交渉を開くことに成功するが、その先鞭(せんべん)をつけたのは、征西府の主帥(しゅすい)懐良だといって過言ではない。
 太宰府征西府は、幕府から派遣された新鎮西管領今川了俊の軍略によって、1372年(応安5、文中元)8月に陥落させられた。以降九州南朝勢力は衰滅し、懐良は1383年(永徳3、弘和3)3月27日に筑後矢部の山中で没したとされている。先述のように1329年(元徳元)の生まれだとすれば、行年(ぎょうねん)は55ということになる。」
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 日本の勘合符による日明貿易は、他国間交易であり、海外から流入した高価な外国産は国内消費を活発化させ、内需は経済発展を誘発して富を生み、増えた民間資本は技術・技能ある生産現場に投資され、曲がりなりにも富の再配分がなされていた。
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 朝鮮の冊封による朝貢貿易は、宗主国・属国間交易で、王侯貴族や両班などの支配層は朝貢貿易で富み独占し、民衆の被支配層は搾取されるだけの存在として貧しく虐げられていた。
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 2018年7月19日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [中世篇]
 (73) 倭寇と『日本国王
 『足利義満は、天皇になろうとしたんやで』という説があります。
 その状況証拠としてよく挙げられるのが、義満が『日本国王』を名乗ったという歴史的事実です。
 それは実際にはどういうことだったのでしょう。
 1379年の政変で管領細川頼之斯波義将らに追放されると、義満に権力が集中することになります。
 翌年、中国の明でも、初代皇帝、朱元璋洪武帝)のもとで絶大な権力を振るっていた宰相の胡惟庸(こいよう)が、謀反の罪で処刑され、関係者が大量に粛清される政変が起きていました。
 偶然、海を隔てて似たような事件が起きていたわけです。そして胡惟庸の罪状には、日本国王など外国の勢力と結託して国家転覆を図ったというものがありました。
 これはまったくの冤罪といわれていますが、ここでいう『日本国王』とは、九州を支配する南朝の征西将軍、懐良親王のことです。
 当時、食料、物品の略奪や、住民を奴隷として拉致するなど好き勝手に中国沿岸を荒らし回っていた海賊──倭寇を退治するため、明は71年に懐良親王を『日本国王良懐』として冊封(さくほう)し、その働き(倭寇取締)を期待していたんですね。
 冊封というのは、中国の皇帝が周辺国の君主と、宗主国・属国の関係を結ぶことです。
 九州独立!?
 一方の懐良は明の軍事力を後ろ盾にして、北朝方と対抗しようとしたとみられています。最終的には、独自の九州国家を樹立しようとしたわけです。
 これは義満にとっては由々しき事態でした。対抗して73年、室町幕府最初の遣明使を送ります。
 ところが、義満は日本の王ではなく臣下であるという理由で、外交相手として認められなかったのです。
 80年にも『征夷大将源義満』名で明に通交を求めましたが、やはり駄目でした。
 倭寇の海賊行為に困り果てていた明は、海禁政策をとっていました。明の認めた船しか交易してはならないという厳しい規制です。
 日本に対しても『日本国王』との通交しか認めません。一方義満にとっては、『日本国王懐良』を名乗る九州の南朝勢力が明を後ろ盾に敵対してくる恐れがあったわけです。
 義満は95年に出家して道義と改名しました。大臣や将軍など、天皇の臣下であることを示す肩書を捨て、太皇太后・皇太后・皇后に準ずる准三后の称号のみを使用します。
 また明の望む倭寇対策にも義満は積極的に取り組み、その上で、1401年に僧の祖阿と、博多の商人を使いにして、金や剣など様々な宝物を乗せた船で遣明使を出します。
 『日本准三后道義』の名で明の二代皇帝、建文帝に書を奏上すると、今度は即座に朝貢の希望が認められ、明から対日使節が送られます。
 実は建文帝は、有力な叔父である朱棣(しゅてい)に帝位を狙われていて、近隣諸国を味方につけておきたいという事情があったんですね。前年には李氏朝鮮冊封しています。
 明使は1402年8月に兵庫の港に着くのですが、このとき義満はわざわざ兵庫まで出向き、唐船を自分の目で見ています。そして京都で引見の儀が行われます。建文帝からの手紙にはこう書いてありました。
 明の臣下になる?
