🎍40〕─3─大和朝廷と渤海王国は東アジア戦略から国家交流を続けていた。~No.128 

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 大陸の渤海国親日知日であったが、半島の統一新羅反日敵日であった。
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 渤海使(ぼっかいし)は、渤海より日本を訪問した使節である。727年秋から919年までの間に34回(または922年までの間に35回。このほか929年、後継の東丹国契丹(後の遼)の封国)による派遣が1回)の使節が記録に残っている。
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 渤海が日本に使節を派遣した理由は何ですか?
 日本と渤海(698~926)との交渉は727年の渤海使来日に始まり、翌年初めて遣使が行われた。 渤海の来日の目的は、唐と対立し、唐・新羅 (しらぎ)から挟撃された形勢を打開することにあったが、日本も新羅を避けて渡唐する経路として渤海を利用するために派遣を開始した。
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 奈良文化財研究所 > なぶんけんブログ
 (97)渤海との交流
 管理者 (2015年5月28日 09:00)
 夏でも着たい 毛皮の服
 古代の対外交流といえば、遣唐使がまず頭に思い浮かぶでしょう。でも実は、それよりはるかに多くの交流が、日本海の対岸に位置した渤海(ぼっかい)国との間でおこなわれていました。正式な使節の往来だけでも、およそ200年の間に、日本から13回、渤海からは34回を数えます。
 そうした交流の本来の目的は、国家間の外交にありましたが、同時にお互いの国にない特産品を交易する貴重な機会となりました。たとえば渤海からは虎など動物の毛皮や蜜、人参(にんじん)などがもたらされ、日本からは絹などの繊維製品や黄金、水銀などが輸出されました。正倉院には渤海産とみられる蜜(みつろう)や人参が今日まで伝わっています。
 渤海の特産品の中でも、日本の貴族たちが入手を熱望したのは毛皮です。平安時代のことですが、醍醐天皇の皇子が渤海使に会う際に、夏にもかかわらず貂(てん)の毛皮を8枚も重ね着して現れ、周囲を驚かせたというエピソードが残っています。
 奈良時代前半の長屋王邸跡から出土した木簡の中には、「豹(ひょう)皮」と書かれたものがあります。木簡の年代は、727年に来日した第1回渤海使以前のものですが、渤海との何らかの関わりが想定されています。果たして長屋王も豹皮を重ね着したのでしょうか。
 (97)渤海との交流.jpg
 「豹皮分六百文」などと書かれた長屋王邸跡出土の木簡
 (奈良文化財研究所研究員 諫早直人)
 (読売新聞2015年3月29日掲載)
 カテゴリ: 探検!奈文研
 タグ: 人参, 正倉院, 渤海, 渤海使, 特産品, 絹, 虎, 蜂蜜, 豹皮, 遣唐使, 長屋王邸跡
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 2020年11月14日 平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係
 日本と渤海、190年の長い付き合い
 堀井 佳代子国際日本文化研究センタープロジェクト研究員
 プロフィール
 平安時代の日本が、最も頻繁に外交交渉をおこなった国は「渤海」だった!
 なぜ渤海は日本との外交関係を望み、また日本は渤海にどのような役割を期待したのでしょうか? 「渤海使」が日本にもたらしたものとは?
 平安時代の日本と渤海の、簡単な上下関係では説明できない不思議な関係から、古代の国際関係の謎に迫ります!
 日本と渤海の長いつきあい
 渤海(ぼっかい)という国をご存じだろうか。現在は高校の教科書にも取り上げられているが、かつては謎の国とされていた。奈良・平安時代に日本が外交関係を取り結んだ国のひとつが渤海である。渤海は現在の中国沿海州・ロシア・北朝鮮にまたがった地域にあたり、高句麗の遺民たちによって建てられた国とされる。
 8世紀ころの勢力図
 698年に大祚栄(だいそえい)によって「振」が建国される。これが渤海の前身である。祚栄は突厥契丹と与しつつ、713年には唐から渤海郡王に冊封された。東北地方の主導権をめぐって732年には唐と戦闘をおこなっている。
 渤海はこのような厳しい国際環境のなかで生き残ってきた、気骨のある国である。その後、渤海は唐と良好な関係を築き、唐文化の移入に努め、遣唐使を派遣するとともに留学生を送り、唐の学問を学ばせてもいる。その国内でも唐の官制を模した三官六省の組織を作り上げ、律令体制を導入している。その一方で唐とは異なる独自の年号を使用するなど、唐と一定の距離を置く側面も見られる。
 このように見ると、日本と渤海とはともに中国文化を受容する中国の周辺国であり、中国との距離感も含めて共通する点も多いと言える。
 地理的に農耕は難しかったようだ。渤海王から天皇に対しては、トラ・ヒグマ・ヒョウの毛皮や人参(朝鮮人参)・蜜が送られている。また、日本に来た渤海使には、特別に毎日鹿二頭が準備されていた。彼らは肉食を好んだのだろう。渤海が狩猟・採集を基盤とした社会であったことがうかがえる。
 渤海王大武芸(だいぶげい)が神亀4年(727)に日本に使者を派遣してきたことから、日本と渤海との交渉が始まる。渤海にとってこの交渉は、日本と結びつくことによって、対立していた黒水靺鞨(こくすいまっかつ)や新羅を牽制することを狙ったものであった。
 一方、日本の朝廷は、渤海が「自身は高句麗の後身である」と名乗ったことから、かつて滅亡前後に辞を低くして日本に遣使してきた高句麗との関係を思い起こした。その結果、渤海を自分より下位の朝貢国とみなした。これが日本と渤海交渉の出発点である。
 他にも日本は新羅とも使者を送りあい、唐にも数十年に一度、遣唐使を派遣していた。新羅については、宝亀10年(779)を最後に新羅使が日本に来ることはなくなった。朝廷は新羅朝貢国として位置づけて日本上位の立場を主張したが、新羅はこれを容認せず、関係悪化を招いたのがその一因である。
 遣唐使も寛平6年(894)に菅原道真によって派遣停止の建議がなされる。ただ、そもそもこのときは約60年ぶりの遣唐使派遣であり、宇多天皇が主導したきわめてイレギュラーな計画であった。実際の遣唐使派遣自体は承和5年(838)が最後である。
 しかしその間にも、渤海は定期的に日本に使者を派遣してきている。その交渉は延喜19年(919)まで続く。渤海滅亡後の延長7年(929)にも、渤海を滅ぼして建国された東丹国の使者として、かつての渤海大使であった裴璆(はいきゅう)が来朝している。つまり、平安時代を通じて安定的に日本が外交をおこなっていた国は渤海だけであり、日本は意外に大きな影響を渤海から受けているのである。
 詞の珠と涙の珠
 渤海と日本の関係を示す際によく取り上げられるのが、漢詩の贈答である。渤海使節として文才のある人物が派遣され、渤海使と日本の文人官僚とが漢詩を読み交わしている。渤海大使・裴頲(はいてい)と菅原道真との間での漢詩は、道真の作品集『菅家文草』に残っている。道真は、裴頲の文才をとても高く評価しており、彼を崇拝して憧れているような様子すら見て取れる。別れの餞の詩のなかで道真は、
