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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
鴨長明「行く川のながれは絶えずして しかも本の水にあらず よどみに浮ぶうたかたは かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし 世の中にある人とすみかと またかくの如し」(『方丈記』)
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*小国日本を属国扱いする世界帝国中国
日本は、中国の正統王朝は、大恩ある唐帝国のみとの定めていた。
万世一系の男系天皇体制を国是とする朝廷は、唐王朝と血のつながりのない、縁もゆかりもない、家臣らが樹立した下克上王朝を認めるわけにはゆかなかった。
血筋・血縁を重要視する日本は、暴力で前政権を倒し、殺戮と略奪の戦乱の中で成立した各王朝との国交を拒否していた。
日本は、戦乱の地獄を招来する恐れのある能力主義・実力主義を拒絶していのである。
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藤原氏は、朝廷を取り仕切って摂関政治を行っていた。
だが、藤原氏は天皇の臣下として、「神の裔」である天皇からその地位を簒奪しようとはしなかった。
藤原道長「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなきと思へば」
天皇の臣民は、天意に従って皇位の簒奪を正当化する、儒教の「放伐」と「禅譲」を恐れた。
日本は、天皇位を守る為に「人徳の道」として儒学を学んだが、天による「王道の徳」のみを盲信する聖人君主の儒教を排除した。
中国と朝鮮の儒教を正統派儒教とするなら、日本の儒教は異端派儒学である。故に、中国と朝鮮の儒教は日本を滅ぼして王道を正そうとしてきた。その堅固な意志は、儒教の普及という形で現代でも生き続いている。
日本の歴史において、臣下として天皇の地位を簒奪しようとした権力者は三人いた。蘇我入鹿、弓削道鏡、足利義満である。昭和に入ると、天皇や宮家を勝手に名乗り、金儲けするいかがわしい宗教家や知識人が急増した。
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1052年 平安末期。日本は天変地異と太凶作と疫病に見舞われ、都大路は被災者で溢れ返り、日常的に餓えと病で人が死んでいた。
朝廷には都に流れ込んでくる被災者を助ける力はなく、幾つかの寺社仏閣が炊き出しをして細々と救済を行っていた。
武者と公家は、被災者救済には興味が無く、権力を巡って死闘を繰り返していた。
庶民は、領主に重税を取られても救済を得られず、何時、自分達も不運に見舞われて路上に放り出されて死ぬか分からない、哀れな身の上に怯えて生活していた。
仏教に於ける、末法の世であった。
仏教的知識のある権力欲がない公家や武家は、無力な我が身を悲観し、無常観に世をはかなんで隠遁した。
高度な知識を持った上流家庭のエリートは、世の矛盾に悩み、社会的地位や血縁的な家を捨て、社会や家族との絆を断ち切り、世捨て人となって物乞い(乞食)に走った。
仏の救済を信ずる者は、仏門に走って修行僧となり、「犀(さい)の角の如く独り歩め」の教えに従い独り孤独に諸国を放浪し、人知れず孤独に死ぬ事に憧れを抱いた。
一人、孤独に死に、墓に葬られる事なく、野晒しで腐敗して白骨化する事が、雅な教養を持った日本人エリートが理想とした死に方であった。
事実。天皇や皇族と藤原家の重立った公家以外の遺体は、鴨川の東の六波羅に埋葬される事なく打ち捨てられた。
人は孤独に生まれ、人と関わりながら生き、そして孤独に死ぬ事を知るがゆえに、社会や家族や友人との「絆」や「つながり」を煩わしく感じ、むしろそうした縁を如何にして断ち切って孤立して「死ぬ」かをひたすら考えていた。
教養ある日本人は、無一文となって人里離れた山野に一人隠遁し、荒ら屋で人知れず「死ぬ」事に憧れていた。
日本文化の真髄は、自然の中で一人で自分を見詰める、孤独に内観する事である。
つまり、「孤独」に生きる事が日本文化である。
隠遁思想は、社会を一つにまとめている空気の如き「しがらみ」を断ち切り、家族や親友に期待しない完全なる自己中の個人主義で、日本特有のムラ意識は存在しない。
