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 明治天皇が、台湾出兵日清戦争日露戦争日韓併合などの対外政策と、琉球処分アイヌ土人保護法などを裁可した。
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 明治43(1910)年5月 大逆事件(幸徳事件)で、反天皇テロリスト達が惨殺しようとした天皇明治天皇であった。
 明治政府は、天皇・皇族・皇室を守る為に幸徳秋水社会主義者無政府主義者を弾圧した。
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 2022年3月25日 MicrosoftNews NEWSポストセブン「【逆説の日本史】没後各国で賞賛された明治大帝は紛うこと無き「名君」だった
 © NEWSポストセブン 提供 作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)
 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その2」をお届けする(第1335回)。
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 明治天皇の「医者嫌い」は、単なる医者嫌いというより西洋医学嫌いだったと見るべきだろう。その理由については『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編 日露戦争と日比谷焼打の謎』の第四章「軍医森林太郎の功罪」で述べておいたが、要するに天皇は明治を通じて不治の病であり西洋医学では治療法すらわからなかった国民病「脚気」を、漢方医のアドバイスで克服したからだ。
 「明治天皇が西洋医学から距離を置き、漢方を見直したのはこの時からだろう」と同書に私は書いたが、それは天皇にとって幸運でもあり不運でもあった。幸運というのは脚気を克服できたことであり、不運というのはその結果糖尿病などの治療においては漢方よりはるかに優れている西洋医学を信用しなくなったことである。天皇の症状はかなり深刻で、死の数年前には時々昏睡を起こすほどだったのだが、天皇は頑として西洋医学の治療を拒みワインを飲み続けた。きちんと治療や投薬を受けていれば、もう少し長生きできたのではないかと私は思う。
 そういう頑固さ、あるいは剛直さと言い換えてもよいが、それはたしかに明治天皇の長所でもあった。ドナルド・キーンの『明治天皇を語る』(新潮社刊)によれば、たとえば御所の照明も電灯は好まず、可能な限り蝋燭を用いた。蝋燭には大きな欠点があって、立ち上る煤で天井や壁が汚れてしまう。臣下は困ってたびたび諫言したが、受け入れられなかったという。
 また、日清戦争のとき広島に臨時大本営が置かれ天皇も現地にあった木造二階建ての家に数か月滞在したのだが、いまで言う2DK程度の部屋で昼は寝室のベッドを片付け執務室にして、食事もそこで取ったという。部屋があまりに殺風景なので臣下が絵など壁に掛けてよろしいでしょうかと進言したところ、天皇は「戦っている兵士たちにはそういうことができない」と断り、安楽イスや冬の暖炉の使用を勧めても拒否したという。また軍服が破れても継ぎを当て新品には取り替えず、靴の裏に穴があいた場合はそれを修理に出させたという。臣下は修理するより新しい靴を買ったほうが安いと言いそれは事実だったのだが、天皇は修理して使うということにこだわり続けた。
 そんな天皇も、フランスの香水とダイヤモンドの指輪はお気に入りだったという。天皇は風呂嫌いでもあったので、平安貴族のように香水は体臭をカバーするために使ったのかもしれないが、なぜダイヤモンドの指輪が好きだったのか、それについてはまったくわからない。女性にプレゼントしたのかもしれないけれども、そういう記録は残っていない。
 女性と言えば、明治天皇の時代は一夫多妻制であった。正式な皇后は一人だけでのちに昭憲皇太后(旧名一条美子)と呼ばれたが、彼女は一八四九年(嘉永2)生まれで公家の名門一条家の出身だった。天皇は一八五二年(嘉永5)の生まれだから、三歳年上ということになる。残念ながら体はあまり壮健ではなく、二人の間に子供はいない。