 去留相贈皆名貨(去るも留まるも相贈るは皆、名のある貨ならんに)
 君是詞珠我涙珠(君は是れ詞の珠なれども、我は涙の珠なるものを)
 と、「裴頲が素晴らしい詩を餞別として送ってくれるのに対して、自分は涙しか送ることができない」と述べている。「珠」という字を掛けた、多分に修飾的な言い方ではあるが、道真の心が伝わってくる。このように、文人官僚たちは渤海使から文学的な刺激を受けていた。
 当初は日本側は渤海を、自らよりも下位の朝貢国としてみなしていた。しかし、道真の活躍した9世紀末には、日本側は渤海朝貢してくるという点を強調するのではなく、自分たちよりも中国の文化に精通している点を高く評価している。文人官僚たちは競い合うように渤海使漢詩を作り、渤海使を尊敬のまなざしで見るようになっているのである。
 このような朝貢国から文化国へ、という渤海に対する評価の変化は、平安時代前期に起こったものと考えられる。この頃に作成された「儀式書」の記載から、それを見ていこう。
 菅公像 秋月等観筆(東京国立博物館所蔵)
 平安時代前期の儀式の唐風化
 弘仁12年(821)、儀式書『内裏式』が嵯峨天皇の命によって編纂された。
 嵯峨天皇は唐風化政策を推し進めた人物であり、宮中の行事においても漢詩の贈答をおこなわせる、漢詩集を作成する、門号・殿舎号を中国風に改めるといった施策をおこなっている。『内裏式』編纂も、この唐風化政策の一環であった。
 儀式書には、宮中でおこなわれる行事(宴会や神祭り・官人の任官式など)の式次第が時間に沿って書かれ、各担当官司の会場設営をはじめとする準備・儀式内での参加者の作法が詳細に書かれている。中国で作成されていた儀式次第「儀注」をもとにして、日本で儀式を実施するために作られたものである。『内裏式』以前の儀式内容は、儀式書『内裏儀式』に描かれているが、両者を比較すると、『内裏式』では、それまで十分に実施できていなかった、唐風の動作・作法が新たに取り入れられていることが判明する。
 たとえば、『内裏儀式』では、宴会のなかで、跪礼(きれい 地面に跪く)・拍手(物を受け取るときや感謝を示す場合に手を打つ)・四拝(四度お辞儀をする)を、そこに参加する官人たちがおこなうことが示されている。
 跪礼や拍手は、『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国でおこなわれていた古い動作である。平安時代の宮中での宴会においても、このような古い動作がおこなわれていたことには驚かされる。
 これを『内裏式』では一新する。跪いておこなっていたものは立ったままおこなう立礼に改められ、拍手も再拝(二度お辞儀をする)や舞踏(片腕を横に伸ばしてそこにもう片一方の腕を合わせ、衣服の袖をすり合わせる)に代えられておこなわれなくなる。四拝も数を減らして再拝とされた。そして古い作法を改めるとともに、謝座(着席する前におこなう再拝)・謝酒(着席の前に盞を授かって飲む動作をする)を新たに付け加えている。これらは、中国でおこなわれていた動作である。
 飛鳥時代から、朝廷は遣唐使を派遣し、中国の文物を導入してきた。この平安時代前期において、儀式の作法に到るまで中国の文化が浸透したと言える。この嵯峨天皇の一連の唐風化政策は、7世紀以来の中国文化導入の最終局面に当たるという評価もなされている。それはその通りなのだが、それとは別に興味深い事実が指摘できる。
 儀式のなかの渤海使
 作法が中国風に改められる以前の古いあり方を記載している『内裏儀式』であるが、このなかに、拍手をおこなわない、再拝・謝座謝酒をおこなうという『内裏式』の新しい作法を先取りしている部分が一部存在している。これをおこなっているのが、日本にやってきた渤海使である。
 渤海使天皇に謁見して、渤海王からの外交文書やメッセージを伝達する儀式、いわゆる「拝朝儀」をおこなうが、このような外交儀礼のみならず、天皇と官人のおこなう年中行事である、一連の正月行事にも参加する。
 元日には天皇の前で全官人が拝礼をする朝賀があり、その後の宴会、元日節会(がんじつのせちえ)があった。7日には、これを見ると一年間息災でいられるという白馬を天皇と官人とで見る宴会、白馬節会(あおうまのせちえ)があった。16日には舞台を設置して妓女の舞を鑑賞する宴会、踏歌節会(とうかのせちえ)、さらに17日には天皇の前で、官人が弓を射ってその成績を競い合う射礼がおこなわれた。
 白馬節会図 (江戸時代、東京国立博物館所蔵)
 このように、正月には多くの重要な行事がおこなわれている。天皇と近臣のプライベートな宴会という性格の強い元日節会を除いて、渤海使はこれらの行事に官人とともに参加していたのである。
 そのため、『内裏儀式』の儀式次第のなかに渤海使が登場する。通常の儀式次第を一通り記載した後で、渤海使がこれらの行事に参加した場合の変更点・渤海使の儀式内の動きについて記載している。そして、その儀式のなかで渤海使は、当時の日本の官人とは異なる中国風の作法を用いていた。
 日本の朝廷は、自分たちがおこなっている拍手や四拝といった作法を、来朝した渤海使に強要して、同じようにさせてはいない。自分たちとは異なる作法を彼らにおこなわせていた。渤海でも770年頃から、唐風化政策がおこなわれ、直接的な唐文化の導入が進められた。渤海使は自身が身につけていた作法を、日本の宮中においてもおこない、朝廷もそれを咎めることなく、許容していたのだろう。その状況が『内裏儀式』には描かれている。
 つまり『内裏式』に書かれている中国風の作法は、それ以前の段階では宮中において渤海使がおこなっていたものなのである。作法自体は中国風なのであるが、朝廷は渤海使の作法を取り入れ、これを全官人におこなわせている。
 その淵源は唐の動作であり、唐風化をめざした施策であるが、それを直接に、より実戦的なかたちで日本に伝えたのは渤海使だった。日本の作法しか知らない官人たちにとって、渤海使はまさに中国文化を体現した生きるお手本としての役割を持っていたのではないだろうか。中国文化の素養を持った文人官僚との漢詩贈答よりもより広く、官人全体に対して、その作法を通して渤海使は影響を与えていたのではないだろうか。
 嵯峨天皇渤海
 嵯峨天皇渤海使のこのような役割をよく理解していたのだろう。積極的に正月の儀式に彼らを参加させた。また嵯峨天皇渤海王に向けて出した外交文書のなかでは、渤海王は優れた人物で「信」や「礼」といった儒教的徳目を備えた人物であるとしている。また渤海王に対して「君子」と呼びかけてもいる。
 惟るに王、資質広茂にして、性度弘深たり。(『日本後紀弘仁2年正月22日条)
王、信義、性を成し、禮儀、身に立つ。(『類聚国史弘仁11年正月21日条)
また他にも、「俗、礼楽を伝ふ(社会全体に文化が伝わっている)」と、渤海国自体が文化的に優れた国であることにも触れている。嵯峨天皇以前の外交文書では、渤海王について、「日本に来朝してきた」という行為を讃えることはあっても、個人の資質にまで言及されることはなかった。渤海はあくまでも朝貢国であった。
 しかし平安時代前期の嵯峨天皇の時代になって、渤海は新たに文化的な意義を与えられた。渤海が中国文化を身につけていたことがその前提であるが、日本側が渤海の文化的な面に着目してそれを受け入れている。菅原道真渤海使裴頲に憧れる、そのような状況の出発点は、この嵯峨天皇の時代に求められる。
