🏹7〕─1・A─鎌倉仏教とは捨てない仏教。日本仏教は日本独自の特異な日本だけの仏教。~No.17 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 鎌倉仏教は、インド発祥仏教を天・国家鎮護から地・個人救済へとレベルを下げた。
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 鎌倉仏教は、天台宗比叡山延暦寺で学び、戦乱と飢餓・疫病など甚大な災害の中、死が居たる処にある地獄のような、救いのない絶望的な悲惨な社会から生まれた。
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 2022年3月号 Hanada「記憶の依代(よりしろ)が孤独を癒やす
──今年、マガジンハウスが創刊したマガジンハウス新書。その第一弾として五木寛之先生の『捨てない生き方』が刊行されました。断捨離(だんしゃり)が持て囃(はや)されるいまの風潮に対して、捨てないことの意義がエピソードフルに綴(つづ)られており、読んでいて多くの発見がありました。
 五木 いま、断捨離やミニマムな生活が強迫観念になっており、モノをとっておくことが、なにか悪いことのような風潮すらあります。私の周りでも、『なぜ自分はモノを捨てられないんだろう』とコンプレックスを抱いている人が多い。この本では、そうした人に『大丈夫、捨てなくてもいいんだよ』と伝えたかった。
 とにかく私はモノを捨てない質(たち)で、今日着ているジャケットも42年前に買ったものです。丈(たけ)が長くて肩パットもしっかり入っているから、いまの流行(はや)りではないかもしれませんけど。
──42年前の服が着られるのはすごい。私も、学生時代に初めて買ったジャケットを、ついこないだまで捨てずに持っていましたが、体型が変わっているから着られず、捨てました。
 五木 もうファストファッションのブランドを、ひと夏だけ着てポイ捨てするようなライフスタイルは、時代に合わなくなってきています。
 ちょっとエラそうな話をしてもいいですか。捨てるということは、身近な話だけじゃないんです。いま世界が直面している地球環境問題もそうですね。フードロスの数字を知ると驚きますが、カーボンニュートラルやプラスチック廃棄物の問題は、私たちがいま直面しているテーマですね。
 また、宗教の話をすると、平安前期までの宗教は国家宗教だった。ある意味で捨てる宗教です。当時の今様(いまよう)という歌に、『はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろずの仏に生まれて 後生わが身をいかんせん』という庶民のなげきの歌がある。これに対して、法然親鸞などが、すべての人は救われる、と宣言したのです。〈捨てない仏教〉ですね。鎌倉仏教はそこからスタートするのです。〈捨てない宣言〉からね。
 また最近、孤独が社会問題になっていますが、捨てないことは人の『孤独』をも癒やしてくれるんじゃないか。英国政府は2018年、『孤独は現代の公衆衛生上、最も大きな課題の一つ』として、世界初の『孤独担当大臣』をつくり、日本でも昨年、新たに孤独・孤立対策担当大臣がつくられました。
 孤独に耐えられる人間というのは、ものすごく豊かな記憶を持っています。『回想力』と言い換えてもいい。回想力のある人間は、孤独に苛(さいな)まれることはありません。ただ、漠然と昔を思い出すことは難しく、回想するためには『依代』が必要になるということです。数十年の時をともにし、記憶を宿したモノによっれ、われわれは豊かな回想の世界に入っていくことができるから。
 孤独はもう高齢者だけの問題ではありません。高等教育が普及してくると、女性の未婚率は高くなります。統計を見ていても、2040年には一人暮らす単身世帯の割合は約40%に達するといわれている。そういう人たちは孤独に苛まれないようにするには、豊かな過去の記憶とともの生きていくことが必要なのではないか。
 過去を振り返るといっても、スナックのカウンターの端(はし)で、水割りを飲みながら『昔はよかったなぁ』と、管(くだ)を巻くようなものではないのです。もっと豊かな、回想の海に船出するイメージかな。
 一人でいて寂しいとか、侘(わび)しいとかならないためには、やはりモノを捨てずに『記憶の依代』を持っておくことが大切な気がします。
 高齢者は、知らず識(し)らずのうちに『記憶の依代』を求めている。最近、新聞を読んでいるひどく目立つのは、昭和歌謡CDボックスの広告です。全40巻で数万円もするのですが、売れているから、あれだけ毎日のように全面広告を出すことができるのでしょう。歌は、非常に強い記憶の依代ですからね。
──先生は本書の中で、『モノをどんどん捨てていくということは、自分が生きてきた人生、そして、自分が過ごしてきた〈歴史〉を捨てていくのと同じ』と書かれていますが、おっしゃるとおりですね。