厳しい修行をして、仏教的な悟りを得ようというものでもなかった。
大伴家持「この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも われはなりなむ」
日本人の心の奥底に流れているのは、他人を当てにせず、社会に期待しない、何者にも拘束さず「自分らしくありたい」という自立した生き方を求める個人主義である。
日本の隠遁の真の目的は個人の夢や願望をかなえようとする世俗的であるが故に、世俗を捨て人間欲を否定した中国の仙人とは正反対の存在である。
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平安末期から鎌倉期の武士は、土着民として田畑を耕し、荒くれ猪武者として狩りをするか酒を飲んで騒いでいて、読み書きなどろくにしなかった為に知っている漢字は少なかった。
特に関東の武士は、万葉集に出てくる身分低い詠み人知らずや防人のような和歌を詠む教養や素養がなかった。
関東には朝鮮半島から多くの帰化人が移り住み、数多くの支族に日本姓を与えて関東一円に進出させた。
関東には、武士となった朝鮮系帰化人が数多く住んでいた。
埼玉の高麗は、朝鮮の高麗とは無関係である。
朝鮮系武士は、日本系武士に比べて教養度は高かった。
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1075年 宋の皇帝は、日本を属国扱いする屈辱的な国書と家臣に下賜する様な贈り物を、第72代白河天皇に送った。
朝廷は、中国皇帝と同格であるという天皇の体面と自主独立国としての国益を守る為に、正論を持って返書を送った。
だが。宋は、臣下の礼を表明しない、天皇からの国書を受理する事は面子に関わるとして拒否した。
中国は、小国で文化度の低い日本の無礼な態度に激怒して、一切の交流を禁止した。
宋は、アジアの盟主と自認する手前、周辺諸国への威信を示す必要があった。1117年と1118年にも、日本を属国視する国書を天皇に送りつけた。
中国人は、科挙の合格・不合格で身分の順位を決める。
上位にある者は、行政組織内で自分の政治的立場を強固にする為に、優秀な下位の者を集めて党派を作った。
各党派は、より多くの利益を得る為に激しい党派抗争を行った。
下位者は、勝ちそうな党派に加わり、利益の多い役職に抜擢して貰う為に実力者に賄賂を送って媚びへつらった。そして、自分より順位が下の者から金品を巻き上げた。
中国の官僚機構は、何時の時代でも、能力優先主義や実力至上主義で腐敗堕落した。
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1108年 浅間山の大噴火で、各地に火山灰が降り積もって甚大な被害が発生した。
第74代鳥羽天皇と朝廷は、中国の面子よりも自国の体面を優先し、日本を属国視する事は国辱であるとして、返書を出さない事を決定した。
平清盛(清盛神社)は、後白河法皇(第77代天皇)を動かして返書を宋に送り、建前的に臣下の礼をとって日宋貿易を独占した。
日本の体面にこだわった天皇と藤原氏は、荘園から得られるわずかな年貢のみを当てにして生活した為に没落していった。
荘園を管理していた武士は、無能無策の公家の横暴に嫌気をさし、命じられるままに年貢を納めるのを拒否して、自活の道を選んだ。
平清盛は、莫大な財力を武器として競争相手の源氏一門を倒し、朝廷を支配する公家に不満を持つ武士の支持を獲得した。
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平家は平清盛の一族を事で、平氏はそれ以外の平姓の人々を区別して呼ぶ。
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1125年 北宋は、ツングース系女真族の金と結んで強敵モンゴル系契丹族の遼を滅ぼした。
1126年 靖康の変。女真族の金国は、宋国が約束の歳幣額を支払うという約束を破り、金国を弱体化させる為に内紛を助長したとして、軍を南下させて首都開封に迫った。
宋国皇帝徽宗は、退位して帝位を長男の欽宗に譲った。
欽宗は、首都を包囲した金軍に屈服し、領土の割譲や賠償金の支払いなど屈辱的な内容で講和を結んだ。
主戦派は、不満を抱き講和を守らなかった。
11月 金軍は、総攻撃して40日間余りの攻防戦の末に開封を攻略した。
皇帝・欽宗、前皇帝・徽宗、皇族、皇妃や皇女(4歳〜28歳)それに高位高官など、3,000人が捕らえて満州へ連行された。
