🎍27〕─2─大伴家持『萬葉集』。「君が代」と大君の思想。保田與重郎。小川榮太郎。~No.84No.85No.86 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2016年10月号 Voice「保田與重郎萬葉集 上
 歌で紡がれる日本の歴史、皇室の純粋性   小川榮太郎
 一文学者の立ち得る唯一の合理
 …………
 『僕が保田君に質したいといふのは、戦時中の君の著作が、どのように異様な骸骨の踊りを踊つたかについて、君の眼がどのように明晰でありえたかといふことであ。宣長神道 、あるいは中世の隠遁詩人の構想した美的生活は、君は現代を弾劾しつつ、くりかへし説いたところだが、およそ隠遁詩人とは逆の人生にあやつられて行く自己について、異様に感じたに違ひない』
 長の文学上の同志であつた亀井勝一郎による『保田』といふエッセイの一節である。昭和25年の文章だ。亀井は要するにかう言つている。保田は、文章の上では、しばしば、神ながらの道、隠遁詩人を語つて 戦時中の時流を糾弾したが、事実としては、その文章の激越な陶酔調によつて、無数の若者を戦死に追いやつたのではないか。保田が実際に演じた時代的な役回りは、結局自分の意図如何を越えて時局に振り付けられた『異様な骸骨の踊り』だった、ならばそれは事実上軍国主義の鼓吹ではなかつたのか、その反省は如何。亀井はさう問うたのである。
 実際の保田は、戦時中、時局に対して例へばどんな事を書いていたのか。

 (江戸の国学者は)今日の時局日本主義派の如くに、萬葉集の中から国家精神を讃へる美辞を只抽象化するといつたようなことを決してしていない。
   保田與重郎全集15巻『萬葉集の精神』220頁
 今日の時局的短歌といふものも最も類型の低俗的なものである。昭和16年現在、この皇国未曾有の日に、皇国文芸の本体は、国家の公的文化面より後退した。
   同420頁

 言ふまでもなく、時局的短歌を戦意高揚に利用しようとしたのは時の日本政府であり、軍官僚である。保田のこの一文は、そうした軍による文化政策を一刀両断し、根底から侮蔑するものだ。戦後になって声高に軍部批判を始めた多くの隠れ共産主義者戦後民主主義者の誰か一人でも、昭和17年にかうした文章を公表した人間がいたであろうか。
 では、保田の何が『異様な骸骨の踊り』だったのか。
  今や皇国の戦ひは、人為人工の努力に200年かけてきたものの最高力と戦つているのである。かりそめの精神主義が、日夜に没落し去るのは当然である。されば相手は10日や1年で養つ感情や思想で、破りうる如き敵ではない。……
 ここに我国の若者は、……戦争といふ事態の中に道を求め、真日本人として、忠良の臣民となつて参りますと云うて、召されて出てゆくのである。これが大君のみこと畏み、大君の辺にこそ死なんとの国ぶりの志である。……

 この心の向かつて、人為人工の戦争経営論のみ説かれることは、悲しく寂しく空しい限りである。我らは時務論を云はず、草莽の衷情を訴へ禱(いの)つているのである。
   全集19巻530頁『文学的時務論』

 戦時中に無数に書かれた文章が戦後、戦争賛美に一括されたのは言ふを俟(ま)つまい。が、これは時局に合せて踊られた『異様な骸骨の踊り』だつたろうか。
 近代戦としての彼我の圧倒的な実力差は当然保田においてよく自覚されてゐ、その上、かりそめの精神主義を絶叫しての戦意高揚などに全く同調する気もないとすれば、戦(いくさ)が始まつた事をまづ神意と見た上で、日本の禱(いの)りを行くしかない、これは狂信ではなく、あの時代に一文学者の立ち得る唯一の合理だつたとさへ言へるであろう。その意味で、これは寧(むし)ろ、時局を批判しながら、大東亜戦争の精神を救ふ立場だといふべきではないか。

