🎍3〕─1─蘇我、大伴、物部.....「豪族」と「氏族」の違いとは?? 古代の日本を動かしてきた人々。~No.5 

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 2022年7月16日 MicrosoftNews 現代ビジネス「蘇我、大伴、物部.....「豪族」と「氏族」の違いとは?? 古代の日本を動かしてきた人々
 水谷 千秋
 やっぱり古代史はおもしろい!!
 物部連、大伴連、蘇我臣といった中央のメジャーな豪族はもちろん、地方の有力豪族、渡来系豪族にいたるまで、日本古代を彩った100の豪族を網羅した現代新書の最新刊『日本の古代豪族 100』より、混同されがちな「豪族」と「氏族」という名称の違いを解説した本書の冒頭部分を特別公開します。
 © 現代ビジネス
 豪族とその系譜
 『古事記』『日本書紀』を始めとする日本古代の史料には、さまざまな豪族の活動のようすが、描かれている。言うまでもないが、日本の古代史は天皇(大王、おおきみ)とその親族(皇族)のみで動いてきたわけではない。彼らを取り巻く多くの豪族(氏族)の存在があった。
 彼らは、天皇(大王)を頂点とする大和政権(古代国家)を構成する一員として、重要な役割と地位を担ったが、中には天皇に反逆し、反乱を起こした者もいる。また広く海外に雄飛し、朝鮮諸国と倭国(日本)の対外交渉に関与した者もいるし、大陸、朝鮮半島からこの列島に移住し、定着した渡来系豪族もいた。
 彼らの活躍は、今日では日本列島各地に点在する古墳に見ることができる。全国に古墳の数は16万近くあるというが、なかでも前方後円墳や一定規模以上の円墳や方墳、あるいは八角墳などは当時の有力者たちを葬った古墳であると言えるだろう。その分布は、とりもなおさず古代の豪族たちの存在を反映している。
 都塚古墳(Photo by iStock)© 現代ビジネス 都塚古墳(Photo by iStock)
 これら有力者の古墳は、単独でポツンと造られることよりも、ある一定の範囲内に数十年にわたり継続して造られていくことが多い。これらを古墳群というが、あるひとつの古墳群は、ある豪族代々の墓地だったと見て間違いないだろう。それらの中には、文献に名前を残していない豪族も数多くあるとみられる。
 これら古代の豪族たちを、現代の古代史学では本拠とした地域により分類し、大和政権の中枢部である大和、河内、摂津、山背に本拠をもつ者を畿内豪族(中央豪族)、それ以外を地方豪族と呼んでいる。地方豪族の中でも関東地方から九州地方に至る各地域で有力な勢力を誇った者もあれば、中央の有力豪族の支配下にあった中小豪族まで多様に存在した。
 政権は、彼らの出自、職能などの性格により、臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)、直(あたい)、造(みやつこ)、首(おびと)、などなどの姓(カバネ)を与えた。
 各々の性格は、臣(畿内の有力豪族。王権への従属度が高い)、連(一定の職掌を以て王権に仕える、従属度のより強い豪族)、君(地方・畿内の有力豪族。王権から比較的独立した性格をもつ)、直(畿内の中小豪族。および渡来系豪族)、造(渡来系豪族)、首(畿内の中小豪族)と多様で、姓の間での上下関係はなかったが、臣姓の中から「大臣(おおおみ)」、連姓の中から「大連(おおむらじ)」が1名ないし2名選ばれ、執政官としての役割を担った。
 大臣・大連に次ぐ有力豪族は「大夫(まえつきみ)」と呼ばれた。大臣には(伝承では)葛城(かずらき)氏、蘇我氏など、大連には大伴氏、物部(もののべ)氏から選ばれ、大夫(群臣)は阿倍氏和邇(わに)氏、紀(き)氏、中臣(なかとみ)氏などから構成されていた。6〜7世紀の政権は、基本的にこの大王、大臣、大連、大夫をメンバーとする群臣会議によって運営されていたといってよい。
 こうした蘇我、大伴、物部等々の氏の名前は、6世紀前半から半ばの継体〜欽明朝ころに名乗られ始めたもので、元来、天皇が与えたものであり、時に名を改める場合にも、後世に至るまで天皇の許可が必要であった。
 「氏」とは何か
 「豪族」も「氏族」も当時使われていた言葉ではない。これらは現代の史学者が使っている言葉である。古代の日本でこれに相当する意味で使われていたのは「氏(うじ)」という語であった。
 「豪族」と「氏」の意味はほぼ重なり合っていると言っていいが、ただあえて違いを強調するならば、豪族は、地域的基盤のある有力者の血縁を中心とした集団の意味で、そこでは王権(朝廷)との結びつきの有無は関係ない。
 © 現代ビジネス 大和の豪族の分布
 一方、古代の文献にみえる「氏」とは、「朝廷に官吏として仕える有力者を中心とする血縁集団」(直木孝次郎)の意味であった。王権に服属しているか否かで表現は違う。