 のちに明治天皇の後を継いで大正天皇となる明宮嘉仁親王を産んだのは側室(出産当時は権典侍)の柳原愛子で、柳原家も公家である。この時代あたりまでは生母が嫡妻(正室)でない場合でも子供は嫡妻の子として育てられ、生母はその世話係となるのが習慣だった。これは皇室だけで無く武家でもそうで、たとえば勝海舟の子女はずっと自分の世話をしてくれた女中が本当の母親であることを後に知らされ驚いた、という話が伝わっている。
 ただし、こういう習慣は明治をもって終わった。というのは、民間では成功者が妾を持つことはむしろあたり前で、二〇二一年(令和3)のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一にも非嫡出の子供が多くいたのだが、明治天皇はなぜか皇太子に側室を認めなかったからである。これはかなり不思議なことで、自分は皇后との間に子がおらず皇位を継ぐ男子を産んだのは側室なのだから、天皇家の存続を第一に考えるならばその「運用」を考えるべきなのだが、天皇は頑としてそれを認めなかった。
 ちなみに、天皇の子女の数は男子五人、女子十人の計十五人だが、その第一皇子と第一皇女を産んだ二人の側室(女官としては権典侍)の葉室光子と橋本夏子は産後の肥立ちが悪く、二人とも出産後間も無く亡くなっている。子供も二人とも死産であった。別に西洋医学を無視したわけでは無い。葉室光子の出産には楠本イネ、あのフォン・シーボルトの娘が女医として立ち会っていたのだが、それでも助けることができなかった。
 また大正天皇を産んだ柳原愛子もその前に男女一人ずつ出産しているが、二人とも満二歳になる前に亡くなっている。このことを考えれば、明治天皇は家庭的には幸福だったとは言えないかもしれない。ただ、死産や夭折が続いたのは生母が公家育ちのひ弱な女性であったことも大きな原因だろう。そういうこともあって、天皇は息子の皇太子には側室を認めなかったのかもしれない。それよりも健康な女性と一夫一婦制を守ることが「旧来の陋習」を破ると先祖の霊に誓った五箇条の御誓文の精神に沿うもので、国のリーダーとして西洋近代化の手本を示さなければならないという考え方があったのかもしれない。明治天皇と言えば初めて洋服を着た天皇としても有名だが、昭憲皇太后も初めて洋服を着た皇后であった。
 明治天皇がいわゆる名君であったということは間違いの無いところで、それは明治政府に批判的だった人間も評価する部分であった。明治を代表するジャーナリストであり歴史家でもある徳富蘇峰は、織田信長から始まる日本通史『近世日本国民史』の著者としても知られているが、この膨大な著作を書こうとしたそもそもの動機は、明治天皇の時代をほぼ同時代人(蘇峰は1863年文久3〉生まれ)として生きた蘇峰が、この明治天皇の時代をぜひ書き残しておきたいというものだった。
 そのためにはそれに至る歴史を明確にしておく必要があるということで、蘇峰は『近世日本国民史』を完結させたのである。そしてその後、結果的に満年齢で九十四歳(1957年〈昭和32〉没)で天寿を全うするまでの間に、『明治天皇御宇史』全十四巻を完成した。稀代の歴史家徳富蘇峰をしてそうした行動に踏み切らせるほど、明治天皇の御宇(御代)は「魅力的」であったのだ。蘇峰の弟徳冨蘆花は小説家として有名だが、「陛下が崩御になれば年号も更わる。其れを知らぬではないが、余は明治と云ふ年号は永久につづくものであるかのように感じて居た」と述べている。
 「明治節」新設と陸軍の思惑
 明治天皇を高く評価したのは、もちろん日本人だけでは無い。ドナルド・キーンは前出の『明治天皇を語る』で、天皇の没後世界各国で書かれた新聞の記事を集めて日本で出版された著作について言及し、「世界で最も偉い君主だった。私が読んだ限り、あらゆる国が天皇を一様にそう称賛しています」と述べ、その代表として二つの記事を引用している。一つはフランスの新聞『コレスポンダン』の記事で、それは次のようなものだ。
 〈「天皇は、場合によって大臣たちの政策を左右することがあった。なぜなら天皇の活動、天皇の知性は疑うべくもないものだったからである。しかし、天皇の主要な業績は国家の元首であること、また国民生活、国民感情の生きた象徴であることだった。天皇は、それを傑出した賢明さで果たしたのだった。(中略)偉大な王とは、例えばスペインのフェリペ二世のように国事を自ら操ろうと欲する者のことではない。優れた大臣たちに信頼を置き、王権の威光でこれを支援する者のことである」
 もう一つの記事は「日本にあるものは中国にあるものを真似たにすぎない、日本に文化はない」と「伝統的に日本を軽蔑して」いた、中華民国の新聞の記事である。