 しかし、このような嵯峨天皇の政策は長くは続かない。天長元年(824)には、渤海に対して使者派遣の間隔を12年に1度にするという制限が設けられた。日本海沿岸諸国にこの制限を通達した文書には、「小の大に事へること、上の下を待すること、年期・礼数、限り無かるべからず」と、大国が小国との交渉に制限をつけるのは当然のことだと、かなり高圧的に述べている。
 東寺・嵯峨天皇御影(模本) (東京国立博物館所蔵)
 表向きこのように述べているが、実際の理由のひとつは財政面だろう。
 渤海使の都での滞在費は朝廷が負担し、到着地での滞在費は到着国の地方財源から支出される。特に到着国では、渤海使百数十人分の数ヵ月にわたる食費をすべて負担しなくてはならない。また渤海使日本海を渡って到着すると、その時点で彼らが乗ってきた船は使い物にならないことが多かった。彼らが帰国するための船は日本側がその都度、建造しなければならなかった。これも到着国にとっては大きな負担であっただろう。
 他にも朝廷が外交そのものにそれほど積極的ではなくなった、ということも背景として考えられるが、すでに朝廷にとって渤海使は多額の費用を負担してまで頻繁に迎えるべき存在ではなくなっていた。
 したたかな渤海
 ところが渤海側は、この12年に1回という約束を平気で破って、数年おきに使者を派遣してくる。その目的は朝廷との国交にあるのではなく、到着地の日本海沿岸でおこなう密貿易の利益にあったのであろう。
 天長5年(828)には渤海使から品物を買うことを禁じる命令が出されている。都の貴族は渤海使の到着地に使者を派遣し、品物を購入していたが、そのことも厳しく禁じられている。しかし禁じられて以降も、役人の目を盗んでこの密貿易は継続していただろう。ここでの主要商品は天皇への贈り物にもなっていた、動物の毛皮であっただろう。醍醐天皇皇子の重明親王が、渤海使の前に黒貂の毛皮を8枚もつけて現れ、渤海使たちを驚かせたという話が伝わっているが、これなども元は渤海との密貿易で入手したものだろう。
本当の目的はこのような貿易にあるのだが、渤海は年期違反に際して、
(1)日本を慕う気持ちが強すぎて、派遣間隔が空いてしまうことに耐えられない
(2)かつては無制限の使者派遣が認められていた
 という2点を強く主張してやってくる。特に(1)は日本を大国であると持ち上げ、自分の要求を通すためにその立場をうまく利用している。
 日本側としても、天皇としての体面もあり、自分を慕ってやってくると言っている渤海をあまり無下にもできない。「大国のトップである天皇は、渤海に憐れみを示すべき」という考えに基づいて、渤海の無理な主張を受け入れることがたびたびあった。
 渤海はへりくだって、相手を大国と敬う姿勢を見せながらも、自分に必要な利益をとる。唐とも時に戦い、時に同盟を結ぶという、厳しい国際環境を生き抜いてきた、したたかで交渉ごとに長けた渤海の姿がそこにはある。
 しかし日本もいつまでも渤海にやられっぱなしというわけではない。憐れみ深い天皇というトップの立場は守りつつも、年期違反に厳しく対処するための方策や論理を生み出していき、渤海に対抗していく。
 ここで、厳しい対応を取れない天皇に代わって、それまで外交の表舞台には出てこなかった太政官が外交文書を出すようになるのも、そのひとつである。太政官はお役所としての立場から、渤海側に向けて法令に基づいて淡々と違反を指摘し、厳しい言葉で釘を刺す。天皇の言えないことを言ってくれる。
 日本側は、君主である天皇の立場と、官僚である太政官の立場とをうまく使い分けて交渉をおこなっている。これによって、場合によっては天皇に報告をしていないことにしておいて、渤海の土俵に乗らずに、官司の判断として粛々と対応することも可能になった。このように、一筋縄ではいかない渤海に対応することで、新たな外交文書や外交方式が生み出されていく。
 平安時代、日本が安定して、最も頻繁に外交交渉をおこなった国が渤海であった。渤海は中国文化を伝えるというだけではなく、さまざまな外交的な駆け引きを通して、結果として日本の他国への対応力、いうなれば外交感覚を鍛えてくれた。
 渤海の首都・上京龍泉府から出土した「上京」の文字がある瓦(中国国家博物館所蔵 photo by Wikimedia Commons)
 新しい時代の外交
 10世紀には唐・新羅渤海の滅亡、新興勢力の勃興が起こり、東アジアは動乱の時期を迎える。そのようななかで、日本は新興勢力と対峙する必要に迫られたが、その際には渤海との交渉の経験が役立っていたと考えられる。これも渤海が日本に残してくれた大きな影響と言えるだろう。
 日本と渤海の関係は、表面的には日本が上位・渤海が下位であり、渤海朝貢国の立場を甘んじて受けていた。しかしその実態を見ると、日本は渤海の文化に憧れ、また渤海は下位であることをうまく利用して自分の利益につなげている。日本は上位の立場でありながら、そのような渤海の対応に苦労している。
 日本と渤海との交渉は、上下関係だけではくくることのできない多様な関係が古代の国家間にも存在していたこと、表面的な理解では二国間の関係は計れないことを私たちに教えてくれる。
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 高麗1300 > 活動報告 > 【報告】渤海国と日本との交流の深さを知り、さらに高麗郡がそこに関わっていたことを知る  第9回歴史シンポジウム 盛況に終わる   12/10
 【報告】渤海国と日本との交流の深さを知り、さらに高麗郡がそこに関わっていたことを知る  第9回歴史シンポジウム 盛況に終わる  12/10
 2022/12/25
 2022年12月10日(土)、日高市総合福祉センター『高麗の郷』研修室で、第9回高麗郡建郡歴史シンポジウムを、101人の参加を得て開催しました。テーマは、『高句麗滅亡後の国家・東アジアの古代王国「渤海(ぼっかい)」と日本との交流を探る!』。
 会場となった「日高市総合福祉センター高麗の郷」研修室
 これまで、高麗郡歴史シンポジウムでは、8回にわたり古代高麗郡建郡の謎を多角的に多方面的に議論してきました。さらには、古代百済郡や古代新羅郡についてもそれぞれの母国と日本の関係などから議論を重ねてきました。
 主催者挨拶  高麗1300 大野松茂 会長
 主催者挨拶  日本高麗浪漫学会 須田勉 会長
 今回は、高句麗滅亡後に誕生した、東アジアの古代王国『渤海(ぼっかい)国』を取り上げ、日本との交流や影響について、さらには「大陸に残った高句麗系遺民の実像をよりよく理解し、そこから古代高麗郡の実態に迫ろう」と、北陸金沢から二人の研究者、金沢学院大学名誉教授の小嶋芳孝先生と、金沢大学教授の古畑徹先生をお招きして議論しました。
 今回も熱心な参加者が集まった
 資料をじっくりみたり、メモをとったり、いつもの光景
 渤海(ぼっかい:698~926年)は、中国東北部高句麗の故地に高句麗の遺民たちによって建てられた国とされ、奈良・平安期の727年から922年の間に、34回も日本へ使節を派遣しています。また逆に、728年から811年までの間に日本から遣渤海使が14回も派遣されています。このことからも、渤海と日本は頻繁に行き来し、互いに積極的に交流していたことがわかります。