 大伴家持の思想
 保田は、近代西欧文明そのものを文明として低級視し、全面否定してきた人だ。文藝において近代西欧の攘夷を主張してきた。文藝上のガンディー主義者と言つてもいい。だからこそ保田は、現実の対欧米戦争に相会した時、そこに攘夷の神意を見たのである。その意味で保田は、彼が『日本』の本質として語ってきた、日本武尊大伴家持和泉式部木曽義仲ら『偉大なる敗北』の系譜の最大の民族的事件を大東亜戦争に見ながら、戦争遂行の過程で、自らの思想の表現といふ形で戦争に積極的に参加したと言ふべきだろう。
 それは情勢論的な戦意高揚とは違ふ。戦争指導者ではなく、一兵卒の覚悟に照応する。だからこそ『大君の辺にこそ死なん』といふ筆が、即座にそのまま苛烈な時局便乗主義批判にもなる。時局の側から寧ろ面倒な人間だつた筈(はず)である。
 実際、昭和20年3月、35歳の保田は召集されている。保田は肺炎に罹患(りかん)したまま、北九州の港から朝鮮半島を経由して北支に派遣されたのである。この暫(しばら)く前から、自宅が憲兵の監視下にあったといふ。保田の文化政策批判に対する、当局者一部の報復であろう。
 ところが戻って来た保田を待ち受けていたのは公職追放のみならず、文壇からの追放だつた。冒頭紹介した亀井による批判は、その一例に過ぎない。
 保田はそれに対してどう処したか。
 亀井の批判に対して、保田は『亀井勝一郎に答へる』を書いて応じた。その全文は旧友へ温和に語られた文明論と言つていいものだが、中に『戦争中の自己を「弁解」するといふ気持ちが大きいといふ事、これが小生には最も情けなく思はれる』と言ひつつ、次のやうに激烈な文章が出てくる事は、注目されていい。

 『仮定とし云ふことだが、小生が一日本人であるといふ理由で、無実にもかかわず、日本人の誰かが犯した罪を負わせられ、見せしめのために、十字架上に磔(はりつけ)せられる。世界の人々は、人類の名によつて、十字架上の小生を完全に罵り憎む、小生は戦争に行つた日と同じ気持で、海ゆかばを歌ひ、朝戸出の挨拶を残して、死す。』
 全集24巻419頁『亀井勝一郎に答へる』

 言ふまでもなく、昭和24年は占領検閲下である。又、戦前の日本は全否定され、連合軍の正義と日本軍国主義の悪は戦後の言論空間における新たで絶対的なテーゼだつた。その時に、『小生は戦争に行つた日と同じ気持ちで、海ゆかばを歌ひ、朝戸出の挨拶を残して、死す』と書くのは、戦時中に時局的短歌を『昭和16年現在、この皇国未曾有の日に、皇国文芸の本体は、国家の公的文化面より後退した』と書くのと同じ位勇気のいる行為だつたのは間違ひない。戦後かういふことを明確に、それもここまで激しい言葉で堂々と言ひ放つた文学者は、川端康成小林秀雄を含め、残念ながら他に一人もいないのである。昭和初期に知識人の主流をなしていたマルクス主義者の多くは、昭和10年代には国家主義者になり、大東亜戦争期には聖戦貫徹を怒号し、戦後には掌(てのひら)を返したやうに軍部を非難する戦後民主主義者に生まれはつていた。
 が、この保田の言葉で重要なのは、これが単に反時代的な啖呵(たんか)ではない点である。
 『海ゆかば』は軍歌だが、保田がこの歌をあへて挙げた時、その意味は単に軍歌を歌ひながら死地に赴くといふ意味ではなかつた筈だからである。『海ゆかば』はいふまでもなく、大伴家持長歌の一節にメロディーを付けたものだ。

 『海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 省はせじ』

 保田はここで、軍歌を引いたのではない、大伴家持の思想を引いたのである。家持の『大君の辺にこそ死なめ』といふ思想を引いたのである。
 なぜそう言へるのか。
 保田こそは、萬葉集の頂点を柿本人麻呂と見る正岡子規以後アララギに至る萬葉理解に対して、萬葉集の核心を大伴家持の側に見、家持の『大君の思想』を、標語としてでなく思想として発見した人だつたからである。そして、彼が、萬葉集に家持の『大君の思想』を発見したのは、まさに支那事変から大東亜戦争にかけての『皇国の未曾有』の危機においてであつた。
 だから、保田が、戦後になつてあへて『海ゆかばを歌ひ、朝戸出の挨拶を残して、死す』と書いたのは、日本の危機の中で自らが発見した『大君の思想』に、戦後にこそなほ自分は殉じるのだといふ意味であつて、例へば小林秀雄が戦後の座談会で『僕は馬鹿だから反省なぞしない』と言つたといふ話とは全く違ふ。小林の場合は、歴史といふ巨大な現象にどう処するかといふ処世術を語つている。小林の戦中の沈黙も、戦後に戦争批判に便乗しなかった事も、モラリッシュに潔癖な、しかしあくまでも処世の術である。が、保田はここで、自分が発見した思想、戦後徹底的に傷つき、否定された思想を、今こそ改めて守るのだと言つているのである。この違ひは大きい。

