🏊2〕─1─入れ墨文化をアイヌ民族・琉球民族・日本民族は共通文化として持っていた。~No.2No.3No.4 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本には幾つもの先住民として土人が昔から住んでいて、アイヌ民族アイヌ土人であり、琉球民族琉球土人であり、日本民族もまた先住民として日本土人であった。
   ・   ・   ・   
 2024年3月16日 YAHOO!JAPANニュース 集英社オンライン「『ゴールデンカムイ』に登場するアイヌの女性はなぜ顔に入れ墨をしていたのか? かつては日本全体に「入れ墨文化」があった!
 2巻12話より ©野田サトル集英社
 漫画『ゴールデンカムイ』のヒロイン、アシㇼパの顔になぜ入れ墨がないのか。そもそも、アイヌだけでなく日本全体に「墨文化」があったそうで…。
 【漫画】アイヌの男性は「狩りがうまくなるように」とどちらかの手に入れ墨を彫った
 『ゴールデンカムイ』からアイヌ文化の徹底解説を行った究極の解説書、中川裕『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』(集英社新書)より一部抜粋、再構成してお届けする。
 その理由は、実は「よくわからない」
 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(68~69頁)では、2巻12話で「(アシㇼパは)もうすぐ入れ墨すべき年であるのに嫌だと言う」とフチ(註:アシㇼパの祖母)が言っている場面を紹介しながら、それより40年近く前の1871年にはすでに入れ墨の禁止令が出ていて、アシㇼパが入れ墨をしたら法律違反なのだという話をしました。
 でも実際には、アシㇼパが1890年代の生まれだとして、それより後に生まれた人でも入れ墨をしている人は少なくありませんでした。私がお話を聞いてきたおばあちゃんたちはだいたい1900年前後の生まれでしたが、その中にも入れ墨をしている人が何人もいました。法律で禁止されたからと言って、長年の風習というのはそうやすやすと消え去るものではないのです。
 この入れ墨は何のためにしていたのかというのはよく訊かれる質問なのですが、よくわからないというのが正確な答えでしょう。
 ただ、昔、私が中学生ではじめて北海道旅行をした時に、アイヌの女性が和人にかどわかされないように入れ墨を入れてわざと醜い顔にしたのだと、バスガイドさんが説明したのを聞いた記憶がありますが、それはまったくの作り話だと思います。
 入れ墨をするのはアイヌだけではない
 そもそも、入れ墨はアイヌの専売特許ではありません。琉球(りゅうきゅう)の人たちもハジチと呼ばれる入れ墨を手の甲にほどこしていたのは有名な話ですし、台湾先住民の「紋面(もんめん)」、ニュージーランドマオリ族「モコ」など、入れ墨文化は東南アジアから南太平洋にかけて広く広がっています。
 英語のタトゥーという言葉自体が、タヒチ語のタタウから来ているという説もあります。北方に目を向けても、アリューシャン列島に住むアレウトや、シベリア最東部のチュコト半島に住むチュクチにも、顔に入れ墨をする習慣があったことが知られています。
 それどころか、日本列島の住民に関する最古の資料といわれる「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、次のようなことが書かれています。
 (倭の地の)男子は成人・子ども(あるいは、身分の上下)の区別なく、みんな、顔面や身体に入れ墨をしている。(中略) 夏后(かこう)の少康(しょうこう)の子が会稽(かいけい)に(王として)封ぜられたとき、みずから髪を切って身体に入れ墨をし、(身をもって)それで蛟龍(みずち)の害を避け(るように教え)た。(だからそれに倣って)今の倭の海士(あま)たちは、巧みに水に潜って魚や蛤(はまぐり)を捕らえ、身体に入れ墨を施してそれによって大きな魚(鮫など)や水鳥(海鷲など)の襲撃を厭(おさ)えている。(ほんらいはそうだが)その後は、しだいに飾りとなっている。諸国の入れ墨はそれぞれ異なっていて、ある者は左に、ある者は右に、ある者は大きく、ある者は小さく施している。尊いか卑しいかで、差がつけられている。
 (松尾光『現代語訳 魏志倭人伝KADOKAWA、2014年)
 ということで、彼ら(倭人)が和人の先祖だったとすると、男女の違いはありますが、和人もかつて入れ墨をしていたのであり、日本列島を含んで、太平洋の人々は北から南まで入れ墨文化を持っていたのです。だから「なぜアイヌは入れ墨をしていたのか?」より「なぜ和人の先祖は入れ墨するのをやめてしまったのか」という理由を追求した方がよさそうです。
 日本人はなぜ入れ墨をやめたのか
 その答えはおそらく漢文化の影響です。「魏志倭人伝」で倭人の入れ墨のことを興味深く書き残しているのは、それを書いた漢人にはその習慣がなかったからに違いありません。
