🗻4〕─2─日本人の新しいもの好きは古代から?前方後円墳に込めたヤマト王権の野望。~No.12 

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 弥生の大乱とヤマト王権の日本統一は、直接的に関係ない。
 ヤマト王権による日本統一は、流血の量が少ない点で世界的に特異であった。
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 2023年7月20日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「日本人の新しいもの好きは古代から? 前方後円墳の広がりと仏教伝来時の様子は似ていた!
 兵庫県神戸市にある五色塚古墳。古墳の建造では、このように膨大な数の葺石を敷き詰めなければならない。(撮影:柏木宏之
 いろいろ考えていると、前方後円墳が広がった背景と欽明朝(きんめいちょう)以降に仏教を積極的に受け入れた情景が重なって見えてきた。仏教の受容と前方後円墳の普及には、もしかすると同じようなメリットがあったのではないだろうか?
■新たな文化と技術を受け入れて育てる好奇心と向上心
 仏教は、欽明天皇の時代に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から公伝します。崇仏(すうぶつ)派と排仏派が対立をしますが、それは単なる宗教対立とはいえなかったと思います。仏教が包含する新文明を崇仏派の蘇我(そが)氏が独占して権力を強大にすることを物部(もののべ)氏は恐れたのでしょう。
 「仏教」と一口に言いますが、釈迦(しゃか)の教えを中心にした哲学と価値観が根本にあるだけではなく、それを理解し実践するためには瓦葺(かわらぶき)の寺が必要です。もちろん五重塔などの高層建築技術、伽藍配置(がらんはいち)やその学問的意義、そして仏像を作る木工(もっこう)・鋳造(ちゅうぞう)・鍍金(ときん)技術やデザイン美術、そのほか蝋燭、線香、仏具、荘厳具(しょうごんぐ)、そして漢字の読み書きや漢語の理解など、大和国(やまとのくに)になかった最新の文明が一挙に流入してくることを意味したのです。
 明治維新の時、新政府は海外からお雇い外国人を高給で大勢招き入れ、海外に公費留学生を派遣して近代化を急ぎました。それと同じことが、仏教を受け入れることで巻き起こります。
 仏教を正式に取り入れた飛鳥時代は、朝鮮三国から瓦博士(かわらはかせ)や高僧、文字に長けた学者や官僚などを大勢受け入れて大和の若者に学ばせました。そのリーダーの代表格が聖徳太子だったと考えてよいでしょう。このように新文明は瞬く間に広がりますし、その価値を理解した者は貪欲に受容します。大和王権が地方に前方後円墳文化を広げられたのも、同じようなことではなかったでしょうか。
大和王権は豊かな文化と技術提供によって拡大した?
 弥生時代から古墳時代に移行した時、見たことのない巨大な人工物である前方後円墳は、人々にとって驚愕の建造物だったでしょう。そのうえ円墳部と長く伸びる方部が連なった異様な形状には、人々を納得させるに十分な死生観や思想があったはずです。
 さらに地方の国々は前方後円墳を受け入れると、未知の新文化を手に入れることができました。巨大な構造物を築造する地形の選定方法や測量技術、そしてうず高く段築(だんちく)するための基礎・土木・版築(はんちく)技術、膨大な葺石(ふきいし)の運搬・施工法、埋葬施設工法、そして埋葬時の儀式といったものです。
 さらに膨大な数の円筒埴輪(えんとうはにわ)や形象埴輪を製造しなくてはなりません。大きな埴輪を生産するのは並大抵の技術ではありません。埴土(はにつち)の選び方、こね方、造形技術、乾かし方、焼き方、さらには窯の造り方など、とんでもないほど多岐にわたる新技術と新文明を学ぶことができるのです。
 そういった最新技術のプロ集団を大和王権は派遣して地方の若者に学ばせたことでしょう。それらはすべて前方後円墳築造にぶら下がる最新のソフトです。ハード面は土木工具や木棺石棺製造のための工具に必要な鉄部品の供与、そしてなんといっても副葬する最高品質の美術品であった銅鏡の贈呈!