 『なんじ日本国王源道義は、土産とともにわざわざ使いを送ってくれて、朕はうれしい。倭寇退治もよろしく頼む』。義満は、日本国王として明に冊封されたのです。ただ、建文帝はこの4ヶ月後、朱棣に敗れてしまいます。そして朱棣が、永楽帝として即位しました。
 義満は抜かりなく。1403年2月、明使の帰国時に禅僧の堅中圭密(けんちゅうけいみつ)を使節として同行させる際、明の情勢を考慮して建文帝宛と永楽帝宛の2通の国書を作成しました。
 その中で義満は自ら『日本国王臣源』と称していたのです。
 日本が中国と正式に国交を結んだのは遣唐使停止以来500年ぶりで、冊封を受けたのは5世紀の『倭の五王』以来のことでした。
 かつては、せっかく日本は中国から独立していたのに、足利義満は勝手に日本国王と称して中国にひれ伏した。とんでもないやつやなどと言われていましたが。
 しかし明との貿易をすればメチャ儲かるわけですから、平清盛と同じように日本の発展を考えたら交易をやったほうが得ですよね。名を捨てて実を取ったんだと思います。
 明使引見の席の配置や服装、詔書の聞き方などの記録が残っていますが、それを見ると義満は全くペコペコせずに中国の使節を迎えている。
 まるで朝貢してきた異国の使節を謁見するような感じでした。
 また義満の『日本国王』の称号は、あけまで貿易の便宜として用いられていました。国内政治で『中国皇帝を後ろ盾とする権威』として使った形跡がまるでないのです。ここからも『義満は帝位簒奪を意図していた』という説は否定されるわけですね。
 勘合貿易と義持の反抗
 こうして日明貿易がはじまります。明の政府が公認した船だと証明するために、勘合符という紙片が使われました。勘合符を半分に割り、日本側と明側が半分ずつ持ち、それが合えば『よしよし、正式な貿易船やな』とわかる仕組みです。
 1回の航海には150人乗りの船6、7隻が行き交っていたようです。あるいは700石から1,700石の規模です。1石は約300リットルですから、荒っぽく言えば3石で1トンですよね。2,500石の船なら、830トンぐらいになります。500石だったら150トンぐらいになります。
 1492年にアメリカに到着したコロン(コロンブス)の船が150トンぐらいです。そこから考えると、結構大きな船で勘合貿易をしていたことになりますね。
 明に売っていたものは、銅や硫黄や刀。日本刀はかっこよく綺麗だったので喜ばれたんですね。明から買っていたのは、永楽通宝という銅銭や、生糸や書物です。
 勘合貿易は、幅広い経済的・文化的な効果を生み出しました。南北朝の動乱からの復興の切り札にしようとした義満の狙い通り、室町幕府に繁栄をもたらしたのです。
 ところが義満死後、あとを継いだ足利義持勘合貿易を止めてしまいます。
 義持は優秀な人で、禅などの学識も深く賢かったといわれますが、1394年に四代将軍になったものの、義満が院政のような形で政治を総攬(そうらん)していました。1408年に義満が死ぬまで14年間も、将軍でありながら何の権力もなかったんですね。全部お父さんが決めていた。
 こういう立場の長男がどういう気持ちになるかと言えば、当然お父さんと正反対のことをやりたくなるのはわかりますよね。
 だから義持はお父さんの死後、皇室が義満に太上法皇号を追贈しましょうといってきたのをすぐ辞退しますし、花の御所から、義満以前の幕府の本拠地であった三条邸に引っ越しもします。1411年には勘合貿易もやめてしまうのです。
 義持の死後、将軍を継いだのは義持の弟、義教でした。そして今度は義教が兄義持に反対する政治をするようになります──それはまた後で見ることにしましよう」
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 現代の反天皇反日的日本人が目指す理想国家とは、天皇制がない日本もしくは血筋・血統を正統としない天皇が即位する日本である。
 彼らは、日本を理想国家に作り変える為ならば、躊躇なく外国勢力と手を組んで金・兵士・武器の援助を受ける。
 目指す理想天皇とは、天皇位を特殊な血統・血筋を正統とする特別の家・一族に独占させるのではなく、血の神話を消滅させ、血の縛りから解放し、即位したいと希望する者が自由に即位できる事である。
 つまり、血統の正統から皇統の正当にする事であった。
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 天皇・民族・国を、命を捨てても守ろうとする日本人は2割、倒し滅ぼし自分の物にしようとする日本人は3割、場の空気圧・同調圧力に押し流される日本人が5割。
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 南朝方九州王国が、明国(中国)と李氏朝鮮と軍事同盟を結び、明国・朝鮮連合軍の援軍をえ、西国の南朝方を糾合し京を攻めれば、北朝方と足利幕府は東国に逃げるしかない。
 南朝方九州王国が京・西国を支配すれば、北朝と足利幕府は関東を支配した。
 その結果、日本は明国や朝鮮の軍事支援を受けた西朝と民族系東朝に分裂した。
 文化も、東朝は日本文化のままだが、西朝は朝鮮同様に中国化し日本文化は消えた。
 西朝の日本人は、明交易で金儲けした豊かになれば中国化を受け入れて抵抗をしないだろう。
 誰が、満ち足りた生活を捨てて、貧乏で貧困に喘ぐ正統天皇が総べる東朝に住みたいと思うだろうか。
 さらに、東北にはヤマト王権=京都朝廷に逆らう反天皇的人々が住んでいて、彼らは長年の恨みから西朝と同盟を結ぶ可能性があった。
 正統天皇が総べる東朝は、親明国派西朝と東北の反天皇的勢力に攻められて滅び、血統・血筋による正統天皇家は絶える事になる。
 最終的に、日本は明国の属国となり、急速な中国化と大量の中国人移住で日本民族・日本文化・日本文明は消滅した。
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 統一新羅が唐軍の援軍を得て朝鮮半島を統一し、その後、約1,000年朝鮮は中国の属国となった。
 朝鮮の歴代王朝は、中華皇帝に命じられるまま少女・女性を妓生(宮中慰安奴隷)として中華皇室に献上した。
 それが正統派中華儒教の真の姿である。
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 利益や金に目が眩む欲得な日本人は、愛国心に燃えたベトナム人のように中国に対して徹底抗戦しなかった、であろう。
 儒教を信ずる日本人は、朝鮮の諸王朝を嫌悪するが、中国の諸王朝には親しみを感じていた。
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 明国皇帝は、日本天皇を滅ぼすべく、中国皇帝が承認する日本人を正当な天皇に即させる為に血筋を正統とする哲学・思想・民族神話を消滅させた、であろう。
 つまり、天皇制度の正統性を、血の血統ではく、徳の皇統に変更させる事である。
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