 北陸に仏壇ミュージアム
 五木 最近、日本から歴史を伝える『記憶の依代』が失われつつあります。私はある時期、金沢に住んでいました。金沢は何百年も戦災に遭っていないから、古い街並みがそのまま残っています。長屋のような平屋が並ぶ狭い路地を歩いていると、玄関に錆(さ)びついたほとんど読めないプレートのかかっている家がたくさんあった。近づいてよく見ると、『遺族の家』と書いてある。
 それは、かつて日露戦争で戦死者を出した家に標示されたプレートだったのです。日露戦争では、乃木希典陸軍大将の指揮のもと、富山、福井、石川の兵士たちが大勢、海を渡り、死んでいきました。日露戦争で金沢の師団がもっとも戦死しており、記録によると、石川だけで2,800人の戦死者を出したといいます。
 私はそのプレートを見るたびに、二百三高地で金沢の若者の命が多く失われた歴史が蘇ってくる感じがする。しかし、そのプレートも、今はもうあまり見かけなくなりました。
──たしかに、『記憶の依代』がないと、簡単に忘れてしまいますね。普段通っている道でも、店が潰れて駐車場になってしまうと、あっという間に、前になにがあったか思い出せなくなる。
 五木 捨てられるは『記憶の依代』は遺族のプレートだけではありません。金沢の古い家屋には、たいてい三畳程度の仏間があります。その仏壇は、能登の輪島塗だったり、金箔をあしらったり、芸術品のような美しさです。
 しかし、いま世代交代により、この仏壇が危機に瀕している。若い人が代々の家を離れ、都心部のマンションに住むようになると、仏間などありませんから、親が亡くなっても仏壇を引き取ることができません。他に引き取り手もいないから、時として、廃棄物として捨てられてしまうこともある。
 北陸地方の仏壇の美しさは類を見ません。金沢の地方紙『北國新聞』は、毎夏、外国人を何百人か招待し、一週間ほど日本の田舎暮らしを体験してもらうという催しを行っていました。『北國新聞』から、どういうところに行かせるのがいいか相談を受けたので、『金沢の古いお宅に伺い、仏壇を拝見してもらったらどうでしょう』と提案しました。
 外国の青年たちは、能登や金沢のお宅の仏壇を拝み、大変驚いたそうです。『日本では一軒一軒の家に小さな「教会」がある』と。
 北陸の仏壇は、その美術的な美しさだけではありません。仏壇には、何百年間も朝夕、仏飯(ぶつはん)を供え、閼伽水(あかみず)を替え、その前で拝んでいた人々の心の拠(よ)り所としての思い、歴史が刻まれている。私は長年、地元に『仏壇ミュージアム』をつくって保管展示をしてはどうかと提案しているのですが、反響はないですね。なんとかして、捨てられていく仏壇を守らないといけないと思う。
──素晴らしいアイデアですね。仏壇をつくったり、修復したりする職人もいなくなってしまいます。
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 溜め込むにも臨界点がある
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 五木 捨てないとガラクタが増えてどうしようもなくなると思われるでしょうが、これは本当に不思議なことで、モノを溜め込むにも臨界点があるんですね。それ以上増えない。モノで溢れているから、新しいモノが入ってこないでしょうね。私に服も、ここ何年も買っていません。買うものといえば、消耗品の原稿用紙と筆記用具くらいです。
 ──若い世代と話していると、本は電子書籍、音楽や映画はサブスク(定額料金を支払い利用するサービス)を利用し、なるべくモノを持たないようにしている人が多くて、驚くことがあります。
 五木 データで持っていても、『記憶の依代』にはならないんじゃないかな。記憶というのは、手触り感のある、もっと生々しいものです。
 一関に色川武大さんが行きつだった有名なジャズ喫茶があり、店の入口には色川さんが生前よく着ていたジャケットがさりげなくかかっている。ただレトロなジャズ喫茶に来たというだけでなく、『彼はよくここに通っていたのか』とさまざまな回想が広がってくるのです。
 かつて巨人の中畑清さんが『記録より記憶に残りたい』といったけれど、記憶とは要するに『実感』なんです。データには、『実感』がありません。
 人間関係も捨てない 
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 原点は引き揚げ体験
──先生のその捨てないことへのこだわりは、どのように形作られたのでしょうか。
 五木 やはり、引き揚げの体験が大きかったと思います。元来、私はモノに執着しないタイプだったんです。だけど、引き揚げのときにモノの大切さを知りました。
 日本が敗戦し、平壌を脱出、38度線を徒歩で越え、開城(ケソン)付近の米軍の難民キャンプにたどり着いたときには、はじめ60人ほどいた脱出者たちは30人前後になっていました。
