🌋8〕─1─西日本に残る南方系海洋民の足跡。オルドス式銅剣。(4世紀末~6世紀)。~No.23No.24No.25 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 オルドス式銅剣などの黄河文明は、朝鮮半島経由ではなく日本海ルートなどから日本に伝来した。
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 2016年11月9日 読売新聞「相島(あいのしま)積石塚(つみいしづか)群 福岡県新宮町
 海の民の古墳 浜に254基
 福岡県新宮町沖8キロに浮かぶ相島。その東、約500メートル続く長井浜を訪れると、こぶし大から人頭大の玄武岩の礫(れき)が累々と重なっている。
 1994年以降の調査で、おびただしい数の箱式石棺や石室が確認され、古墳時代(4世紀末〜6世紀)に営まれた、西日本で最大規模の積石塚(石で造られた古墳)群であることがわかった。総数は254基に達し、うち最大の120号墳は全長210メートルの前方後方墳だ。
 墳丘に土でなく石を用いる積石塚は、東日本では副葬品から渡来人の墓と考えられるものが多いが、相島では朝鮮半島系の遺物はほとんど見られない。この浜を墓地に選んだ結果、高潮でも崩れにくい浜の礫を自然に用いたらしい。
 町教育委員会の西田大輔学芸員は、島の玄武岩が九州本土の古墳の石材にも利用されていることを指摘。
 『被葬者はこれらの石材運搬にも携わった、航海術にたけた海人(かいじん)集団では』とみている。
 古代の玄海灘では安曇(あずみ)、宗像(むなかた)といった海の民が活躍していた。潮風を真向かいに受ける立地は、彼らの眠る地としていかにもふさわしい。 (西部生活文化部 池田和正)
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 新宮港から相島港まで町営渡船で17分、相島港から徒歩25分」
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 上御殿遺跡発掘調査現地説明会資料 
 平成25(2013) 年8月11日 ( 日 ) /公益財団法人滋賀県文化財保護協会
 調査の概要
 公益財団法人滋賀県文化財保護協会では、滋賀県教育委員会滋賀県高島土木事務所からの 依頼により鴨川広域基幹河川改修事業(青井川) に伴い平成20年度より、高島市の天神畑遺跡(鴨地先)と上御殿遺跡(三尾里地先)の発掘調査を行っています。
 平成25年度の調査は、4月から実施しており、これまでに縄文時代中期末から後期初めの小穴・ 土坑、古墳時代前期から平安時代の川跡や平安時代の護岸工事の跡、奈良から平安時代の掘立 柱建物などを確認することができました。
 なかでも、建物跡がある場所から川跡などが ある低地に向けて低くなる傾斜地に国内初となる「双環柄頭短剣」の鋳型が出土するなど貴重 な成果が得られました。 
 双環柄頭短剣鋳型(そうかんつかがしらたんけんいがた)
 今回の調査で出土した鋳型は、国内だけではなく朝鮮半島でも見つかっていない春秋戦国時代(BC770 〜221)の中国北方地域(中国河北省北部、北京北部、内蒙古中南部)のオルドス式銅剣と関係のあると考え られる双環柄頭短剣の鋳型で2個1組出土しました。鋳型は、単独で剣の彫り込みがある面を合わせて、低 地(川?)の岸に置かれた状態で出土しました。古墳時代前期以降この川で行われる水辺の祭りの初現的なものだったかもしれません。
 鋳型は使用されていません。その理由は明らかでは ありませんが、上下の鋳型に彫り込まれた柄の長さに長短がある点などから未完成か失敗品の可能性もあります。鋳型として完成品だとすれば、なぜ鋳込まなかったのかナゾが残ります。この鋳型の時代は、周辺の遺構の状況や鋳型に彫られた剣の文様等から弥生時代から古墳時代前期と考えられます。
 鋳型から復元される短剣
