50─コメント・No.2 No.272                

旧題名・「ユダヤ民族と日本民族は同族か? 天皇の祖先はユダヤ人か?」
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 2014年8月12日
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(財)飛騨福来心理学研究所の故山本健造博士の著書「明らかにされた神武以前」より抜粋いたします。
【飛騨の先祖が日本の体計を立つ】 天孫を各地に降臨させる
・・・若田老翁の話はやっとこの間にあったかの如く現実味のあるものでした。それによると乗鞍のふもとに出られた大淡上方様オオアワノウワカタサマは、大変な遠方でも見通して確実に当たる人であり、将来に備えて飛騨に組織網を作り、我が子を飛騨の要所に配置され、連絡を密にして団結し外敵に備えられたのです。あの頃、飛騨は豊で平和で、自分の家族はごく幸せな生活ができたと思われますが、大淡上方様の卓越した識見の薫陶を受けた子や孫が、日本各地へ降りて行って、後々数百年に渡ってその志を固く守り、飛騨の総本家の皇統系に忠誠を尽くしたと思われます。
 長男の直系の山麓住日高日抱奇力命(ヤマノフモトスミヒダカヒダキクシキチカラノミコト)や次男の山下住水分奇力命(ヤマノシタスミミクマリクシキチカラノミコト)は飛騨の要所を固め、末っ子の直系命が直系を継がれたのです。
 この直系の15代目に淡上方様アワノウワカタサマが出られ、偉大な人格者であり予言者であったのです。
 「このまま飛騨にのんびりこもっていては、外国の者が大勢来て危ない時が来る。海辺を見張らせて舟を造れ」と命令されて、若狭湾、琵琶湖、庄川神通川の河口付近、新潟、東京湾、秋田、山形、瀬戸内、近畿、伊勢湾などに分家の者を配置して、万が一の時は直ちに連絡するように備えられたのです。
 その内の一人が山本高山土公命で、大勢の一族を連れて伊勢の鈴鹿の海岸に住み着いたのです。山本一族は分かれて今の琵琶湖の山本山の麓に住み、その分かれが若狭湾の山本に行き織田の地に住んだのです。
 山本一族と共に山下住一族が鈴鹿に下り、後にこれが命により二つに分かれて一団は東の方に行き、伊豆と横浜方面へ、他の一団は海路、瀬戸内海の大三島へ行ったのです。後には舟は改良されて立派になるのですが、あの当時は命からがら行かれたと思います。その大三島へ行った山下住一族が大山祇神社に祀られるようになり、伊豆へ行ったのがやはり大山祇命となり、後世伊豆の三島に祀られたと飛騨の若田老翁は語られたのです。
 日本海側は大陸に近く、庄川神通川河口、若狭、石川県鶴来、新潟、琵琶湖、美濃の飛騨への入口は特に固められたと思います。
淡上方様の未来を見通す慧眼が奇しくも20代後、一代を10年とすれば(当時は生存中譲位とみられる)約200年後の天孫降臨に際して、猿田彦命大山祇命の力なくしては遂行され得ぬほどの大きな力となって総本家の皇統系を助けることになるのです。
我々祖国を愛する者として、淡上方様の偉大なる慧眼に心から深く敬意を捧げるものです。
同時にたまたま鈴鹿大三島は場所柄功を挙げられましたが、淡上方様の命令に従って各地を護られた一族が長きに渡って総本家に忠誠を捧げられたことには変わりなく、この尊い魂が日本人の深層に流れて今日の日本を作ってきたことを深く感謝し、後々の世までしっかり伝えなくてはなりません。
 山本住日高日抱奇力命及び山下住水分奇力命の御二方が下界に降りられてから約200年後、天照大神の子や孫に当たる方々が大勢の人を連れて、皇孫邇邇芸命が皇統系の位を授けられて九州方面に降臨されるよりも早く、饒速日命がたは下界に降りられたのです。