 『記・紀』はいまだ王権に従わざる地方首長のことを「土蜘蛛(つちぐも)」と呼んだり、「八十梟帥(やそたける)」「魁帥(ひとごのかみ)」と呼んだり、また東北地方の住民を「蝦夷(えみし)」、九州南部の住民を「隼人(はやと)」などと呼んでいる。彼らも豪族には違いないのだが、『記・紀』は彼らのことを「氏」とは呼ばない。
 もうひとつの「氏族」という語は、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』に見える、ラテン語の「ゲンス」の訳語として使われているもので、「共通の出自を誇りとし、一定の社会的および宗教的な諸制度によって結ばれて一つの特別な共同体をなしている血縁団体」と規定されている。
 エンゲルスは、アメリカ・インディアンやギリシア・ローマなどの氏族の分析から、古代社会において、こうした血縁集団が政治上、重要な役割を果たしたことを明らかにした。
 「氏族は、文明時代に入るまで、またもっとあとまでも、すべての未開人に共通にみられる制度である」と述べている。階級分化が進み国家が成立する一段階前に、氏族制度の社会があったというのである。
 エンゲルスが構想した氏族制から国家成立に至るプロセスとは、「牧畜、農耕、家内手工業」の進歩によって生産が向上した結果、労働力の需要が高まり、他国との戦争で得た大量の捕虜を奴隷として駆使するようになった。彼ら奴隷労働によって莫大な富が貴族たちに集積され、貧富の差がさらに増大し、階級が分化したところに国家が生まれたとするものである。
 国家は、多くの富を得た「経済的に支配する階級」が「政治的にも支配する階級」となって、「被抑圧階級を制圧し、搾取するための新しい手段」であった、というのである。
 こうした「氏族制→国家へ」という理解が、古代の日本にもそのまま当てはまるのかどうか。日本古代の氏族とはどういうものであったのか。それが古代国家形成のなかでどのように推移していったのか。以下に見ていくように、エンゲルスの理論がそのまま当てはまるわけではない。
 政治的団体としての氏族
 古く津田左右吉は、日本古代の「氏」は血縁関係を団結の原理としたものではなく、政治的な支配によって統合された団体であり、かつ共同体としての機能もなかった、と推定した。
 日本古代の「氏」は、エンゲルスの言ったような「氏族」とは別のものだと主張したのである。現在では津田の見解のうち、共同体としての機能が「氏」にはなかったという点には異論が多いが、「氏」が政治的団体であったことは今日も定説として動かない。
 確かに「氏」には純粋な血縁団体とは言いがたい性格があった。その内部には本来の血縁者だけでなく、擬制的な血縁者も存在していた。
 たとえば、「氏」には事実上の私有民ともいうべき「部(べ)」(「部民」)が付属し(物部氏には物部、大伴氏には大伴部、蘇我氏には蘇我部、中臣氏には中臣部など)、列島各地に分布していたが、両者には血縁関係は基本的にはなかった。
 地方の部民は、あくまで「主家に租税を収め、其の労役に服していた農民」(津田左右吉『日本上代史の研究』)であった。中央の「大伴某」と地方の「大伴部某」は、主従の関係にはあったが、同族関係にはなかったのだ。
 また中央の有力氏族の内部にあっても、兄弟、従兄弟同士になれば、各々が別の「氏」の名を名乗るようになり、比較的容易に分裂していく傾向が強かった。「氏」の結束というものはそれほど強いものではなかったのである。
 これらからすれば、戦後、直木孝次郎が述べたように、「氏」とは、「有力な家を中心として、その血縁および非血縁の家によって構成される同族団またはその連合体」であり、「『氏』の中心になる家の集まりは、実際に血縁関係にある場合が多」く、「血縁意識によって結ばれて」はいるものの、「身分ないし階級の差を内包し」ているものであった。
 この点で、直木が「氏」という語が「一般民衆の血縁的集団を指すことは少なく、朝廷に官吏として仕える有力者を中心とする血縁集団」、あるいは「天皇を中心として大和朝廷を構成している豪族が『氏』なのである」と規定しているのは今も正しい。
 豪族と氏族
 では豪族と氏族の違いはどこにあるのだろうか。直木孝次郎は、「天皇を中心と して大和朝廷を構成している豪族が『氏』」であって、「国造(こくぞう)・郡司(ぐんじ)クラスの地方豪族は『氏』の中にはいらないのが、一般の用語例である」と区分する。
 ただし政治史的にはこの区分は重要だが、社会構造の上からみた場合、両者に決定的な違いはなく、多分に同質的なものがあるという。「『氏』の構造の特質の基本的なものは、地方豪族の中にあらわれていると考えてよいであろう」というのである。
 要するに豪族と氏族の違いというのは、大和政権との距離によって生じるものであり、先にも述べたように、大和政権と結びつきを持たず、独立して一定の地域を支配していたような者は、氏族とは言わず、ただ豪族と呼ぶのがふさわしいだろう。
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