 小嶋芳孝先生は、現地を調査した考古学的な見地から、能登半島の「福良津(ふくらのつ):現・福浦港」を窓口として出航し、遣渤海使が訪れた経路や王都の遷都状況、さらには発見された遺物についてスライドを見ながら講演されました。
 考古学的見地から迫る小嶋芳孝先生
 古代王国「渤海国」の実像が見えてきた
 古畑徹先生は、文献史学の見地から、特に渤海から日本へ派遣された渤海使の記録に、高句麗人の後裔とみられる高氏が多く登場することから、高氏関連の史料を整理して、高氏の実像に迫る講演をされた。また遣渤海使随行者の中には、複数の高麗郡出身者がいたことも史料から示されました。
 文献史学的見地から迫る古畑徹先生
 渤海国と中国、渤海国と日本の関係を読み解いた
 パネルディスカッションでは、中野高行日本高麗浪漫学会副会長の進行により、お二人の講演内容をもとに、さらに突っ込んだ論議が展開されました。内容はかなり高度でしたが、あまり知られていない渤海国の実像に迫った内容であったと共に、奈良・平安期に日本との間に多くの交流があったことがわかり、参加者は大変満足した様子でした。
 パネルディスカッション
 参加者は最後まで聞き入った
 進行の中野高行副会長
 小嶋芳孝先生
 古畑徹先生
 参加した方からは、「渤海国のことはほとんど知らなかったが、興味をもって聞くことができた」「専門的な話も多くなかなか話についていけなかったが、渤海と日本とのつながりを知ることができた」「これから渤海のことを自分でも調べていきたい」などの言葉をいただきました。
 まとめと閉会の挨拶 荒井秀規 日本高麗浪漫学会副会長
 会場は最後まで熱気に包まれていた
 当会の「公開歴史講演会」や「歴史シンポジウム」は、第一線の研究者を講師に招いて講演いただくことから、専門的な話が多く難しいことも。先生の話のほんの一部でも「そうなのか」「へえー」と頷けることができればよいのかな、と思っております。歴史はさまざまな事柄が絡み合っています。自身で探ったり、いろいろと話を聞いているうちに不思議と事柄がつながってくることがあります。思わず「ほほう」「なるほどそういうことだったのか」と。当会の事業はもちろんのこと、他の団体の講演会や勉強会などにも参加されてみてはいかがでしょうか。
 小嶋先生、古畑先生、そしてご参加くださった皆様、誠にありがとうございました。
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 日本海学推進機構
 早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「渤海と古代の日本」
 2004年度 早稲田大学オープンカレッジ秋期講座
 日本海学推進機構連携講座
 2004年10月19日
 早稲田大学
 講師 講師國學院大學栃木短期大学教授
   早稲田大学講師
        酒寄雅志先生
1 渤海の成立
2 渤海を取り巻く国際情勢
3 唐との和解と上京竜泉府の造営
4 日本と渤海との交流
 1.渤海の成立
 渤海のことを「海東の盛国」という。「海東」とは一般に中国から見て東の朝鮮半島を指すが、9世紀には渤海のことであった。
 石川県埋蔵文化財センターが調査した金沢市の畝田ナベタ遺跡から、唐草模様の文様(宝相華唐草文)の透し彫の青銅製の帯金具が出土した。日本列島では、この文様の帯金具はほかには発見されていないので、渤海史に詳しい考古学者の小嶋芳孝先生は、「これは渤海人が持ってきたのではないか」と指摘している。渤海があった地域は、中国の東北地方の吉林省黒竜江省が中心で、遼寧省も一部入る。またロシア沿海州ウラジオストク辺りも含み、北朝鮮はすべて入る。
 渤海は698年に建国された。ちょうど中国の則天武后の時代に当たる。668年に滅んだ高句麗の生き残りの人々と、もともと中国東北部に住み、高句麗人とともに営州(遼寧省朝陽市)に強制移住させられていた靺鞨という民族が中核となり、則天武后の時代に起こった唐国内の反乱を契機に、振(震)国が建設された。しかし、926年に契丹という遊牧民族によって渤海が滅ぼされ、そのときに歴史書などをすべて失ってしまっようで詳しいことはわかっていない。
 この振(震)国が、渤海と呼ばれるようになったのは、713年、大祚栄(だいそえい)のときだが、大祚栄朝鮮民族なのか、靺鞨人なのかは議論のあるところである。ともかく713年には、大祚栄が唐の皇帝の支配下に入り「渤海郡王」という称号をもらって、それが国の名前となった。渤海の国境は、現在の平壌日本海を結ぶラインが新羅と接する南の境界であることははっきりしているが、北の国境はよくわかっていない。ハンカ(興凱)湖という大きな湖付近とする考えもあるが、私はさらに北のアムール川以南だと思っている。また渤海には、南京南海府、西京鴨緑府を含め、中京、東京、上京の五つの都があったが、最初の二つに国王が居たことはなく、都となったことがあるのは後者の三つである。
 渤海は多民族が割拠する国家であり、現在の中国東北地方や北朝鮮、ロシア沿海州に国家として一つのものができた初めての国家である。そして、この国ができて間もない727年から、日本に使者が来るようになり、交流が盛んになった。しかも、日本の遣唐使は20年に1回ぐらいの割合でしか派遣されないのに対し、渤海からの使者は200年の間に34回来ており、日本からも十数回行っている。したがって、奈良時代の外国文化は遣唐使以上に渤海使によってもたらされたものが多いといえよう。契丹犬も2匹来ているが、最近はもっと西の中央アジアに住んでいるソクド人の影響もあったのではないかともいわれている。また、ロシア人のシャフクノフ先生という渤海史の大家は、シルクロードの北方地域にシルクならぬクロテンの道があり、その終着駅が日本だったともいっている。
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 2.渤海を取り巻く国際情勢
 渤海の初代の国王である大祚栄は、705年に中国の皇帝中宗に招かれたが、契丹や突蕨などの遊牧民族が唐の辺境に侵攻したので断念した。その後713年に、初めて大祚栄のもとに彼を渤海郡王に封ずるための中国人使節、崔忻が来ている。唐と渤海を結ぶ道は二つある。その一つは高句麗滅亡後に営州に移されていた人が、唐の攻撃を受けない所に国をつくろうとして逃げた「旧国」から長安へ延びる「営州道」で、もう一つは遼東半島沿いに進む「朝貢道」である。713年に渤海へ行った崔忻は朝貢道を通って往来したと思われる。なお、崔忻が帰り道に喉が渇いたのか、井戸を掘った記念に書いた「鴻臆井の碑」というのが旅順にあったが、これを日露戦争の直後に戦利品として海軍が日本に持ち帰り、今、皇居の奥深くに保存されている。
 第2代王である大武芸は、719年に王位に就くと「周辺の民族が恐れをなして従った」と記録にあるように、領域の拡大に力を入れた人物である。例えば、新羅が721年に渤海の南下を恐れて長城を造っているが、それは渤海朝鮮半島日本海側を南下したことを示す。現在の北朝鮮に南京南海府が置かれたのもそうしたことと関わりが深い。
 渤海が建国後しばらくたって「旧国」から都を顕州に移した。現在、顕州の候補地と目される所が二つある。第一が延辺朝鮮族自治州和竜の河南屯古城で、その前の道を東に行くともう一つの候補地の西古城に至る。
