☱18〕─1─日本人海賊による大輝丸事件。大正11(1922)年~No.38No.39   

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 日本人は、尼港事件でロシア人・中国人・朝鮮人への憎悪を増幅させた。
 日本人の朝鮮人に対する憎悪は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災で爆発する。
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 大輝丸事件(だいきまるじけん)は、1922年(大正11年)に発生した、日本の海賊による外国人殺害事件である。「尼港事件の復讐」の名のもとにロシア船を次々と拿捕して積み荷を略奪したうえ、ロシア人12人、中国人4人、朝鮮人1人を殺害した。
 時代背景
 本事件より2年前の大正9年、ロシア沿海州の都市・ニコラエフスクパルチザンの襲撃を受け、多数の市民が虐殺される。いわゆる尼港事件である。この事件では多数の婦女子を含む在留日本人700人が巻き込まれて全滅したうえ、女性への残虐な殺害方法がセンセーショナルに報道されたため、当時の日本社会は反露感情に沸き立った。
 事件の経過
 首謀者・江連(えづれ)力一郎(当時34歳)は茨城県結城町出身、海城中学卒・明治大学中退のちに入隊した陸軍軍曹である。彼は柔道、剣道、合気道など各武術をきわめた猛者で、段位は合計で30段に達していたという。そんな彼は尼港での惨劇に悲憤慷慨し、復讐を決意。軍部や実業家から潤沢な資金を回収し、決行の機会をうかがっていた。
 神戸西之宮の相沢汽船会社所有の船・大輝丸740トンを用意した彼は、「オホーツク海に砂金採取に行く」と称して乗組員を募集。その呼びかけに人夫、失業者、学生など60人が集まった。9月26日、北海道・小樽を出航した一行は、10月1日、樺太北部のアレクサンドロフスク・サハリンスキーに入港。ここで江連は乗組員全員を船の甲板に整列させ、ピストルを誇示しつつ檄を飛ばす。
 「オホーツクでの砂金回収60貫は流氷による航海不能により見送ることにする。そこで我らは進路を変え、アムール川河口のニコラエフスクに向かう。諸君らもよく知るはずの尼港だ!」
 10月9日、ニコラエフスクに入港。沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻および多量の海産物や油類を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12人および先の発動機船の乗組員4人を大輝丸の船員室に監禁した。
 10月22日、23日、捕虜17人全員を甲板に引き出すや命乞いを聞き入れることもなくピストルと日本刀を使い分けて殺害。小樽に帰港したのちは略奪品を荷揚げし、各乗組員に150円ずつの分配をしたうえ、厳重な口止めを約束させて解散した。
 発覚と裁判
 事件後、乗組員だった田中三木蔵と菊池種松が、罪の意識に耐えかねて自首したことにより事件が発覚、さらに「兵站」として使用していた稚内の倉庫から大量の武器弾薬が発見されたことにより、江連は直ちに全国に指名手配となる。江連は情婦の「生首お梅」と参謀格の石川房吉を引き連れ、札幌郡手稲村の温泉旅館・光風館に逗留していたが、同年12月13日、警官隊の急襲を受ける。彼らは、特に抵抗することもなく縛についたという。
 江連は取調べの席でも法廷においても「尼港事件で殺害された日本人の霊をなぐさめるため、天にかわって正義の剣をとり、懲罰をこころみた」旨弁明を続けていた。3年間、未決であったが、大正14年(1925年)2月27日、懲役12年の刑に処せられた。また起訴された他の乗組員34人には懲役12年から罰金500円までの有罪判決が下った。
 その後
 江連はのちに数度にわたる特赦に浴し、昭和8年(1933年)に出獄した。翌9年、マリー・ローザンヌ号金塊引揚事件に関与して再び捕らえられが無罪となった。後に満蒙開拓団に加わったとも言われるが、その後の消息は不明。心形刀流杖術を学んでいた江連は獄中でステッキ術の指南書を著しており、現在でも復刻版が刊行されている。
 また起訴されたものの所在が判明せず未決のままであった二人の乗組員のうち、一人は戦後見つかって執行猶予つきの有罪判決を受けたが、もうひとりはついに見つかることはなく事件発生から45年後の1967年2月28日に東京地裁は時効完成による免訴の判決を下した。
 作家の小堺昭三は、昭和51年(1976年)にこの事件を題材にした『赤い風雪』を執筆した。
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