🎌16〕─1─「皇室のルーツ」どこまで知ってる?教科書では学べない“万世一系”の真偽。~No.109No.110No.111 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 天皇家・皇室の正統性は、日本書紀古事記の神話物語にある。
   ・   ・   ・   
 日本民族の歴史は、数万年前の旧石器時代縄文時代まで遡る。
 天皇家・皇室の歴史は、数千年前の弥生時代古墳時代まで遡る。
   ・   ・   ・   
 2023年10月23日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「皇室のルーツ」どこまで知ってる?教科書では学べない“万世一系”の真偽
 皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る伊勢神宮の内宮 Photo:PIXTA
● 推古天皇以降の名前しか 教えない最近の教科書
 世界を相手に活躍するビジネスマンなら、自分の国の歴史とか文化についてうんちくくらい語れないと少し恥ずかしい。しかも、単に知識があるというだけでなく、外国人から「一目置くべき人だ」と評価されるような内容を語るべきだ。
 ところが、戦後の歴史教育は、日本人に戦前を反省させ、国民に「日本は他の国より優れてる」とは考えさせないことを目指してきた。だから、日本人は相当立派な学歴の人でも、自国の歴史を誇らしく語ることができない。
 その反動なのか、作家の百田尚樹氏の『日本国紀』といった本が人気を集めたりするのだが、そこで語られるような国粋主義的な歴史観は、外国人、特にリベラルな傾向の人からは歴史修正主義というありがたくないレッテルを貼られる覚悟が必要なものだ。
 私が歴史家として心がけているのは、外国人を納得させられるぎりぎりの線まで、日本の国益や誇りを追究することであり、それはフランスでの留学・勤務時や、中国や韓国の担当課長として外交交渉した時期などに、試行錯誤してたどり着いたものだ。
 今回は「日本の国と皇室の始まりをどう説明すべきか」をテーマに考えてみたい。
 最近の歴史教科書では、聖徳太子の時代の推古天皇より前の天皇については、名前すら教えていない。神武天皇は神話の登場人物として、また、仁徳天皇は大山古墳が「伝仁徳天皇陵」として出てくる教科書がある程度だ。
 一方で、「卑弥呼」「倭王武」など、中国人が呼んでいた王の名は出てくるが、当時の日本人がそんな名前で呼んでいたわけでない。生前使われていない名前で呼ばれる歴史的人物は他にもいくらでもいるから、崇神天皇とか応神天皇とか呼んでも差し支えはあるまい。
● 『日本書紀』に書かれた 神武天皇の即位年は紀元前後?
 日本の皇室では、8世紀に編纂された公式の史書である『日本書紀』に基づき、紀元前660年に即位した神武天皇と呼ばれる王者が初代であるとしている。伊勢神宮に祭られるアマテラスという女神の孫が九州の宮崎県に天上から降り、その曽孫である神武天皇奈良県にやってきて橿原市に小さな国を建てたのが、この年の2月11日だとし、この日が建国を記念する日として祝日となっている。
 ただし、この国の支配地域は奈良県の一部にとどまり、10代目の崇神天皇になって奈良県を統一し、本州の中央部を支配する日本国家の原型が完成したようだ。そして、14代目の仲哀天皇とその皇后であった神功皇后の時に、大陸への窓口である北九州まで含めて日本を統一し、その後、朝鮮半島に領土を拡張したとされる。
 だが、『日本書紀』に書かれている歴代天皇の寿命は長すぎるので、通常の寿命に補正してみると、神武天皇は紀元前後の人で、崇神天皇は3世紀、仲哀天皇神功皇后は4世紀の人物になる。
 日本人は独自の文字を持たなかったので、古い時代にあっては同時代に書かれた記録がなく、7世紀から編纂が始まり8世紀になって最初の正史が完成した。
 中国側の記録によれば、紀元前から日本列島の王者の使いが来ていたとあり、1世紀に後漢の皇帝から金印を授かった奴国王や、3世紀に魏と交流していた卑弥呼と呼ばれる女王が著名だが、彼らは統一国家の王ではなく九州の地方勢力だったとみられる(考古学者は畿内説支持が多いが国家成立史としては九州説が自然だ)。
 天皇の祖先による中国との国交は、5世紀の仁徳天皇から雄略天皇までの5人の天皇による南朝との交流が最初である(倭の五王)。特に、378年に書かれた倭王武雄略天皇とみられる)の手紙には、この王者の先祖が、近畿地方から出発して、東、西、さらには、海峡を渡って朝鮮半島に領土を広げたと書いてあり、『日本書紀』の記述と一致する。
 朝鮮半島で、4世紀以来、日本は領土を持っていたが、百済新羅が成長したので、6世紀には維持できなくなった。一方、百済を通じて中国文明が盛んに輸入され、特に、仏教の伝来を通じて漢字の読み書き、美術・工芸などが広く受け入れられた。
 また、中国との国交は上記の378年の使節を最後に途絶えていたが、7世紀になると隋・唐と使節の往来が再開され、特に、唐との交流を通じて、法制度の整備が行われ、中央集権的な国家体制が完成した。
● 英仏以上の歴史を持つ 「万世一系」の皇室
 『日本書紀』の記録を真実だとすると、初代の神武天皇から数えて、現在の天皇陛下は126代目で、世代数では74世代目である。そして、その間、男系男子による継承が維持されているという。これをしばしば、「万世一系」と呼ぶ。