 この大武芸のころ、渤海と対立したのが北のアムール川付近に住んでいた黒水靺鞨であった。黒水靺鞨は、渤海が領土を拡大して自分たちを呑み込むのを恐れ、722年に唐に使いを派遣し、「渤海を唐と北の靺鞨で挟み打ちしよう」という計画を立てた。渤海の大武芸はそれを大変恐れ、弟の門芸に征討を命じたが、門芸はかつて長安に人質として行っていた経験から、唐と戦うことは不利であると兄を諭し、逆に兄の怒りを買って唐に亡命することになった。兄の大武芸は門芸のための暗殺団を長安に派遣するが、それが唐に露見して処分され非常な緊張状態となった。
 ちょうどこの時期の727年に渤海の使者が日本に来ているが、それはこういう緊張した外交関係を打開するために日本の力を借りようとしたと考えられる。渤海は南側にあった新羅とずっと対立していたが、一方で新羅は唐と仲がよく、油断をすると新羅渤海を攻撃してくるかもしれなかった。事実、新羅は唐の命令で渤海を攻撃したのだが、この時は、山が峻険で雪が深くうまくいかなかった。したがって新羅の南にある日本は、新羅にプレシャーをかける有効な外交戦略の対象だったわけである。
 そして732年、武芸は中国の山東半島の登州に攻撃を仕掛け、新羅渤海の南京を攻撃する。まさに日本へ使者を派遣してたのはこうした時期であった。そして防衛力の脆弱な旧国からもっと山に囲まれ防衛力のある顕州に都を移して長城を築いたのである。
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 3.唐との和解と上京竜泉府の造営
 大武芸が亡くなると、渤海は唐と和解する。それは渤海にとって唯一支援を期待していたモンゴル高原遊牧民突厥で内紛が起こり、間もなく滅びてしまう。つまり突厥は当てにならず、また日本にもあまり期待できないということから、渤海のほうから唐に頭を下げて和解にこぎ着けたのである。以後、唐との関係を強化して、唐の諸制度を取り入れ、天宝末年に当たる755年に上京竜泉府に都を移した。
 この都は現在も発掘されているが、中央に宮殿があり、その周りに城壁が巡らされ、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模である。奈良文化財研究所の井上和人氏は、この都の衛星写真を分析したところ、平城京造営と同じ物差しを使っていることを指摘してる。つまり、これまで渤海の都は、中国の長安を真似たものだと思われていたが、平城京造営の物差しと一緒ということは、日本から学んで都を造ったということになる。ちなみに平城京の造営は710年、一方、渤海の都は755年なので、727年に初めて来日した渤海使が日本から都造りを学んだのかもしれない。
 そのほか第5宮殿は煙道を備えており、宮殿の中にもオンドルがあったことがわかっている。実はそこから、1934年(昭和9)6月20日に1枚の和同開珎が見つかり、東京に持って帰った。その後、満州国国立博物館奉天(瀋陽)に作ろうと再び大陸へ持って行ったが、1940年(昭和15)に昭和天皇東京帝国大学紀元2600年記念行幸をするというので、また発掘隊長の原田淑人氏が奉天まで取りに行き、昭和天皇が12分間見たあとで駒井和愛氏が返しに行った。それが、1945年8月にソ連軍が満州に侵攻してきたときのどさくさで行方不明になった。また、宮殿の東側には庭園があり、そこには大きな池と二つの中の島があって、池の東西両脇に築山がある。そして、池の北には翼廊を持つ建物が配置されているが、これが寝殿造りではないかといわれるものである。私などは日本の平安時代寝殿造りは中国、渤海から伝わったと思っているが、今の日本の建築学者は、平城京にある貴族の邸宅が変化して寝殿造りになったもので、日本独自の展開だといっている。とすれば平城京のプランと同じく、日本の寝殿造りが外国に輸出された可能性も考えられる。この池は2万㎡もある。私はここを発掘すれば木簡が出てきて、渤海の歴史は大きく変わるかもしれないと思ているのだが、発掘するような気配は全くない。さらに渤海の上京竜泉府には寺跡が9か所もあるので、仏教をよく信仰していたことがわかっている。
 そして第3代目の大欽茂のとき、渤海は靺鞨を服属させている。「払捏(ふつでつ)または大払捏と称す。開元・天宝八来。(中略)鉄利、開元中六来。越喜、七来。貞元中一来。虞婁(ぐろう)、貞観間再来。貞元一来。後に渤海盛んにして靺鞨皆之に役属す」(『新唐書』靺鞨伝)とある。それまでは靺鞨といわれるいろいろな部族の人たちが唐に何回も来ていたのが突然来なくなった。それはみんな渤海に服属したためである。渤海はこれらの諸民族を支配するため、城を各地に造り、川を利用して領域を拡大した。そして一時期、都を東京竜原府(延辺朝鮮族自治州琿春)に移している。しかし、大欽茂は長命で57年もの長きにわたって王位に就いていたため、次の世代が大欽茂より早く死んでしまい、さらに孫の世代はまだ幼かったことから、王位継承をめぐって混乱してしまった。それでもう一度、大欽茂の孫を即位させたときに都を元の上京竜泉府に戻すことになった。したがって、東京に都を置いたのは785~794年の10年間で、日本で長岡京から平安京に移るころであった。この東京竜原府は、中国と北朝鮮との国境を流れる図們江に近い琿春の八連城が想定されている。この東京竜原府からロシアのポシェト湾のクラスキの土城を経て日本に向かう道を「日本道」といった。八連城は四角い城壁の中に宮殿があり、その南に朱雀大路に該当する南北の道と、東西の二条路に該当するものが復元できる。東京竜原府のあった時期に、渤海から日本に毎年のよう使者がやって来ていることから、東京竜原府は、日本との貿易に着目して置かれた都とも考えられる。
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 4.日本と渤海との交流
 次に日本の中に渤海との交流の痕跡を留めるものについて考えてみたい。まず長屋王の邸宅跡の東脇を流れる溝の中から出土した木簡には、「渤海使」「交易」などと書かれているものがある。727年に初めて渤海の使いが24人、東北地方の北部か北海道に着いたが、言葉がわからなかったためか16人も殺された。この木簡は、その生き残った8人が都に入り、長屋王の邸宅に来たことを示すものではないかと思っている。長屋王新羅の使いなども自分の邸宅に呼んで宴会をして漢詩の交歓をしていることが『懐風藻』からわかる。そのため、渤海使節長屋王邸に来た可能性がある。しかも「交易」と木簡に書かれていることから、彼らは長屋王邸で貿易をしたかもしれない。
 何の交易かといえば、渤海で一番の特産品は毛皮、とりわけ貂の毛皮であった。この貂にまつわる話として、重明(しげあきら)親王という醍醐天皇の皇子が、渤海の使者に毛皮を沢山持っているのを見せた話がある。すなわち親王は黒貂の毛皮を8枚着て渤海使の前に行くと、渤海使は1枚しか着ておらず、貂の産地から来た自分よりも日本人のほうが沢山着ていたということで恥じ入ったという。また、かぐや姫が言い寄る男の一人に「火鼠かわごろも」を持ってくるようにと言った挿話があるが、それも恐らく渤海産の毛皮だろう。さらに『源氏物語』の「末摘花」には、末摘花が若い女に似合わずオールドファッションの「黒貂(ふるき)」の皮衣を着ていたとあるが、『源氏物語』の書かれた11世紀ころには渤海使が来なくなって100年ぐらい経つため、黒貂の毛皮は既にオールドファッションになっていたのであろう。
