🗾24〕─2─1万6000年前、縄文人は手漕ぎ丸木舟で古代アメリカ大陸に渡った?~No.111 * 

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 DNA分析「ケネウィック人はネイティブアメリカンの祖先である」。
 ペンハーゲン大学研究チームの論文、ケネウィック人のアイヌ人およびポリネシア人との遺伝的関係性を否定。
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 カナダ・ブリティッシュコロンビア州から発掘された1万数千年前の骨製の釣り針と沖縄県で発掘された2万7000年前ごろの世界最古の貝製の釣り針は似ている。
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 2020年1月号 学研月刊誌ムー「禁断の考古学 文=有賀訓
 次々と発見される石器で新たな展開
 古代アメリカの縄文人
 アメリカの先住民のルーツがアジア人にあるのではないかということは以前からいわれていたが、それがなんと、縄文人であったことがわかったという。
 長年にわたる謎を解き明かす決め手となったのは遺跡から発掘された石器だった。
 アメリカ大陸に最初に足を踏み入れたのは本当に縄文人だったのか?
 だとすれば、われわれの祖先はどのようにしてかの大陸にわたったのだろうか。
 1万6000年前の最も古い遺跡
 遠い昔に南北アメリカ大陸へ初めて足を踏み入れた人々が〝アジア種族〟だった可能性は、インディアンなどアメリカ先住民のルーツを探る研究が始まった19世紀前半から指摘されていた。その後、この〝アメリカ先住民=アジア起源説〟は科学的に裏づけられた定説となったが、一方でいくつかの難題もつきまとってきた。それはアメリカへ渡ったアジア人種の出発地、移動時期、旅の経路はどうだったかという最も基本的な問題で、専門家たちもなかなか解明できないまま年月が過ぎて21世紀に至った。
 ところがつい最近、これらすべての謎解きにつながる画期的な展開があった。それは、オレゴン州立大学の人類学者ローレン・デイビス博士が、2009年から2018年にかけて実施した遺跡発掘調査の報告書内容で、今秋にCNNテレビなどが報道して大きな話題を呼んだ。
 その遺跡は、アメリカ北西部アイダホ州の、太平洋岸から約800キロ内陸に入った。クーパーズ・フェリーという山岳地域の渓谷沿いにあり、河川名のサーモン・リバー(鮭川)が示すように食料調達に適し、昔から先住民が暮らしてきたと見られる場所だ。
 この『クーパーズ・フェリー遺跡』の調査では、炉跡の炭化物、魚や動植物の食べかす、骨・貝・石器の道具類など大量の生活遺物を含む地層が延々と下まで続き、掘り下げていくほど予想以上に古い歴史をもつ居住地だとわかった。そして、何度も繰り返した『炭素14年代法』による年代測定では、クーパーズ・フェリー遺跡に初めて人が住みついた推定年代は〝1万6000年前ごろ〟と判明した。また、この最下層には『尖頭器』と呼ばれる先端を尖らせた狩猟・漁猟・工作用と推定される打製石器が数多く埋もれていた。
 この報告書内容の最重要ポイントは、1万6000年前という年代値が、これまでに南北アメリカ大陸で調査されてきたどの遺跡よりも古いことだ。そして、この地層から出土した尖頭器を手がかかりに、ローレン・デイビス博士は驚くべき新見解を導きだした。クーパーズ・フェリー遺跡にすみついた〝最初のアメリカ人〟の正体は、なんと、日本列島の『縄文人』だったというのだ。
 以上のローレン・デイビス博士による新発見の内容、とくに尖頭器型の石器と縄文人の関係を十分に理解するためには、最初のアメリカ人をめぐる研究史のあらましをたどる必要がある。
 ウルム氷期末にアメリカへ渡った?
 まず19世紀前半に遡るアジア種族と南北アメリカ先住民についての研究は、提唱されてまもない、人種ごとに形の特徴が異なる頭骨の比較から始まった。しかし、まだ人類史の年代幅そのものが不明で、いつ、どのようにして海洋で隔てられた大陸間を先史人類が移動したのかについては科学的判断の下しようもなかった。
 そんななか、1840年にハーバード大学の地質学・古生物学者ルイ・アガシーらが、先史時代の人間社会に絶大な影響を及ぼしたと考えられる『古気候』について、人類学の発展に役立つ重要な発表を行った。それは高山地形と地層内部調査、古生物化石の分析などをベースにした研究内容で、かつてユーラシアと北米大陸の高緯度地帯が広範囲にわたって厚い『氷床(氷河)』に覆われていたと結論づけたのだ。
 ただし19世紀中には、そうした『氷期(氷河期)』の開始・終了時期までは推理が及ばなかった。
 次いで氷期の解明に関するめざましい進展があったのは、ルイ・アガシーの時代から半世紀以上が過ぎた20世紀初頭のことだった。旧ユーゴスラヴィアの天才科学者ミルティン・ミランコヴィッチが、地球の公転運動と気温変化の連動を精密に分析して、過去約200万年間に9回の氷期が繰り返されたことを突き止めたのだ。
 ミランコヴィッチが10年以上を費やして成し遂げた計算結果によると、最新の『ウルム氷期』は7万年前から1万年前ごろまで続いた。そのうち2万年前から1万8000年前ごろが最も寒く、当時の地球平均気温は今よりも10度以上も低かった。むろん南北両極地域には、生物が棲めなかっただろう。この極寒期には氷床(氷河)が最大化し、逆に平均海面は今よりも最大150メートル近く下がっていたとされる。
 そして、このミランコヴィッチの業績を基礎にして、ウルム氷期のいずれかの年代にアジア種族がアメリカへ渡ったという仮説が現実味を強めた結果となった。なぜなら現在まで、ウルム氷期以前の人間活動を裏づける住居や道具類などの遺跡・遺物は、南北アメリカ大陸のどこからも見つかっていないからだ。さらに、のちほどあらためて触れる陸上氷床の増大に伴う大幅な海面低下は、一方で陸地面積を広げ、人間を含めた生物たちの大陸間移動を促したと想像できる。
 ただし、この大旅行が極寒のさなかに敢行された可能性は低く、気温が上昇しはじめたウルム氷期の終わりごろと見るのが現実的だろう。
 ふたつの尖頭器とケネウィック人
 ミランコヴィッチに続いて、最初のアメリカ人に関する研究を大きく前進させたのが、北米中央部ニューメキシコ州の平原地帯の2か所から相次いで見つかった、形の異なる2種類の石器だった。まずひとつめは、1926年に同州北東部のフォルサムという農村で洪水後の地面に姿を現し、狩猟用投げ槍の先端に装着する尖頭器と鑑定された。
 もうひとつはフォルサムから約300キロ南のクロービス地域で1932年に出土した『クロービス型尖頭器』だが、こちらは『フォルサム型尖頭器』よりも倍以上も大きく、異なった先史文化の道具と推定された。これら2種類の尖頭器は20世紀中ごろまでに北米各地で見つかり、クロービス型は南米の一部地域でも出土した。
 そして1950年以降には、多くの学術研究に絶大な恩恵をもたらす各種の化学年代測定法が実用化され、フォルサム型尖頭器が1万2000年から1万1000年前ごろ、クロービス型尖頭器1万3000年から1万2000年前ごろの道具だとわかった。
 つまりフォルサム型とクロービス型の製作・使用時期には1000年の時間差があったが、いずれにしろ、このふたつの石器文化を各地に広げた人々が、アジアから来た最初のアメリカ人だろうという意見が強まった。実際、クロービス/フォルサム型尖頭器をはじめとした、黒曜石・フリント(火打ち石)・メノウなどの石材を小刻みに打ち欠いて鋭利な『剥片(はくへん)石器』に仕上げる特殊技術は、30万年前にまで遡る旧人類の時代からユーラシア大陸で発達してきたことがわかっている。
 ところが20世紀終盤の1996年になって、〝アメリカ先住民=アジア起源説〟を覆しかねない出来事が起きた。それは、アメリカ北西端のワシントン州ケネウィックで発見された一体分の男性人骨がきっかけだった。
 ケネウィック地域を流れるコロンビア川沿いの土手から偶然に掘り出された正体不明の全身人骨は、まず保安官事務所へ持ち込まれたが、事件性が認められないため人類学者たちの手に委ねられた。その当初の鑑定では頭骨の形に『コーカソイド(白人種)』の特徴が見られると判断され、身長が175センチ以上の大柄なので、開拓時代に入植したヨーロッパ人狩猟者の可能性が挙げられた。
 ところが、CTスキャン検査で骨盤に突き刺さった大昔の尖頭器の一部らしきものが撮影され、また骨組織全体の化石化が進んでいたことから、炭素14法による高精度の年代測定が行われた。
 その結果、示された数値はだれもが予想だにしないものだった。この男性が死亡した年代はアメリカ開拓時代どころか、実に1万年前ごろと判明したのだ。通常、土に埋まった人骨は100年以内に完全分解し、よほどの偶然がかさらなければ紀元前の骸骨が現代まで姿をとどめることはない。ましてや1万年前の全身人骨の発見は、奇跡中の奇跡なのだ。
 すでに紹介したように、アメリカ各地では1万数千年前のクロービス/フォルサム型尖頭器が数多く発掘されてきたが、それらを製作した人々の遺骨は20世紀末時点では見つかっていなかった。そこで、この『ケネウィック人』こそ、年代値から考えてもクロービス/フォルサム石器文化を担った最初のアメリカ人そのもの、または直系の人物ではないのか?という見方が出てきた。
 しかし、もし本当にケネウィック人がヨーロッパ起源のコーカソイドだったとすれば、最初のアメリカ人がアジアから来たという定説が崩れ去り、19世紀から積み重ねられた南北アメリカ先住民に関する研究を根本から組み立て直す必要がある。そこで、最初にケネウィック人とコーカソイドの類似性を指摘した人類学者グループは骨化石を調べ直し、1996年末に2回目の結果発表を行った。
 ところが、その内容はまたしても驚くべきものだった。すなわちケネウィック人の頭骨にはコーカソイドに似た若干の特徴が認められるが、それ以上に類似するのは、日本列島に1万年以上前から暮らしていた『縄文人』だと結論づけたのだ。これは単に訂正という以上に、〝最初のアメリカ人〟のルーツをピンポイントで絞り込んだ、かつてない発表内容だった。
 縄文人に近い人骨が次々に発見
 歴史学や考古学には何か人知を超えた古代人の遺志が働きかけでもするのか、ケネウィック人の登場と示し合わせたかのように、今日にかけて南北アメリカ大陸では1万年以上前の人骨化石11体分が見つかってきた。そしてそのうちの11体分については、現代のシベリア地方などに暮らす北東アジア人と南北アメリカの先住民よりも、むしろケネウィック人と縄文人に近いことがわかった。
 それに加えて、復元されたケネウィック人の頭部は、彫りが深い顔つきが現代のポリネシア人と日本列島のアイヌ人とも近似しているという。
 縄文人の血筋がポリネシア人アイヌにも色濃く受け継がれたことは遺伝子系統樹の研究でも解明ずみで、この科学的事実もまた縄文人とケネウィック人の関係性を補強する有力な証拠といえる。そしてもうおわかりのようにケネウィック人の登場は、縄文人というキーワードを通じて今回の本題であるオレゴン州立大学の人類学者ローレン・ディビス博士の最新研究に結びつくのだ。
 このへんで、ふたたびクーパーズ・フェリー遺跡をめぐる説明にもどろう。この河川沿いに営まれた居住遺跡では、9年間の発掘作業でようやく人が住みはじめたころの地層に達し、そこから採取した生活遺物の炭化物試料からアメリカの考古学調査史上最古の1万6000年前という年代値が出た。
 しかしクーパーズ・フェリー遺跡の1万3000年~1万1000年前ごろの地層からは、その期間に南北アメリカ大陸各地に栄えたクロービス/フォルサム型尖頭器は出土しなかった。また、どの地層にも人骨化石は見当たらなかった。その意味では、縄文人と同族の可能性が高いケネウィック人とクーパーズ・フェリー遺跡の関係性は立証しがたいともいえる。
 にもかかわずローレン・ディビス博士が、この土地へ1万6000年前にやってきた最初のアメリカ人の正体を縄文人だと結論したのは、冒頭に述べたとおり最古の遺跡地層から数多くみつかった『尖頭器』が根拠だった。
 アメリカに伝わった日本の尖頭器技術
 クーパーズ・フェリー遺跡の尖頭器も、明らかに石材を小刻みに打ち欠いて仕上げた剥片石器だ。しかし、その3000年後から現れたクロービス/フォルサム型尖頭器とは基本構造が違っていた。かといって、まったく未知の形式というわけではない。南北アメリカ以外の場所にも、この『クーパーズ・フェリー型尖頭器』と同じ形の石器が存在したと、ローレン・ディビス博士は主張する。それは、後期旧石器時代の2万7000年前ごろから縄文時代早期の1万年前ごろの日本列島で使われた尖頭器だ。なかでも北海道大雪山麓の『白滝遺跡群』から大量に発掘された黒曜石の尖頭器は、偶然の一致では説明できないほど酷似しているという。
 つまりローレン・ディビス博士は、この尖頭器の比較研究から、クーパーズ・フェリー遺跡の1万6000年前の地層にアメリカ最古の尖頭器を残したアジア人種は、縄文人に違いないと結論づけたのだ。
 筆者も東北・北海道の各地の縄文時代の遺跡から出土した1万年以上前の尖頭器を何度も見学したが、確かに柄の穴に松ヤニまたは天然アスファルトで尖頭器を固定したと推定される独特の突起構造は、クーパーズ・フェリー型尖頭器と瓜ふたつだ。さらに縄文時代草創期の始まりが1万6000年前だったことも、日本列島の尖頭器技術が北アメリカへ伝わったという新仮説と矛楯しない。
 そしてもうひとつ、この1万6000年前という年代は、最近のアメリカ人がクーパーズ・フェリー渓谷へたどり着くまでの道筋と移動方法を解き明かす鍵にもなる。