 「一世の英雄にして、三つの島から成る国を世界の大国にまで引き上げた日本国天皇は、トンボのような形の国土、龍虎のような国運、五千万の大和民族を後に残して、あっという間に去ってしまわれた」〉
 フランスの記事は明治天皇の日本史における業績および役割を見事にとらえたものだし、中華民国の記事はドナルド・キーンも指摘しているように中華思想に凝り固まり内心では日本をバカにしていた中国人ですら、明治天皇の偉大さは認めざるを得なかったことを示している。まさに大帝と呼ぶにふさわしい存在だろう。
 昭和になってからの話だが、「明治天皇の遺徳をしのぶ」という目的で、天皇誕生日の十一月三日が「明治節」として国民の祝日になった。一九二七年(昭和2)一月二十五日に貴族院衆議院両院がこれを決議し、同年三月三日の詔書で正式決定した。戦前つまり一九四五年(昭和20)以前の大日本帝国では、それまで祝日は新年節(1月1日)、新年宴会(新年の初めにその年を祝う宴会1月5日)、紀元節建国記念日2月11日)、天長節(明治、大正、昭和各天皇の誕生日)の四日だけだったが、これに明治節が加わったということである。
 注意すべきは、明治天皇の後を継いだ大正天皇は一九二六年(大正15)の十二月二十五日に崩御し直ちに改元されたので、昭和元年は一週間しかなかったことだ。だから、その次の年一九二七年はあっという間に昭和二年となった。つまり国民の感覚としては、大正天皇崩御して新しい天皇(まだ昭和天皇とは呼ばれない)が即位してすぐ明治節が定められたという形になる。
 このころ陸軍は満洲への攻勢を強めており、その明治天皇の「御稜威(御威光)」によって日露戦争に勝ち満洲への進出が可能になったという「歴史的事実」をもう一度国民に深く自覚させたい、という思いが政府や軍部にはあったのではないか。天長節は明治時代はたしかに十一月三日だったが、次の大正天皇が立つことによって「普通の日」になってしまった。天皇誕生日は現役の天皇の誕生日を祝うものだからである。
 この明治節の新設で国民の祝日は五日あることになったが、なぜか新年節、紀元節天長節明治節だけが四大節として国民の間で広く祝われるようになった。ちなみに、祝日とは皇室から国民に至るまでお祝いする日であり、そこのところが皇室の祭典を行なう日である祭日との違いである。大正年間は祭日として明治天皇祭(先帝祭)があったが、これは誕生日では無く崩御の日を記念するものであった。
 おわかりのように、これが昭和に入ると大正天皇祭になった。祭日は祝日と違って本来はどんちゃん騒ぎする休日では無い。だからこそ祭日なのだが、それもあってか昭和二十年以降は原則として祭日が無くなり、すべて祝日つまり国民全体でお祝いする日になった。その過程で明治節は「文化の日」になり、紀元節は一旦廃止されたが建国記念の日として現在は復活している。この日はあくまで神話の上の話だが、初代神武天皇が即位した日とされている。
 そして翌一九二八年(昭和3)には、明治大帝讃歌とも言うべき唱歌明治節』が作られ、当日には学校等で必ず歌われるようになった。歌詞は次のようなものである
 〈『明治節唱歌』堀沢周安作詞 杉江修一作曲
 一.
 亜細亜の東 日出づる処
 聖の君の現れまして
 古き天地とざせる霧を
 大御光に隈なくはらひ
 教へあまねく道明らけく
 治めたまへる御代尊
 二.
 恵みの波は八洲に余り
 御稜威の風は海原越えて
 神の依させる御業を弘め
 民の栄行く力を展し
 外国々の史にも著く
 留めたまへる御名畏
 三.
 秋の空すみ菊の香高き
 今日のよき日を皆ことほぎて
 定めましける御憲を崇め
 諭ましける詔勅を守り
 代々木の森の代々長しへに
 仰ぎまつらん大帝〉
 ネット上で簡単に原曲を聴くことができるが、荘重なメロディーのなかなかの名曲である。そして明治天皇が大帝と讚えられた大きな理由の一つに、ある人物の死が挙げられることは言うまでもあるまい。その人物とは、陸軍大将乃木希典である。
 (文中敬称略。第1336回につづく)
 【プロフィール】
 井沢元彦(いざわ・もとひこ)/1954年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代に独自の世界を拓く。1980年に『猿丸幻視行』で江戸川乱歩賞を受賞。『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』など著書多数。
 ※週刊ポスト2022年4月1日号」
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