 また、金沢から少し北の津幡にある加茂遺跡から出た木簡には、「往還人である□□丸は、羽咋郷の長官に、官路を作る人夫として深見関を通過するが浮浪人や逃亡人ではないので召し遂うべからず」と書いてある。これは道路の掃除をする人夫を調達したもののようで、国立歴史民俗博物館の平川南先生は、「渤海の使いが能登半島に着いて都に行く途中の北陸道を掃除する人夫を集めているのではないか」といわれている。さらに、この近くから「示札」といって「早朝から仕事をしなさい」「酒を飲んで遊んではいけない」などと書かれた告知板が出土していることでも有名である。また、金沢周辺の畝田寺中遺跡からは「天平二年」(730)や「津司」、金沢港の戸水C遺跡からは「津」、戸水大西遺跡からは「宿家」と書かれた墨書土器が出土し、さらに畝田ナベタ遺跡からは冒頭に示した帯金具が出ている。これらの遺物からこの辺りに渤海使が来ていた可能性を示唆する。そのほか、奈良の飛鳥の坂田寺から出ている三彩の香炉は、その足が獣足だと思われるものだが、発色があまり良くなく、日本の奈良三彩とも中国の唐三彩とも違うことから、渤海三彩ではないかといわれている。なぜ坂田寺に渤海三彩があったのかというと、正倉院に伝わっている「尼信勝」と書いてある木札から推測できる。「尼信勝」は坂田寺の尼で、この木札は光明皇后に近い人物が東大寺の大仏様に宝物を献納したときの札である。したがって坂田寺が、渤海三彩を手に入れた背景として、「尼信勝」が光明皇后と親しいことを利用して渤海との貿易に参加して買った可能性が考えられている。ほかにも秋田城の便所遺構から豚の寄生虫卵が検出されているが、日本人は基本的に豚食をしないので、これは外国人が便所を使用した痕跡だろうと考えられている。つまり遺構は、8世紀の後半から9世紀初頭頃のものと見られているが、当時豚食をしているのは北海道のオホーツク海沿岸に住んでいた人か、大陸の人ということだが、オホーックの人は当時国家を形成していないので、あのように立派な便所が使用できるのは外国から賓客である渤海人が想定されている。
 さらに多くの渤海との関わりを示す証拠があるが、今日はこのくらいにしておきたいが、日本と渤海のかかわりは大変深かったといえるのではないだろうか。
 →2004年度早稲田大学オープンカレッジ秋期講座
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 中央大学
 社会・地域貢献
 教養番組「知の回廊」23「古代アジアの交流」
 古代日本の環日本海国際交流 ー日本と渤海の交渉ー
 中央大学 文学部 石井 正敏
 はじめに
 日本古代国家の形成や社会・文化の発展に中国、特に唐の影響が強かったことはあらためて言うまでもない。したがって、古代の国際交流と言うと、7世紀前半 に始まる遣唐使遣唐使の訪ねた華やかな唐の都長安の風景をまず思い浮かべることと思う。また同じように古くから行われていた朝鮮半島諸国、すなわち百 済・新羅高句麗といった国々との交流についてもよく知られているところである。これに対し、8世紀の前半に始まる、日本海を舞台として新たに展開される ようになった活発な国際交流についてはあまり知られていない。その交流相手の国の名は渤海と言い、727年に最初の渤海使が日本を訪れてから、919年に 来日した最後の渤海使が翌年に帰国するまで、およそ200年間に、渤海の使者は33回来日し、日本からの使者も13回日本海を往復している。
 渤海は7世紀の末(698年)に建国され、10世紀の初頭(926年)に滅亡するまで、現在の中国の東北地方を中心に、北朝鮮(朝鮮民主主義 人民共和国)の北部、ロシア共和国沿海州にまで及ぶ広大な領域を誇った国で、靺鞨人(ツングース民族)や高句麗人から成る古代国家である。唐から律令法や礼法を学び、中国風の優れた文化国家を築き上げ、「海東の盛国」と評されている。
 その建国にいたるまでの事情は次のごとくである。7世紀の末、かつて高句麗に属していた靺鞨人の大祚栄は、668年の高句麗滅亡後強制的に移 住させられていた唐の営州(遼寧省朝陽)から一族を率いて当方へ逃れた。唐は征討軍を差し向けたが、軍略に長じた大祚栄は靺鞨人やかつて高句麗に属してい た人々を率いて迎え撃ち、ついに今日の吉林省敦化市付近を根拠地として独立し、震国と号して自立を宣言した。698年のことである。 大祚栄は唐に対抗するため、自立後まもなく、モンゴル高原の支配者で、唐に拮抗する勢力のあった突厥に使者を送り、突厥の支配を受けることに なった。この突厥との朝貢外交を基軸として着々と政権を固めた大祚栄に対し、唐もその実力を認め、713年には渤海郡王に冊封し、独立を許した。こうして 成立した渤海は、唐と突厥へのいわゆる両属外交によって自国の保全と発展をはかっていくことになる。
 渤海の最盛期の領域は、前述のように現在の中国の東北地方を中心に、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)の北部、ロシア共和国沿海州にまで及 ぶ。広大な領域を統治するために、要所に五つの京が置かれたが、その中の首都の機能を果たしたのが、上京龍泉府で、現在の黒龍江省寧安市にある。上京は長 安にならった中国風の都城で、外城の規模は東西約四、六キロ、南北約三,四キロの長方形の中心北部に宮殿や官庁などの集まる内城が設けられている。発掘調 査によって、堅固な城壁、一段と高い基壇の上に建てられた礎石造りに緑釉瓦葺きの宮殿、また日本の寝殿造りを思わせる庭園施設など、まさに「海東の盛国」 の首都にふさわしいたたずまいを見せていたことが明らかにされている。
 支配層では漢字・漢文学が必須の教養とされ、唐に多数の留学生を送って、儒教をはじめとする中国文化の摂取に努めている。また仏教が普及して おり、仏寺は都城内だけでなく辺境の地域まで営まれており、各地の遺跡から仏像などが発見されている。このような漢字・仏教・儒教など日本と共通するもの が少なくなかったことにも、両国の交流を考える上で留意しておく必要がある。
 第1章 日本との交流の始まり
 第1節 初めての渤海使
 日本と渤海との二〇〇年に及ぶ交流は、七二七年(神亀四)の渤海使の来日に始まる。この時の渤海使一行二四人は、蝦夷地に到着して多くが殺され、わずかに 八名が日本の朝廷に保護されるという苦難の旅であった。異国に使者を派遣するのは当然必要があってのことである。渤海が危険をおかしてまで、海上はるかに 離れた日本に使者を送る背景には、どのような事情があったのであろうか。
 『旧唐書渤海靺鞨伝・『新唐書渤海伝などによれば、この頃の渤海の情勢は次のごとくである。七一九年に王位を継承した第二代渤海王大武藝 は、領土拡大を推し進め、次々に周辺の靺鞨諸部族を併合していった。この渤海の脅威を感じた北方の黒水靺鞨部(以下、黒水)は、唐の保護を求め、唐も渤海 を牽制する上から黒水を覊縻州としてこれに応じた。この黒水と唐との通交を、腹背より渤海を攻めるつもりではないかと疑った武藝は、黒水への侵攻を企て た。王の弟門藝は、その無謀を諌めたが、逆に武藝の怒りをかい、やむなく唐に亡命した。そこで門藝の返還をめぐって唐との間に交渉が続けられたが、埒が明 かないことに業を煮やした武藝は、ついに七三二年、唐領山東半島の登州を襲い、唐も新羅の援兵をうながして反撃するという事態を迎えた。この後数年渤海は 唐への朝貢を中断するが、やがて武藝の謝罪によって一件は落着した。