 なぜなら、先述したようにアジア人種の移動時期はウルム氷期の終わりごろだった可能性が高く、その当時の気温・氷床量・海水面の位置が旅の内容に大きく影響したに違いないからだ。重ねていえば20世紀には、その移動時期を北アメリカにクロービス型尖頭器が現れた年代と考える研究者が多く、『クロービス・ファースト(最優先)』という表現さえ使われる。
 つまり1万3000年前ごろのウルム氷河期末に、まだ北極圏から南へ大きく張りだした巨大氷床でひとつづきになっていた千島列島→アリューシャン列島→アラスカ地域の最短コースを選び、徒歩による大移動が行われたというのだ。
 ところがクーパーズ・フェリー遺跡の発掘調査によって、アジア人種が最初にアメリカへ渡った時期は確実に3000年過去に遡ることになった。この1万6000年前、2大陸間はどんな状態だったのか。
 縄文人は海岸沿いに移動した
 2万年前ごろから1万8000年前ごろにかけての極寒期が終わると、かつて人類が経験したなかで最も急激な温暖化が進み、1万6000年前には平均気温が5度近く上昇したことが古気象の研究で分かっている。その一方で氷床が溶け、極寒期には150メートル近く下がっていた海水面が50メートルも上昇した。当然、海に面した地域では海没が進んだが、まだ多くの海岸は氷床に覆われていた。この陸側へ後退する海岸線の間際(まぎわ)まで氷床が迫る状態は、さらに2000年後の1万3000年前になってもさほど変わらなかっただろう。
 クロービス・ファーストの考え方が主流だった20世紀末までは、アジア人種は氷期に陸化した『ベーリング地峡』を大型哺乳類を狩りながら東進し、2世紀以上の歳月をかけて北アメリカへ渡ったという風説が信じられていた。
 しかしアジアから北アメリカまで4,000キロ以上も続く不毛の氷雪地帯に先史人が食料として利用できるほど多くのマンモスやバイソンなどが生息した可能性は低いという見方が近年では強まっている。
 そのためローレン・ディビス博士は、縄文時代草創期の人々は陸上の狩猟よりも漁労に頼りながら、地面が露出した川の河口部などを伝わって旅をしたと推測している。その移動手段も、徒歩ではなくカヌーやカヤックのような小型舟による沿岸航行だった。
 実際、21世紀に入ってから博士の説を証明する、1万5000年前以上前の宿営地跡がアラスカ沿岸部などでいくつも見つかった。尖頭器だけでなく骨や貝製の釣り針も出土したが、それら漁労道具も日本列島で縄文時代以前から使われていたものと酷似している。
 以上が最近のアメリカ人をめぐる最新情報である。その移動開始年代が、1万6000年前よりも古いウルム氷期の極寒期まで遡る可能性は低い。しかし、この先だれもが予想だにしない新展開が訪れる可能性も決して否定はできない」
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 カナダ・ブリティッシュコロンビア州から発掘された1万数千年前の骨製の釣り針と沖縄県で発掘された2万7000年前ごろの世界最古の貝製の釣り針は似ている。
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 アメリカ先住民=アジア起源説。
 AFP「米先住民に2系統の祖先、DNA分析で示唆
 2013年11月22日 15:15 発信地:パリ/フランス [ ヨーロッパ フランス ]
 米首都ワシントン(Washington D.C.)の連邦議会議事堂で開かれた式典に出席するアメリカ先住民の男性(2013年11月20日撮影、資料写真)。(c)AFP/Brendan SMIALOWSKI
 【11月21日 AFP】人類の「アフリカ起源説」では、ホモサピエンスは誕生の地である東アフリカを5万年ほど前に去り、北と西、南へと広まっていったとされる。東アジアに住み着いた子孫たちはその後、約1万5000年前にシベリア(Sibera)から凍り付いたベーリング海峡(Bering Strait)を越えてアラスカ(Alaska)に渡り、北米大陸に定住したとされてきた。
 だが、英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された最新の研究によると、人類のたどった道はもっと複雑で、同じくらい興味深いものだった。
 2万4000年前のシベリアに生きていた子どもの骨から取り出したDNAの分析結果は、あらゆる予想を裏切るものだった。アメリカ先住民の祖先のルーツが、アジアの西端付近である西ユーラシアにもさかのぼることを示していたのだ。
 分析されたのは、シベリア中南部のマリタ(Mal'ta)で1920年代に発掘され、現在はサンクトペテルブルク(St Petersburg)のエルミタージュ博物館(State Hermitage Museum)に保管されている化石標本「MA-1」。
 MA-1のミトコンドリアと細胞の核から取り出されたわずか0.15グラム分のDNAサンプルからは、2系統の祖先の痕跡が発見された。一方は現代の東アジア人、もう一方は現代の西ユーラシア人に関連がみられた。同じ結果は、シベリアで発掘された約1万7000年前の別のサンプルでも確認された。
 論文は、アメリカ先住民の祖先の14~38%は西ユーラシアから来た人々を起源としていた可能性があると述べている。
 この発見は、人類の移住がこれまで考えられていたよりも複雑だったことを示唆している。北へ向かったホモサピエンスはその後、これまで考えられていたよりもはるか東へと移住していたようだ。
 また過去の研究で指摘されていた、初期アメリカ先住民の一部の頭蓋骨に東アジア人と異なる特徴が見られた点についても、説明が付くかもしれない。
 調査を率いたデンマークの地理遺伝学センター(Centre for GeoGenetics)のエスケ・ビラスリウ(Eske Willerslev)教授は「この結果は完全な驚きだった。東アジアから来たと学校で教えられてきた現代のアメリカ先住民が、最近まで西ユーラシア人と進化の歴史を共有していたなんて、誰が想像できただろう」と述べている。(c)AFP」
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 3月8日 msnニュース Forbes JAPAN 「古代人が食べた魚から検出された「水銀やカドミウム」の謎
 David Bressan
 © Forbes JAPAN 提供
 近年人気の健康メソッドの1つが、旧石器時代の人類と同じ食生活を送り、野草や野生動物のみを食べる「パレオダイエット」と呼ばれるものだ。しかし、9500年前の人々はかなり有害な物質を、食べ物から摂取していたことが明らかになった。
 2015年の研究で、約6500年前に北米沿岸で採られたタラに含まれていた水銀の量は、現在の上限値の20倍以上だったことが判明していた。この件をさらに深く調べるため、考古学者たちは沿岸に住んでいた人類の食生活について研究した。
 研究対象となった場所はノルウェー北部にある6300~3800年前の8つの遺跡で、ゴミ捨て場で発見されたタイセイヨウダラやタテゴトアザラシなどの骨が分析された
 その結果、タラの骨からは安全とされる上限値の20倍以上のカドミウムと、最大4倍の鉛が含まれていた。カドミウムは内蔵疾患を引き起こし、鉛は神経に影響を及ぼす。アザラシの骨には推奨値の最大15倍のカドミウムと、最大4倍の鉛、そして多くの水銀が含まれていた。
 水銀やカドミウム、鉛は、他の有害金属と同様に、岩や水の中に自然に含まれている。およそ2万年前の最終氷期極大期には海面が300メートル以上低く、大陸棚地域の多くが露出していたため、岩石が風化したり侵食されたりして重金属が土壌に流出した。
 その後の1万4000年から6000年前の最終氷河期の終わりごろ、海面が再び上昇し、それまで露出していた場所が浸水し、重金属は海水に溶け込んでいった。古代の人々は、海に流れ込んだ重金属を、魚を経由して摂取していたと考えられる。
 しかし、それが人々の健康にどのような影響を与えたかは分かっていない。ゴミ捨て場では魚やアザラシの骨が多く見つかったが、当時の狩猟採集民は多様な食べ物を摂取しており、それが重金属の有害性の中和につながった可能性もある。
 また、当時の人間の寿命が30~40歳だったため、重金属が体に影響を及ぼす前に死んでいたのかもしれない。研究者らは次のステップとして、当時の人骨の化学成分を分析し、骨に含まれる有害物質の量と、魚介類に含まれていた有害金属の量に相関関係があるかどうかを分析しようとしている。」
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 ケネウィック人。
 BIGLBEニュース「先住民か渡来人か? 「ケネウィック人」のルーツ論争が遂に決着!?=アメリ
 7月14日(火)20時15分 tocana
 1996年に米・ワシントン州ケネウィックのコロンビア川湖畔で偶然発見され謎の人骨——。「ケネウィック人」と名づけられたこの骨の生前の姿はインディアンの祖先なのか、あるいは別の場所からやってきた渡来人なのか、長く続いていた論争に一応の決着がつけられようとしている。
【その他の画像はこちらから→http://tocana.jp/2015/07/post_6797.html
 ■DNA分析「ケネウィック人はネイティブアメリカンの祖先である」
 デンマークコペンハーゲン大学の古生物学者エスケ・ウィラースレフ氏が主導する研究チームが6月18日の「Nature」オンライン版で発表した論文は、「骨の遺伝子を分析した結果、ケネウィック人はネイティブアメリカンの祖先である」と結論づけた。ネイティブアメリカンの中でも特にコルビル族(Colville tribe)ときわめて近い関係があり、ケネウィック人が直接の祖先であると考えられるということだ。
 アメリカで発見された9000年前の骨がネィティブアメリカンの祖先のものだった——。特に疑問もないことのように感じられるニュースだが、なぜこんなにも大きく報じられているのか......。そこには発見当初から巻き起こった激しい論争があったのだ。
 発見当初の「ケネウィック人」はせいぜい数百年前のアメリカ人の遺体と思われていた。頭蓋骨の形や高い鼻から白人のものだと見なされていたのである。
 しかし炭素年代測定を行なってみると9000年ほど前の古代人の骨ということが明らかになり、学者たちの注目を集めることになった。そこには、ケネウィック人がネイティブアメリカンよりも先にアメリカ大陸にいた"正真正銘の先住民"であるかもしれないという期待が無かったと言えば嘘になるだろう。
 しかしネイティブアメリカンの団体は、このケネウィック人は当然我々の祖先であると主張。開拓時代以前の遺体はネイティブアメリカンに帰属するため、その伝統に従ってこのケネウィック人は再び手厚く埋葬されなければならないというのが彼らの言い分だ。
 しかし、スミソニアン研究所のダグラス・アウズリー氏をはじめとする科学者たちはさらなる調査分析が必要であるとして、ケネウィック人の骨を研究継続のために保管すべきであると反論。これが最終的には法廷闘争に持ち込まれ、2002年に裁判所は、「ネイティブアメリカンの祖先がケネウィック人であるとは判断できない」として、科学者たちの言い分に軍配をあげることになる。上訴の末に2004年に再び同じ判決が下され法律上の決着を迎える。
 以来、長らくケネウィック人の骨は謎のまま学術資料として保管されることになったが、事が動いたのは昨年のことだった。今回の論文を発表したコペンハーゲン大学の研究チームが、ケネウィック人の骨のDNA調査に乗り出したのだ。そして昨年の段階で「ケネウィック人はネイティブアメリカンの先祖であることが濃厚である」という見解を発表している。この発表により、ネイティブアメリカンの団体、特にワシントン州居留地のある「コルビル族保護部族連合(Confederated Tribes of the Colville Reservation)」が再びケネウィック人の骨の返還要求を検討しはじめたのだ。
 ■ケネウィック人と一番近縁なのはやはりネイティブアメリカン
 しかしこれにはダグラス・アウズリー氏も黙ってはいなかった。
 「彼のデータは挙証にならない」としながら、ケネウィック人とネイティブアメリカンにとても近しい関係があるとするならば、他の古代人のDNAとも比較すべきだと研究の信憑性に疑問を投げかけている。そして仲間の研究者らと出版した共著『Kennewick Man: The Scientific Investigation of an Ancient American Skeleton』で、ケネウィック人は日本のアイヌ人およびポリネシア人と深い関係があると結論づけた。
 しかし今回のコペンハーゲン大学研究チームの論文では、ケネウィック人のアイヌ人およびポリネシア人との遺伝的関係性を否定している。
 「(ネイティブアメリカンの人々のDNAのほかに)我々は特にポリネシア人アイヌ人、ヨーロッパ人のDNAを入念に調べましたが、やはりケネウィック人と一番近縁だったのがネイティブアメリカンでした」と論文主筆のモータン・ラスムッセン氏は「Washington Post」の記事で言及している。頭蓋骨の形が白人種に似ているのはどうしてなのか? という疑問に対しては"単なる個体差"であるとラムッセン氏は説明している。
 2004年に判決が下りいったんは決着を見たはずの"ケネウィック人論争"はまたこうして再燃することになった。今後、ネイティブアメリカン団体が再びケネウィック人の骨の返還を求めて訴えを起こすかどうかに注目が集まる。
 ■ケネウィック人の骨が弔われる日は来るのか...