これは、邇邇芸命が九州方面を平定されたら大和地方に高天原を遷すことに、天の安川原の大会議で決定されていたからです。その為には、近畿一帯を開拓して子孫を増やし、反抗する人々のないように平定しておく必要があったからです。 
 それで邇邇芸命が九州高千穂に向かって出発される時、その兄の饒速日命邇邇芸命と全く同じ十種の神器を授けられたのです。これは身の証明書に当たるものです。全国共通の文字のない頃は大切な証明書だったのです。
饒速日命邇邇芸命の九州行に先立って、河内の川上の哮峯(たけるがみね)のふもとに行かれたのです。その辺りは饒速日命の叔父の天津日子根命やその子の凡河内命(おおこうちみこと=天照大神の孫)が先に開拓しておられたのです。凡河内命は大河内命ともいい、その子孫は各地に土地を開拓されて至る所に、河内、大河内の地名が残っていますが、国譲り事件とか戦など一度も起こしたことがなく、分家は本家に従い常に和で結ばれていたのです。偉大な業績を残しながら事件を起こす事もなく目立たない為、出雲の神みたいにして派手に祀られていないのです。大河内命の弟たちが多数あって額田命は河内の大和へ、茨木命は今の大阪の茨木へ、田中直命は大和の田中郷へ、山代命は山城国へ、馬来田命は上総国の望陀郡へ、道尻岐閉命は磐城国楢葉郡へ、周防命は周防へ、淹知命大和の山辺郡庵知へ、高市命は奈良の高市県へ、蒲生稲寸命は近江の蒲生郡へ、三枝部命は三枝へと父の天津日子根命の命令により、それぞれの土地に赴いて土地を開拓しておいでにになるのに神社のない方があり、現在は出雲の神よりその処遇が極めて貧弱であり、その功績は埋もれてしまっている。
このように、日本人が初めて発生したのは飛騨であり、そこから日本が始まりました。日本皇統とは即ち、飛騨皇統が始まりなのです。
詳しくは山本健造著「日本起源の謎を解く」「明らかにされた神武以前」等に「飛騨の口碑」の内容が詳しく書かれています。
・・・
  Misaki-1167Misaki-1167
今から2400年程前頃でしょうか、日本海の海辺に外国の人が流れ着くようになった。優しくおとなしい日本人から略奪や殺人、更に人を喰ったりした。
その情報が入った飛騨王朝では、それまでどこが本家か分家か分からないままただ仲良く暮らしていたが、本家と分家という組織を考え本家を中心にした国造りを始めた。子供達を飛騨の要所に派遣して護らせ末っ子を後継者にした。これが飛騨王朝の国作りの始めだ。この仕組みを考えて国造りを始めたお方を後に大淡上方様とお呼びした。
更に15代目の上方様に傑物が出て、飛騨政府は一族の人々を日本海と太平洋海岸に派遣して海端を護らせ連絡網を作って固めて行った。この15代目は後に淡上方様と呼ばれた。
それから時が流れて飛騨王朝35代目のスメラ命(上方様がスメラ命となり後に天皇となる)はヒルメムチ命だった。この方が天照大神である。
ヒルメムチの時代になると国内には30程の国らしきものが出来ていたが、中でも飛騨王朝と出雲国が2大国であり、中でも飛騨王朝はダントツに大きな国だった。飛騨では大淡上方様の時3人の兄弟が本家、分家として飛騨皇統系(後の大和国皇統=日本皇統・天皇皇室)の基となった。皇統系は長男の直系命が継いだ。淡上方様は15代目であり天照大神は35代目である。天照大神の父伊邪那岐命も子の直系命の系列である。他の二つの分家は一つは山下住水分命といい伊予大三島大山祇命らが子孫である。
もう一つは山ノフモト住命でありしそんには18代猿田彦命らが出た。