 七二七年の渤海の日本への遣使は、このような黒水問題をめぐる国際的な緊張状態の中で起きている。これまで渤海は、唐に拮抗する勢力をもつ西 の突厥を頼みとして、領土拡大策を取ってきた。ところが、同じく突厥の庇護を受けていた黒水が渤海の侵攻に対抗するため、突厥から唐に鞍替えしてしまっ た。南北に敵対する勢力に挟まれ孤立感を深めた武藝が東西のラインを強化するためには、はるか海上を離れているとはいえ、東方の日本しかなかったのであ る。渤海の建国者大祚栄は靺鞨人であるが、かつて高句麗領内に居住しており、自立後は高句麗人も彼のもとに集まったというので、武藝周辺には日本との交渉 を知っているものもいたことであろう。およそ半世紀前の高句麗と日本の縁を渤海側も想起しての使節派遣になっていることは間違いない。
 中国側の史料から考えられる渤海王武藝の対日外交開始の事情は以上の如くであるが、最初の渤海使がもたらした大武藝の国書にも、緊迫した事情 がはっきりと述べられている。「武藝啓す」に始まる国書には、「高麗の旧居に復し、扶余の遺俗を有てり」とあり、「親仁・結援、庶わくは前経に叶ひ、使を 通じ隣に聘すること、今日に始めむ」とある(『続日本紀神亀五年正月甲寅条)。前者の一節は、大国高句麗の復興を誇らかに宣言するとともに、かつて日本 と交流のあった高句麗を想起させる狙いがあった。後者の「親仁・結援」は、いずれも前経すなわち古典にみえる隣国との外交交渉の基本姿勢を述べた言葉で、 特に「結援」には、新しく王が即位すると、臣下が近隣の諸国にでかけていってこれまでと変わりない交流と、有事に際しての援助を約束するということを意味 している。武藝の置かれた立場を如実に表現するものであると同時に、武藝の対日外交を始める動機が、厳しい国際情勢に対応するものであったことを裏付けて いる。
 第2節 日本の対応
 それでは初めての渤海の使者を迎えた日本はどのように対応したのであろうか。
日本の朝廷が、武藝の国書のどの部分に関心を抱いたか、それは返書に明確に記されている。「天皇、敬みて渤海郡王に問ふ。啓を省て具に知り ぬ。旧壌を恢復し、聿に嚢好を修むることを。」とあり、高句麗の故地に復興し、高句麗時代の旧好を再開するとの由を詳しく知った、と述べている。しかしこ れだけである。武藝の切実な要求である「結援」を理解した様子はない。それどころか、「天皇敬問渤海郡王」に始まる書式は、中国の皇帝が臣下に与える形式 の文書である。渤海高句麗の再興を述べているのは、かつての大国復興の宣言であるとともに、日本との親交を踏まえてのことである。ところが日本の抱いて いる高句麗のイメージは、かつて日本に朝貢してきた国という認識である。したがってその継承国である渤海朝貢国として処遇することは当然のことであっ た。また大宝律令の施行から二〇余年、日本を中華とする律令体制からいって、渤海新羅と同じく夷狄に位置づけることもまた当然のことであった。武藝は同 盟を求めての使者派遣であり、もとより日本に対して朝貢する意識などない。両国の最初の交渉に見られるこの認識の差がその後の関係に大きな波紋を投じ、紛 争の火種ともなるのである。
 第2章 外交の進展と形式をめぐる紛争
 その後は別表のように使者の往来が続くが、日本は、「来啓(国書)を省るに、臣・名を称することなし」、高句麗の時代は「族はこれ兄弟、義は則ち君臣な り」であったと言い、上表の提出を求める(『続日本紀天平勝宝五年六月丁丑条)といったように、渤海華夷秩序の遵守を求め、君臣関係を強要するが、渤 海がそれに従わないため、ついに七七一年(宝亀二)来日の使者の時に大きな事件を引き起こすことになる。日本は渤海王の国書に、「日の下に官品姓名を注せ ず、書尾に虚しく天孫の僭号を陳ぶ」(国書の日付の下部の臣下を示す署名が記されていないこと、国書の末尾で「天孫」と勝手に称している)を理由に、国書 を受け取らず、信義の象徴である渤海王からの贈り物をも返却するという強硬な姿勢にでている。この一件は、使者が渤海国王に変わって「表文を改修」し謝罪 するという形で落着した(『続日本紀宝亀三年正月~二月条)。
 この後は大きな紛争は起きていない。渤海が形式よりも貿易を重視した政策に転換 し、日本の意を迎える姿勢を示したことによる。渤海は、唐を始めとする近隣諸国との関係が安定してくると、対日外交の目的も変化してきた。「結援」から 「隣好」重視への転換である。後述する、渤海側から提唱された年期の制定も、この観点から理解することができる。
 第3章 貿易と年期制
 二〇〇年にわたって渤海との交渉が続くといっても、別表に明らかなように、主に来日の渤海使を送り届ける形の日本からの使者(遣渤海使)の派遣は、八一一 年(弘仁二)を最後としている。すなわち後半の一〇〇年はもっぱら渤海使の往来によって日本と渤海の外交は維持されていたのである。このような変則的な形 の外交が続くのは、当然そこに利害の一致が見られたからである。渤海には貿易があり、日本は貿易とともに、渤海に唐との中継的な役割を期待し、また渤海使 を蕃客とすることで、天皇が中華世界に君臨する存在であることをアピールできるという重要な意義があった。新羅とは七七九年来日の使者で外交に終わりを告 げ、遣唐使も八世紀の末から派遣の間隔が空き、八三八年に最後の遣唐使が派遣された後は、渤海が唯一の公式外交国となったのである。
 さて、日本外交の転換期にあたる七九六年(延暦十五)に遣渤海使が持ち帰った国書で、渤海王嵩? は年期つまり日本への使節派遣の間隔について定めて欲しいと申し出てきた。この後、交渉が続けられ、最終的には八二四年(天長元)に一二年に一度の来航を許すことに決着した。年期について渤海側から言い出しているのは、日本との安定した交渉を求めてのことである。そしてその背景には、日本を有力な市場とみなす貿易への意欲がある。渤海が貿易重視に変化したのは、宝亀頃からである。安禄山・史思明の乱(七五五~七六二)を経て、唐を中心に一応の安定を取り戻し、東アジア全域に国際貿易が活況を呈してくる時期のことである。
 年期制ができても、渤海使はあれこれと口実を設けては年期に違犯して来日を続けた。制定直後の八二六年に期限に違犯して来日した渤海使につい て、右大臣藤原緒嗣が、渤海使は「実に是れ商旅にして、隣客とするに足らず。彼の商旅をもって客と為し、国を損ふは、未だ見ざる治体なり。」と、渤海使の 実体は商人であるとし、直ちに帰国させるべきであると主張している。しかし緒嗣のような意見は少数意見で、多くの日本人は渤海使の来日を心待ちにしてい た。