 実は近年、アメリカのネイティブアメリカンの団体と各地の博物館との関係は何かと物議を醸すものになっているという背景がある。
 1990年に米国で「先住民人骨遺物の返還」を定める「アメリカ先住民埋葬地保全返還法(Native American Graves Protection and Repatriation Act、NAGPRA)」が制定され、先住民族の遺跡などの発掘で収集された文化遺産を当該の先住民部族に返還する法律が制定され、特に先祖の"遺骨"は再び埋葬して供養しなければならないという部族の主張が受け入れられるようになった。しかし1994年にはハワイの「ビショップ博物館」の保管庫からハワイアンの人骨標本が謎の消失を遂げるなど、博物館と特定の先住民コミュニティとの間に秘密裏に取引が行なわれていた疑惑も浮上。その土地に根ざす先住民文化や貴重な歴史的・文化的史料を保存したい博物館側と、一刻も早く先祖の霊を弔いたい先住部族の側に様々な軋轢を生み出すことになった。2000年には古代ハワイアンの遺物を収集した「フォーブス・コレクション」をめぐって激しい返還闘争も起った。
 アメリカばかりではない。2012年にはフランス・パリの歴史自然博物館で展示されていたマオリ族のミイラの頭部20体がニュージーランドに返却されたり、イギリス・ロンドンの自然史博物館はこれまで展示していたオーストラリアの先住民・アボリジニの人骨をオーストラリアに返還することをこの3月に発表している。
 "ケネウィック人"と名づけられたこの遺骨もいずれ弔われる日がやって来るのだろうか。アメリカの人類学、歴史学を揺るがしたケネウィック人の先行きが気になるところだ。
(文=仲田しんじ)
 ※画像は「Indian Country」の記事より」
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☷3〕─1─韓国で早くも「反日」暴挙。林外相の訪韓中に竹島EEZで無断調査。~No.5No.6No.7 

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 2022年5月17日11:53 MicrosoftNews テレ朝news「林外相訪韓竹島周辺で韓国国営企業が無断調査か
 林外務大臣が韓国を訪問中に島根県竹島周辺で、韓国の国営企業が無許可で海洋調査をしていた疑いについて、松野官房長官は抗議はせず「注意喚起にとどめた」と説明しました。
 松野官房長官:「当該船舶による我が国排他的経済水域内における海洋調査の実施の確認には至らなかったため、従来の対応通り、現場海域での注意喚起にとどめたものであります」
 外務省によりますと、韓国の国営企業が委託した船舶は今月9日から12日までの間、竹島周辺の日本のEEZ排他的経済水域内でケーブルを垂らし「調査らしきものをしていた」ということです。
 尹(ユン)大統領の就任式に合わせ、林外務大臣が総理特使として韓国を訪問していて、自民党からは「岸田総理の顔に泥を塗られた」と非難する声が上がりました。」
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 5月17日14:28 産経新聞「世耕氏「断固受け入れられない」 韓国の竹島海洋調査
 自民党世耕弘成参院幹事長© 産経新聞 自民党世耕弘成参院幹事長
 自民党世耕弘成参院幹事長は17日の記者会見で、韓国が不法占拠する竹島島根県隠岐の島町)南方の日本の排他的経済水域EEZ)内で、韓国国営企業が無許可の海洋調査を実施した疑いがあることが判明したことについて「断固受け入れられない行為だ」と述べた。
 世耕氏は、調査船が活動したのは尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が就任したタイミングで、日本から林芳正外相が訪韓中だったことを挙げ「大変遺憾に思う。もう少し外交的に強く抗議してもいいのではないか」と強調した。」
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 5月17日15:30 MicrosoftNews zakzak「韓国で早くも「反日」暴挙 林外相の訪韓中に竹島EEZで無断調査 地下構造や資源探査か 「尹大統領は決して“親日”ではない」
 新たな「反日」暴挙なのか。韓国が不法占拠する島根県竹島南方の日本の排他的経済水域EEZ)内で、韓国側の調査船が無許可で海洋調査を実施したようなのだ。韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)新政権は、日韓関係の改善を呼びかけるが、今回のタイミングを見る限り、岸田文雄政権を軽んじ、挑発した可能性すらある。
 産経新聞の17日朝刊によると、問題の調査は、韓国国営企業から委託されたノルウェー船籍の調査船「ジオ・コーラル」が実施した。竹島の南方約100キロの海域で、船尾からケーブルのようなものを引き、日韓の地理的中間線の日本側への侵入を繰り返したという。海域の地下構造や資源を探査した疑いがあるという。
 現場では、海上保安庁の巡視船が無線で委託元などについて聞き取り、「わが国の同意を得ない調査は認められない」と注意した。
 日本政府による外交ルートでの韓国への対応は明らかになっていないが、問題は調査船が活動したタイミングだ。
 産経新聞は、調査は尹氏が就任したタイミングで実施され、林芳正外相は訪韓中だったと報じた。林氏は9日、岸田首相の親書を抱えて、尹大統領の就任式(10日)に出席するために訪韓している。
 韓国側の調査船が活動した海域に近い日本のEEZ内では、石油・天然ガス開発の国内最大手「INPEX」(インペックス)が今月5日、天然ガスなどの商業生産化を調査する試掘を始めている。
 一連の韓国側の動きは偶然とは考えられない。どう見るか。
 朝鮮近現代史研究所所長の松木國俊氏は「韓国側の動きはタイミングを含め、尹氏の『竹島問題で日本に譲らない』という姿勢を示す意図があったのではないか。尹政権は決して『親日』ではない。文在寅ムン・ジェイン)前大統領は強硬な『反日』で日韓関係を最悪な状態にしたが、尹氏は関係改善をチラつかせる巧妙な『反日』と見るべきだ。日本の国内世論が分断される恐れもある。岸田政権は手ごわい相手だと認識し、毅然(きぜん)とした対応をすべきだ」と語った。
■韓国による主な「反日」暴挙
□韓国国会議長(当時)による「天皇陛下(現上皇さま)への謝罪要求」
韓国海駆逐艦による海上自衛隊哨戒機へのレーダー照射事件
□日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄決定
□いわゆる「元徴用工」訴訟をめぐる異常判決
自衛隊旗旭日旗)への侮辱
□不法占拠する島根県竹島への韓国警察庁長官上陸
世界文化遺産への「佐渡島の金山」推薦に反発
林芳正外相の訪韓中に、島根県竹島周辺のEEZ内で無断海洋調査の動き」
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 5月17日21:20 産経新聞「「首相の顔に泥」竹島EEZの韓国調査船、自民から批判噴出
 © 産経新聞 自民党佐藤正久外交部会長(鴨志田拓海撮影)
 竹島島根県隠岐の島町)南方の日本の排他的経済水域EEZ)内を韓国国営企業に関連する調査船が航行したことをめぐり、自民党内では韓国だけでなく、事案を公表しなかった政府にも批判が相次いだ。韓国では10日に新政権が誕生したばかり。政府は韓国側への配慮を否定したが、弱腰な対応が目立ったといえる。
 「岸田文雄首相の顔に泥を塗られたといっても過言ではない」
 自民党佐藤正久外交部会長は17日の党会合で、調査船の活動時期が尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の就任式と重なり、日本から林芳正外相が訪韓中だったことを踏まえ、こう語気を強めた。「(韓国の新政権は)初めからこんなことをやってくるのか。わが国のEEZ内の調査は、今までと次元が違う」とも指摘した。
 外務省は会合で、韓国国営企業が委託したノルウェーの調査船が9~12日の4日間、竹島南方の日本のEEZ内で航行しているのを海上保安庁の巡視船などが確認したと説明。韓国政府に説明を求めたが「確認できていない」との回答があったことも明らかにした。
 出席議員からは「なぜそこで終わってしまうのか」「日本の主権を守るうえでもおかしい」などの批判が続出した。
 林氏は17日の記者会見で、政府が事案を公表しなかった背景に韓国の新政権への配慮があったとの見方について「指摘は当たらない」と反論した。
 林氏は、調査船が日本のEEZ内で海洋調査していると確認に至らなかったため、「従来の対応通り中止要求ではなく現場海域での注意喚起にとどめた」と指摘。通常、注意喚起の場合は対外公表していないとも説明した。
 ただ、政府の一連の動きをめぐり、世耕弘成参院幹事長は記者会見で「もう少し外交的に強く抗議してもいいのではないか」と苦言を呈した。」
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 5月18日11:07 MicrosoftNews zakzak「林外相ら政府の〝弱腰〟に批判続々! 韓国の竹島調査船知りながら…尹大統領就任式出席、抗議もせず 自民・青山繁晴氏「なめられる原因だ」
 島根県竹島南方の日本の排他的経済水域EEZ)内で、韓国側の調査船が無許可で活動していたことをめぐり、韓国側への批判に加えて、日本政府の不作為が浮き彫りになっている。調査船の活動が不当な海洋調査と断定できなかったばかりか、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の就任式出席のため訪韓していた林芳正外相は抗議もしなかった。日韓関係改善に気をとられ、「反日」暴挙を看過すれば、軽んじられるばかりだ。
 「韓国は反日姿勢を継続する姿勢を示したといえる。開き直っており、日本はなめられているのではないか」
 自民党青山繁晴参院議員は17日、自らのユーチューブ番組「ぼくらの国会」で、こう怒りをあらわにした。
 同日の党外交部会では、この問題をめぐる日本政府の対応に批判が噴出した。外務省の説明では、調査船は韓国国営企業が委託したノルウェー船籍で、9~12日の4日間、日本のEEZ内で活動した。韓国政府は「確認できていない」と回答し、海洋調査と断定できず、日本側は抗議ではなく、「注意喚起」にとどめた。
 さらに問題なのは、タイミングだ。林氏は、10日に行われる尹氏の大統領就任式に出席するため9日から訪韓中だった。
 青山氏は前出の番組で、林氏と岸田文雄首相が就任式前の10日朝、調査船の活動について報告を受けていたと指摘した。「なめられる原因だ。竹島を取り戻す気がないと思われる。(北朝鮮による)日本人拉致事件や対中関係とも共通するが、日本政府は相手を怒らせないことが外交だと思っている」などと語気を強めた。
 自民党佐藤正久外交部会長も17日、「岸田首相の顔に泥を塗られたといっても過言ではない」と激怒。政府側から、今回の問題について、さらに詳細な説明を求める意向を示したが、岸田政権の「弱腰」が際立つかたちとなった。
 韓国側にどう対応すべきなのか。
 朝鮮近現代史研究所所長の松木國俊氏は「今回の問題は、林氏が岸田首相の特使として大統領就任式に派遣されていたタイミングで起きた。岸田政権の対応を試すものといえる。韓国側にはケンカするぐらいの気概で外交をすべきだ。おとなしく物わかりのいい対応は、日本的な感覚では『紳士的』だが、韓国には『弱腰』にしかみえない。毅然(きぜん)とした態度で、厳しく応酬をして初めて、日韓関係は前に進むのではないか」と語った。」
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☳20〕─1─在日本朝鮮人連盟は日本共産党を取り込んで共産主義者に乗っ取られて消滅した。~No.67No.68No.69 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 共産主義の5%支配理論。
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 2022年5月19日号 週刊新潮「党史には出てこない不都合な真実
 『共産党』再建資金に『朝鮮人徴用工』の未払い賃金
 最終回 『朝連』を踏み台にした『日本共産党
 終戦当時、組織も資金もネットワークもなかった『日本共産党』は、その活動の多くを『在日本朝鮮人連盟』に負っていた。だが、両者の力関係はほどなく逆転する。党は、朝連の朝鮮人に入党して日本人とともに活動するよう要請し、事実上、指揮下に置いたのだ。
 東郷一馬
 {前号まで
 戦後まもなく設立された『在日本朝鮮人連盟(朝連)』。彼らは占領下の日本で61万人余を抱える巨大組織となり、戦前からの親日朝鮮人団体の財産を奪取するとともに、闇米の流通、鉄道利権、引揚げ朝鮮人労働者の未払い賃金や遺留財産の管理などで莫大な活動資金を得た。そしてその一部は、朝連と一体化して革命運動を展開した日本共産党の再建に使われたのだ。}
 在日本朝鮮人連盟(朝連)の創設メンバーだった張錠壽は、こう書いている。
