🏹7〕─2─鎌倉仏教は正統神聖の平安仏教から異端俗世仏教として誕生した。~No.18No.19 

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 日本仏教は、中国仏教・朝鮮仏教とは違う。
 日本の仏教は、時代の要請に従って幾度となく変貌し独自に発展してきたが、それは宗教的な進化・進歩とは違う。
 鎌倉仏教は多種多様にして多元多角な信心として、世界の啓示宗教が持っていた原理主義的狂信的信仰心は少なかった。
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 2023年4月6日 YAHOO!JAPANニュース「シリーズ「日本の仏教」
 第6回:鎌倉新仏教の誕生
 佐々木 閑 【Profile】
 平安末期から鎌倉時代にかけて、天台宗を母体にしてさまざまな仏教教団が生まれ、仏教は初めて一般民衆にとっても意義ある宗教となった。さらに瞑想(めいそう)を重視する禅宗も加わり、多彩な仏教的世界を作り出していく。
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 天台宗を母体として新しい仏教教団が誕生
 12世紀から13世紀(平安時代末期から鎌倉時代)は、日本仏教にとっての重大な転換期であった。この時期、日本仏教は、真言宗天台宗という二大密教が貴族権力のもとで勢力を誇っていた状況から、それぞれに異なる救済方法をアピールする多くの仏教教団が並び立つ状況へと、急速に多様化したのである。現在の日本仏教を形成する宗派のほとんどが、この時期に生まれたものである。
 そういった多様化の起点となったのは天台宗である。天台宗はさまざまな仏教思想の緩やかな複合体であったため、新たな仏教思想を模索する時代にあって、絶好の土壌となった。天台宗で仏教を学んだ僧侶たちの中で、そのあまりに複雑化した教義に満足できず、より強固な単一の思想を求める人たちが、天台宗の教義に組み込まれているさまざまな思想の中から特定の思想だけを抜き出し、それを「真の仏教」として提示し教団を形成する、という動きが同時多発的に起こり、複数の新興仏教教団が並び立つことになったのである。
 貴族中心の狭い閉鎖世界ではなく、日本社会の全体が超越的な力による救済を求める時代となった時、仏教は初めて、一般民衆にとっても意義ある宗教となった。天台宗を母体として新たに登場した種々の仏教教団は、貴族だけでなく、武士、商人、農民といった多数の社会構成員の共感を得るようなり、一方、権力側に寄り添っていた二大密教も、そうした動きを取り込み、民衆救済をスローガンとして打ち出すようになっていった。12世紀から13世紀は、日本仏教が「苦しむ人を救う」という宗教本来の役割を真に認識するようになった時代なのである。
 民衆の救済を目指した「浄土系諸教団」と「法華経(ほけきょう)信仰教団」
この時期、新たに登場した仏教教団が提唱した民衆救済方法は大きく2種類に分けられる。1つは、この世界とは隔絶した理想の世界が別の場所にあり、そこにいるブッダに願うことで、われわれもその世界に連れて行ってもらえる、という世界観。苦しみの世界から逃れる方法の提唱である。その典型は、法然(1133〜1212)や親鸞(1173〜1262)などをリーダーとする、浄土宗や浄土真宗などの「浄土系諸教団」である。
 もう1つは、この世界には目に見えぬ姿でのブッダが常住しており、特定の経典を読誦(どくじゅ)したり、特定の儀礼をおこなったりすることで、ブッダが周囲の世界を安楽なものに変えてくれると信じる世界観である。すなわち信仰の力によって現状を変えようという教えである。日蓮(1222〜82)をリーダーとする「法華経信仰教団」がその代表である。
 これらの先鋭化した単一の教義を主張する教団は、既存の二大密教から見れば、当然ながら自分たちの既得権を脅かすやっかいな新興宗教教団であった。したがって、これらの新たな教団が勢力を拡大する過程においては、激しい宗教間対立が生じ、各所で武力闘争や政治的迫害が行われた。しかし民衆の期待に添うかたちで教えを説く新興教団の勢いを止めることはできず、その勢力範囲は次第に広がっていった。
 こうして日本仏教は、純然たる密教を教義とする真言宗、多様な仏教思想の集合体を密教的雰囲気で覆った天台宗、その天台宗の多様な仏教思想の中の特定の思想だけを取り出して教義とする複数の新興仏教教団、という三様の勢力が並び立つことになった。そして宗派間の対立や闘争を経た後、次第に棲(す)み分けが進んでいった。この分岐のプロセスを見て分かるとおり、日本仏教のベースは密教的世界観であった。
