🎍7〕─3─大和王権はどのような制度でどのような範囲を支配したのか?~No.19 

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 前方後円墳のある地域は、ヤマト王権の支配領域で、日本国内だけではなく朝鮮半島の南部にも存在していた。
 つまり、朝鮮半島南部は倭国ヤマト王権の勢力下であった。
 古代日本は、朝鮮半島に領土を持っていた。
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 2023年12月7日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「「大和王権」はどのような制度でどのような範囲を支配したのか?その力とは⁉
 写真・図表:歴史人
 古代に日本列島を統治した名前なき国家「大和王権」は、どのような支配力をもっていたのだろうか?
大和王権は中央と地方豪族による連合体として成立していた
 大和国を本拠地とする政権がいつごろ、どのような経緯で形成されたのか。同時代の国内史料がないため確たる推測は難しいが、その中枢が大和・河内(かわち)・摂津(せっつ)・山城(やましろ)などの範囲にあったことは間違いない。
 『日本書紀』には、大化改新で「畿内(きない)国」という地域区画が初めて設定されたように記されている。そこには、東は「名墾横河(なばりよこかわ)」(現・三重県名張市)、南は「紀伊兄山(きいせやま)」(和歌山県伊都郡かつらぎ町)、西は「赤石櫛淵」(神戸市須磨区)、北は「近江狭狭波合坂山(おうみささなみのおうさかやま)」(滋賀県大津市逢坂)、この四至(しし/4地点)の内側の範囲が畿内国であると記されている。のちの畿内(大和・河内・摂津・山城・和泉)5国とはやや異なるが、これがつまり大和王権の本拠地であった。大和王権を構成する中央豪族たちの本拠地は、この地域にあった。
 関晃(せきあきら)氏が述べたように「この地域の豪族がまず皇室を中心にして連合体的に結束し、その全体の力で四方に勢力を伸ばした」のが大和王権なのである。その中核となったのが、大和と河内であった。7世紀後半に天智天皇(てんちてんのう)が近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷都するまで、伝説の時代を除いては王の都がこの2国の外へ出ることはほとんどなかったこともその表れといえる。
 草創期の大和王権の統治制度についても詳しいことはわからないが、「県(あがた)」という直轄地とそれを治める「県主(あがたぬし)」という地方官、また「国」という地方区画とそれを治める「国造(くにのみやつこ)」という地方官の存在が推定できる。「県」は、『記・紀』では第13代成務(せいむ)天皇の時代に成立した地方行政単位で、これを治めるのが県主であると記されている。
 『古事記』では「建内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣として、大国小国の国造を定め、国国の堺、大県小県の県主を定め」たとある。成務天皇の実在には大きな疑問符がつくため、この時期に県の制度が成立したとは考えられないが、その分布は大和・河内・吉備(きび)・筑紫(つくし)に濃密にみられ、越前(えちぜん)から尾張(おわり)・美濃(みの)以西にまたがる。
 県のなかでも「大和の六御県(むつのみあがた)」と呼ばれる「高市(たけち)県・葛木(かつらぎ)県・十市(とおち)県・志貴(しき)県・山辺(やまのべ)県・曽布(そふ)県」は、朝廷の最も古い直轄地であったと考えられる。
 国造とは、もともと地方を統治する豪族たちで、大王に服属を誓うことで「国造」に任命された。そのうえで改めて元々治めていた土地(「国」)の統治を任された。
 大和政権を構成する豪族たちが大王(おおきみ)に服属し、大王のために貢献するしくみを部民(べみん)制と呼んでいる。「部」は、やまと言葉で「トモ」と呼ばれ、王権に服属した豪族たちの中で王宮の警備や労役の提供、特定物品の貢納などの義務を負わされる集団のことであった。
 元々は畿内やその周辺の中小豪族が朝廷の各種の職務を世襲的に分掌する組織を「トモ」と呼んだのが始まりであったが、のちにはこの制度が拡充され、米や食材の貢納や、渡来人の生産する玉類や武器などの手工業品の貢納義務を負うものなどにも「トモ」という言葉が使われるようになった。そして「トモ」に漢語の「部」の字が当てはめられたのであった。これら各地に分布する「トモ」を統括する中央の豪族を、「伴造(とものみやつこ)」と呼んだ。大伴(おおとも)氏や物部(もののべ)氏、中臣(なかとみ)氏などは「伴造」として、自らの傘下にいる各地の「大伴部」や「物部」や「中臣部」等を統括していた。
 大和王権の支配領域は、前方後円墳の分布からすると、東北地方から九州南部までわたっていたようにみえるが、県や国、部などの制度が機能していたのはもっと狭い範囲であっただろう。それでも西暦470年前後のものとみられる熊本県江田船山(えたふなやま)古墳出土大刀銘文と埼玉県稲荷山(いなりやま)鉄剣銘文に、雄略(ゆうりゃく)天皇(ワカタケル大王)の名前が記されていることは、少なくともこの当時、王権の版図が北関東と九州中部に及んでいたことを示している。
 監修・文/水谷千秋
 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
 歴史人編集部
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