 『解放後になってから共産党員になった。そして、いつの間にやら細胞会議に出るようになった。朝連の組織部長になったころだと思う。(中略)このころは、「共産主義者の言うことは正しいと思う」とでも言えば、「それならおまえ党員になれ」と誰でも彼でも受け入れたから、本当の共産主義者でない者まで入党させられてしまうという誤謬(ごびゅう)を犯した。(中略)朝連でもはじめは日本にいる朝鮮人は全部入るということになっていたから、民族反逆者であっても誰でも受け入れた。日本共産党もそういう形で、最初は手も足もなにもないから、手足を作るために、何かちょっと〝だいだい色〟にでも染まっているような者だったら、みんな入れたわけだ』(『在日60年・自立と抵抗』社会評論社
 これまで朝連が日本共産党(日共)と一体化して活動してきたことは、度々指摘してきた。戦時下で弾圧された日共は、組織も活動資金もなかった。このため戦後すぐに政治犯釈放運動を始め、その歓迎式典を開いたのは朝鮮人たちだった。
 さらに日共の全国大会にも選挙にも朝連は資金を提供している。
 公安調査庁の坪井豊吉は、1945年12月に開催された日共の党第4回全国大会について、『このときの経費の大半は朝連の献金によったよう』と書き、徳田球一ら5人の共産党員が当選した翌年の総選挙でも『朝連から日共にたいして積極的な資金援助や実力援助がおこなわれた』(法務研究報告書)としている。
 では、その両組織間では、具体的にどのような連携がなされていたのか。
 1946年2月15日、日共と関係の深い朝鮮共産党が中心となって左派勢力が結集、ソウルで朝鮮民主主義戦線が結成された。朝連は2月末に開催された第2回臨時全国大会(2全大会)で、それに加盟することを決定する。この戦線への参加が朝連と日共の関係を決定づけていく。
 『このころまで、朝連は一応日共の指導をうけている形とはいえ、その実力と行動では、常に党朝鮮人部と朝連が一体となって、日共をリードしてひっぱっているようにみられた』(坪井・同前)
 だが、この2全大会以降、朝連内には共産党のフラクション(分派組織)が置かれ、朝連幹部に日共党員が配置されるようになったのだ。この時、徳田球一らと府中刑務所に収監されていた朝鮮人共産党員・金天海が朝連の顧問に就任する。
 すでに日共では前年12月の第4回全国大会で内部に朝鮮人部を設立し、徳田球一、志賀義雄、袴田里見に次ぐ序列4位の金天海が部長に就任、朝連を革命運動の一翼と位置付けていた。
 張錠壽は当時の様子をこう書いている。
 『1945年から朝連大阪本部のなかに共産党のフラクションがあったが、支部にはそこまで人員がいなかったから、フラクションはできなかった。支部にいて共産党と連絡がつく者は、本部の細胞に所属して、そこから細胞会議に出てきた。46年になって、朝連の各支部にまで日本共産党の細胞が置かれるようになって、連絡体制が完全に確立され(中略)この時期わたしは、共産党の細胞会議と朝連の会議と両方に出席していた』(張錠壽・同前)
 日共はこの後、1946年8月の第4次拡大中央委員会で、いわゆる『8月方針』を決定、朝連の共産主義者に対し、日共の日本人党員と一体となって活動するよう要請するのだ。
 人民民主主義戦線
 坪井によれば、8月方針は、以下の通りである。
 『(一)各地にある朝鮮人だけの細胞やフラクションは、なるべく日共の地域細胞やフラクションに加入し、日本人党員と一体となって活動する。
 (二)朝連その他の朝鮮人だけの職場にある党員も、なるべくその居住地で地域細胞や職場細胞などに加入し、日本人党員とともに活動するようにする。
 (三)朝連は民族戦線としての役割をはたすよう、その大衆的単一組織を強化し、各級の日本人の連盟組織に加入する方向をとる。またその中央機構なども、この方向に合致するよう改編し、重要ポストには党員を配置する。
 (四)朝連は、なるべく下部組織の露骨な民族的偏向を抑制し、日本の人民民主革命をめざす共同闘争の一環として、その民族的な闘争方向を打出すことが必要で、その方が朝鮮人自体のためにも有利である。
 (五)したがって朝連は、あくまでも日本の人民民主主義戦線の一翼を担当する役割をはたすように、つとめることを要する』(坪井・同前)
 これには相当な反発があったようである。だが朝連は、同年10月の第3回大会で8月方針に沿うよう宣言や規約、綱領などを改正。一方、日共は1947年1月、党内に朝連フラクション中央指導部を設置し、朝鮮人部の指揮下に置いた。『朝鮮人間における活動方針』を決定する。
 ここで日共は、朝鮮人党員最大の任務を、民族の解放のために反動勢力と闘うこととし、これまでの朝連の活動を評価しつつも、
 『朝連のみでは到底日本における朝鮮人の利益を正しく且つ徹底的には保障する事が出来ない』
 『朝鮮人の利益は、日本人、朝鮮人大同のもとで、その支柱たる日本のプロレタリアートとその党たるわが党によって正しく保障され擁護されるだろう』(同前)
 と、記した。さらに、
 『とくに来る選挙は、日本の平和革命を遂行する上において最大な意義を有するものである(中略)朝鮮の党員は勿論のこと、朝鮮大衆をもこの選挙に対して積極的に協力、参加せしめるよう、大衆に働きかけなくてはならない』
 それが奏功し、共産党は同年4月の参議院選挙、総選挙で、それぞれ4名ずつ当選を果たしている。
 こうして力関係は逆転し、朝連は『日共の前衛的実力行動部隊』(同前)となっていったのである。
 もちろん資金提供も続いた。GHQによる中止命令で実現できなかった1947年2月1日のゼネストには、第3回大会で支援のための基金募集を決議し、
 『一部幹部の間では、ゼネストから革命に発展し、人民政府の出現も予想していたといわれ、ゼネスト資金60万円が日共を通して献金されたと伝えられ、また解放新聞その他を通して、強力な扇動がおこなわれた』(同前)
 もっとも朝連が一枚岩であったわけではない。そもそも共産主義を理解していないものも多く、彼らは革命ではなく民族解放を求め、不明確だった日本における朝鮮民族への特別の待遇を求めていた。日共内部でも朝鮮人部長の金天海は8月方針に難色を示し、副部長の金斗鎔は支持していたという。だから日共から離れていった者もいた。
 『朝鮮人の帰国、同胞の周旋や朝連の組織強化、民団(在日朝鮮居留民団)との摩擦などがあって、朝連の仕事が忙しくなって追いまくられるようになり、朝鮮人党員の細胞会議が正常に持てなくなった。こうなるともう日本共産党と同じ運動はできなくなった。朝連の運動と共産党の運動それぞれが担う課題が食い違いをみせはじめたからだ。共産党からは足が遠のき、連絡が途絶えたが、一部の同じ運動をしていた共産党員とは緊密に手を握っていた』(張錠壽・同前)
 GHQとの軋轢
 GHQは当初、朝鮮人に対して深い同情を寄せ、『解放人民』として厚遇した。そして一刻も早く本国引揚げを推進し、組織的な帰還を行うため朝連の力を頼った。しかし、戦争に負けた日本の法律には従わなくてもいいと考える彼らの乱暴狼藉に手を焼くようになる。
 戦後すぐ怒濤の勢いで朝鮮半島に戻っていった朝鮮人だが、1946年になるとその数は減り始める。早期帰還を目指すGHQは3月18日までに、朝鮮人に引揚げ希望の有無を登録させ、登録しないものは引揚げ特権を失うと発表した。
 これに在日朝鮮人64万7,006名のうち、51万4,060名が登録した。GHQは日本政府に『4月15日から毎日4,000名を帰国させ、9月末に完了させよ』と命じ、さらに3月6日には帰還を希望しない朝鮮人に『日本国民と同様に取り扱いをする』と宣言した。
 だが、4月から12月までの帰還者は8万2,900名に止まり、ひとたび帰還したものの、故国に見切りをつけて、再び渡航してくる『旋回渡日』が後を絶たない。GHQは再入国者には許可が必要とし、商業渡航の再開まで日本に戻ることを禁じたが、密航者は増え続け、GHQ参謀第二部公安課によれば、九州の港で1日1,000人近くが検挙される日々が続いたという。
 そして朝連は、在留者、旋回渡日者の数が増えるにつれ、『在留朝鮮人の生活の安定と民族教育の強化』を運動方針として力を注ぐようになる。
 当時、朝連は1945年11月に組織した青年部を拡充し、東京を始め各地で自治隊(保安隊)を結成していた。彼らは制服に腕章を巻いてあたかも警察のように振る舞い、時には傍若無人な暴力行為を振るって、日本人を恐れさせていた。これに対し、GHQは1946年4月、『朝鮮人不法行為に関する覚書』を出し、自治隊の解散を命じた。
 これに朝鮮人は強く反発した。1946年11月、朝連は『朝鮮人生活権擁護委員会全国代表者会議』を発足させ、在留朝鮮人の生活権についての闘争方針を定め、在日朝鮮人に『準連合国民』の法的地位を与えるようGHQに強く求めたのだ。そして12月に全国大会が開かれた後、いわゆる『12月事件』が起きる。
 『この中央人民大会は、いやがうえにも気勢があがった。そして、皇居前をうずめた約1万人の大群衆は、やがてデモ隊となって首相官邸におしかけ、警備警察官と一大乱闘を演じ、24名に重軽傷を負わせた。この事件では、14名が逮捕され軍裁に廻付されたが、かれらはいずれも民族の英雄としてたたえられた』(坪井・同前)
 GHQが朝連の規制に乗り出した背景には、1946年3月、イギリスのチャーチル首相が『鉄のカーテン』演説を行って東西冷戦が顕在化、翌年3月にはアメリカのトルーマン大統領が共産主義封じ込め政策『トルーマン・ドクトリン』を発表する。
 その流れの中で、日本は『共産化の防波堤』と位置づけられていく。GHQも反共産主義的な政策が中心となり、その主導権をリベラルな民政局から参謀第二部に移る。そして『二・一ゼネスト』への中止命令を出すのだ。この後、GHQは、260万人の全官公労働者から団体交渉権とストライキ権を剥奪、共産党による組合支配を排除、やがてはレッドパージへと発展するのである。
 一方、朝鮮半島では、1948年8月に李承晩を大統領とする大韓民国が、9月には金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が誕生した。朝連は、ソ連の影響下にあった北朝鮮を支持し、『共和国公民』として、日本において北朝鮮国旗を掲げるようになっていく。
 『朝鮮の南北に、それぞれ単独政府が成立された直後に、この5全大会(朝連第5回全国大会)はもたれた。そしてその会場では、北鮮国旗をかかげていいたので、その撤去をめぐって一時不穏な空気がみなぎったが築地警察署長は断乎としてこれを撤去させ、開会された』
 と、坪井は記す。
 他にも宮城県山口県でも同様の事件があり、逮捕しようとした占領軍に暴行を加えていた。これがGHQを強く刺激したのだ。
 なぜ党史にないのか
 1949年9月8日、GHQの意を受けた日本の法務府(のちの法務省)は、朝連や在日本朝鮮民主青年同盟など4団体に解散を命じた。
 『(朝連は)全国各地にわたってしばしば占領軍に対する反抗反対あるいは暴力主義的事犯をひき起しポツダム宣言を忠実に実践して平和なる民主的国家を再建しつつあるわが国民生活の安全に対する重大な脅威をつくり出してきた』(『朝日新聞』1949年9月9日)
 その具体的な事例として、宮城県山口県国旗掲揚事件や12月事件、京都で警察官暴行事件、福島県の平警察署襲撃占拠事件、千葉県の国鉄車掌室占拠事件などが挙げられている。
 これにより朝連は4年の活動に終止符を打った。その財産は没収され、中央総本部議長の尹槿と韓徳銖、そして金天海を含む19名が公職追放となるのである。
 この時、朝連には莫大な財産が残っていた。
 没収財産をめぐってその後に裁判が起きている。訴訟記録によれば、日本政府が、朝連や朝鮮民主青年同盟解散時に組織から没収した財産は数千億円にのぼったという。ちなみに朝連側の弁護団は、金英敦、上村進、神道寛次、青柳盛雄、上田誠吉、小沢茂、岡林辰雄、梨本作次郎など、多くが日共の弁護士だった。
 さて、日共はこうした朝連との関係について、党史に一行も触れていない。朝鮮近代史専門家の姜在彦は、
 『当然日本共産党在日朝鮮人運動にたいするその指導と、共に闘ってきた歴史にたいして総括する立場にあったと思います。ところがそれがないばかりか、その歴史叙述(じょじゅつ)の中で朝鮮人とかかわる部分を無視し、記録さえもしないのはどんなに考えてよいのか、たいへん理解に苦しむ』(朴慶植・張錠壽・梁永厚・姜在彦『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター)
 と、疑問を投げかける。
 その理由を共産党参議院議員を3期務めた吉岡吉典が韓国メディアにこう答えたことがある。
 『──日本共産党史から朝鮮人党員たちの活動記録が抜け落ちている。特に〝血のメーデー事件〟や〝吹田事件〟等、1952年の歴史的な反戦闘争は共産党の指導の下に行われたが、これに対する言及がない理由は何か。
 そうだ。共産党の歴史書には彼らの活動を取り扱っていない。支部の次元で記録したものがあるんかも知れないが・・・。私は1980年代に「日本共産党60年史」を著した。その時、執筆委員たちが朝鮮人党員の活動に対して書くのか否かを討論した。しかし、結論は書かないことととなった。
 ──それはなぜか。
 北朝鮮でまず記録しなければならない問題であり、われわれが先んじて一方的に記録することは適切ではないと判断した。故意に除外したというよりは、書けなかったという方が適切だ。朝鮮人の党活動を否定するのではなく、われわれが整理すれば他の国への干渉という行為になりかねないからだ。在日朝鮮人の多数を占める〝朝鮮籍〟は外国人である。日本で法的には、政党が外国人から金銭の授受があるだけでも不法である。「外国人(朝鮮人)の内政干渉禁止」は当然の原則だが、1950年代そのような原則はなかったというのがもどかしい限りだ。
