🪁18〕─1─中国における仏教弾圧。嵩山少林寺。〜No.56No.57No.58 

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 一般社団法人 全日本少林寺気功協会
 10.少林寺の興亡と二武滅法/(一)
 投稿日:2013.01.05 | カテゴリー:少林寺の秘話
 歴代の王朝の皇帝達はそのほとんが仏教を信仰しており、少林寺を気に入っていたので、よく少林寺へ参拝しました。しかし、長い歴史の中で仏教が弾圧されて衰退した時代もありました。その中で、少林寺では「二武滅法」と「二八火厄」ということが起きました。
魏晋南北朝時代北周武帝と唐末期の武宗・李炎という二人の皇帝が、仏教を弾圧して衰退させたのが「二武滅法」で、「二八火厄」は1928年に当時の軍閥「石 友三(せき ゆうさん)」が少林寺を焼き討ちした事件をさしています。
 まず、第一回の仏教弾圧についてお話しましょう。少林寺は495年に建てられましたが、王朝の庇護を受けていたので、寺でかかる一切の費用はすべて王朝から出ていました。そのため、生活に困った人達が競って寺に入って僧侶になったのでした。皇族の中にも仏教を信じる人が増え、中国在来の道教と仏教が非常に盛んになりました。そして、北周の時代、僧侶の数は当時の人口の半分を占めるまでに至りました。当時の都である洛陽の周囲には、1370余りの寺院があったほどです。北周武帝の第一婦人「李皇后」も剃髪して尼僧になり、その他にいた、5人の妻達も寺院に入って尼僧になりました。その結果、農業に従事する人など、労働人口がいちじるしく減少し、北周は貧窮状態に陥ってしまったのです。当時、還俗した僧侶と道教の道士二名が、皇帝に「寺院を減らして、僧侶を還俗させるべきだ」という提案をしました。武帝はその提案を採用しましたが、その前に皇帝の面前で大臣たちが集まって七回会議を開き、仏教と道教の優劣を競う、論争の場が持たれました。574年にも、同じく論争の場が持たれましたが決着がつかず、最終的には仏教も道教も共に排除すべきであるとの結論が出されたのです。そこで、当時中国全土にいた200万人の僧侶と道士が還俗させられ、寺院や道観(どうかん,=道教の寺院)の財産は北周に没収されてしまいました。その当時少林寺は第一の標的とされ、仏像や建物も破壊され、僧侶達の中には寺を去る者や、山に逃げ隠れた者もいました。
しかし、580年に次の皇帝は、弾圧をしても仏教と道教への人々の信仰がなくならないことを見、社会の安定のために仏教と道教が必要であるとして、弾圧をやめました。そして、破壊された少林寺の再建・復興に尽力しました。
  
 11.少林寺の興亡と二武滅法/(ニ)
 投稿日:2013.01.05 | カテゴリー:少林寺の秘話
 仏教弾圧の二年後582年、北周の宰相(さいしょう)である楊堅(ようけん)は、北周に代わって随王朝を建国し、皇帝になりました。そして、少林寺の名前も復活さて、広い農地も与えらました。しこで当時の管長は、高い役職の一つである「執事僧」を派遣して、皇帝恩賜(おんし)の農地に赴かせ、そこで200余名の僧侶達が農業と修行を行ったのでした。しかし、隋の煬帝(ようだい)の末年、王世充(おう せいじゅう)という豪族が自分の軍隊を引き連れて、洛陽(らくよう)と鞏県(きょうけん)一帯を支配し、逗留していました。王世充は隋の政治に反対する一方で、派兵して少林寺の土地を占拠しましたが、当然の事ながら僧侶達の抵抗を受けました。そこで少林寺は焼き討ちに逢い、寺のほとんどは灰燼(かいじん)に帰したのでした。
 少林寺が焼き打ちされたため、僧侶達はやむを得ず周囲の村で生活していました。それと同時に僧兵を派遣して、洛陽で捕われていた唐王「李世民(り・せいみん)」を救出し、李世民と共に王世充と戦って、王世充を敗りました。
 隋が滅亡して唐が次の王朝になり、李世民が二代目の皇帝である「太宗」になると、太宗は少林寺を特に厚遇しました。少林寺の建物の再建はもちろんの事、土地も広く与えられ、僧兵を募集する事も許されました。そして、その僧兵達は政治に参与する事を許され、肉食と飲酒も許され、殺生(せっしょう)の戒(=殺してはならいないという戒律)を破る事も許されたのです。また王朝成立にあたって功労があった僧侶に対しては、それぞれ褒賞(ほうしょう)が与えられました。その中でも曇宗(どんしゅう)大和尚は、特に大将軍に任じられ、少林寺の管長と兼任しました。