 知的なライフスタイルを提唱する禅宗
 そしてさらにこうした動きに禅宗が加わることになる。禅宗は、伝説上の開祖である菩提達磨(ぼだいだるま)が、5世紀から6世紀に中国で創始した新しいスタイルの仏教である。釈迦(しゃか)が説いた仏教は本来、瞑想修行によって自己を変革していくことを目的とする宗教であって、そこには修行のためのカリキュラムが定められている。誰もが等しく悟りを目指して進んでいくための道順が明確に定められていたのである。しかし禅宗は、そういった道順を「体験でしか理解することのできない、言語伝達不可能なことがら」として神秘化し、実際の修行生活においては瞑想に専心している状態そのものを重視する。禅宗は、思想や世界観よりも知的瞑想生活の方に重きを置く宗教なのである。
 このような禅宗の特質は中国の知識階級に好まれ、8世紀以降、急速に広まった。そうした禅宗が12世紀から13世紀にかけて日本に本格的に伝わってきたのである。現在の日本には、臨済宗、曹洞(そうとう)宗、黄檗(おうばく)宗という三派の禅宗が存在する。このうち臨済宗曹洞宗が、この時期に創設された。黄檗宗は、17世紀になってから隠元(1592〜1673)によって日本に伝えられた宗派である。
 禅宗は知的な瞑想生活そのものを重視する仏教であるから、教えの中身に関しては確定したものを持っていない。臨済宗を創始した栄西(1141〜1215)は密教を重視していたし、曹洞宗を創始した道元(1200〜53)は「われわれは本来仏であり、瞑想によってそれを確認するのだ」という独自の思想を持っていた。思想はそれぞれに異なっていても、瞑想修行を中心に据えた、禁欲的で知的な生活形態を重視するところに禅宗の共通性があり、それが当時の武士階級を中心とした多くの知識層に受け入れられた。その後の禅宗が、最先端の中国文化を日本が取り入れるための窓口として機能したという事実や、華道、茶道、能などの日本文化と強い親近性を示すという事実も、この知的瞑想生活を根底に置く禅宗の特性をよく表している。
 こうして、既存の2種類の密教に加えて、救済の宗教としての2つの「浄土系教団」と「法華経信仰教団」、知的ライフスタイルの提唱者としての禅宗という、大きく4種に大別できる仏教が新たに日本に根を下ろした。この時に確定した日本仏教の分布が、現在に至るまでおよそ800年間続いているのである。
 時代を逆行し、仏教の出発点にたどりついた日本の仏教
 インド発祥の仏教の歴史を、日本仏教の歴史と対比してみるのは興味深い作業である。インドでは、瞑想による自己鍛錬を基本とする釈迦の仏教から始まり、やがて、さまざまな種類の神秘力による救済を想定する大乗経典が次々と生み出されるようになった。そして最後にはそれら種々の神秘的救済を全て統括して一元化しようとする密教が登場し、それがヒンズー教と同化することによってインドの仏教は消滅した。
 日本仏教は、その最終段階の密教を導入するところから出発した。つまり最後の、そして最新型の仏教から出発したのである。やがてその密教の教えでは救われないと感じた人たちが、密教以前に成立した種々の大乗思想をそのまま保存している天台宗の教義の中から、それぞれの個性に応じて単一の救済方法を選び取って独自の教団を作った。これが12世紀から13世紀にかけての日本仏教の状況である。禅宗を釈迦の仏教の大乗仏教版として見るなら、この時、釈迦の仏教も部分的に入り込んできたと考えることも可能である。日本仏教は、密教から、密教以前の大乗仏教世界へ、そして部分的にではあるが釈迦の仏教世界へと時代を逆行したのである。
 この状況が現在から100年ほど前まで続いていた。そして明治期、日本が鎖国をやめ、海外の文化を積極的に取り入れ始めると、今度はスリランカや東南アジア諸国から本格的な釈迦の仏教が伝わってきた。その結果、日本仏教がもう一段階、時代を逆行し、仏教の出発点にまでたどりつくことになった。
 日本仏教の歴史を、インドで誕生した仏教が歴史的に展開したプロセスの逆行現象として捉えることで、その大枠を理解することができる。このような特異な歴史の結果として現代の日本仏教は、釈迦の仏教から密教まで、ほぼすべての仏教思想を包含する複合的な宗教世界を構成しているのである。
 バナー画像=愛知県犬山市臨済宗瑞泉寺(ずいせんじ)の専門道場で、座禅を組んで心を静める修行僧たち(読売新聞/アフロ)