 ──朝鮮人という理由で、故意に省いたのではないか。
 そういう誤解もあり得るが、それは違う。
 ──いまからでも、共産党として整理する気はないのか。
 個人的に歴史書を書くのであれば可能かも知れない。在日朝鮮人日本共産党の恩人である。この事実を知る共産党一世たちはすでにこの世を去った。若い共産主義者たちは、日本共産党歴史において朝鮮人がいかに大きな役割を果たしたのかを知らない。しかし、公式党史を書くにあたり、北朝鮮との関係等の様々な問題を無視できない』(韓国の時事週刊誌『ハンギョレ21』2005年9月8日号)
 吉岡は2009年に訪問先のソウルで客死しているが、韓国の徴用工問題が提訴され日韓関係の懸案となっているいまこそ、日共は朝連との関係を調査し、徴用工の未払い金問題を含め、その実態を明らかにすべきではないのか。それが結党100年を迎える日共の責務ではないのか。
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 解放後の朝連関係者たちに少し触れておく。その一部は日本国内に祖国防衛隊を組織し、そこへ大韓民国居留民団系青年組織も一部参加して『在日朝鮮民主戦線』(民戦)が結成され、北朝鮮革命勢力による民族統一を支援した。1950年に勃発した朝鮮戦争では、米軍の兵站基地となった日本で、基地からの物資輸送を阻止するため、日共の指揮の下、数々の暴力事件を起こした。
 日共は1950年、ソ連を中心とするコミンフォルムからの批判をきっかけに平和革命から暴力革命路線に舵を切っていた。1951年2月の第4回全国協議会で『軍事方針』を決定し、10月の第5回全国協議会では『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』と、日朝の暴力革命を目指した。
 その後、1953年に朝鮮戦争が休戦となると、翌年に北朝鮮の南日外相が、在日朝鮮人を『共和国の在外公民』とする声明を発表する。これにより朝鮮人共産主義者たちは、日本の内政に介入することができなくなり、日本共産党との関係を清算せざるを得なくなった。ここで朝連の後継組織だった民戦は解散することになり、1955年、共和国の在外公民団体として『在日朝鮮人総聯合会』(総聯)が誕生する。その初代議長には、朝連の中核にいた韓徳銖が就いた。
 この時、朝連と日共を掛け持ちして運動を繰り広げた金天海や金斗鎔は北朝鮮に渡っていた。金斗鎔は1946年6月、金天海は1951年に渡北した。その動向はGHQが監視していた。米陸軍情報部は、6月24日、品川駅を出た金斗鎔が佐世保南風崎駅に向かい、118名の同志と共に北朝鮮行きの船に乗ったことは記録している。北朝鮮共産党コミンフォルムリエゾンうぃつくるためとされる。ただ、その後の彼らの行方は明らかでない。再び彼らは歴史に名前を刻むことはなかった。」
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 敗戦後の日本共産党や部落解放団体の幹部は日本人であったが、活動する一般の党員や組織員の大半が反日朝鮮人であった。
 再建途上の日本共産党や部落解放団体を資金面で支えたのは、在日朝鮮人組織の巨額の資産であった。
 敗戦後から朝鮮戦争期間に日本国内で起きていた、イデオロギーの反天皇反日本の騒動、暴動そしてに反日民族主義の強奪、強姦、殺人などの凶悪犯罪の多くは、反日敵日侮日派朝鮮人である朝鮮人共産主義者とそのシンパ朝鮮人達の犯行であった。
 初期の段階ではGHQ内のリベラル派(反天皇反民族反日本勢力)が支援し、冷戦が顕在化した後半頃はソ連中国共産党が革命資金と武器を提供していた。
 天皇と日本国、歴史と文化、伝統を、反天皇反民族反日本及び反宗教無神論の人民革命から守ろうとしたのは日本民族だけであった。
 つまり、天皇を守ってきた日本民族にとって朝鮮人とは、隣人であり知人であっても、友・友人、親友ましてや戦友ではなく、いつ寝首を掻きにくるか分からない油断も隙もない恐ろしい敵であった。
 それは、歴史が証明している。
 日本共産党ソ連コミンテルン天皇制打倒という「32年テーゼ」の実行に取り掛かり、日本人共産主義者テロリストはキリスト教朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙った。
 それは、歴史的事実である。
 日本民族日本人(保守派、民族主義者)は、国内外の敵から天皇・皇族、皇室・天皇制度を守るべくひとり孤独な死闘を続けていた。
 それは、現代においても変わりがない。
 事実、天皇を殺したのは日本人でも帰化人でもなく忠誠心と愛国心を持たない渡来人であった。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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👪29〕─1─どうして日本は生きづらい?日本とドイツの違い。〜No.139 

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 2022年5月14日 MicrosoftNews J-CASTニュース「どうして日本は生きづらい? 「ありのままの自分」大切にするドイツ流「自己肯定感」高い生き方【尾藤克之のオススメ】
 現地在住20年を超える著者が、ドイツで学んだ「ストレスフリー」生活の極意を解き明かします。結婚を機に、ドイツへ移住した著者は、ドイツと日本の文化・習慣・考え方の違いに触れ、毎日が驚きの連続だったと言います。ドイツ人の生き方の背景にあるのが「ありのままの自分」を大切にする「自己肯定感」の高さでした。
 (以下引用)
 「ドイツ人はなぜ『自己肯定感』が高いのか」(キューリング恵美子 著)小学館新書
 (以上引用)
 日本の常識は、ドイツの非常識?!
 著者はドイツに移住後、ファッションについて驚くことがありました。服装の流行などを追う人が圧倒的に少ない点です。著者の夫は会社員ですが、毎日の通勤はジーンズにTシャツを着て、ウインドブレーカーかジャンパーを羽織るのが定番だと言います。
 また、仕事上、州政府の外国人局にも行くそうですが、そこでも「普段着」がスタンダードです。「公務員だから、決められた服装をしなければいけない」というものがないようです。なかには、高級ブランドで固めている人、リーゼントや革ジャンの人、フレアスカートをはいている人もいます。
 しかし、流行や着飾るという趣旨ではなく、「着心地がいい」「機能性に優れている」ことが重視されているようです。著者は次のように言います。
 (以下引用)
 「自分が他人にどう映っているのか、他人が自分をどう思うかなんて気にしない、ドイツ人の生き方が表れています」
 (以上引用)
 食事に出掛けたとき、次のようなことがあったそうです。同僚のグラスが空きそうだったので、ビールをつごうとしました。同僚は「まだ飲み干していないのだから、つがないで」と怒ります。自分のタイミングで、自分でつぐことが当たり前だったのです。
 また、サウナは混浴が基本だそうです。とはいえ、他人の視線は気にはなるもの。すると、ドイツ人の夫に次のように言われたそうです。「なぜ、サウナに入るのに自分の体をいちいち隠すの? 隠していると、何か変わったところがあるのか興味を持って、かえって注目されるよ」と。
 「忖度(そんたく)しない」「残業しない」「休暇取得100%」「流行を追わない」「お・も・て・な・しはしない」「子どもの成績が悪くても責めない」......。そんなドイツ人の生き方を通して、あらためて、日本人の生き方を検証できるような話題が盛りだくさんです。
 「自分自身に満足している」若者は4割強
 内閣府がおこなった若者の意識に関する調査(13歳~29歳の男女が対象。日本の回答数は1134)では、「自分自身に満足している」と答えた人は4割強で、調査対象となった7か国中で最低だったことが明らかになっています。一方、ドイツは、アメリカ、フランスとともに8割を超える高い数字です。
 同じ調査では、「自分には長所がある」という質問に対しても、日本人の回答はやはり調査国中で「最低」だったのに対して、ドイツ人は9割以上で「トップ」という結果でした。どうすれば日本人も「自分自身に満足している」と思えるようになるのでしょうか。もっと自分に自信が持てるようにするには、どうしたらいいのでしょうか。
 本書がユニークなのは、ドイツ人の特性を「自己肯定感の高さ」という観点から分析しているところです。ドイツ流の生き方から、日本人の生き方を検証してみる。そのようなきっかけになる一冊になるでしょう。
 (尾藤克之)」
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☵70〕─1─韓国は文在寅政権の反日反米親北朝鮮親中国政策で共産化が加速した。~No.503No.504No.505 

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 2022年5月15日 MicrosoftNews JBpress「文在寅政権で加速した韓国の共産化、新大統領の双肩にかかる重すぎる後始末
 大統領就任式で来賓席の最前列に招かれた朴槿恵元大統領(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)
 © JBpress 提供 大統領就任式で来賓席の最前列に招かれた朴槿恵元大統領(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)
 (立花 志音:在韓ライター)
 大韓民国に新しい大統領が誕生した。保守派の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領である。暗黒のような5年間の文在寅政権が終わり、この国にもまた光が差し込めるのかと思うと感慨深い……と手放しで喜べればいいのだが、この国はそんなに甘くない。
 筆者は、大統領就任式を朝からテレビで見ていた。
 韓国保守のネットユーザーたちは、就任演説がどれほど素晴らしかったかという話で盛り上がっていた。これから韓国は自由民主主義を取り戻せると、飲めや歌えやの勢いだった。ちょうど韓国のコロナ制限が事実上解除され、飲食店の夜間営業が可能になった。マスクをしながらも新政権誕生と共に、繁華街は明るさを取り戻しつつある。
 しかし、テレビ中継で筆者の目を引いたのは、主役の大統領よりも、来賓席の最前列のど真ん中にいた朴槿恵元大統領の姿だった。就任式が終わると大統領夫妻がそろって朴槿恵元大統領にうやうやしく頭を下げ、朴槿恵元大統領が車で会場を後にするまで、金建希大統領夫人が守るように半歩後ろに付いていた。
 なかなか感動的であった。韓国ポピュリズムによって失職した朴槿恵大統領は、新大統領夫妻の計らいにより、世界の貴賓が見守る中、名誉を回復したと言えるだろう。
 尹大統領は2016年の検事時代に、朴槿恵元大統領を逮捕した張本人だ。その後、文在寅前大統領によって検察総長に指名されており、異例の出世を果たしたが、曹国前法相の起訴をきっかけに文政権と対立して、検察総長を辞任することになる。
 尹大統領は文政権に翻弄されながらも、文政権の悪行ゆえに政治の世界に入ることを決意し、大統領にまでなった人物である。
 就任式のちょうど1カ月前に、尹大統領は朴槿恵前大統領を直接訪問して自身の就任式への出席を要請している。
 大統領夫人のファンもうなぎ登り
 メディアでは、既存の保守層の支持を目的に和解をアピールしたなどと報道されていたが、個人的には朴槿恵元大統領への罪滅ぼしではないかとみている。良心から出た行動ではないか、と。
 ファーストレディになった金建希氏は、学歴詐称、整形疑惑、記者との会話音声の流出など様々なスキャンダルがある。ただ、元々彼女はかなりの敏腕実業家で、独身時代からかなりの財を築いている。筆者が見る限り賢明な女性のように思う。
 韓国でその程度のスキャンダルはかわいいものだ。韓国の権力闘争世界の中では時には腹黒く小賢しくなければ、生き残れない。
 就任式の直前に国立顕忠院に参拝した時は、黒のワンピース、就任式の場では真っ白なコートワンピースの衣装を選んだことで、初日からファッションも好評を得ていた。
 選挙前から増え続けているファンサイトの会員数は、9万人に上った。
 一般メディアでは、大統領就任時の支持率が41%で低いことばかりが報道されているが、筆者の中ではかなりポイントが高い。
 ネットユーザーが絶賛していた就任演説では、自由民主主義を強調し、韓国社会の二極化と対立が発展の足かせになっていると述べた。
 正直あまり期待しないで見ていたのだが、見ていて気持ちのいい就任式だった。一国の大統領としての品格は持ち合わせているようだ。
 しかし!!この国で問題なのはいつも国民である。
 保守、右派、親日を自称する韓国人をたくさん知っているが、ほとんどはやはり韓国人だなと思わされることが多い。
 文在寅政権がいい仕事をしたと感じるワケ(皮肉)
 「<ファクト>この先5年間、この国に起きるすべての悪い事はすべて過去の政府のせいだ」
 こんなネットの書き込みを見た。
 確かにもっともな意見である。筆者も、文政府が5年間で10年分くらいの仕事をしたと思っている。大韓民国は、この5年で10年分共産化が進んだということである。
 もし今回の選挙で、文在寅の後を引き継ぐ李在明候補が大統領になったとしたら、この国は滅びると、うちの息子でさえも本気で思っていた。それを5年で引き戻すには、どれほどの労力が必要だろうか。