 歴史的に孤立した文献
 保田與重郎は昭和17年、大東亜戦争直後に刊行された大著『萬葉集の精神』の中で、次のやうに書いている。

 古典復興の肝要の眼目は、アララギ風な文藝学的美学を排し、国文学者的な文藝学を排し、さらに今日の古典を利用する日本主義的論理を、これも又文明開化の一遺物として批判するところに発生するのである。
    全集62頁

 保田は当時の──そして今もなほ継続する──萬葉集理解を全面的に否定している。
 その批判の核心は近代文藝学やアララギが、萬葉集によつて『国の心の1つに凝り固まらうとするものを、人の個人個人に分たうとした』(26頁)点にあつた。
 『国の心の1つに凝り固まろうとする』、それが『大君の思想』であり、萬葉集は全体として、さうした国の心の1つを全体として表現している。それを一人一人の歌に分解して、個性的な才人らによる優れた歌が沢山採録されていると見ては駄目だといふ。これは、大東亜戦争の英霊の遺文から連想すれば容易に分かる事だろう。そこでは国の危機に際して、『国の心の1つに凝り固まろうとするもの』が、あらゆる若者や残された家族らによつて一丸の言葉となつて、個人の表出意図などといふものを全く超えた感銘を我々に与へる。個々の歌人を尊び、味はふのが悪い筈はないが、萬葉集を本当に理解するには、まづそれと同質の『国の心』が実在する、そちらの方を丸ごと受け入れてからでなければ本当に読めた事にはならない、いはば保田はさう言つているのである。」
 言ふまでもなくアララギ萬葉集理解は、戦後の主流となり、近年の中西進氏に集大成されるような、ヒューマニズム乃至(ないし)は大河ドラマ風の萬葉理解に至つている。萬葉人も現代人も同じ人間だとして、現代のヒューマニズム萬葉集の側を引き寄せる読み方である。
 保田は、そのような現代人の文藝感覚による萬葉集の理解を強く拒む。
 萬葉集が編まれ始めた時代は、歴代天皇、特に聖武天皇によつて仏教国家への道が決定的になつた時である。藤原氏が旧来の貴族秩序を解体して、光明皇后以降、皇室の外戚となつて権力を独占する決定的な一歩を踏み出した時でもある。藤原氏が代表する文化は東大寺的な仏教文化であり懐風藻(かいふうそう)に始まる漢詩文化だつた。
 一方、編纂の中心にあつたと考へられる大伴家は、古事記によれば天孫降臨の時に天孫の露払ひをした天忍日命の子孫であり、以来皇家にとつて最大の武門であり藩柄(はんぺい)だつた。物部氏亡き後、並ぶ者ない名家である。そして、正(まさ)に今、藤原氏による専横によつて急激に没落する最中にあつた。その大伴氏が、萬葉集を編んだ。無論、家持は、藤原氏との政治的確執を和歌編纂に持ち込んだ訳ではない。そうではなく、そうした次元とは異質の場所に『日本』を紡(つむ)ごうとした。その家持が紡いだ『日本』の全体像を、保田は、編纂者に己を重ね合わせようとしながら、読み解いてゆかうとするのである。
 漢文による日本書紀とは別に、あへて国語そのものを残す為に古事記の編纂を命じられた所に、天武天皇における『日本の自覚』があつたやうに、それから80年余り後、家持ら萬葉集の編纂者らにも又、明らかな日本の自覚があつた。保田はその重大さを言ふ。