 彼らにとって入れ墨は刑罰のひとつであり、入れ墨を彫っているということは罪人であることの印であったのです。その文化が日本列島に流れ込み、和人は自分たちの伝統文化だったもののひとつをすっかり忘れてしまいました。そして周囲に残る入れ墨文化を、奇異なもの、野蛮なものとして見るようになっていったのです。
 ところで、アイヌの入れ墨はおもに女性がするものですが、27巻269話には男性の入れ墨の話が出てきます。アイヌ埋蔵金のありかを知る唯一の生き残りの老人、キムㇱプの両手の親指のつけねにほどこされた入れ墨です。これは、「狩りがうまくなるようにと、右か左かどちらかの手に」彫ったといわれるものですが、キムㇱプはそれを両手に彫っていました。
 これは、『アイヌ民族誌』(135頁)にほんの数行書かれていた記述に基づいています。この記述の著者自身、1937年ごろに屈斜路(くっしゃろ)で一例見かけただけという、非常に稀な事例です。野田先生はそれを物語に見事に組み込んでみせました。
 埋蔵金のありかを探していた7人のアイヌたちは、鶴見中尉(註:大日本帝国陸軍第七師団に所属する情報将校)がウイルク(註:アシㇼパの父)の正体を明かしたことによって疑心暗鬼に陥り、仲間割れを起こして殺し合い、ウイルクひとりを残して全員死んでしまいます。
 ウイルクは自分も死んだと見せかけるために、自分自身も含めた全員の顔の皮をはぎ取って入れ替え、その場にいたことにはなっていなかったキムㇱプの顔の皮をかぶって逃亡するという、想像を絶する行動に出ます。
 ところが鶴見中尉は、実はそこに8人のアイヌがいたことを察知。ウイルクは舟で支笏湖(しこつこ)を渡ろうとするところを追いつかれて舟を沈められ、鶴見中尉の手から逃れるために自ら監獄部屋に出頭して、典獄・犬童四郎助(いぬどうしろすけ)の囚人となります。「のっぺら坊」誕生の瞬間です。
 一方、キロランケは、7人のアイヌの遺体の中に両手に入れ墨をしたものがあったということから、キムㇱプがその遺体のひとりだったという噂を聞いて、ウイルクがのっぺら坊ではないかという結論に達し、変わってしまったかつての同志を殺そうと決意することになったと、ソフィアに手紙で書き送っていました。
 はてさて大変恐ろしい顚末(てんまつ)なのですが、囚人たちの背中に入れ墨を彫った顔のない「のっぺら坊」のことは、すでに第1巻から出てきたはずです。野田先生はその時点でこんな展開を考えていたのでしょうか。考えてみると、そっちの方が恐ろしい話ですね。
 文/中川裕

                • -

 中川裕(なかがわ ひろし)
 千葉大学名誉教授
 1955年神奈川県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科言語学博士課程中退。
1995年、『アイヌ語千歳方言辞典』(草風館)を中心としたアイヌ語アイヌ文化の研究で金田一京助博士記念賞を受賞。
漫画・アニメおよび実写版映画「ゴールデンカムイ」でアイヌ語監修を務める。著書に『改訂版 アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー)、『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社新書)など。

                  • -

   ・   ・   ・   
 2016年12月19日 nippon.com「入れ墨と日本人
 日本の入れ墨、その歴史
 山本 芳美 【Profile】
 日本の入れ墨は、出現や消失を繰り返し、江戸時代に形も美しさも大きく発展する。その知られざる歴史をひも解く。
 古代から日本各地で習慣とされたイレズミ
皮膚に傷をつけて色素を入れ、文様や図、記号、線などを残すイレズミは、人類の最も古い身体加工法の一つで、世界中で行われてきた。割礼(かつれい)や纏足(てんそく)、首の伸長などと同様に起源は定かではない。しかし、日本で出土する土偶や埴輪(はにわ)の線刻から、古代よりイレズミの習慣が存在したと推定される。
 日本の南端にある奄美群島から琉球諸島にかけて、女性は「ハジチ」と呼ばれるイレズミを指先から肘にかけて入れる習慣があった。記録として残されているのは16世紀からだが、それ以前から行われていたと推測される。特に手の部分のイレズミは、女性が既婚であることを表し、施術が完成した際には祝福を受けるなど、通過儀礼の意味合いも持っていた。島ごとに施術される範囲や文様が異なっており、ハジチがない女性は来世で苦労するという伝承が残る島もあった。
 一方、北方の先住民族アイヌの女性たちも唇の周辺や手などにイレズミを入れていた。北から南まで、イレズミは日本各地で広く行われていたことが分かる。日本の創生神話を描いた『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)にも、辺境の民の習慣や刑罰としてイレズミが言及されている。