 他にも、「新しい大統領は韓日友好のために努力してください。お願いします」という書き込みもたくさん見た。
 非常に違和感を持った。いや、違和感というよりも憤りに近い感情である。誰もかれもが他人任せ。誰かが上手にやってくれれば良い。自分は早く日本に遊びに行きたいだけなのだろう。
 就任式に出席した林芳正外相は「日韓関係の改善は待ったなし」と伝えたそうだ。そして韓国側の次期外相候補と「認識一致」したそうだ。
 ちょっと待ってくれ。一致したのは「待ったなし」というほど緊迫した現状認識のようだが、そうなった原因はどこにあるのか、その外務大臣と候補は議論したのだろうか……。これ以上はやめておこう。
 筆者が解説するならば、その「待ったなし」の主語は「韓国人国民一人一人の意識改革」であるべきだろう。反日左翼の民衆が騒ぐのはまだ目をつぶるが、自由だ、民主主義だ、我こそは愛国者だと言っている保守層の考えがこの程度の国家とは対等には、付き合えない。
 論理的に説明すれば中学生でも理解できる話だと思うのだが、韓国人には無理な話なのだろうか。
 日韓友好に必要な本当のこと
 日本政府も状況が「待ったなし」だからといって、そして韓国経済が危ないからと言って、間違っても日韓スワップ再開などという愚かなことはしないでほしい。
 日韓スワップ協定は2015年に韓国側の意向により、終了している。その終了の仕方も「日本側が頼まないのならば、韓国は必要ない」という話だった。韓国政府の虚勢だったのだろうが、もしかしたら本気でそう考えていたのかは、筆者の知るところではない。
 日本側の立場としては、2020年に当時の麻生太郎財務大臣の発言を引用しておく。
 「(2020年から)6~7年前に(スワップを終了して)本当にいいのかと聞いたら、韓国は『借りてくださいと(日本が)言うなら、借りることもやぶさかではない』と答えた。頭を下げて『借りてほしい』などという話は聞いたことがない」
 こういうことなのだ。
 筆者に言わせるならば、日本側には何が「待ったなし」なのか、説明してほしいし、韓国側には今までの発言に対しての責任を果たしてほしい。日韓関係が悪いのは関係の問題なのではなく、お互いの国内問題なのである。
 本当の意味での日韓友好には、保守派の右派も左派も反日派も必要ない。韓国に必要なのは責任感のあるリアリストだけである。
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☷2〕─1─保守派尹大統領就任。「問題は徴用工と慰安婦」「日本は様子見」。~No.2No.3No.4 

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 2022年5月10日11:15 産経新聞「韓国、5年ぶり保守政権発足 就任式に林外相、鳩山元首相出席
 就任宣誓する韓国の尹錫悦新大統領=10日、ソウル(聯合=共同)
 【ソウル=時吉達也】韓国で10日、新大統領に尹錫悦(ユンソンニョル)氏(61)が就任し、5年ぶりに保守政権が発足した。10日午前、尹氏の就任式がソウルの国会議事堂前で開かれた。式典には林芳正外相が出席。日韓は文在寅(ムンジェイン)政権下で悪化した両国関係の改善を急ぐ。
 尹氏は就任演説で「自由民主主義と市場経済体制を基盤にして国を再建する」と述べた。日韓や米韓の関係には言及しなかった。
 就任式の演説を終えた韓国の尹錫悦新大統領=10日、ソウル(聯合=共同)
 就任式には林外相のほか、鳩山由紀夫元首相らが招かれた。市民ら約4万人も参加。米国はハリス副大統領の夫、ダグラス・エムホフ氏やウォルシュ労働長官が、中国は王岐山(おうきざん)国家副主席が訪韓した。
 尹氏は就任式に先立ち10日午前0時、軍合同参謀本部議長から北朝鮮の軍事動向などについて報告を受け、公務を開始した。
 尹氏は検事出身。当時の文政権高官に対する捜査をめぐり政権側と対立し、昨年3月に検事総長を辞職した。今年3月の大統領選に当時の最大野党「国民の力」候補として出馬。当時の与党「共に民主党」候補を0・73ポイントの僅差で破り、当選していた。
 尹氏の任期は1期5年で、再選はできない。国会では共に民主党議席の6割近くを占め、苦しい政権運営が予想される。」
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 5月11日00:33 MicrosoftNews テレ朝news「「問題は徴用工と慰安婦」「日本は様子見」尹大統領就任で日韓関係は?記者解説
 韓国では10日、尹錫悦(ユン・ソクヨル)氏が、新たな大統領に就任しました。就任式の演説から、尹新大統領の外交を読み解いていきます。ソウル支局長の井上敦記者、政治部・官邸キャップの山本志門記者に聞きます。
 (Q、尹大統領は、演説では北朝鮮について語りましたが、日本を含めて他の国には触れませんでした。日本との韓関係改善の意欲はあるのでしょうか)
 就任後、一番最初の演説ですので、一番大事なのは、国民に向けたメッセージです。そして、同じ朝鮮半島の分断国家に向けてのメッセージというのも必ず必要になってきます。限られた時間内での優先順位として、日米の言及はありませんでしたが、決して軽視しているというわけではありません。日韓関係にとって最悪だった文政権の5年間とは対照的に、尹大統領は、関係改善に強い意欲を見せています。就任前から日本に政策協議団を派遣し、関係改善が「待ったなし」だと互いに確認しました。その結果が、総理特使の林外務大臣の今回の訪韓と、トップ同士の親書のやり取りに繋がりました。まずは第一歩といったところです。
 (Q.両国の間の溝は埋まりそうでしょうか)
 井上敦記者:溝は非常に大きいと思います。両国間の最大のトゲは、慰安婦と徴用工の問題です。尹政権の関係者に話を聞いたところ、「尹大統領は、関係悪化の最大の原因は、文政権がこの2つの解決済の問題を蒸し返したことにあるとよくわかっている」といいます。さらに、これらの問題を元に戻して、日韓関係を正常な軌道に戻したいとまで言っていました。ただ、韓国には複雑な国民感情もあり、簡単にはいきません。
 国会は『共に民主党』が6割を占める“ねじれ状態”です。法律1つを改正するのも難しい状況です。根本的な解決には、必ず大統領の大胆な決断が必要ですが、2懸案をめぐって、「日本の要求通りに全て元に戻す」と言ったら、たちまち立っていられなくなってしまいます。しばらくは、国民の関心事である国内問題に注力するとみられ、政治的な体力を消費する外交については、支持率などを見ながら、じっくり取り組んでいくのではないかと思います。
 (Q.岸田政権はどのように受け止めていますか)
 山本志門記者:日本政府は、尹政権が今後、戦後最悪といわれている日韓関係の立て直しに向けて動きだしてくるのか。尹大統領やその周辺などの言動を踏まえ、強い期待感をもって受け止めています。その理由の一つに、尹大統領は「南北関係より、安全保障を重視している」と日本政府は分析しています。どういうことかと言いますと、北朝鮮あるいは、中国にどう対峙していくのか。韓国にとっての安全保障の柱が米韓同盟であり、その延長線上に日韓関係があって、日米韓の連携があるわけです。この辺りが関係改善の機運になり得ると、日本側は計算しています。
 (Q.日本から関係改善に向けて踏み込んでいくことはありますか)
 山本志門記者:政府高官は「まずは向こうが行動するかどうか」と言っていますので、日本が主導する形で動くことはないと思います。ここは岸田総理、相当、慎重に見ています。“国と国の約束を破ったのは韓国側だ”という立場を貫いていますので、元徴用工などの問題の解決に向けて、尹大統領が果たして国内を抑えることが出来るのか。ここを注視しています。だから、岸田総理が渡した親書に「リーダシップに期待する」と、一定のプレッシャーをかけたわけです。官邸幹部によりますと、日韓双方が「このままじゃダメだよね」という共通認識が得られたことで、まずはスタートラインに立てたと位置付けています。また、外務省幹部は「今、日本が前のめりに動くと、韓国の世論に火がついて、逆に尹大統領が動きにくくなってしまう」「当面は、雰囲気づくりをしていく」と説明するように、しばらくの間は様子を見ながら、関係改善の糸口を模索していくものとみられます。」
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 5月11日06:00 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「韓国大統領就任式の首相不参加は賢明、「日韓交渉ルール」変更が必須…元駐韓大使が解説
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 岸田文雄首相 Photo:YOSHIKAZU TSUNO/gettyimages
 韓国大統領就任式に
 林芳正外相が出席
 5月10日に行われた尹錫悦(ユン・ソクヨル)新大統領の就任式に岸田文雄首相が出席するかどうかが注目されていたが、林芳正外相が日本政府を代表して出席した。
 先月24日から28日に尹錫悦次期大統領が日本に派遣した政策協議団の活動を通じ、日韓両国政府が関係改善に意欲を有していることが明らかとなる一方で、元徴用工、元慰安婦の問題については、両国で基本的な立場の違いがあることも明白となった。
 この二つの歴史問題は、韓国側から過去の合意や経緯を無視して一方的に持ち出されたものである。韓国はこれまで歴史問題について被害者と加害者の立場を持ち出し、日本に強い姿勢で臨めば、日本側は譲歩するのが当然という意識で交渉を行ってきた。また、日本が韓国に誠意を持って謝罪していないとの被害者団体の認識が国民の間で共有されてきた。
 これを是正できるのは韓国では大統領しかいないが、文在寅ムン・ジェイン)前大統領はむしろ上記の認識を助長し、韓国国民の声をバックに日本に圧力をかけようとした。その結果、日本国民はこれに反発し、日韓関係は史上最悪の状況に至った。
 しかし、国家間の合意を尊重するのが国際社会の普遍的ルールである。日韓関係も通常の外交関係に立ち戻り、このルールを改めて確認することが健全な日韓関係に不可欠な時期に来ている。いつまでも過去を背負っての関係などあり得ない。
 岸田首相の就任式出席は韓国側に過剰な期待感を与えかねなかった。だが、普遍的な外交交渉のルールを確立することが日韓関係修復の出発点となるべきであり、そのために岸田首相が大統領就任式に出席しないのは、長期的視点で有意義なことである。
 文在寅政権下で関係が最悪となった今、韓国側の対日姿勢を変えることは容易ではないかもしれない。しかし、尹錫悦政権では過去の保守政権で日韓関係を担い、これまでの経緯を理解する専門家集団が中枢にいる。尹錫悦政権で変えなければ、未来永劫(えいごう)、日韓関係は成熟しないであろう。そうした長期的ビジョンを持って交渉していくことが求められている。
 韓国メディアで出始めた
 日韓関係の変化を伝える報道
 5月3日の中央日報論説委員による「韓日W杯共同開催20周年の機会」と題するコラムで、次のように日韓関係の現状を分析している。
 「尹錫悦政権に対する日本の歓迎ムードの裏には慎重な姿勢も同時に見える。(中略)韓国が期待する岸田文雄首相の出席の可能性はかなり低い。(中略)韓国が日本に対して過去の反省で圧力をかけた以前とは違い、今は日本が圧力を加えている。強制徴用と慰安婦合意履行問題はそれぞれ韓国裁判所の判決と韓国政府の約束破棄による問題であるため、韓国が先に解決策を出せということだ。(日韓では)ある瞬間から攻守が入れ替わったのだ。強制徴用判決の場合、韓国裁判所に差し押さえられた日本企業の財産の現金化を防ぐことが日本政府が設定したボトムラインだ。裁判所の強制競売が執行される前に特別法の立法で大法院判決と矛盾しない解決策を見出すことが現実的な解決法だ。慰安婦問題は、2015年に韓日慰安婦合意を引き出して署名した当事者の岸田首相個人の経験と絡んでいる。岸田首相は国内の反発を抑えて合意を実現させたことに対する自負心が強く、したがって文在寅政権が合意を事実上覆したことに対する不満と失望感も強い。尹錫悦政権が発足してもこうした立場は変わらない」
 日本は以前とは違い、韓国側の身勝手な期待に屈しない姿勢を取っており、韓国側が問題の解決に対応しなければいけないとの姿勢を強く押し出している。ただ、徴用工問題での特別立法といっても韓国の国会は文在寅派が牛耳っており、こうした立法に応じるとは考えにくい。こうした中で韓国側に何ができるのか、解決策が見えてこない。
 元徴用工問題は
 新政権下でも終結見えず
 朴振(パク・チン)次期外相候補は国会の聴聞会で質問に答え、日韓関係に対しては改善が必要だという従来の立場を繰り返しながら、両国対立の核心となっている元徴用工の個人請求権に関する大法院判決に対しては「司法府判断を尊重する」と述べた。
 日本のメディアによると、三菱重工は韓国の大田(テジョン)地裁が4月29日、三菱重工所有権特許権2件に対し、3例目となる資産特別現金化(売却)命令を出したが、三菱重工は直ちに再抗告したと報じており、終結は見えない。
 日本政府が韓国政府に対し、先んじて解決策を出すよう要求する中で、韓国政府が司法府判決を履行することになれば、いずれ日本企業の財産を現金化することになり、問題は泥沼化する。
 また、尹錫悦大統領は、昨年11月に「国内政治を外交に利用しない」と述べ、国内の世論をあおって日本と交渉する姿勢は取らないとしたが、同時に歴史問題に対しては、日本の謝罪が必要だという点を明確にしている。しかし日本は何度も謝罪を繰り返しており、韓国側の謝罪要求にはへきえきとしている。