 つまり、4世紀に成立した統一国家は、紀元前後に奈良県で成立した小国家が発展したものであって、その王者は同一家系で、男系男子で断絶することなく継承され、現在にまで至っているというのである。
 「国家の歴史の長さや皇統の継続性など、外国人から見てそんな価値があるか」と思う人がいるかもしれないが、そんなことはない。
 中国や北朝鮮は最近では、国家成立を5000年前と「水増し」している。さすがにこれらの国では王朝交代が頻繁だが、ヨーロッパでは、英王室は11世紀のノルマン人による征服からは女系とはいえ同一家系であること、また、フランスは10世紀から現在のブルボン家当主まで男系男子嫡系の王家があることを誇っている。
 長く厳しい条件をクリアしての継続性は、国家とか民族の安定性を保証するものと受け取られているのである。だから、日本人も胸を張って、「伝説では2700年近く前、実際には紀元前後に皇室の先祖によって建国された国が、4世紀に日本を統一し、現在まで独立と統一を断絶なく維持し続けている」と主張すべきだし、それは世界から尊敬されることなのである。
 それに対して、古代に王朝交代があったのではないかという人もいる。しかし、文学の世界はともかく、歴史の問題としては多数派ではない。
 もちろん、古代日本では文字が限定的にしか使われていなかったので、6世紀終わりの推古天皇以前については、同時代資料が国内ではほとんどないから100%の保証はない。また、崇神天皇による大和統一以前については、奈良県のごく一部のみを支配する小領主だったのだから、記憶が曖昧なのは仕方ない。
● 古代の王朝交代説が あり得ない理由
 『日本書紀』によれば、推古天皇の祖父である継体天皇については、それまでの皇統の男系男子がいなくなったので、重臣たちは4世紀中頃、応神天皇の子孫であり、滋賀県で生まれ福井県の豪族だった人物を天皇に擁立したとしている。
 一部の人はあまりにも遠縁過ぎて継体天皇が前王朝を倒したのでないかと疑っている。ところが、『日本書紀』はこの継体天皇についていかなる英雄らしい逸話も語っていない。『日本書紀』のもとになった資料が文字化され始めたのは推古天皇の頃からとされている。その推古天皇の祖父が新王朝の創始者であるとすれば、記憶が曖昧なほど昔の話ではなく、天皇の祖父の英雄物語を忘れるなど、あり得ないことだ。
 また、継体天皇はたしかに男系では遠縁だが、一方で『日本書紀』では2世代ほど前の雄略天皇が近親者を盛んに誅殺した結果であることも記録されている。しかも、この継体天皇の生家は、雄略天皇の母親の実家であり、女系では比較的近い皇族であるため、継体天皇の即位は唐突でなく、王朝交代の可能性は低いようだ。
 さらに、応神天皇についても、戦後、江上波夫という東京大学教授が、騎馬民族が日本を征服したというロマンあふれる仮説を出して人気を博し、現在でも衆議院議員小沢一郎氏のような信奉者がいるが、研究者で支持する者はほとんどいない。国家統一と半島進出を果たしたことによって王朝の風俗が変化したのは当然である。
 それでも王朝交代の可能性をいう人がいるが、継体天皇の即位の時に第一候補だったのは、応神天皇の兄の子孫だが、本人が辞退したとされている。もし、応神天皇が新王朝の創立者であるとすればあり得ない。
● 「テンノウ」の呼び方は明治以降 「帝国」という言葉は和製漢語
 なお、半島南部の支配については、韓国人は否定したがるが、4世紀末の好太王碑にも半島支配を巡って日本と高句麗が争ったことが書かれ、5世紀の中国南朝は日本の半島南部への宗主権を認め、半島南部には日本式の前方後円墳が多いなどから見て、韓国人は信じたくないだろうが、全面否定する理由はない。
 さらに、日本という国号や天皇という称号の起源については、そもそも大きな誤解がある。日本の自称はもともと「ヤマト」であるし、文字は統一国家成立の頃から限定的に使われ始めてはいたが、本格的な文字社会に移行するのは仏教伝来後である。
 従って、中国の史書に「倭国」と書かれていても、日本人はヤマトと読んでいた。奈良県を指す「大和」も、「大倭」という表記の印象が良くないので奈良時代に改めたものだ。また「日本」は、奈良に都が移るころから、「倭」のイメージが悪いので使い始められた。
 天皇も「スメラミコト」「スメラギ」「オオキミ」などと読んでいたらしい。天皇という言葉は、おそらく唐の初期に皇帝を天皇と表記していたことがあるのにならい、中国語表記として採用されたようだ。
 従って万葉集の時代にも天皇という文字を「スメラミコト」などと読んでいたことが確認されており、天皇を日本人が「テンノウ」と呼ぶようになったのは明治になってからのことだ。江戸時代は「ミカド」など多様な読み方がされていた。
 天皇を英語では「エンペラー」と呼ぶが、これは明治になって日本人が考えた新しい翻訳だ。また、帝国という言葉は、エンパイアの翻訳として考えられた和製漢語にすぎず、歴史的にはそのような漢語はない。
 以上のような説明は、欧米人などに理解できて納得を得られるように、筆者はかなり目配りをした。中国人にも分かりやすいはずだ。韓国人に喜ばれるかどうかは知らないが、いずれにせよ、韓国人とはビジネスパーソンが相手でも歴史論争はしないほうが、気まずくならないので賢明だろう。
 ※本稿の内容は「英国王室と日本人」(小学館)、「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)に詳しい
 (評論家 八幡和郎)
   ・   ・   ・