 何故か。
 萬葉集が歴史的に異様に孤立した文献だからである。
 和歌そのものは日本全体で身分差を越えて育ち続けている。採録されている東歌(あずまうた)や庶民による多くの無名歌を見ればそれは明らかだ。が、それを表記する書き言葉は存在しなかつたのである。その問題との悪戦苦闘がいふまでもなく萬葉仮名である。が、国語表記の成立と普及は萬葉集を起点に順調に成熟していつた訳ではない。この後、宮廷=知識社会では、長く漢文の時代が続くからである。国語表記が文学史の表面に仮名の成立を伴つて浮上するのは、萬葉集から150年も後の古今集によつてであつた。後に生じた国文学の黄金時代から振り返れば、萬葉集はそれに先行する偉大な先蹤(せんしょう)といふ風にも見えよう、が、国語表記も和歌伝統も、後に続く保証はなかつたといふ側に意を留めれば、萬葉集の見え方も変つてくるだろう。
 知識階級が漢文から脱せたのは、和歌が庶民に広く途切れなかつたからであると共に、国語表記が宮廷女性の間に広がつてからである。土佐日記の冒頭はそれを示していよう。もしかして庶民、女性による国語表記の成熟がなかつたならば、萬葉集一つで国語の文学史は消えてしまひ、男性貴族たちによつて日本文化は完全に支那の従属文化に堕していたかもしれないのである。
 近代文献学的な萬葉成立史も、茂吉以来の古代の秀歌集というふ見方も、この孤絶した状況でなぜあへて萬葉集が成立し得たのかを問はうとしない。
 が、保田は執拗にこの問ひを問ひ続けたのである。
 なぜ、このような孤立した所に萬葉集が成立し得たのか、それは余程強い契機、強い成立への意志がなければ不可能だつたのではないのか。その成立の『意志』とは何か──これが保田の問ひであつた。 
 敗北者への鎮魂
 保田も多くの萬葉論と同様、まづは柿本人麻呂の偉大さから出発する。が、理解の根本が異なる。保田によれば、人麻呂は日本固有の文明と精神の衰退を意識しながら『慟哭(どうこく)の悲歌』を述べた歌人だつた。
 その意味で、人麻呂の頂点は、保田によれば、壬申の乱についての詠歌になる。壬申の乱は、言ふまでもなく、天智天皇崩御の後、天智天皇の皇子である大友皇子と弟の大海人皇子の間で戦はれた皇位継承戦争だ。日本書紀は事細かにこの戦を記録しているが、人麻呂は壬申の乱に於いて大きな勲を立てた天武天皇の長子、高市皇子の薨(こう)じられた時に挽歌を歌ひこれを悼んでいる。『かけまくも 忌々しきかも 言はまくも あやに畏き』に始まる萬葉集で最長の長歌でる(巻2、199)。
 保田によれば、この長歌こそは、萬葉集の性質を決定づけるものだった。日本書紀では表現の端々(はしばし)に、天武朝の正統性を言ふための文飾が見られる。古代の皇位継承は父子よりも兄弟間の継承を優先する時代が長く、安定した父子継承が主となるのは南北朝時代以降だから、大友皇子大海人皇子の間に対立が生じたのは致し方なかつたとも言へるが、日本書紀大友皇子を『凶徒』と呼ぶとなると、話は別になるだろう。
 それに対して、保田は、人麻呂の長歌が、決して逆徒と正統といふ図式を用いずに壬申の乱を詠ひ上げている事に着目する。