 尹錫悦大統領は、日韓関係改善のためには「両国首脳間の信頼回復」と強調する。具体的な懸案について首脳同士の直接対話が重要なことは論をまたない。その意味で岸田首相の訪韓に期待していたのであろう。しかし、懸案解決の道筋が見えない中で日本側が容易に応じるとは考えていなかったのかもしれない。
 岸田首相の訪韓について
 韓国側は慎重な発言
 日本を訪問した政策協議団の鄭鎮碩(チョン・ジンソク)団長(国会副議長、「国民の力」所属)は4月26日に岸田首相と会談し、大統領就任式に招待する旨を伝えた。だが、記者団の質問に対しては「通常、各国首脳の出席はその国が決めること。どの国の首脳でも出席意思を表明してくだされば最善の礼節を持って迎える準備をしている」と述べた。
 岸田首相の就任式出席に期待を示す一方で、それが実現しない場合にも、日韓両国の今後の外交交渉にマイナスの影響を及ぼさないよう予防線を張たということであろう。日本が動かないだろうと予見したということは、日本の現状を正しく理解しているということで、そのこと自体は肯定的に考えていいだろう。
 韓国が派遣した政策協議団に岸田首相が面会することには賛否両論があった。政策協議団が派遣されたのは尹錫悦氏の大統領就任前の時期であり、懸案の歴史問題解決のめども立っていない、という理由からである。しかし、日本政府・自民党・財界は政策協議団に対して最大限の丁重なもてなしを行った。
 政策協議団が面談した日本側のリストを見ると、岸田首相をはじめ安倍晋三元首相などの首相経験者と閣僚を網羅している。日本側としても、尹錫悦政権に期待をかけていることが感じられる。協議団の一人は「面談を申し入れて拒否された例はなかった」と述べている。
 この面談において岸田首相は、日韓関係悪化の原因となっているいわゆる元徴用工訴訟問題などについて、韓国側に国際法違反を是正するための対応を促した。岸田首相は面会後の記者会見で「1965年の国交正常化以来築いてきた日韓の友好協力関係の基盤に基づき日韓関係を発展させていく必要がある。国と国との約束を守るということは国家間の関係の基本だ」と述べた。
 しかし、韓国側は、問題解決に双方の努力が必要との立場を崩していない。鄭鎮碩団長は「韓日双方が勇気と知恵と忍耐を集めてこそ解決ができるという点を(日本側に)明確に話した」という。慰安婦合意についても「両国の公式合意である点は認めるが、同時に被害者の名誉を回復し心の傷を癒やすという基本精神を看過してはならない」と述べている。
 韓国側が依然として交渉による解決を求めているのは、韓国側が一方的に問題を作り出したにも拘わらず、それをベースに交渉しようという、これまでの「ゴールポストを動かす」習性が身に付いているからである。
 韓国の国民感情としても、日本側が交渉に応じるべきだとの思いが残っている。これを切り崩していくためにも日本側はこれまでとは異なる対応が必要である。その最初となったのが、今回の岸田首相による大統領就任式の出席見送りである。
 先述した通り、尹錫悦大統領の就任式には林外相が出席した。日本の外務省は配布した資料を通じ、「韓国政府要人等との意見交換も実施する予定」「今次訪問を機に、日韓関係を健全な関係に戻すべく、日本の一貫した立場に基づき、韓国新政権と緊密に意思疎通を行っていく。就任式には林外相が出席し、尹錫悦大統領や朴振次期外相候補との個別会談を調整している」と明らかにした。
 日本政府は1965年の日韓請求権協定、2015年の日韓慰安婦合意で両国間の歴史問題解決済みとの立場を貫いている。
 林外相は岸田首相の親書を持って就任式に出席し、その後尹大統領と面会して親書を手渡す予定である。親書には日本の立場が改めて記されているであろう。
 こうした動きに対し中央日報は、「韓国大統領就任式に結局来ない岸田氏…関係回復、出発から『力比べ』?」と題する記事を掲載、日韓で主導権争いが始まっていることを指摘している。
 日韓関係を改善する上での
 尹錫悦政権が抱える弱み
 陳昌洙(チン・チャンス)世宗研究所日本研究センター長は「尹錫悦新政府が強調している韓日関係改善に進むためには、1965年の日韓基本条約と2015年慰安婦合意を尊重するという意思を日本側に確認しなければならない」「ただし、韓国の関係改善意思とは無関係に、日本側では7月の参議院選挙が終わってこそ韓日関係を遮っていた具体的懸案に対して本格的な協議を進めることができる」と指摘している。
 韓国側の実務者は日韓関係を理解する人が占めている。朴振次期外相候補は米国との外交が専門であるが、東大にも留学経験があり、日韓関係についても理解が深い。
 また、尹徳敏(ユン・ドクミン)駐日大使内定者は日本研究に生涯をかけてきた専門家で、朴槿恵(パク・クネ)政権では国立外交院長(次官級)を務めた。大統領選挙では尹錫悦氏の陣営に序盤から合流し、政策公約など選挙をサポートした。日本語が流ちょうで、日本人の心理を理解し、両国関係改善のため水面下のチャンネルの役割もできると評されている。職員の間では周囲への配慮とリーダーシップで評価が高い。
 日韓関係改善のため尹錫悦大統領の周囲には有能な人材が複数いる。しかし、少数与党による国会運営のため、元徴用工解決のための特別立法案などは極めて難しく、具体的対応では困難に直面する可能性がある。
 尹錫悦政権の誕生直前にTBSが行った世論調査では、日韓関係に「期待している」が44%の一方、「期待していない」が46%と上回った。
 いまだ多くの日本人が「韓国は日韓関係が一時良くなっても政権が変わると悪化する可能性がある。韓国はそもそも期待のできない国である」という認識を持っているのだろう。
 いずれにせよ、韓国とは外交関係のあり方そのものを見直していくことが基本にあるべきである。
 また、尹錫悦政権が日韓関係を改善しようとしても、その政権基盤が弱く、世論の反対に抵抗できないという弱みがある。したがって、韓国政府の出方に一喜一憂するのではなく、気長な対応が必要となるだろう。
 (元駐韓国特命全権大使 武藤正敏)」
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 5月11日13:24 MicrosoftNews J-CASTニュース「「事実上反故」慰安婦合意への影響は 韓国新政権の人事に見る、対日関係改善の「本気度」
 © J-CASTニュース
 韓国で2022年5月10日、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が就任した。朴槿恵(パク・クネ)政権以来、5年ぶりの保守政権への交代となる。
 就任演説で日韓関係への言及はなかったものの、尹氏は大統領選の段階で「古い反日扇動だけでは国際社会の巨大な変化に立ち向かうことができない」などと、進歩(革新)系の文在寅ムン・ジェイン)前政権の対日政策を批判。就任前には、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」するとした15年の慰安婦合意を主導した人物を「政策協議代表団」メンバーとして日本に派遣した。現時点では対日関係改善に意欲を見せるが、尹氏が当選した大統領選は、文氏の後継候補と得票率で0.73ポイントしか差がつかない大接戦。政権運営は難航が予想され、それでも実効的な政策に着手できるか、本気度が問われそうだ。
 朴槿恵政権で結ばれ、文在寅政権で事実上反故にされた慰安婦合意
 任式には、岸田文雄首相の特使として林芳正外相が出席。尹氏や、外相に内定している朴振(パク・チン)氏と会談し、
 (以下引用)
 「韓国側からは、日韓関係のこれ以上の悪化を放置してはならない、という強い意欲が示された」(林氏)
 (以上引用)
 という。
 その「強い意欲」の表れだとみられるのが、尹氏が大統領就任に先立つ22年4月、日本に派遣した「政策協議代表団」だ。そのメンバーに外務省北東アジア局長を務めた李相徳(イ・サンドク)氏が含まれていたことが韓国内で波紋を広げた。
 日韓両政府は慰安婦合意に先立ち、14年4月から15年12月にかけて計12回にわたって局長級協議を実施。その際の韓国側首席代表が李氏だった。合意が結ばれたのは朴政権で、岸田氏も外相として合意に関わった。
 17年に発足した文政権は、元慰安婦の女性の意見が十分に反映されていないとして、合意では問題は解決できないとの立場を繰り返し表明。合意は、日本政府が元慰安婦の女性を支援する財団設立のために約10億円を拠出することを前提に、慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」内容だったが、財団は19年に解散。事実上合意は反故にされたが、韓国側から明示的に破棄や再交渉を要求することはなかった。
 李氏の代表団起用で「慰安婦合意の実効性を回復させる狙い」? 
 この経緯が李氏の外交官としてのキャリアに影響したとの見方を出ている。李氏は16年に駐シンガポールに就任したが、18年に「個人的な理由」で辞任して帰国。当時、聯合ニュース
 (以下引用)
 「慰安婦合意に関連し、責任を問われて帰任したのではない」
 (以上引用)
 との韓国外務省当局者の見方を伝えたものの、必ずしも額面通りに受け止められているわけではない。
 その李氏の代表団起用には「慰安婦合意の実効性を回復させる狙いがあるとの見方」(聯合ニュース)がある一方で、左派のハンギョレ新聞は
 (以下引用)
 「今回の訪日代表団には、朴槿恵政権下で日韓慰安婦合意に達し支持した元高官や教授らも含まれており、議論が予想される」
 (以上引用)
 と懸念を表明した。
 実際、当時の与党(尹政権にとっては野党)「共に民主党」内のグループは「誤った外交シグナルを送る結果を招きかねない」と批判する声明を出している。
 慰安婦問題以外に日韓関係を悪化させた要因のひとつが、元徴用工による訴訟だ。18年に大法院(最高裁)が日本企業に賠償を命じる判決を出したため、原告が差し押さえた日本企業の資産を売却し、現金化するプロセスが進みつつある。実際に現金化されれば、日韓関係がさらに厳しい状態になるのは必至。いったん賠償金を政府側が立て替えて原告に支払い、現金化の先延ばしを図る案も浮上するが、脆弱(ぜいじゃく)な政権基盤で実現できるかは未知数だ。
 (J-CASTニュース編集部 工藤博司)」
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👪7〕─2─男女の脳の違いからくる生き方。逆転の発想で嘘くさい前向きやめれば楽に生きられる。~No.47 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 江戸っ子は前向き・プラス思考・ポジティブでもなく諦め気分で楽に生きていた。
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 日本人は、中国人や朝鮮人とは違っていた。
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 2022年5月14日・21日号 週刊現代「逆転思考のススメ」
 『頑張らなきゃ』と思うから辛い
 『成し遂げなきゃ』と焦るから鬱になる
 『嘘くさい前向き』をやめるとこんなに楽
 男性脳は縄張り争いをして成果をあげることが最重要課題。『地位を築く』ことに必死になりがちだ。
 『自分にとって意味のある人生を送らなきゃ』『居場所を見つけなきゃ』。そんな前向き思考は、本心から出ているだろうか?世間に踊らされているだけと気がつけば、生きるのはこんなに楽になる。
 『プラス思考』は損得勘定
 久々に行動制限のない大型連休だったが、外出して良いものか。モヤモヤしているうちにGWがおわってしまった・・・そんな人も多いだろう。
 コロナ禍も3年目となり、すこしずつ元の社会に戻りつつある。停滞した町の空気も動き始める中、注目されている本がある。それは『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』(アスコム)だ。著者である南直哉氏は、恐山の院代(住職代理)をつとめ、長年にわたり人々の悩みを聞いてきた。それだけでなく、自分自身も長年『人生が息苦しい』と感じてきたという。南氏が言う。
 『私は「プラス思考」という言葉が嫌いなんです。ポジティブとか前向きという考え方も苦手ですが、、今、至るところにで耳にしますよね。
 よくよく考えてみると、プラス関係の考えを規定しているのは、最終的には〝損得〟だと思います。今より少しでも多く儲けたい、もっとカネが欲しいなどという欲望がその根底にあるように思えてなりません。
 「前向きな生き方」には、人間的に成長するとか社会的に認められるということも含まれるのかもしれませんが、それらをひっくるめて全部、ものさしはカネですよ。そのような考え方だから、今の社会は他人に対して〝人材〟という言葉を使う。
 夢や希望についてもしきりに語られますが、理想のために努力しようという考えは、将来を当て込んでカネをつぎ込もう、という投資の考えと似ています。こうした自分が思い描いた夢に呪縛されて動けなくなってしまう人が、実はたくさんいるのではないでしょうか』
 人生において何かを成し遂げなければ、と思っている人は多い。出世する、名を残す。他人から『立派だ』と褒められることをやり遂げなければならない。そう考え、焦っている。
 それは本心だろうか?