 そもそも外交に貿易はつきものである。律令には、外国人のもたらす貨物については、まず朝廷が必要とする物を購入したのち、民間での適正な価 格での貿易を許す、という原則が定められていた。しかし八世紀の半ばから新羅使や新羅商人・唐商人の活躍が始まると、彼らのもたらす品物はたちまち日本人 の心をとらえ、律令の規則を無視して、人々が殺到した。「外土の声聞に耽り、境内の貴物を蔑ろに」している(天長八年九月官符)、つまり舶来品ばかり欲し がって、国産品を軽視していると慨嘆する状況であった。海外ブランド品に群がる現代の世相を連想させるが、渤海使の場合も変わりなかった。渤海使の来着を 聞くと、王臣家は家人を派遣して、いち早く優品の獲得をはかり、本来適正な貿易管理にあたるべき国司が、率先して私貿易に関わっていることも知られる(天 長五年正月官符)。渤海使のもたらす主な貿易品は、貂や虎などの毛皮類・人参・蜂蜜など自然産品が多くを占める。中でも貂の裘は貴重品で、参議以上の者だ けに着用を許された(『延喜式』巻四一・弾正台)。このほか工芸品や仏典・仏具なども伝えられている。かつて遣唐使の一員として唐にわたった経験のある人 物は、渤海使のもたらした玳瑁の酒盃などを見て、「唐でもみたことのない優れた品物である」と感嘆した例も知られている(『日本三代実録』元慶元年六月二 十五日条)。ちなみに玳瑁とはいわゆる鼈甲のことであり、南海産の亀の一種であるので、もちろん渤海が外国から輸入した品である。つまり渤海は自国の特産 品だけでなく、唐などとの交流によって得た品を更に日本にもたらしているのである。中にはステップルートに活躍する遊牧民族との交流で得た西方の文物も含 まれていたかも知れない。日本からは?・絹・糸・綿などを持ち帰っているが、渤海使に「黄金・水銀・金漆・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔扇」などが贈られ ている例があるので(『続日本紀宝亀八年五月癸酉条)、このような品も取引の対象となっていたのかも知れない。
 第4章 渤海の日唐間の中継的な役割
 貿易ととともに、日本が渤海使の来日に期待したのは、日本と唐との中継役であった。具体的には、遣唐使や留学僧らの往来、在唐日本人の書状や物品の転送、そして唐情報の伝達などがあげられる。
 遣唐使に関しては、まず七三三年(天平五)に遣唐使の一員として入唐した平群広成の例があげられる。広成は唐からの帰途、逆風に流されて今日 のベトナム方面に漂着し、ようやくの思いで再び長安に戻ることができた。そこで再度の帰国のルートを渤海にとり、七三九年に渤海使に送られて帰国すること ができた。このほか、七五九年(天平宝字三)には、遣唐使渤海を経由して入唐している例もある。
 留学生・留学僧の中では、霊仙のことが注目される。霊仙は、仏典の漢訳事業に重要な役割で参加したことが知られる唯一の日本僧で、五臺山で厳 しい修行の末、毒殺されてしまったと伝えられる僧侶である。日本も霊仙に期待するところが大きかった。そのため唐に留学中の霊仙のもとに留学費用として砂 金を渤海使に託して届けている。しかし使いとなった渤海の僧が二度目に訪ねて五臺山の霊仙のもとにいたった時には、すでに霊仙は没した後であった。霊仙の 死を惜しんだ渤海の僧は追悼の詩文を書き残している。それからまもなく同地を訪れた入唐僧円仁はその日記に書き写している(『入唐求法巡礼行記』)。
 そして人の移動とともに、情報の伝達も重要であった。特に先進国であり何事にもお手本としていた唐の情報は何よりも日本が望むところであっ た。渤海から伝えられた情報で何と言っても日本に大きな影響を与えたのは安禄山・史思明の乱、いわゆる安史の乱(七五五~七六二)の情報である。七五八年 (天平宝字二)九月に渤海から渤海の使者とともに帰国した遣渤海使によって、七五五年十一月の安禄山の挙兵から、本年四月に安東都護からの渤海への援軍要 請に至るまでの詳しい経過が報告され、「唐王の渤海国王に賜う勅書」まで添えられていた。この情報に接した日本の朝廷は、反乱軍が矛先を転じて東方日本に まで攻めてくるかも知れないとして、直ちに大宰府に命じて、その対策を講じさせている。この敏速な対応は、唐で起こっている事件を決して対岸の火事といっ た見方を取っていなかったことを思わせる。このあと相次いで来日した渤海使渤海を経由して入唐した遣唐使から安史の乱の続報が伝えられたが、この渤海か らの情報は大きな波紋を国内政治に投じた。日本は唐の混乱を利用して、唐の強い庇護のもとにあった新羅への侵攻計画をたて、船舶の建造など着々と準備が進 めた。結局実行されなかったが、この計画は渤海との共同作戦であったと考えられ、いずれにしても、当時の為政者、特に政界の中心であった藤原仲麻呂(恵美 押勝)の鋭敏な国際感覚をうかがわせ、まさに日本が東アジアの一員であることを印象づけるできごとである。
 また渤海が日本が唐の情報に極めて関心が高いことを知ったことも重要である。年期制が定められた後、年期違犯の口実に唐情報が使われている例 がある。八二七年(天長四)来日の渤海使は、留学霊仙のこととともに、「 青節度使康志睦交通のこと」を伝えるために、違期を承知で来航したと述べている (天長五年正月官符)。 青節度使とは、渤海新羅を監督する唐の機関で山東半島に置かれていた。渤海が伝えようとした情報とは、周辺で起きている反乱事 件であると思われるが、これを違期来朝の口実にしているのは、安史の乱に際しての日本の反応を知っているからであろう。日本の渤海に対する唐との中継的役 割の期待の高いことを承知しての行動であり、渤海の巧みな外交術が目に付く。
 なお長慶宣明暦の伝来も見逃せない。同暦は八五九年(貞観元)来日の渤海使が伝え、八六二年に公式に採用されて以来、江戸時代の一六八四年(貞享元)まで用いられた。おそらく日本からの新暦輸入の依頼に渤海が応じたものであろう。
 第5章 交流の終わり
 さて、こうして続いた渤海と日本との交渉も、九一九年(延喜十九)の渤海使を最後として、二〇〇年の歴史を終える。「海東の盛国」と評された渤海も、つい に九二六年に西隣の契丹に滅ぼされてしまうのである。渤海の王族や支配層の中には、朝鮮半島の高麗に亡命するものもあったが、契丹渤海の領域を支配する ために置いた東丹国に仕える者も多かった。九一九年に最後の渤海使として来日した裴?もまたその一人であった。彼は九二九(延長七)、今度は東丹国使とし て来日した。東丹国王は裴?を利用して渤海時代と同様に貿易を営むつもりがあったのであろう。しかし裴?の心はあくまでも渤海にあった。来日後、旧知の日 本人と再会し旧交を温めた。親しい旧友に心を許し、東丹国王を非難する言葉を漏らした。裴?は当然理解を示してくれると思ったに違いない。しかしながら案 に相違して、日本人は同情するどころか、「先主を塗炭の間に救わず、猥りに新王に兵戈の際に諂う」と告白させる過状(怠状)つまり始末書を提出させている (『本朝文粋』巻一二)。亡国の旧友に対する仕打ちとしては余りにも冷淡に思えるが、名分論からすれば止むを得ないことなのかも知れない。
 むすび -渤海との交流の意義
 平将門が「今の世の人、必ず撃ち勝てるをもって君と為す。たとい我が朝には非ずとも、みな人の国に在り。去る 延長年中の大契赧王(契丹王)のごときは、正月一日をもって渤海国を討ち取り、東丹国と改めて領掌す。いずくんぞ力をもって虜領せざらんや」(『将門 記』)と述べて、武力で天下を奪い取ることを正当化しているのは、果たして将門の言葉なのか、それとも作者の考えを述べたものなのかは明らかでないが、将 門の乱の始まりは935年頃、つまり渤海の滅亡まもない時期のことであり、渤海との交渉に人々が強い関心を抱いていたことを物語っている。また九四二年 (天慶五)には詩興を催すためとして、「蕃客のたはふれ」「遠客来朝之礼」が催されている。これも渤海使の来朝が念頭に置かれている。こうして渤海との二 〇〇年に及ぶ交渉の記憶は日本の人々に刻まれていた。それほど重要な意義をもっていたのである。
 【付記】本文は『しにか』第九巻第九号(一九九八年九月)掲載の拙稿「渤海と日本との交渉」に増訂を加えたものである。
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