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 佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る
 花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。
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 5月16日 YAHOO!JAPANニュース「シリーズ「日本の仏教」
 第7回:日本仏教の暴力性
 佐々木 閑 【Profile】
 仏教本来の教えでは、暴力は完全に否定される。しかし釈迦(しゃか)が制定した戒律を収めた「律蔵」が機能しない日本の仏教界にあっては、暴力行使が容認された。こうした特異性が僧兵を生み、一向一揆を起こすことになり、第2次世界大戦では僧侶が戦争に協力することにつながっていった。
 第5回の解説で、日本仏教にはサンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)が存在せず、サンガを運営していくための法律である律蔵も機能していないことを明確化してきた。この状況は日本に仏教が導入されてから現代に至るまで、およそ1300年間にわたって変わることなく続いている。
 律蔵が機能していないことにより、日本仏教の僧侶は、他の仏教世界では見られない独特の生活形態を取るようになった。出家する際にウパサンパダー(受戒)の儀式をおこなわない、酒を飲む、結婚して家族を持つといった行為は、律蔵によれば、すべて処罰の対象となる違法行為であるが、律蔵の存在が認知されていない日本仏教では、さほど問題とされない。せいぜいで「社会通念として好ましくない」といった批判がなされる程度である。そしてこういった日本仏教だけが持つ特性の中でも、最も重要かつ深刻な特性の1つが、「暴力の肯定」である。
 律蔵では、僧侶が他者に暴力を振るうことは絶対に禁じられている。武器を手にして争うことはもちろん、たとえ教育上の必要性によって弟子を叱責(しっせき)する場合でも、暴力を用いることは決して許されない。僧侶が軍隊の行進を見ることさえも禁じられているのである。仏教以外の宗教の中には、「邪悪な暴力行為は禁じるが、自分たちの宗教を脅かす者を排除するための正義の暴力は許される」という考え方もあるが(いわゆる聖戦思想)、仏教はそれも許さない。いかなる暴力も、ブッダの教えに背く行為として非難されるのである。
 律蔵がないために暴力を肯定
 インドで釈迦が創始した本来の仏教は、このように暴力を絶対的に否定していたのだが、その後の長い歴史の中で、この基本原理は崩壊し、次第に暴力を肯定する傾向が強まっていった。僧侶が暴力を振るった事例は多くの仏教国で見られるし、僧侶自身が暴力を振るわなくても、僧侶としての権威を利用して権力者に暴力行為を促すといった事例は現在でも時として見られる。しかしながらそれでも、律蔵が機能している限り、そういった行為は「律蔵に背く非仏教的な行為」として法的処罰の対象となる。律蔵があるおかげで仏教の僧侶は、暴力を肯定したいという本能的欲求から身を守ることができるのである。
 しかし日本仏教では、その律蔵が機能していない。その結果として、当然予想できることであるが、聖戦思想を利用した暴力が積極的に容認されるようになった。「仏教の教えを守るためならば僧侶が暴力を振るうことも許される」、あるいは「仏教の教えを守るために暴力的に戦うことは、進んでなすべき善い行いである」といった暴力肯定の姿勢が承認されるようになったのである。
 問題は、ここで言う「守るべき仏教の教え」というのが、決して釈迦が説いた大本の仏教ではなく、個々の僧侶が所属している宗派や教団の教えを指しているという点である。つまり彼らは、自分たちの地位や権威や利得を守るために暴力を振るうことを、正当な仏教的行為だと考えるのである。
 日本仏教の全体が律蔵のない状態で発展したのであるから、このような暴力肯定の姿勢は宗派を問わず、日本仏教界全域に広がっていった。仏教界が全体として「正義の」暴力を肯定し、仏教界を支える一般社会もその在り方に違和感を抱かない、という点にこそ、律蔵を持たない日本仏教の特異性が顕著に表れているのである。
 僧侶の軍隊が乱暴狼藉(ろうぜき)