皇女達は、金国の皇帝や皇族の妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦にされた。
こうして、宋(北宋)は滅亡した。
金国は、華北を占領し、漢民族を統治した。
欽宗の弟・康王構は、長江流域の江南にある臨安に都を移して南宋を建国した。
南宋王朝。1127〜1279年。
中国の中央官吏は、隋の時代から始まった科挙合格者から登用された。
試験は、儒教のみで行われ、南宋時代からは正統な解釈とされた朱子学で行われた。
宗族集団の中国は、同一祖先の父系血縁の中から優秀な子供に大金を使って英才教育を施して科挙に合格させた。
子供が合格して中央官吏となれば、宗族集団はその子供の権限にたかって上手い汁を吸って繁栄した。
宗族集団は、その子供が失脚して罰せられるや、被害の拡大を避ける為に家族親族など9族迄を連座させて見殺しにして、いち早く逃げ出した。
科挙に合格しなかった者は、省郡政府の地方官として職を得た。
地方官はの給与はなく、中央からではなく地元の有力者から貰っていたが、それ程多くなかった。
その為に、朝廷への低い税率に勝手に税収を加えて徴収して懐に入れた。
金のある地主や商人等は、権限はあっても金のない地方官吏に賄賂送って買収した。
徳治を理想とする儒教社会に於ける、貪官汚吏による不正腐敗は付きもので、庶民は重税に苦しんでいた。
地方官吏になれなかった科挙不合格者は、宗族からも見捨てられ、徳目を追求して庶民の味方になるか、世に絶望して宗教の道に入るか、社会を憎んで盗賊団に加わって反逆者となった。
中国は古代から、宗教団体や犯罪集団による内戦が絶えず、殺戮と掠奪が繰り返されていた。
歴代王朝は、見せしめの為に捕らえた者を陰惨な方法で公開処刑しても、生きている事に喜び持たない科挙不合格者は庶民を先導して殺戮を繰り返した。
庶民は、官軍と戦う犯罪者集団を義賊と囃し立てた。
盗賊団を英雄視する『水滸伝』などの義?物語が受けた。
95%近くの庶民は読み書きできなかった為に、『論語』はもちろん『水滸伝』も無縁であった。
中国史に於いて戦乱のない平和な時代は極僅かで、むしろ戦争史・動乱史・虐殺と掠奪史といった方が正しい。
宋代の科挙は、3年ごとに行われ、300人が合格した。
1人が合格するに、約3万人が不合格となったと言われている。
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1142年 和平派の宰相秦檜は、長期化した金国との戦争を終わらせる為に、抗戦派の岳飛を無実の罪で処刑した。南宋は、金国に臣下の礼をとり屈辱的和議を結んだ。
中国人は、抗戦派の岳飛を救国の英雄とし廟を築いて称えたが、和平派の秦檜を売国奴として像を造って唾を吐きかけ罵った。
日本は、独立国としての対中外交から南宋との交易を続け、中国の膨張政策に最新の注意を払っていた。
1145年 編纂『三国史記』は、伝承を基に、新羅の智証王は13(512)年に約40キロ四方を領地とする小国・于山国を征服しと記した。
鬱陵島は于山国の領土と認めたが、鬱陵島からさらに90キロ離れた竹島を領土とはしなかった。
古代の于山国漁民にとって、近海の漁場が重要であって、陸地から遠く離れた遠洋にある岩山には関心が薄かった。
『三国遺事』においても、山間小国の于山国が遠洋にある竹島までを領有する海洋王国とは記していない。
『世宗実録地理志』も、「于山国、一つに鬱陵島。地方百里」と記しているが、竹島についての記載は無い。
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正史『三国史記』の編著者である金富軾(きんふしき)は、中華中心の儒教からも、民族の名誉からも、壇君神話を完全否定した。
由緒ある王家の祖始が、天帝が妾に生ませた私生児と獣である熊女との生まれた不義の子であってはならない。
それを正史に記載する事は、民族の不名誉であり、王家の恥辱である。
そして、古代新羅王朝建国初期の国王や重臣の中に倭種・倭人・日本人がいた事を書き記した。
『三国史記』「(新羅王)第17代金勿尼師今(きんなこつにしきん)が即位した。姓は金氏で、金仇道葛文王(きんきゅうどうかつぶんおう)の孫である。王父は金末仇角干(きんばつきゅうかくかん)で、王母は金氏仇礼夫人で、王妃は金氏で金未鄒王(きんみすうおう)の娘である」