 仏教を取り入れることで得られる最新文明に大きな魅力があったのと、極めてよく似ているような気がしてなりません。大和王権が武力や鉄だけで近隣諸国を従わせたわけではないことを改めて感じますね。
 柏木 宏之
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 6月22日 歴史人「大和王権の権勢の象徴・前方後円墳に込められた思想とは?
 柏木 宏之
 大和を囲む周辺の古墳や史跡を巡っていると、大和王権は近隣邑国(ゆうこく)の協力なくして成立し得なかったことがよくわかる。協力を惜しまなかった周辺勢力とはどのようなものだったのだろうか? そして、当時造られた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)にはどのような思想が込められていたのだろうか?
前方後円墳大和王権の支配力を表す
 古代史を眺めるときには、やはり主権中心部の大和王権そのものの成長変化を見がちです。しかし、「わかれて百余国」といわれたほど、邑国(ゆうこく)と呼ばれる集落国家が林立していた弥生後期は、非常に複雑な力関係、もしくは政治外交関係にあったのだろうと思います。
 そんな邑国集団の中から、何らかの力をもった王権が台頭し始めます。その理由は武力や稲作技術や鉄だったのかもしれませんし、それだけではなかったかもしれません。大和地方に発生した王権もその一つですが、ほかにも吉備(きび)や丹後、九州や中部地方などにも同じように成長しつつあった王権があったはずです。
 大和・河内(かわち)に強大な王権を築いた勢力は、地方に成長しつつある他の大きな王権に協力を求め、傘下にまとめつつ国家造りを進めたのでしょう。古い記録には「言向平和(ことむけやわする)」とあり、武力ではなく条約を平和裏に結ぶ方針であったことが記されています。協力を約束した地方王権には、その領地の支配権を認め、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の築造を認めたようです。
 そうであるなら、地方の支配者が築造に大変な労力が必要だったにもかかわらず造りたがった前方後円墳というものには、どんな権威と魅力があったのか? と考えざるを得ません。大和王権の力や権威に大きな魅力があったのでしょうか? それは恐らく、大和王権に属することを内外に知らしめ、その特別なモニュメントとして大きな魅力があったのだと思われます。しかしそれだけではなく、ことによると前方後円墳に込められた霊的思想が魅力的だったのかもしれないとも感じます。当時の人々にとっても、あの前方後円形は相当斬新で特異な前代未聞の形だったでしょう。
 今城塚古墳の1/100スケールモデル。 今城塚古代歴史館蔵/撮影:柏木宏之
■霊的思想を秘め人々が畏怖した前方後円墳
 弥生時代の特徴でもある銅剣・銅矛(どうほこ)や銅鐸(どうたく)を使う祭祀をやめて、新しく銅鏡を副葬する前方後円墳祭祀に込められた精神世界とはどんなものだったのでしょう。大和王権はいち早く精神世界を体系的に理論づけて、霊的儀式化したのではなかったでしょうか。
 古代からこの国は信仰と軍事が一体となっていました。その証拠は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にもあるように、「倭人は卜(ぼく=占い)をしている」というところに求められます。また倭人は命がけの渡海をするときに持衰(じさい)という霊的責任者を伴います。織田信長豊臣秀吉の時代も戦場に「陣僧(じんそう)」を伴って吉凶を進言させています。
 さまざまな妄想を広げていると、前方後円墳という特異な墳型には当時の人々が見上げて、ひれ伏すような精神的権威が込められていたのだと考えたくなります。
 とすると、後円部は間違いなく主被葬者の埋葬所ですから、前方部に込められた思想こそが重大な意味を持っているのだと考えざるを得ません。
 上空から眺めると前方部は、三味線の撥型(ばちがた)に開くものから手鏡の柄のようなもの、さらには大きく裾がどっしりと開く形などさまざまです。前方部は微妙に形を変えますが、基本的な全体の形は変わりません。時代によって、地方によっての特徴もあるのですが、その基本的デザイン思想を考えると興味は尽きません。いったいどんな思想を以てこの形が出来上がったのでしょうか? いずれにしても前方後円墳の広がりが、地方の邑国が大和王権傘下に入っていく状況を示しているのです。
 主な前方後円墳の形。前方部には多くのバリエーションがあり、この他にも、様々なタイプの前方後円墳が作られた。
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