 貴族社会と結びついて多くの既得権を得ていた奈良の仏教や真言宗天台宗は、自分たちの立場を守るために暴力を利用した。代表的な事例が、「僧兵」と呼ばれる「僧侶の軍隊」である。奈良仏教の代表的寺院である東大寺や、天台宗の中心寺院である京都の延暦寺など、多くの寺院が僧兵を抱え、天皇でさえも統制不可能なほどの無法行為を繰り返したのである。
 一方、天台宗を母胎としながら、その天台宗に反抗するかたちで登場した新興の仏教宗派は、新たに自分たちの勢力域を拡大するために暴力を用いた。代表は浄土真宗一向一揆である。宗祖の親鸞は謙虚な人物で、暴力的な言動はまったくなかったが、跡を継いだ組織運営者たちは、自分たちの組織拡大を阻害する旧仏教の勢力や権力者たちに対して強大な軍隊を組織して立ち向かった。その軍事力は強大で、15世紀から16世紀にかけての約100年間、越前、加賀、三河、近畿などで広大な地域を完全に支配し続けるほどであった。こういった勢力拡大のための暴力性は浄土真宗に限ったものではない。当時の多くの新興仏教宗派において多かれ少なかれ見られる現象であり、僧侶が暴力行為に関わることが容認されたのである。
 第2次世界大戦に協力した日本の仏教界
 その後、権力の集中が進み、徳川幕府が日本全体を統治する江戸時代になると、すべての仏教宗派が幕府の政治体制の下で安定的に棲(す)み分けるようになったため、仏教の暴力性は影を潜めた。しかし、「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という律蔵の基本原則は理解されないままであったため、周囲の社会状況が変化すれば、直ちに暴力性が表に現れるという危険な状態での鎮静化であった。
 江戸時代が終わって徳川幕府が消滅し、明治時代になると、新政府は神道の国教化を進めた。新たに発布された「神仏分離令」により、それまでは一体化したものとして扱われていた神道と仏教が切り離され、仏教は神道よりも下位に位置づけられたのである。こうして日本は天皇を中心とした神道国家になったが、その時日本の仏教界は、その新たに登場した天皇中心の神道勢力と協力体制を取った。その一番の理由は、今後外国から流入してくるキリスト教の力を恐れ、国家権力との共同戦線でこれを防ごうとしたところにある。キリスト教を排除する、という共通の目的のもとに宗教界は一体化し、日本仏教は天皇中心の国家権力の支援団体になったのである。
 やがて日本が中国や欧米諸国との戦争に突入すると、それまで影を潜めていた日本仏教の暴力性が、「天皇がアジアを統一することによって、日本中心の平和な世界を実現する」という大義名分のもとで再び姿を現すことになった。この時代に、日本仏教がどういったかたちで第2次世界大戦に協力し、僧侶自身がどれくらい戦闘に参加したかという点は、戦争が終わった後も長く曖昧にされたままであったが、最近、その実情を明らかにする研究も現れて来ている。
 戦時中、仏教界が戦争に加担することを強く批判する人たちもいたが、大方の宗派は、そのトップからして、積極的に戦争遂行に協力した。信者たちに、戦争に行くよう檄(げき)を飛ばし、武器製造のために布施を集め、天皇ブッダを同一視するような教説を広めたのである。「自分たちの正義を守るための暴力は許される」という古来の理屈がよみがえったのである。
 日本が戦争に負けて、天皇が「自分を中心として成り立っていた日本の宗教世界は崩壊した」と自分自身で宣言したことにより、日本の宗教構造は一夜にして消滅し、驚くべき速度で民主主義国家へと変貌した。この変化の中で日本仏教の暴力性も再び影を潜め、現在の日本仏教には一片の暴力性も見られない(禅宗の修行場内では今も暴力を肯定する人が存在するが)。しかし「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という基本原則はいまだ浸透していない。律蔵を持たない日本仏教が克服すべき将来の課題である。
 バナー写真=毎年6月に京都市左京区鞍馬寺で開催される「竹伐り会式(たけきりえしき)」。僧兵に扮(ふん)した僧侶が青竹を大蛇に見立てて断ち切る。五穀豊穣を願う(時事)
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 佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る
 花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。
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