新羅王族は、同姓・同本の氏族内で従兄弟同士が結婚する近親婚集団であった。
人類史における結婚では、身分低い階級や野蛮族の血が混じる事を忌み嫌い、正統な血筋を護る為の近親婚や近親相姦は珍しくなく、族外婚の方が異常であった。
親近婚や近親相姦が忌避されたのは、東洋では儒教道徳、西洋ではキリスト教倫理が社会に浸透してからである。
三宅勝(北海道大学)「何故、韓国では同姓のものが結婚してはならないのであろうか。韓国人の姓は終生変わらぬ父系の血統を示すものであり、姓と父系血統の始祖発祥地である本貫が同じであれば、すなわち、同姓同本として互いに血縁があり、その婚姻は李氏中期以来、浸透した儒教道徳によって、これを回避することが社会習慣の鉄則とされたのである」
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*大陸的国際感覚を持っていた平氏
法然「罪の軽重に関係ない。念仏さえ唱えれば往生できる」
神社神道には、外的要因としての自然の猛威による死の恐怖と内面的要因としての自己の罪業や苦悩の恐怖から救いは存在しない。
日本の神々は、霊験な神徳から御利益を与えてくれる事もあるが与えない時もある。だが、死んだ者を生き返らせる様な奇跡を起こさないし、貧困や病苦に苦しんでいる者を救済する事もしない。まして、神の代理人として救世主や生き神などを差し遣わす事もしない。
創世の神話がないし、死後の世界もなかった。
人は、どこから来て、何処に行くのかも、解き明かしていなかった。
人はそこに「いる」存在で有り、神はそこに「ある」存在である。
よって、教義も経典も、戒律も律法も、なにも「ない」のである。
日本人は、どうしようもない悲惨な現実に耐えて我慢し辛抱するしかなかった。
悶え苦しむ人々を救済したのは、仏教である。
特に、平安朝末期から鎌倉時代に現れた法然、親鸞、日蓮、道元ら多くの開祖達が、民衆救済の為に日本独自の新仏教運動を起こした。
日本の仏教者は、日本独自の思考で大乗仏教を解釈して「一切の衆生」の救済を請願し、寺院の講堂から外に出て、庶民の目線に立って布教活動を行った。
日本の仏教は、皇室や貴族が寄進して建立された私的な御願寺から、名も無き庶民が救済を求める為に集う談合寺へと変質して行った。
日本の宗教は、普遍宗教の常識に逆らい、重労働をして生きる事を「美徳」としていた。
神社の神官には、そうした救済活動や布教活動を行わなかった為に、歴史的に名前が残る聖人はいない。
1150年 日本の総人口、692万人。
1164年 白河法皇の子である崇徳上皇は、朝廷の実権を巡って後白河天皇と保元の乱を戦って敗北し、讃岐に流された。
崇徳上皇は、「天皇家の出身ではない人間をこの国の王として、天皇家を没落させる」との呪いの言葉を残し、恨みを抱いて死亡した。
朝廷は、崇徳上皇を怨霊・鬼と恐れ祟る神として白峯神社に祀った。
・平清盛は、清盛神社に祀られた。
・若宮八幡の祭神は、悪源太義平。
1167年 平重盛は、武家政権の基本である、東山道・東海道・山陽道・南海道等の山賊海賊追討権(治安警察権)を委ねるという宣旨を受けた。
源頼朝は、1185年に同宣旨を受けた。
1168年 後白河法皇と平滋子(平清盛の妻の異母妹)の間に生まれた皇子が第80代高倉天皇として即位した。
1171年 平清盛は、娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮として入内させた。
1174年 平重盛は、右近衛大将に任官し、六波羅に幕府に相当の政権をつくった。
1176年 後白河法皇が愛した平滋子が死亡し、後白河法皇と平清盛の間がおかしくなり始めた。
1177年 鹿ヶ谷事件。
1178年 高倉天皇(18)と徳子の間に皇子が誕生した。後の安徳天皇。
高倉天皇は、父・後白河法皇から自立して政治を行う為に治承の新制17条と呼ばれる宣言を行った。
後白河法皇は、平清盛と高倉天皇による陰謀と勘繰った。
平清盛は、福原から大軍を引き連れて上洛し、後白河法皇を鳥羽殿に押し込めて院政を停止させ、後白河法皇派の公家や官人と受領を解任した。治承3年の政変である。
全国66ヵ国の内32ヵ国を知行地とし、国守護人と地頭を置いて管理した。
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養和の飢饉。1180年が極端に降水量が少なく旱魃が起き、農産物の収穫量が激減した。