 今の人の意識せぬ深い心の嘆きと記憶とを、古代の深い意識を通じて言はうとしたのである。日本の悲劇の深淵にあつた人倫を詠ひ上げた。
   全集35頁

 天智天皇は大陸の文明力を重んぜられた。大化の改新による権力の集中も、半島経営の切迫に由来すると考へられる。最終的には、白村江で唐・新羅連合軍に大敗し、半島から撤退すると共に、国土防衛を固め、一層の中央集権化を図らねばならなくなつた。その意味で、いはば幕末と類似する課題を持つてをられたのが天智天皇である。
 一方、天武天皇は、壬申の乱で、伊勢にまづ参詣された。戦の間もしばしば神事を行ひながら戦ひを進められた事が書紀に明らかである。その意味で天武天皇の勝利は、神武東征の道を踏み、神意によるものだつた、書紀の記述はさう取れる。
 ところが戦が終わつて政権を樹立してみれば、現実には仏教文明を多く取り入れ、律令国家化は進み、史上初の支那風の都城型首都である藤原京の造営が進む。惟神の道に発しながらも、政権としては外来文明の大規模な輸入を寧ろ積極的に推進したのが天武天皇であられた。これは明治天皇の運命と重なるであろう。
 白村江の戦、壬申の乱と続く国家存亡の危機にあたる時、それをどう歴史に記録し、言葉に定着するか。実は、その事自体が、国のその後の運命に大きく影響しかねなかつた筈である。万一、壬申の乱を契機に、天智天武両統の間での正統性争ひが始まつていたら、日本の歴史は絶えず天皇家の内紛によつて乱れてゆく事になつただらう。外来文明にまみれながら、本筋を見失ひ、世界通例の王朝興亡の歴史を辿つたかもしれない。日本書紀にはその方向への歴史語りの懸念があつた。それを、人麻呂の詠歌は、大君のしらす日本を歌ひあげる神詠に徹して外来文明の臭気を排し、しかも内乱を描いても敵対や分離を示さなかつた。あくまで『国の心の一つに凝り固まらうとする』相から壬申の乱を描いたのである。
 萬葉集が、人麻呂を中心として、政治力学や大義名分論とは別の倫理──尊皇により国1つに溶けあふ根本──に立ち、敗北者らをも鎮魂しつつ、歴史を歌で紡いだ事によって、言はば日本の歴史が救はれ、皇室の純粋性が救はれた、保田はさう萬葉集を解する。
 が、その人麻呂の歌を漢文化全盛期に救ひ出す事がなければ、この試みも又歴史の藻屑(もくず)と消えかねなかつた。それを自覚的に引き受けたのが家持だといふのが保田の見立てである。」
    ・    ・    ・   
 保田與重郎万葉集 下  小川榮太郎

 「同時代への『政治』への異議と亡びの自覚が強いたもの

 日本人の『述志』の本質

 人麻呂が神の如くに詠(うた)つたものと、家持が詩人として詠つたものを比べ、我ら凡愚を考へて、今日の日にいても家持の道を典型としたい。実際に家持は、人麻呂が示した神の道を、人間として摸倣し始めて、そして、限りなく神に近づいた。
   保田與重郎全集15巻『萬葉集の精神』97頁
 
 保田與重郎の萬葉観は端的にここに尽きる。
 人麻呂が歌聖とされた歴史は長いが、実際の詠歌の標準は千年の間古今集だった。(正岡)子規が、その長年の規範である紀貫之を『下手な歌詠み』と断じて価値転換を図つた後、とりわけ(斎藤)茂吉の強い主導により、近代短歌は範を人麻呂に求める事になる。
 そうした貫之から人麻呂へといふ価値規範の転換に対して、保田は、あへて、家持を打ち出したのでる。人麻呂の摸倣は無理である。それは『神の如くに詠』へるだけの国語と民族の、最盛期の力の溢れであつて、批評も摸倣も越えたものなのだ。が、家持はそうではない。彼自らが既に摸倣者だつた。人麻呂ら先人を意識して摸倣する事で、詠歌に反省を導入し、『萬葉集を収めて、後の太平の王朝歌風、千年の開祖となつた』人なのである。
 いや、この見方では、王朝歌風、千年の開祖を貫之から家持に置き換へただけではないか、いづれにせよ、家持は萬葉調から王朝歌への、過渡期的な詩人に過ぎない事に変わりないではないか?
 違ふのである。
 貫之が古今集を編んだ時、それは既に典型であった。
 和歌が、平安王朝の限定された世界の中で、既に典雅な美意識を確立した安定の中で、貫之は古今集を編んだ。
 保田は、子規やアララギのように古今集を貶(おとし)めたりはしない。が、古今集が典型としての『美』となつた時、和歌は大きな落し物をした、少なくとも主流としては以後、詠歌の根本を長く忘れてしまつたと見た。それは、決して、古今集が定型に陥没する事によって、歌のリアリズムを喪(うしな)つたといふ話ではない。遡つて追をへば、日本の美学の歴史は、貫之以降、俊成、定家、世阿弥、宗祇、芭蕉ら実作の天才の模倣と自覚の系譜でもあるが、保田は、家持を持ち出す事で、そうした美学に、別の基準を置き換へよとしたのではない。
 保田によれば、美学の洗練の中で喪はれたのは『述志』だった。文字通り志を述べる事である。では、日本人の『述志』の本質は何か、それこそが『大君の思想』だ。そして、過渡期の詩人、感傷の歌人とされてきた大伴家持こそは、実は、述志としての詠歌といふ本質をはつきりと自覚し、その自覚が成立させたものが萬葉集だと、保田は言ふのである。
 成立した後の萬葉集からどんな美学を引き出す事も、豊富な人間感情を楽しむ事も人はできる。が、そもそもその世界を成立させ得たのは、『大君の思想』を自覚した家持の志だつた。美学よりも、成立させた志の方こそが大事なのだ、それなければ成立し得ない契機こそが、萬葉集の力の源泉である筈(はず)だからだ。保田はそれを繰り返し言ふのである。
 だが、家持の志は、端的に『悲痛』なものであつた。
 