 この鋳型から復元される短剣の特徴は、柄頭に二つの環(わ)、柄と剣身を一回で鋳造(一鋳)している点です。九州を中心とする弥生時代の銅剣は柄と剣身を 別に作っています(別鋳)。また、弥生時代の銅剣には 樋(ひ)と呼ばれる血流しの溝がありますが、上御殿遺 跡で復元される短剣には樋はなく、国内や朝鮮半島の銅 剣より、むしろ下図にある中国北方のオルドス式銅剣との類似性が認められます。
 しかし、柄の文様や柄頭の形状、鍔(つば)の有無など違いも多く、オルドス式銅剣をモデルととして国内で 作られたものと考えられます。
 今回の新発見によって、朝鮮半島から九州地方に伝わった銅剣文化とは違う系統の文化が日本列島にも伝わっていた可能性が強くなりました。こうした文化は日本海 を通じて、九州地方を経由せず伝わったものか、今後の 新たな類例の発見で明らかになると考えられます。
 平成24年度調査の成果から
 平成24年度の調査では、古墳時代前期から平安時代 にかけての川跡(その当時の青井川)がみつかり、多くの水辺の祭りに関する遺物が出土しました。その中で、奈良時代から平安時代にかけての木製人形代が51点、木製馬形代が23点出土しました。人形代は県内2番目の出土数で、馬形代は県内で最も多く出土しています。
 人形代は、現在、神社で行われている紙製の人形に息を3回吹きかけて悪気や汚れを人形に移し、清らかな水 に流す大祓と同じような使い方をされたと考えられます。
 上御殿遺跡は平安時代まで連綿と昔の青井川で、祭祀 を行っていたことがわかります。また、「守君舩人(もりのきみのふなひと)」と7列に縦書きされた国内では例のない墨書人名土器や今回の鋳型など全国的にも類例のないものが多く出土など、東西南北の文化の要衝として古くから重要な地域であったことを出土遺物が語っています。」
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 2017年5月18日 産経ニュース「淡路島で中国の貨泉3枚が出土 弥生時代、交易で渡来か
 入田稲荷前遺跡で出土した貨泉=18日、兵庫県南あわじ市
 兵庫県南あわじ市(淡路島)にある入田稲荷前遺跡から、中国で紀元14〜40年に鋳造され、弥生時代にもたらされた青銅製の貨幣「貨泉」3枚が出土し、同市教育委員会が18日発表した。市教委によると、貨泉は今回を含め国内で179枚見つかっているが、複数枚が重なった状態で発見されるのは珍しいという。市教委の担当者は「古代中国の貨幣が伝わったのは、弥生時代後期に淡路島が海上交易の要衝だったことを示す貴重な史料」と話した。
 貨泉は中国・新時代(8〜23年)の貨幣で、その後の後漢時代の40年まで鋳造されていた。3枚は、直径2.27〜2.32センチ、重さは1.45〜2.53グラム。大きさや重さから、後漢初頭に造られた可能性が高いと判断した。
 中央に四角の穴が開いており、3枚が重なった状態で見つかったことから、ひもを通して束ねる「さし銭」の状態だった可能性もあるという。弥生時代貨幣経済があったとは考えられておらず、交易品や、権威を示す威信財、青銅器の材料などとして持ち込まれたと考えられている。
 入田稲荷前遺跡がある地区の農地整備事業に伴う調査で、昨年12月に出土した。奈良から鎌倉時代にかけての遺物を含む層から見つかっているが、3枚がまとまって出土したことから、市教委は弥生時代後期の遺構から流入したとみている。
 調査を担当した市教委埋蔵文化財調査事務所の的崎薫さんは「貨泉は弥生時代の流通を考える上で貴重な史料。北部九州から瀬戸内海を通り、畿内への玄関口となる淡路島の重要性を後押しする」と述べた。
 この数年、淡路島は、南あわじ市弥生時代の青銅器・銅鐸が7個見つかったほか、淡路市の舟木遺跡で弥生時代の大規模鉄器工房も確認されるなど、重要な発掘が相次いでいる。
 貨泉3枚は5月20日から、南あわじ市滝川記念美術館玉青館で公開される。」
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