養和元年(1181年)に発生して、京都を含め西日本一帯が大飢饉となり、京都市中の死者を4万2,300人にのぼった。
『方丈記』「また養和の頃であったでしょうか、長い時間が経ったので覚えてはいません。2年の間、世の中では食料が欠乏して、あきれるほどひどいことがありました。ある年には春と夏に日が強く照り、ある年には秋に大風や洪水などがあり、よくないことが続いて、穀物がすべて実りません。無駄に春に畑を耕し、夏に苗を植える仕事があっても、秋に刈り取り、冬に収穫をするにぎわいはありません。このために、諸国の人々は、土地を捨てて国境を越え、あるいは家を捨てて山に住む。さまざまな祈りがはじまり、並々ではない修法などが行われはしますが、その効果はまったくありません。京の街のならわしで、何事につけても、すべてを、地方に頼っており、絶えて京に入ってくるものがないので、そうそう体裁をとりつくろうことができましょうか、いやできません。こらえきれなくなっては、様々な財物を片っ端から売り捨てようとしますが、まったく目をくれる人もいません。たまに交換する人は、金を軽く、粟を重くします。乞食が道のほとりには多く、いたるところから憂い悲しむ声が耳に入ってきました。
前年は、このようにしてやっとのことで年が暮れました。次の年には飢饉から立ち直るだろうと思っていると、そればかりか疫病まで加わって、程度がよりいっそうひどくなり、跡形もありません。世の中の人は皆、飢えきってしまったので、日が経つにつれて窮まっていく様は、少しの水の中で苦しむ魚の例えにぴったりです。ついには、笠をかぶり、足を包んで、素晴らしい姿をしている人が、いちずに家々を乞い歩いています。このように、つらい目にあってぼけたようになっている者たちが、歩いているかと思ったら、すぐに倒れて伏せてしまいました。土塀の傍ら、道のほとりには飢え死んでいる者の類は、数えきれないほどです。死体を取り除く方法もわからないので、臭いが辺り一面に満ちて、変わっていく様には、目もあてられないことが多いです。まして河原などには、馬や牛車の往来する道すらありません。
身分の低い卑しい者や山に住む者も力尽きて、薪までもが不足していくので、頼りにする方法がない人は、自分の家を壊して、市に出して売っています。一人が持って出た薪の値段は、一日をしのぐ命にすら及ばないということです。不思議な事は、薪の中に赤い色がつき、箔などがところどころに見える木が混じっていたのです。それを尋ねてみると、なすすべがなくなった者が、古寺に行って仏像を盗み、お堂の仏具を取り壊し、割り砕いたのでした。汚れや罪悪の世にも生まれ合わせて、このように情けない有り様を見たことでした。」
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1180年5月26日(ユリウス暦6月20日) 以仁王は、相続した美福門院の財産を使って、平氏追討の令旨を全国の源氏に発して挙兵したが失敗して戦死した。
激動の源平合戦、治承・寿永の乱の始まりである。
8月17日 源頼朝は、挙兵したが石橋山の戦いで破れて千葉・上総に逃れた。
源頼朝の配下として馳せ参じたのは、平将門の乱で関東各地に土着した平氏の末裔の遊有力豪族・坂東8平氏であった。
関東には、源氏の有力な豪族は少なかった。
10月20日 富士川の戦い。平氏軍(約7万騎)は、食糧が乏しく士気が下がっていて、頼朝軍(主力は甲斐源氏の2万余騎)に敗北したと言うより崩壊して敗走した。
後日。頼朝は、甲斐源氏の力を削ぐ為に一条忠頼を酒宴の席で謀殺した。
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1181年 第81代安徳天皇。畿内や西国で大飢饉が発生して、おびただしい犠牲者を出した。栄耀栄華を極めていた平氏政権は、「平氏にあらずんば人にあらず」と傲慢にうそぶき、被災者の救済を怠った。その結果、人心の支持を失い衰退していった。
何時の時代でも、如何なる地域においても、異常気象による飢饉と疫病の発生が新たな時代への社会変革の扉を開いた。
貧困者の救済に成功すれば、多くの人心を獲得し、続けて、支配者の地位を確保した。
だが、失敗した支配者は、民衆から見放されて追放された。
さらに、自分の地位や名誉や富を守る事しかしない者は、無能として惨めに滅亡した。
日本の「まつりごと」を行う権力者の重要な使命は、自分の事は犠牲にしても、庶民の生活を安定させ、飢えさせない事であった。