 人麻呂、赤人、憶良といふ形の系譜こそ、我らの国の文学の血脈の高貴にして悲痛な性格を示すものである。この血脈の示す思想こそ、萬葉集の精神であり、また集の示す国史観である。……末期的な時代の中で、自国語の尊厳を貫くといふことは、萬葉集の至る所に見られる一つの悲願であつた。しかし、家持はその回想と自覚によつて、赤人も憶良も知らなかつた激しいものを身に覚えたのである。それは偉大といふよりも悲痛であつた。
   同315頁

 なぜ『悲痛』だつたのか。
 家持の時代、天平時代には、既に、日本の神々とその裔としての皇統を寿(ことほ)ぐ『大君の思想』も、それを詠ふ事も、仏教の隆盛と、藤原氏の権力簒奪に対する、必敗の、しかも危険な抵抗を意味していたからである。

 家持の『悲痛』な自覚
 政治的には、この抵抗の系譜は、蘇我の崇仏と争つた物部守屋以来、大化の改新の後、藤原鎌足による近代化路線に抗して殺された蘇我石川麻呂、反藤原の拠点となる有力皇族として謀殺された長屋王──謀殺の直後、史上初めて民間の藤原氏から光明皇后立后する──として現れる。
 ……
 ところが、家持は、権力闘争に渦中に身を置かなかつた。
 ……
 その家持の歌に、『悲痛』な自覚が初めて現れたのは、天平16(744)年、安積親王に寄せた挽歌6首からである。
 ……
 時代への強い挑み
 ……
 聖武帝の治績を寿ぎながらも、仏教隆盛を全く歌はず、『大君の思想』と大伴の武門の自覚のみを高らかに詠み込んだ、よく考へ抜かれたものである。『海行くかば』の一節はこの歌のものだが、歌は冒頭から人麻呂に範(はん)をとつた大君への賛に始まり、調べは雄渾だ。

 葦原の 瑞穂の国を 天くだり 知らしめける すめろきの 神の命の 御代重さね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には……(巻18 4094)

 驚くべき事に、君への賛をかうして歌い込みながら、家持は、肝心の大仏建造については『善き事を 始めたもひ』と淡く言ひ流すだけなのである。黄金の出土への寿ぎはあるが、大仏にも東大寺にも、三宝にも、長大な歌の中で、一言の言及さへない。
 それどころではない。

 萬葉集歌人は一人として東大寺に於ける数々の国家的祭典を歌つていないのである。それを歌わなかつたか、家持が記録しなかつたか。
   360頁

 東大寺の造営、大仏建立は、当時最大の政治的・社会的慶事である。時の帝が、皇后、藤原氏、有力僧侶らと共に国力をあげて取り組み、定家自身も国守として果たしてきた仏教統治の痕跡を、自歌で全く取り上げないのみか、関連する歌を採録さへしていない。
 これも又、時代への強い挑みであるといふ他あるまい。
 ……
 新しい政治・文化状況を認めない。が、政治陰謀には加担しない。認めない事を、人麻呂以来の歌の伝統を継ぐ事で証立てる。──これが家持の覚悟だつたと見ていい。だが、それは所詮、政治的な敗北を、文学で粉飾したに過ぎないのではないのか。その自問自答が家持になかつた筈はない。
 ……
 その勘案の重さが、この歌の重さなのである。
 その全重量が、家持をして、人麻呂の神詠を継ぐ力量を得させ、家持が人麻呂を継ぐ自覚を長歌に結晶させ得た時、保田のいふ『大君の思想』が成立したのである。
 人麻呂がどんなに雄渾(ゆうこん)な賛歌を歌つても、それで終はれば、優れた大君の歌が過去にあつたといふだけの話に過ぎない。それを家持が、半世紀を隔てて、同じ丈(たけ)の高さで歌はうと志した時に、『大君の歌』は、系譜となり、持続となるのである。その時、『大君の思想』は、傑出した天才の孤立した表現から『大君の思想』へと化する。かうして『大君の思想』といふ持続する正統が、辛くも一脈の水脈として樹立される事になつたのだ。
 