 自分が心の底からそう思っているのではなく、ただ『そうあるべき』と思い込んでいる。そんな『嘘くさい前向き』思考で自分を追い詰めていないか。
 『同調圧力』の共著者で世間学の研究者、佐藤直樹氏は言う。
 『日本人の多くは生まれてからずっと「他人(ひと)様に迷惑をかけない人間になれ」と言われて育ちます。世間に迷惑をかける、それどころか白い目で見られるだけでもとても怖いことだと思い込む。
 たとえば成人の自殺理由で一番多いのはうつ病を除けば経済問題です。借金なんて、本来ならば契約違反に過ぎない。死ぬくらいなら踏み倒せばいいんですが、日本では死んでお詫びする、となってしまいます。
 世間はいくつもあり、人間は必ずどこかの世間に属している。多くのサラリーマンにとっては会社が最大の世間です。世間に同質を求めます。枠組みの中で先輩後輩、格上格下の身分や地位があり、同じ方向を目指して頑張ることで自分の存在意義を確認するのです』
 日本人は相手を判断するとき、どのような人間であるかではなく、どのような世間に属しているかといった〝身分〟で判断するという。定年後に身分を失うことを怖れ、会社の枠から逃げられない人は少なくない。定年後の男性同士が町内会などで会うと『どちらにお勤めでした?』がしばしば会話の糸口となる。たとえ退職しても、その人はまだ『○○社の元社員』という世間で生きているのだ。しかし実際の社業からはすでに切り離されているため、次第に『自分の人生はなんだったんだろう』『これから自分はどう過ごせばいいんだろう』と鬱々とする人が増えていく。
 自己責任で頭がいっぱい
 『幸せに生きられない人とは、過去と未来ばかり考えている人のことです』
 と言うのは精神科医で評論家の樺沢紫苑氏だ。
 『過去を考えている人は「なんであんなことをしてしまったんだろう」と悔やむ人。一方、未来を考える人は「これから病気になったらどうしよう、先々のお金がなくなったらどうしよう」と不安にかられる人です。
 ところが、今のあなたは実際どうなんですか?とたずねると、大多数の人がごく普通に生活している。明日をも知れない命というわけではなく、今日のご飯を食べるお金がないわけでもない。要は過去と未来に囚われているだけです。
 よく自己啓発本などにポジティブ思考を持ちましょう、人生の大きな目標を決めましょうとか書いてありますが、そんなものを決めて達成できた人なんていません。現実が伴わないことを口にしても疲れるだけです。
 心理学的に一番正解に近い考えは、ニュートラル(中道)です。物事に対して先入観を持たずに観察し、今、この瞬間を楽しむことが、幸せに暮らすコツです』
 実はそれは人間の脳の働きでも証明されている。脳を活性化し、やる気を起こすドーパミンは、遠大な目標設定に対しては働かないのだ。
 前出の南氏は『現代人は、よりよい人生を生きなければならない、と力が入りすぎている』ち語る。
 『かつて「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルの本がベストセラーになりました。
 あの本がヒットした理由は、そう言われたら、自分が苦しい立場に置かれても諦めがつくからでしょう。しかし誰かの都合で一方的に〝置かれた場所〟は、自分が選んだ場所ではありません。そんな場所で咲けなかったからといって、それはあなたのせいではないし、どうということはない。
 私はこれまで、生真面目に考えこみ、苦しい状態で助けを求める人にたびたび会ってきました。彼らはあれをやらなければいけない、これをやらなければいけない、すべては自己責任だからと頭をいっぱいにして恐山を訪ねてきます。
 しかし、そもそも人生で本当にしなければならないことなど、実はほとんどありません。生きるか死ぬか以外のことは些事ですし、自分一人で成し遂げられることなどたかがしれているのです』
 肩肘張るのはみうやめた
 知らず知らずに縛られていた前向き思考から解放され、人生が楽になったと明かすのは、哲学者の土屋賢二氏だ。
 名エッセイストであり、お茶の水女子大学の人気教授として知られた土屋氏は、同大文教育学部の学部長などを歴任し、10年に定年を迎えた。
 『僕は決してストイックな人間ではないと思うけれど、それでも教授時代の自分は、結果を残さなけねば、という張り詰めた心情でいたと思います。
 学問の場では、どんな質問をされるかわからないので、どういう場合でも対処できるようにと自室にはものすごい量の本を揃えていました。その上、仕事を終えた老後は古今東西の古典を読んで格調高く過ごそうと、ホメロス叙事詩なども買い込みました』
 だが、いざ退職して年数が経つと、現役時代に持っていた『もっと教養をつけよう』『人間的に成長しよう』という気持ちがなくなったという。
 『考えてみたら、若い頃にも似たような経験がありました。阿部次郎の「三太郎の日記」という名著があります。これを読まなきゃいっぱしの大学生じゃないとまで言われていたので僕も買ったんですが、最初の4ページで挫折したんですよ・・・。大学生になったらこういう本を読むべきだというようなことは、僕には向いていませんでした。
 今でも自室の本箱はたくさんありますが、どんどん娯楽関係の本が増えています。以前は息抜きのために置いていたんですが、息抜きのものだらけになった。人間って、どこまでも自分を甘やかすものだなぁと思います』
 土屋氏は、かつて何百枚と出していた年賀状も今では出すのをやめてしまったという。
 『そもそも年賀状を出していたのだって、哲学をやっていると偏屈だとか思われるから、一応最低限の社会人がやるようなことはやっているよ、というのを示すためだったんですよね。でも今はもう、まともな社会人として見てもらおうという気持ちがまったくなくなった。
 偏屈だとか、変わり者だとか、あいつとは話が合わないとか思われてもいいや、とだんだん思えてきました。我慢するのをやめたら楽ですよ』
 これがまさに、嘘くさい前向きをやめて楽になった例だといえる。
 人間は生きていると、いろいろなレッテルを貼られる。そのレッテルを引き剥がそうとするのをやめた、というのは落語家の林家笑丸だ。
 『落語家や芸人って、気楽に生きているように見られるんですが、そういう他人の目に対しては、次第に達観するようになりましたね。
 若い頃は、芸人は腰を低くしろという世間の期待に合わせていかなあかんのか、とへこんだこともありました。たとえば居酒屋で食事をぶちまけられて、クリーニング代を貰おうとしたら隣の客から「仕事柄そんなことしちゃあかん」と絡まれた。舞台がはねてお客様の見送りしてたら、観客のおばちゃんから「もっと謙虚になれ」と小言されたりもしました。
 今ではそうした人達を客観視するというか、むしろ芸のためにもっとヘンなこと言うてくれ変化なと思うようにしてます。そのほうが嫌なことも起きにくい気がしますし』
 男性脳は大変だ
 無用な前向き思考はどうしてこんなに息苦しいのだろうか。『前向きに生きてるなんてばかばかしい』の著者で脳科学者の黒川伊保子氏が言う。
 『私が言いたいのは、前向きに生きなくてもいい、ということではありません。人間の脳は百人百様なのに、自己啓発本などでは百人一様の理想形として判を押したように「前向きに生きる」ことを推奨されている。そのことに違和感を覚えているんです。
 時には自分に合わない方向に走り出してしまう無駄な前向きもあるのではないか。それが息苦しさを生んでいる可能性があると思います』
 脳には右脳と左脳をつなぐ脳漿(のうしょう)という神経線維の束がある。他人のことを気にしている時には、この脳漿に大量の電気信号が流れて、周囲の人々の微細な変化に気づきやすくなるという。これが、いわゆる〝空気を読んでいる〟状態だ。
 脳漿には性差があり、男性の脳漿は女性に比べて細い。つまり、もともと男性には女性に比べて空気を読む力は低い。男性のほうがより嘘くさい前向きに支配されがちになるため要注意なのだ。
 黒川氏が説明を続ける。
 『他にも男女の脳には違いがあります。
 女性は、自分がいい思いをするということへの好奇心が死ぬまで消えません。美味しいものを食べたり、温泉に行って心地よくなったり、あるいはおしゃべりをすることに貪欲です。これは女性が子供を体内で育てて産むため〝自分を養う〟という本能に基づいている。
 一方の男性は縄張り争いや狩りをして集団が成果をあげることが至上命題なんですね。自分がたとえ傷ついたりひもじい思いをしても、戦いに勝ったほうが脳が気持ちよくなる。人生に目標を持つという回路は、男性脳の典型的な考えで、男性は外の世界から何か任命されることに生きがいを見出す。男性のほうが大変なんです』
 頑張らなきゃ、と力まなくても人生は十分楽しい、逆転思考で今日か気楽に生きてみよう。」
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「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本
「悟り」は開けない (ベスト新書)
なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)
恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)
覚悟の決め方 (SPA!BOOKS)
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 何故、昔が夢と希望に満ちて明るかったのかといえば若者が多く老人が少ない人口爆発期であったからであり、未来が夢も希望もなく暗いのかといえば老人が多く若者が少ない人口激減期が確実に訪れるからである。
 今はまだいいが、30年後、50年後の日本は確実に多死少生時代に突入する。
 つまり、総人口9,000万人といった統計数が同じでも、昔の人生50年時代と未来の人生100年時代では年齢構成が全然違うのである。
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 現代の日本人の愚かさは、自分達が武士でもなければ武士の子孫でもないくせに、武士道・士道を持った理想的な武士だと思い込んでいる事である。
 武士道・武士道精神を崇高な精神であると信仰の対象まで昇華して盲従する偏執狂信徒になり下がり、その実、精神的に堕落している事に気付かず喜んでいる事である。
 つまり、現代の日本人は武士道・武士道精神が論語・仏教・神道同様に理解できない。
 馬子(まご)にも衣装で、武士でもないのに武士道を信仰して武士に成った気になっている。
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 江戸っ子は、落語に出てくる熊さん・寅さん・八っさん、粗忽者、おっちょこちょい、おらがかかあ、御隠居、お侍さん、もの知る先生、その他、多くの市井の人々であった。
 市井の人々の生き方は、三十六計逃げるに如(し)かず、つまり「逃げるが勝ち」であった。
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 ブラック社会の江戸時代での生き方とは、ものぐさ、ぐうたら、今だけが良ければ明日など如何でもいいという生き様であった。
 その日暮らしの江戸っ子は、「宵越しの銭を持たない」を信条として、動けるうちは、働けるうちは一生涯現役と粋がって死ぬまで仕事を続けた。
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 隠居・引退を考えて実行していたのは、嫉妬、恨みや妬みが渦巻き、陰湿・陰険なイジメや嫌がらせ足の引っ張り合いが日常的に存在していたブラックな城勤めである武家社会だけであった。
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 江戸時代、結婚できる男性は少なく働いた金で女郎通いを続け、最後は一人孤独に死に、死後は赤の他人によって無縁仏として墓地に埋められ墓もなく葬られ、そして過去帳の記録には残ったが知り合いの記憶から消えていった。
 「そんな馬鹿な人間がいたっけ」として、生きたいたこと自体が忘れ去られた。
 現実社会では、「人の記憶に残る」はありえず、「記憶から消される」が正しかった。
 江戸社会とは忘却であり、江戸時代人とは「去る者は日々に疎(うと)し」であった。
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 江戸っ子は、現代風のくだらない前向きなプラス思考を持たず、現代の日本人とは真逆な事を考え正反対の生き方を続けていた。
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 江戸っ子にとってブラックなこの世とは、苦しみや辛さが多いばかりで「何の生きる楽しみがあるものか」であった。
 それでも、徳川幕藩体制の江戸時代は国内外での戦争やクーデター・内乱・内戦がなくダラダラと260年間も続いた。
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