 途中で挫折した人たちは、しっかりとした靴を履(は)いていなかったんです。そのときから、靴をファッションやフェチズムではなく、命を支えるフットギアとして捉(と)えるようになり、捨てなくなりましたね。もう部屋は靴だらけですよ。
 あの引き揚げ体験がいまも生きているので、たいていのことは平気なんです。たまに地方に講演に行ったとき、Cクラスのビジネスホテルに泊められてむっとすることがあるんですけど、よく考えれば、トイレもシャワーもテレビもある。ベッドには白いシーツも。あの難民生活にくらべたら極楽じゃないかと、一瞬で立ち返ることができるんです。
 以前、ザ・フォーク・クルセダーズ北山修さんと対談したとき、こんなことを言っていました。
 『五木さんは、一切れのさつまいもを、涙を流しながら食べた経験あるというけてど、僕たちはそういう経験は一回もしていない。学校で出てくるまずい給食をどう先生に見つからないように捨てるかを考えていたくらい。だから、そんな経験、しないほうがいいに決まっているけれど、最大の財産になっていることはたしかです。
 もうひとつ、私が仕事を捨てずやり続けるきっかけとなったのは、ジーン・クルーズというジャズドラマーの言葉です。
 ジーンが来日した際、ある日本人ジャズメンが楽屋に行き、アドバイスを求めました。すると、彼は一言、「キープ・オン」(続けなさい)と言ったそうです。この「キープ・オン」という言葉、すごくいいなと思って、以来、私自身のモットーにしています。』
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 どこで身を引くべきか
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 (インタビュー・花田紀凱)」
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捨てない生きかた(マガジンハウス新書)
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 ウィキペディア
 鎌倉仏教は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 「鎌倉仏教論」 節)。
 概要
 女人救済をおこなった法然の生涯を描いた絵巻物『法然上人絵伝』(国宝)
 鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺をはじめ南都(奈良)の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗の宗祖が活躍した(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
 これに対し、「旧仏教」(南都六宗天台宗および真言宗)側も奈良時代に唐僧鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した[1]。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、官僧(天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧)の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存在であった。
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 百科事典マイペディア「鎌倉仏教」の解説
 鎌倉仏教【かまくらぶっきょう】
 平安末期以来,末法(まっぽう)思想の克服を願った仏教思想の動向の中から,鎌倉中期頃までに新仏教や南都仏教の復興がおこった。新仏教には浄土教系から法然(ほうねん)は浄土宗,親鸞(しんらん)は浄土真宗,一遍(いっぺん)は時宗を,また日蓮(にちれん)は日蓮宗を開宗,衆諸に信仰を広げた。帰朝僧栄西(えいさい)と道元(どうげん)は,禅宗臨済(りんざい)宗・曹洞(そうとう)宗を開き,主に武士層の信仰を集めた。一方南都仏教では華厳(けごん)宗の高弁(こうべん),律宗では泉涌(せんにゅう)寺を復興した俊【じょう】(しゅんじょう),非人・癩者の救済事業を起こした叡尊(えいぞん)・忍性(にんしょう)らが出て活発な活動を行った。
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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 旺文社日本史事典 三訂版「鎌倉仏教」の解説
 鎌倉仏教 かまくらぶっきょう
 平安末期から鎌倉初期にかけておこった各宗派の仏教をいう