 後に、高宗と武則天(ぶそくてん)の時代に、都の「西安」のほかに、洛陽が東の都として定められたので、少林寺は皇帝がたびたび訪れる場所になりました。当時の少林寺は約9万3千平方キロメートル余りの土地を有し、寺院だけでも3600平方キロメートルあり、僧侶の数は二千人以上で、部屋数は5千あまりでした。現在の少林寺の部屋数は20いくつぐらいでしょうか。この頃がまさに少林寺の最盛期だったわけです。
 842年唐末の武宗(ぶそう)の時代は、楊貴妃も亡くなった「安禄山(あんろくざん)の乱」によって中国は疲弊(ひへい)しきっており、人々は重税から逃れるために続々と出家するという状態になっていました。当時仏教は非常に盛んで、寺院は多くの荘園を持っていて非常に豊かだったので、国家利益との矛盾も次第に大きくなってきていました。武宗は寺院と僧侶の整理を命じたので、寺院の多くは破壊され、僧侶もまた還俗(げんぞく)させられました。中国仏教史の本の中によれば、当時中国全土で、大規模な寺院は四千六百箇所余り、小さな寺院は四万箇所が破壊されたということです。僧侶および尼僧(にそう)も26万余りが還俗させられました。その結果広大な土地が唐王朝に没収されることになったのです。武宗の仏教弾圧は、後の仏教の発展に大きな影響を与える事になりました。ゆえに、「会昌の滅法(かいしょうのめっぽう=会昌の仏教受難)」と呼ばれています。
 しかし、この弾圧は少林寺にあまり大きな影響を与えませんでした。それは、第一に唐の時代、数多くの皇室の人々が少林寺に出家していたためと、第二に少林寺は唐の建国に際して少なからぬ功労を立てているので、太宗の時代から唐の歴代皇帝はみな少林寺に対して褒賞を行っていたからです。そのため、弾圧の影響をさほど受けずに、繁栄を続けましたし、数多くの高僧が弾圧を逃れて少林寺にやってきたので、少林寺の評判はますます高くなりました。宋代には、少林寺が収蔵していた経典(きょうてん)は九千五百巻余りに達し、非常に有名な寺院なったため、宋の太宗から「天下第一の名刹(=天下一の素晴らしい寺院)」をいう称号をいただきました。
 元朝末期、各地で次々と農民の暴動が起こり、その中でも最大規模の「紅巾(こうきん)の乱」が少林寺に押しよせました。僧侶達はみな寺から逃げ、寺院は無人状態となっていたため、紅巾軍によって仏像も建物も大部分が破壊され、見る影もない状態になってしまいました。明の時代になると、少林寺の建物は修繕され、増築もなされました。万歴帝(ばんれきてい)は八人の皇子を僧侶にして少林寺に入れたので、少林寺はさらに盛んに、また有名になりました。
 清の時代、歴代皇帝は少林寺を特別重視していました。例えば、聖祖:愛新覚羅・玄カは「少林寺」の三文字を自ら書いて額にしましたが、それは今でも少林寺の山門に飾られています。また、雍正帝(ようぜいてい)は1734年に少林寺の山門を新しくしています。このように清朝少林寺を大事にしましたが、その一方で少林寺に警戒心を抱きつづけていました。清朝は異民族である女真族(じょしんぞく)が建てた王朝であり、漢民族の王朝とは違います。だから、清に反対して、明の復活を図る事を恐れており、少林寺の僧侶に武術の練習を禁じる勅令を出していました。そのため、清朝統治の二百年間に少林寺は次第に衰退していったのです。
 さて、現在少林寺を訪れた人々は、色鮮やかな天王殿や高くそびえる大雄宝殿などの立派で美しい建物を目にするかもしれませんが、その後ろの鐘楼や鼓楼などにはなんとなく破壊の跡を感じるかもしれません。実は、これは1928年に、当時の軍閥「石 友三(せき・ゆうさん)」が焼き討ちしたあとであり、「二八火厄(にはちかやく)」と呼ばれているものの跡です。石友三は少林寺が敵対勢力につくことを恐れて、少林寺を焼き討ちしたのですが、その火は1ヶ月あまり燃えつづけ、天王殿や大雄宝殿を始めとして鐘楼や鼓楼に至るまですべて燃え尽きてしまいました。達磨大師面壁(めんへき)の石も倒され、少林寺は大変な状態になったのです。蒋介石少林寺に来て、この状態をみて「石友三は悪すぎる」と言いましたが、実際石友三は蒋介石の部下でした。石友三が少林寺を立ち去ってから、僧侶達は急いで寺に戻り、復興作業に尽力しました。最近では中国政府も資金を出して再建・復興活動に励んだため、再び新しく美しい状態になりました。
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 ウィキペディア
 嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ、拼音: Sōng Shān Shàolín sì)は、中華人民共和国河南省鄭州市登封市にある中岳嵩山の中の少室山の北麓にある寺院。インドから中国に渡来した達磨による禅を伝えられた地と伝えられ、中国における禅の名刹である。また少林武術の中心地でもある。なお、少林寺拳法昭和11年嵩山少林寺にて北少林義和門拳を継承した宗道臣が日本で創始したものであり、文革後再興した現在の嵩山少林寺武術とは別物。
 伽藍は壮麗な七堂伽藍であり、北西には初祖庵、南西には二祖庵があり、五乳峰中には達磨洞がある。
 中国の5A級観光地(2007年認定)。2010年に「天地の中央」にある登封の史跡群のひとつとしてユネスコ世界遺産に登録された。
 2013年当寺院周辺に、少林拳とサッカーを融合(少林サッカー)させて教えるサッカースクールを2017年までに建設する計画があることが関係者から発表された。
 歴史
 少林寺千佛堂の壁画。武術の鍛錬をする僧たち
 塔林。唐代以来の高僧たちの墓所
 皇唐嵩岳少林寺
 嵩山少林寺の位置(中華人民共和国内)嵩山少林寺
 嵩山少林寺の位置
 前身は北周に洛陽城内に宣帝が創建した陟岵寺(ちょっこじ、zhìhù sì)。隋の文帝に勅によって寺名を少林寺と改める。
 『魏書』巻114「釈老志」によれば、その創建は、496年(太和20年)で、孝文帝が西域沙門の仏陀禅師(釈老志では跋陀、仏陀は『続高僧伝』巻16の表記による)の住寺として、少室山陰に建立したとされる。
 その後禅宗では、唐代の『伝法宝紀』の時代になって初めて、菩提達磨がこの寺で面壁九年に及び、慧可が師の面前で断臂した寺であると伝承されるに至り、『宝林伝』以後の燈史が、それを踏襲する。
 唐朝の創業期には、洛陽を本拠とした王世充の鄭国政権を見限り、唐の李世民(後の太宗)軍に対して自坊の僧兵たちを援軍として出すことで助力し、鄭の征討に貢献した。寺内には、「皇唐嵩岳少林寺碑」、「唐太宗御書碑」が残る。
 1928年に、軍閥混戦の最中に隋末以降最大の大火があり、天王殿、大雄殿、法堂、鐘楼、鼓楼、客堂、庫房、香積厨、東西禅堂、緊那羅殿、六祖堂、閻王殿、龍王殿などの寺の主要建造物が燃えてしまった。また、寺に収蔵されていた明代の銅版経典、「少林寺志」の木版、魏代に作られた仏像や碑、および達磨面壁影石と仏堂に陳列されていた儀杖も全部焼失した。最近、天王殿、緊那羅殿、東西禅堂と僧院は復元された。
 禅の発祥伝説
 伝説によれば、インド仏教第28祖で中国禅の初祖となる達磨が壁に向かって9年間座禅していたところに、二祖慧可が訪ねて達磨の教えを求めたという。これにより、中国で禅の教えが広まったと伝えられる。
 曹洞宗の拠点
 元代初期、世祖クビライは曹洞宗の五十二世雪庭福裕禅師を嵩山少林寺の住持に任じた。雪庭福裕は戦乱で破壊された嵩山一帯の仏教寺院を修復するとともに曹洞禅の教勢を張った。それ以降、華北地方の曹洞宗の大きな拠点となっている。
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 三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん、中国語:三武之禍、拼音: sān wǔ zhī huò)は、中国の歴代王朝が仏教を弾圧した事件のうち、とりわけ規模が大きく、また後世への影響力も大きかった4人の皇帝による廃仏事件のことである。各皇帝の廟号や諡号をとってこう呼ばれている。三武一宗の廃仏とも。
 廃仏の状況
 北魏の太武帝と唐の武宗とは、道教を保護する一方で仏教を弾圧したが、北周武帝は、道教も仏教もともに弾圧した。その一方で、通道観という施設を新設し、仏教・道教を研究させている。後に述べるように道教の保護だけに留まらず経済政策の意味もあった。
 唐の武宗の仏教弾圧については、その元号をとって会昌の廃仏と呼ばれる。
 4度の廃仏事件
 1,北魏の太武帝(在位 : 423年 - 452年)の太平真君年間。
 2,北周武帝(在位 : 560年 - 578年)の建徳年間。
 3,唐の武宗(在位 : 840年 - 846年)の会昌年間。
    詳細は「会昌の廃仏」を参照
 4,後周の世宗(在位 : 954年 - 959年)の顕徳年間。
 各廃仏時の扇惑者とされる人物
 ・北魏 : 崔浩(北魏の司徒)・寇謙之(道士)
 ・北周 : 衛元嵩(還俗僧)・張賓(道士)