出雲国は山下住水分命の子孫が(伊予大三島大山祇命の先祖が開拓した土地)開拓した土地である。元々飛騨領であった。
ヒルメムチの時代、九州には塩土翁が薩摩笠沙岬に本拠地を置き、九州山間部に火遠族、大隅半島辺りに火照族が渡来し、九州は不安定で民が困窮した。
そこでヒルメムチは高御産巣日神(?癲木命)と夫の思兼命(神産巣日神)と共に高天原の安川原で飛騨の民を皆集めて会議を繰り返した。
会議で決定されたことは、?国を一つにまとめる。?九州平定を急ぐ。?飛騨から奈良大和に遷都する。という三つだった。
 出雲は元々飛騨のご先祖が全国に展開し開拓された土地だったが、2大国同士で政略結婚の縁組によって和睦し国を一つにまとめる誓約が出来ていた。そして、天照大神の母親の伊邪那美命は出雲から飛騨の伊邪那岐命に嫁ぎ、天照大神と素戔嗚の姉弟が生まれた。素戔嗚は出雲に婿入りし、天照大神の息子熊野久須毘命も婿に行った。しかし、何者かに殺されてしまう。三人の娘の長女多紀理姫は素戔嗚の息子の大国主に嫁いだが、大国主は下照姫、阿遅志貴高日子命が生まれたのに、腹違いの妹須勢理姫と恋仲になり素戔嗚の諭も聞かず逃げてしまった。多紀理姫は二人の子わ侍女に預け飛騨に逃げ戻ってしまった。そして天照大神のご命令で妹二人と共に九州の外国部族の偵察と外交に発たれた。
 途中省くが、大国主は飛騨王朝への背信行為で幽閉所に子の大国主と共に幽閉された。事代主は大国主とは別の所で幽閉された。
しかし、これが後に大事となって跳ね返ってきた。
大国主新羅に11年間も行き、新羅娘達に181人もの新羅の子を孕ませていたのだ。その子達が出雲に来て最初は統治していた飛騨の天菩日命に従っていたが、大国主の葬儀の後、菩日命を殺害した。そして後に出雲新羅神を全国の神社の祭神とすり替え、盗んで出雲新羅教という新興宗教で全国を侵略した。そして後に蘇我氏が子孫から出て、用明天皇・皇后、大臣、聖徳太子らが全て新羅人ということになり、天皇皇位のしるしの天照大神の「八咫鏡」を盗まんと暗躍するのである。
飛騨の天照大神大和朝廷の打倒が少彦名ら新羅勢の究極の目的となり、日本の古代神道偶像崇拝ではなく、先祖や自然に感謝しご先祖を祀るという氏神信仰が、出雲新羅神崇拝教により汚染されて行くのである。
日本人の神道・信仰は飛騨のスメラ命を尊ぶことにある。それが出雲教でゆがめられたのだ。今や全国の神社の殆どが出雲の祭神ですり替えられている。
大己貴神、少彦名=イソタケル、五十猛、大歳神、大物神、大山咋、豊受大神などは全て出雲新羅神である。
このように世間一般に認知されるお国譲りは実は飛騨への返還・奉還であり、それを恨んだ新羅人の少彦名=イソタケルらの天照大神や飛騨大和朝廷への復讐の歴史である。

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今から2400年程前頃でしょうか、日本海の海辺に外国の人が流れ着くようになった。優しくおとなしい日本人から略奪や殺人、更に人を喰ったりした。
その情報が入った飛騨王朝では、それまでどこが本家か分家か分からないままただ仲良く暮らしていたが、本家と分家という組織を考え本家を中心にした国造りを始めた。子供達を飛騨の要所に派遣して護らせ末っ子を後継者にした。これが飛騨王朝の国作りの始めだ。この仕組みを考えて国造りを始めたお方を後に大淡上方様とお呼びした。
更に15代目の上方様に傑物が出て、飛騨政府は一族の人々を日本海と太平洋海岸に派遣して海端を護らせ連絡網を作って固めて行った。この15代目は後に淡上方様と呼ばれた。