 後にも先にもない優美と有愁
 一般に、家持の長歌は『人麻呂・赤人・憶良等先人の糟糠(そうこう)をなめるばかりで、凡庸』(山本健吉)とされる。だが、家持は、近代藝術的な意味で、先行する天才を模倣したのではない。既に時流の中に消えかかつていた長歌で大君を寿ぎ、天孫以来の武門の誉れを詠ふといふ、甚(はなは)だしい時代錯誤をあへて敢行する事で、敗北しつつあつた思想を継がうとしたのである。この一筋こそが後鳥羽院、後醍醐、更に国学から幕末の志士の精神史を準備したのは言ふまでもない。
 だからこそ、その継承の真正を保証するものは、家持の歌境しかなかつた。保田が言ふところの、脱俗した『透明の優美』である。『大君の思想』は、政治闘争でも、権力の代用としての政治言語でもない。それは、血統と言霊との協働の中にしかない。さもなければ絶えざる政治の野に吹き晒され、イデオロギーと化して、暴力となるか、用済みになれば捨てられる他はないだろう。保田が『万葉集の精神』を書いていた当時、さういふ意味での『大君の思想』は時代を風靡していた。では、そこに次のやうな一掬(いつきく)の絶美はあつたか。

 春の苑 くれないにほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女
 春の野に 霞たなびき うらがなし この夕かげに鶯(うぐいす)鳴くも
 わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕へかも
 うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 心悲しも 独りし思へば
   (巻19 4139、4290〜4292)

 これらが家持のみならず、日本を代表する名歌だといふ事については、近代以後の評釈の多くが一致している事だから、私が今註するには及ばないだらう。
 ……

 『大君の国民』の歌
 だが、家持が、この優美で孤絶した歌境に達した時、彼はその境涯に隠遁(いんとん)したわけではなかつた。彼が採集、指導した防人の歌がそれを示している。
 勇壮を極める次のやうな歌がある。

 今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 衣で立つ我は
   (巻20 4373)

 一方、防人の歌の多くが、別れを惜しむ歌、残してきた妻子、親を思ふ歌である事は、よく知られているだろう。

 我が母の 袖もち撫でて 我がからに 泣きし心を 忘られぬかも
 大君の 命畏み 出で来れば 我に取り付きて 言ひし子なはも
   (巻20 4358)

 あの頃の庶民が主として関東以北から徴兵され、筑紫への千数百キロを移動する、それはしばしば死別の覚悟さへ伴つたであろう。別離の悲しみと生活の不安は尋常ではかつたに違ひない。それにもかかわらず驚くのは、歌の調べの、率直な立派さだ。惨めで矮小(わいしょう)でけち臭い歌がない。詠歌指導もあつたであろう。だが、措辞に拙(つたな)い詠は幾らでもあるに、けちな歌がない事が何を意味するかは、考へなくてよい事ではあるまい。
 当時の庶民に国土意識や国家意識があつたとは信じられない。が、本当にさうだつたのか。家族に向けられた痛切な思ひの数々は、国の任に堪える事への覚悟に裏付けられている。素朴ではあるが、受動的で弱く卑小で自他の認識さへないやうな原始なものは、どう見てもここにはない。やまと言葉によつてよく己を見、時代を見ているこれらの歌の姿を真直ぐに受け取れば、支那大陸の庶民とは全く違ふ『大君の国民』が既に出現していたと見る他ないのではあるまいか。
 大東亜戦争での兵士と家族らによる無数の遺文が示す日本人の言葉の姿が、1200年前の防人の歌に、より素朴に、だがしつかりと示されている。なぜ当時既にさうだつたか、それは私には分からない、が、歌の姿は事実である。それを家持が同情を以て拾ひあげたのも事実である。

 亡びの自覚
 保田は、支那事変から大東亜戦争時にかうした大伴家持像の発見を書きながら、自らを家持の後継者に、恐らく擬(ぎ)しているのである。

 家持は防人たちの真実に大君の命を畏む志を憐れみつつ、さういふもので描かれている国の歴史と別のところに、正に頂点に達した藤原氏の陰謀の政治を考へた。防人たちは何も知らないのである。そうして家持の地位から情勢を見る時、国の政治の歴史は彼らの尊敬すべき純粋の献身と別のところで描かれていき、変わつていくようにも見えた。そこで彼は絶大な責任を味はつたのである。この恐るべき自覚から、国の柱となり神と民との中間の柱になるものは、彼の他になかつた。
   同442頁