 宗派別にあげれば,浄土教系のものとして,法然を開祖とする浄土宗,親鸞に始まる浄土真宗一向宗),一遍の創始した時宗 (じしゆう) があり,宋から伝えられた禅宗系統には,栄西による臨済宗道元による曹洞宗があり,ほかに日蓮の唱えた日蓮宗(法華宗)がある。この時代には,旧仏教の腐敗,末法思想の影響,社会不安・政治的混乱の中から新しい仏教が要求されたのであり,したがって新仏教の特色は,難解な学問・造寺造仏・寺領寄進・戒律などを不要とし,念仏・題目・坐禅などのたやすい方法で,万人が仏の救いにあずかり得ることを説いた点にあり,前代の貴族仏教に対し,より民衆化した。
 出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について
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他力 (幻冬舎文庫 い 5-10)
私の親鸞: 孤独に寄りそうひと (新潮選書)
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 鎌倉仏教には、他力による念仏・救い、自力による座禅・悟りと御題目・成仏の3つがある。
 鎌倉仏教とは、浄土教の浄土宗・浄土真宗時宗禅宗臨済宗曹洞宗・黃檗宗、日蓮教の日蓮宗などである。
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 奈良仏教と平安仏教は、天皇・皇室や公家の宗教であった。
 鎌倉仏教以降の日本仏教は、武士や庶民の宗教であった。
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 反宗教無神論が広まる現代日本では、神(祖先神)殺しや仏(祖先仏)殺しが進んでいる。
 そして、同時に、グローバルな反民族主義によってローカルな民族的な歴史、文化、伝統、宗教・神話、言語も現代日本から抹消されつつある。
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 日本民族の宗教性は、数万年前の石器時代縄文時代に小さな手漕ぎ丸太舟を数人が協力して漕いで、天候などで荒れ狂う海原を越え日本列島に上陸した時から始まっている。
 が、辿り着いた日本列島は、地獄のような甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 そして数千年前の弥生時代古墳時代は、中国大陸や朝鮮半島から移り住んだ弥生系渡来人らによって弥生の大乱が起き全島で殺し合いが行われていた。
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 鎌倉時代以降の日本仏教は、他者救済を説く大乗仏教といっても、反天子統治体制の革命思想を秘めた中国仏教や朝鮮仏教とは違い、運命をあるがままに受け入れて死後は救われて西方浄土仏国土に往生を願うインドから中央アジアチベットに広がった原始宗教に近い。
 玉突きの玉のように、ペルシャゾロアスター教、原始キリスト教、インド・ヒンズー教、その他多くの宗教や儒教道教、その他の思想哲学の影響を受け揉まれながら成長した顕教(けんぎょう)が浄土門として日本に伝来して鎌倉仏教を生み出した。
 鎌倉仏教で最も信徒を増やしたのは、学識・教養がなく身分も低く貧困に喘ぐ庶民に他力本願による救いを説いた親鸞浄土真宗であった。
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 日本神道は、見捨てない宗教である。
 日本仏教は、捨てない仏教である。
 日本仏教は、同じ仏教といっても、インド仏教・東南アジア諸仏教はもちろん中国仏教・朝鮮仏教さらにはチベット仏教・その他の諸仏教とは別の仏教である。
 特に、日本仏教と中国仏教・朝鮮仏教とは全然違う。
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 日本の深層・古層・根底にあるのは、天皇を中心とした民族神話である。
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 現代日本から、現代日本人の間から、日本民族が受け継いできた日本神道や日本仏教という宗教性が消え始めている。
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 現代日本人は、孤独、孤立、無縁に生きる人生を選び、死後は自分が生きていた・存在していたという証を抹消し、心も命も、魂も霊魂までもが無となり、ゼロとして消え去る、という虚無を信奉している。
 それが、自分という存在に対する完全なる断捨離である。
 それは、ある意味、反宗教無神論マルクス主義共産主義の生き方である。
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