それから時が流れて飛騨王朝35代目のスメラ命(上方様がスメラ命となり後に天皇となる)はヒルメムチ命だった。この方が天照大神である。
ヒルメムチの時代になると国内には30程の国らしきものが出来ていたが、中でも飛騨王朝と出雲国が2大国であり、中でも飛騨王朝はダントツに大きな国だった。飛騨では大淡上方様の時3人の兄弟が本家、分家として飛騨皇統系(後の大和国皇統=日本皇統・天皇皇室)の基となった。皇統系は長男の直系命が継いだ。淡上方様は15代目であり天照大神は35代目である。天照大神の父伊邪那岐命も子の直系命の系列である。他の二つの分家は一つは山下住水分命といい伊予大三島大山祇命らが子孫である。
もう一つは山ノフモト住命でありしそんには18代猿田彦命らが出た。
出雲国は山下住水分命の子孫が(伊予大三島大山祇命の先祖が開拓した土地)開拓した土地である。元々飛騨領であった。
ヒルメムチの時代、九州には塩土翁が薩摩笠沙岬に本拠地を置き、九州山間部に火遠族、大隅半島辺りに火照族が渡来し、九州は不安定で民が困窮した。
そこでヒルメムチは高御産巣日神(?癲木命)と夫の思兼命(神産巣日神)と共に高天原の安川原で飛騨の民を皆集めて会議を繰り返した。
会議で決定されたことは、?国を一つにまとめる。?九州平定を急ぐ。?飛騨から奈良大和に遷都する。という三つだった。
 出雲は元々飛騨のご先祖が全国に展開し開拓された土地だったが、2大国同士で政略結婚の縁組によって和睦し国を一つにまとめる誓約が出来ていた。そして、天照大神の母親の伊邪那美命は出雲から飛騨の伊邪那岐命に嫁ぎ、天照大神と素戔嗚の姉弟が生まれた。素戔嗚は出雲に婿入りし、天照大神の息子熊野久須毘命も婿に行った。しかし、何者かに殺されてしまう。三人の娘の長女多紀理姫は素戔嗚の息子の大国主に嫁いだが、大国主は下照姫、阿遅志貴高日子命が生まれたのに、腹違いの妹須勢理姫と恋仲になり素戔嗚の諭も聞かず逃げてしまった。多紀理姫は二人の子わ侍女に預け飛騨に逃げ戻ってしまった。そして天照大神のご命令で妹二人と共に九州の外国部族の偵察と外交に発たれた。
 途中省くが、大国主は飛騨王朝への背信行為で幽閉所に子の大国主と共に幽閉された。事代主は大国主とは別の所で幽閉された。
しかし、これが後に大事となって跳ね返ってきた。
大国主新羅に11年間も行き、新羅娘達に181人もの新羅の子を孕ませていたのだ。その子達が出雲に来て最初は統治していた飛騨の天菩日命に従っていたが、大国主の葬儀の後、菩日命を殺害した。そして後に出雲新羅神を全国の神社の祭神とすり替え、盗んで出雲新羅教という新興宗教で全国を侵略した。そして後に蘇我氏が子孫から出て、用明天皇・皇后、大臣、聖徳太子らが全て新羅人ということになり、天皇皇位のしるしの天照大神の「八咫鏡」を盗まんと暗躍するのである。
飛騨の天照大神大和朝廷の打倒が少彦名ら新羅勢の究極の目的となり、日本の古代神道偶像崇拝ではなく、先祖や自然に感謝しご先祖を祀るという氏神信仰が、出雲新羅神崇拝教により汚染されて行くのである。
日本人の神道・信仰は飛騨のスメラ命を尊ぶことにある。それが出雲教でゆがめられたのだ。今や全国の神社の殆どが出雲の祭神ですり替えられている。
大己貴神、少彦名=イソタケル、五十猛、大歳神、大物神、大山咋、豊受大神などは全て出雲新羅神である。
このように世間一般に認知されるお国譲りは実は飛騨への返還・奉還であり、それを恨んだ新羅人の少彦名=イソタケルらの天照大神や飛騨大和朝廷への復讐の歴史である。

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