 ・唐 : 李徳裕(唐の左僕射)・趙帰真(道士)
 弾圧政策の内容
 弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊(但し、必ずしも施設の破壊を意味する訳ではない。一般施設や住居に転用される場合が多い)と財産の没収、僧の還俗であり、特に後周の世宗の場合は純粋に、寺院の財産を没収するとともに、国家の公認した度僧制度によらず勝手に得度した者(私度僧)や、脱税目的で僧籍を取る者(偽濫僧)を還俗させて税を課そうとする、財政改善を狙った経済政策であった。銅(貨幣の材料)や鉄(武器の材料)という金属を中心とした物資を仏寺中の仏像や梵鐘などから得ることも、当時の情勢(唐の武宗時代の銅銭不足による経済混乱、後周の世宗時代のいわゆる「十国」の再統一事業)からして、差し迫った問題であった。
 仏教の影響力
 軍事面でも、出家して軍籍から離脱する国民が大量に出ることは、戦乱の時代にあっては痛手であった。特に五胡十六国時代には、それまで啓示系の宗教が中国には無かったこともあって、仏教の影響力は絶大で、北斉の史官魏収は、寺3万、僧尼200万と記しており、この数字を鵜呑みにするならば、全人口が1000万にも達しなかったであろう当時の割拠政権にとって、そのような膨大な人口を再び国政に戻すことは、必要に迫られた事情であったと言える。
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「三武一宗の法難」の意味・わかりやすい解説
 三武一宗の法難 さんぶいっそうのほうなん
 中国仏教史上、北魏(ほくぎ)の太武帝北周武帝、唐の武宗(以上、三武)と後周(こうしゅう)の世宗(一宗)によって断行された仏教弾圧事件を仏教側からよんだことば。
 (1)北魏の廃仏(446~452) 鮮卑(せんぴ)族出身の太武帝漢人官僚崔浩(さいこう)と道士寇謙之(こうけんし)の影響を受けて道教に傾斜していき、とくに崔浩の方針を採用して、華北一帯の寺院堂塔の廃毀(はいき)、僧尼の還俗(げんぞく)、仏像経巻の焼却などを強行した。
 (2)北周の廃仏(574~578) 武帝は隣国北斉(ほくせい)に対する臨戦体制を整える過程において、還俗僧衛元嵩(えいげんすう)らの提言をいれ、仏教と道教の廃棄を決定し、寺院は没収、300万の僧は軍民に編入された。弾圧は主として仏教に向けられ、これに死をもって抗議する僧もいたが、577年には、滅ぼした北斉の旧領内にも適用し、その結果、華北の仏教は大きな打撃を受け、末法思想が広まっていった。
 (3)唐の廃仏(845~846) 通称「会昌(かいしょう)の廃仏」。道教に傾倒した武宗は、趙帰真(ちょうきしん)・鄧元起(とうげんき)・劉玄靖(りゅうげんせい)ら道士の提言をいれ、徐々に仏教教団に対する統制を強化し、ついには会昌5年(845)、国家祭祀(さいし)に必要な最小限度の寺院と僧尼を残して、その他の寺院の廃毀と財産没収、僧尼の還俗を断行した。
 (4)後周の廃仏(955~959) 世宗は唐以来行われてきた仏教管理政策を再確認して、無額の寺や私度(しど)の僧尼を整理した。この廃仏は前3回の廃仏とは異なり、全国で2694の寺院と6万余の僧尼が改めて登録されるなど、根本的な廃仏ではなかった。
 4回の廃仏に共通している点は、僧尼という非生産人口の増加と寺院荘園(しょうえん)の拡大が国家の財政運営上大きな問題となったことである。また、後周を除く三廃仏では、儒教を基本としたうえでの道教・仏教両勢力の角逐が認められる。
 [佐藤智水]
 [参照項目] | 会昌の廃仏
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 1851~1864年 中国人キリスト教徒と農民・貧民、遊民による太平天国の乱。
 清国軍・白人義勇軍キリスト教反乱軍による14年間の死闘で、2,000万人以上の中国人が虐殺された。
 (中国版島原の乱
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 中国共産党は、反宗教無神論イデオロギーであるマルクス主義に従い、絶対神の福音・隣人愛・博愛、救済・恩寵・恵み・奇蹟、仏教の慈悲・慈愛、救済・恵みを無条件で説くチベット仏教イスラム教、キリスト教を根絶する為に宗教弾圧をし「神仏殺し」を続けている。
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