 これが、家持の長歌同様、根底的な同時代の『政治』への異議であり、又、自らが『恐るべき自覚から、国の柱となり神と民との中間の柱になる』覚悟なければ書けぬ文である事は明らかだろう。保田は萬葉集を解いたのではなく、自らの言葉で同じ道を踏もうとしたのである。保田自身が現に経験していた、日本の更に巨(おお)きな亡びの自覚が、それを彼に強いたからだ。
 それは、大東亜戦争そのものだけを指すのではない。戦闘は終結して久しいが、あの戦争を本当に戦つた人には判つていた真の戦ひは全く終わらぬまま、『国の柱となり神と民との中間の柱になる』覚悟のない70年が過ぎ、我々は亡びの過程を今も下降し続けている。
 萬葉集は決して過去の詩華集などではないといふやうな言葉が、一体今、誰に届くのか怪しみながら、ひとまづ、私は筆を擱(お)く」
   ・   ・   ・   
 何故、現代日本人が冷血にして薄情になったのか、それは戦後のマルクス主義的日本人極悪人史観に基ずく日本否定の平和教育が元凶である。
 戦後のマルクス主義的日本人極悪人史観の真の目的は、日本を自由と民主主義で生まれ変わらせ平和国家を建設する事ではなく、神代から続く日本天皇制度を廃絶し、伝統的民族文化に基ずく日本国と日本民族を解体し、虚無の心で日本を覆う事である。
 その結果、戦後世代に無関心・無感動・無気力という三無が蔓延した。
 日本国語を第二言語として英語を公用語とする、国語教育の大改革もその表れである。
 現代日本人の冷血と薄情が表面化したのが、戦前世代が激減し影響力を失い始めた1980年頃からである。
   ・   ・   ・   
 草葉の陰で、血に飢えたロシア人兵士や共産主義者によって虐殺された日本人の女性や子供、強姦され惨殺された日本人女性が泣き叫んでいる。
 その悲惨な目にあった虐殺された日本人の女性や子供の霊魂は、冷酷で薄情な現代日本人によって弔われる事なく、満州南樺太北方領土に捨てられた。
 ロシアは、逃げ惑う日本人の女性や子供を大虐殺した正当性を、対中国共産党政策をちらつかせながら日本に強要している。
 それが、北方領土交渉に真の姿である。
 北方領土問題解決とは、非人道的犯罪である日本人の女性や子供の大虐殺に免罪符を与える事を意味する。
 なぜなら、ロシアは北方領土の領有はソ連軍の正当行為である主張してるからである。
 ソ連軍の正当行為には、逃げ惑う日本人の女性や子供の大虐殺が含まれている。
 日本には、ソ連・ロシアに負い目を感じる様なやましい事や恥ずべき事といった「悪行」は行ってはいない。
 それどころかむしろ、ロシア人に感謝されるべき「善行」、人道的貢献を数々行っていた。
 戦前の日本人は、「萬葉の心や志そして情」を持ち、その思う所に従って人助けを、一度ならずも何度でも行った。
 現代の日本人には、萬葉の心や志そして情はない。
   ・   ・   ・   
 日本が世界に愛され、日本人が世界で信用されている、という宣伝文句の裏に隠されている本当の目的は、心地よう煽て文句で日本人の思考を停止させ愚民化する事である。
 戦後の正しい歴史教育によって、萬葉集の心や志そして情は戦争犯罪の元凶として日本人の心から追い出され、戦後世代は冷血で薄情になっている。
   ・   ・   ・   
 ロシア人兵士・共産主義者に虐殺された日本人の女性や子供達の怨霊と化した霊魂を、誰が鎮魂し、誰が御霊へ昇華させ、誰が人神として祀るのか。
 冷血で薄情な現代日本人ではないし、共産主義者マルクス主義者などの反宗教無神論者そして反天皇反日的日本人でもないのは確かである。
 虐殺された日本人の女性や子供の霊魂は、弔われる事なく、鎮魂される事なく、満州樺太・千島列島・北方領土を今なを亡霊となって彷徨い続けている。
 憐れである、彼らは現代日本人から見捨てられた。
   ・   ・   ・    

   ・   ・   ・