「人はパンのみにて生きる者にあらず」という政治家や学者がいたら、それは悪質な詐欺師か、凶悪な殺人者である。そうした分別なき陰湿な犯罪者を指導者とする者は、移住可能な「弱肉強食」の大陸では賢明な人間とされたが、移住不可能な「補完共生」の島国では生きる資格はなかった。
歴史的事実として、島国では、食糧不足を解消する為の戦争は存在しない。
特に、サムライは米櫃の為に戦う事を、卑しい事、「恥」として嫌った。
日本は、「恥」の文化である。
サムライは、自分がひもじくとも、空腹を顔に出さず痩せ我慢し、身分低い庶民に自分の食糧を分け与え、自分を犠牲にしても百姓を救済した。
食糧のある土地に攻め込んで略奪する者は、一時は勝利者となって権力を手にした。だが、他人の弱味に付け込んだ権力者は、最終的に百姓から見捨てられ、極悪人として滅んだ。
それが、「強者の理論」による大陸の掟とは対極にある、「弱者の理論」による島国の掟だあった。
大陸の世界常識では、上流階級は特権を持って下層階級を搾取し、富を独占した。わずかな金を慈善活動に寄附して、世の称賛を得ながら、絶対安全な場所でゴージャスな生活を満喫していた。
そこには、歴然とした階級闘争が存在する。
日本においては、そうした全てを独占する特権階級は存在しなかった。いたとしても、極わずかな期間、存在したのみである。
よって、マルクス主義者が声高に告発する様な排他的な階級は存在しなかった。
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平忠度(『平家物語』)
都落ちする際の和歌「さざなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」(『千載和歌集』)
討ち取られる際の辞世の和歌「行きくれて木の下かげを宿とせば 花やこよひの主ならまし」
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日本仏教は腐敗堕落し、戒律を守って修行する持戒僧は少なく、武装し肉食し妻帯する破戒僧・無戒僧が大半で、堕落した都の仏教界に嫌悪した僧侶は地方に隠遁するかエタ・非人のように河乞食となった。
鴨長明は、数寄を求めて隠遁した高僧らの話を、憧れを込めて『発心集』にまとめた。
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2017年1月26日号 週刊文春「ぶらりわが街 大人の散歩 門田恭子
福岡県・福岡市 福岡
日本初がいっぱいの寺町めぐり
……
ガイドの脇山静代(福岡市観光案内ボランティア協会)が最初に案内してくれたのは博多祇園山笠で有名な櫛田神社。『757年の創建以来、国際貿易都市、博多を見守り続けてきたこの街の総鎮守です』と、拝殿に深々と頭を下げる。
大陸との交易は官営として始まったが、平安末期から鎌倉時代にかけて『博多綱首(ごうしゅ)』と呼ばれる宋の商人たちが台頭。彼らは博多に住み着き、日本初のチャイナタウン『大唐街(だいとうがい)』を形成した。博多綱首を代表する宋の貿易商といえば謝国明(しゃこくめい)。櫛田神社から大博(たいはく)通りを渡った先にある承天寺は、彼の尽力で建立された臨済宗の寺である。凜とした方丈の前に広がる石庭は玄海灘と中国大陸を表現したものだ。
『承天寺を開山した聖一(しょういち)国師は仏教の修行のために大陸に渡った大秀才。その才能に惚れ込んだ謝国明は留学の援助ばかりか、帰国後、博多で教えを広めたいという彼のために承天寺の建物を寄進しました。一流の人物が出会うと、すごいことが起きるものですね』
聖一国師はまた、うどん、蕎麦、饅頭の製法ももたらした。
『しかも、水車の図といっしょに。それまでの、人の手で臼を挽くのとは、効率は段違い、それが各地に伝わり粉食文化の発展につながりました』
ここから、栄西禅師が開いた日本初の禅寺、聖福寺までは歩いて数分。栄西は大陸から茶の種子を持ち帰ったことでも知られる。この界隈は御共所(ごくしょ)町といい、ほかにも東長寺や妙楽寺など多くの寺院が集中するエリアだ。ちなみにチャイナタウン・大唐街は櫛田神社と承天寺、そして聖福寺を結ぶ500メートル四方にあったとされる。博多はつくづく『日本初』が多い。
『そこに中国人、韓国人、日本人が一緒に住んでいた。博多っ子はいつの時代もオープンで新しいものが大好き!』
自由な風が吹く居心地のいい街だ」
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