 そうした中、7世紀中頃から日本における美意識は大きく変わる。全体的に肉体美よりも、着衣や香りなど暗い室内でも映える「美しさ」を偏重するようになった。イレズミは徐々に行われなくなり、これに触れる文献や絵画資料も17世紀初期まで途絶えてしまう。
 復活、そして世界でも特異な美へ
 戦国時代を経て、社会が安定した江戸時代になると、イレズミの歴史は再び動きだす。遊女と客との間で、永遠の愛を誓う意味で小指を切ったり、互いの名前を体に彫ったりしたとの記述が文献に現れ始める。やがてこの身体的加工は、侠客(きょうきゃく)の間でも誓い合いの方法として用いられるようになっていく。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 入れ墨(英語: Tattoo)は、針などで皮膚に傷を付けて墨・煤・朱などの色素で着色し、文様・文字・絵柄などを描く手法。また、その手法を用いて描かれたものである。タトゥーや刺青とも呼ばれる。
 傷口に異物が入りこんでできる変色は外傷性刺青(Traumatic tattoo、外傷性色素沈着)といい、それが鉛筆の芯などの炭素の場合はカーボン・ステイン(英語版)と呼ばれる。レーザー治療によって脱色可能。
 起源
 2500年前のアルタイ王女のミイラ: 腕の部分の皮膚に入れ墨が残されている
 入れ墨状の文様を持った土偶
 入れ墨は比較的簡単な技術。野外で植物の棘が刺さったり怪我をしたりした際、入れ墨と同様の着色が自然に起こることがあるため、体毛の少ない現生人類の誕生以降、比較的早期に発生して普遍的に継承されて来た身体装飾技術と推測されている。
 古代人の皮膚から入れ墨が確認された例としては、アルプスの氷河から発見された紀元前3300年頃のアイスマンが有名。その体には61か所の入れ墨が確認されており、それらは損傷がある骨と関節の位置などを示していた。
 2,500年前のアルタイ王女のミイラは、腕の皮膚に施された入れ墨が、ほぼ完全な形で残されたまま発掘されている(1993年発掘)。
 3000年前の古代エジプトのミイラから入れ墨が見つかっている(1891年発掘)他、5000年前の古代エジプトの複数のミイラからも赤外線撮影によって入れ墨が見つかっている(2014年発見)。
 3000年前のタリム盆地のミイラからも入れ墨が見つかっている。
 原始アートにおいても、入れ墨と考えられるデザインのものが世界各地に存在する。古いものは後期旧石器時代の彫像であるライオンマンやホーレ・フェルスのヴィーナスの体に、何本もの線が入っているのが見られる。
 東ヨーロッパのククテニ文化や、日本の縄文時代(主に終期以降)に作成された土偶の表面に見られる文様は、世界的に見ても古い時代の入れ墨を表現したものと考えられている。
 現存する遺体および土偶に続く入れ墨の記録となる証左は、歴史書である。古代ギリシアでは、ペルシア帝国の影響で奴隷や犯罪者に入れ墨をする習慣があったとプラトンが記している。この習慣はローマ帝国にも引き継がれる。ガリア戦記ではケルト人が刺青をしている事に触れ、「ブリトン人は体に青で模様を描き、戦場で相手を威嚇する」としてピクト人と呼んでいる。
 中国の歴史書には入れ墨をした中国周辺の民族(夷人、古越人、倭人など)の記述がたびたび見られることから、中国文明の周辺では入れ墨の文化が普及していたと考えられる。弥生時代にあたる3世紀の倭人(日本列島の住民)について記した魏志倭人伝によると、邪馬台国の男はみな入れ墨をしていたという(「男子は大小と無く、皆黥面文身す」の記述)。一方で中国では、先秦の時代から入れ墨は犯罪者を区別するために行われていた。
 また、紀元前後にはアメリカ大陸のメキシコやペルーなどで、全身に入れ墨をしたミイラや土偶が見つかっている他、南太平洋諸島(ラピタ人など)でも古くから入れ墨の習慣があったと考えられる遺物も見つかっている。
 古代エジプトでは入れ墨の習慣があったが、サブサハラのアフリカでは入れ墨の確たる証拠は見つかっていない。しかし、いくつかの部族では入れ墨よりも直接的な皮膚を傷つけて模様を描くスカリフィケーション(瘢痕文身)が行われている。オーストラリアのアボリジニの文化からも、確たる入れ墨の証拠は見つかっていないが、スカリフィケーションの慣習はある。他にも、ネグリト、メラネシア人、インディオなどの肌の色の濃い民族の間で見られる。
 このようにユーラシア大陸、アフリカ大陸北部、南北アメリカ大陸および太平洋諸島の部族社会では入れ墨文化が盛んだが、啓蒙思想を持った大文明の影響で法律や刑罰の概念が到達すると犯罪者やアウトローのものとなり、近代になり大衆文化が発達するとファッションとして復活するという大きな流れが見られる。
   ・   ・   ・